今月の顔 今月にちなんだトピックをもつ歌手のご紹介です。
今月の顔 2021年12月 Décembre 2021 ナナ・ムスクーリ Nana Mouskouri ナナ・ムスクーリ Nana Mouskouriは1968年12月22日、TV「Télé dimanche」に出演、「Roses blanches de Corfou/コルフの白いバラ」を歌った。 「Roses blanches de Corfou」(1962年 フランス語の詩Frank
Gérard/Manos Hadjidakis作曲) 1968年12月22日 https://www.youtube.com/watch?v=cpXh2t05zOU 歌詞の大意: ・・コルフの白いバラ、白いバラ、白いバラ、毎夜私はあなたのことを思っている。何故船は行ってしまうのか?太陽が再び青い空に昇る時に、私たちが婚約時代を過ごしている時に、何故別れの時が来るのか? コルフの白いバラ、白いバラ、白いバラ、毎夜私はあなたのことを思っている。コルフの白いバラ、白いバラ、白いバラ、あなたは甘い香りがした、暁が明けようとする時。でも今私はあなたから遠く離れている。 コルフの白いバラ、白いバラ、白いバラ、毎夜私はあなたのことを思っている。あなたのことを思っている・・ (注)上掲の歌の中でMouskouriは「la bateau」と歌っているが正確には「le bateau/船」(男性)。Live録音では「la bateau」と歌っている例が見られるが、レコードでは「le bateau」と正確に歌っている。 1.Nana Mouskouriの略歴 本名Joanna(愛称Nana) Mouschouri、1934年ギリシャ、クレタ島生まれ、3歳で一家はアテネに。1950年から姉とアテネの音楽学院で声楽、ピアノを学ぶ。ラジオののど自慢番組などに出演し、またピアニストのGeorges Petsilasと知り合い、そのバンド「The Atheniens」とともにジャズクラブなどで歌い、1957年音楽学院を放校処分。1958年ギリシャの大作曲家のManos Hadjidakisに出会い、曲の提供を受けるように。 ・1958年ギリシャで自身最初のEPをリリース。「Mazi
me Sena」など4曲収録 ・1959年9月ギリシャ「ポピュラー音楽祭」でHadjidakisの曲「Asteri Asteraki」など2曲を歌い優勝 ・1960年9月バルセローナ「地中海歌謡祭」で「Xypna agapi mou/Despierta mi amor」を歌い最優秀賞受賞 「Xypna agapi mou」「地中海歌謡祭」で https://www.youtube.com/watch?v=M7IgwcN7N0Q ・1960年5月フランスで最初のレコードをリリース。「Ta pedia tou Pirea/Les enfants du Pirée/ピレウスの子供たち/(邦題)日曜はだめよ」などギリシャ語で歌われた4曲収録 ・1961年7月ドイツで「Weisse Rosen aus Athens/アテネの白いバラ」 ・1962年フランスで「Roses blanches de Corfou/コルフの白いバラ」 ・1962年6月Quincy Jonesの招きでアメリカへ。そのプロデュースでアルバム『The Girl
from Greece sings』:「What now my love」(「Et maintenant/エ マントナン」のC.Sigmanによる英語の詩)、「Smoke gets in your eyes」、「Love me or leave
me」など15曲収録 ・1962年12月Georges Brassensの前座でParis Olympiaに初出演 ・1963年3月23日ロンドンで開催された第8回EurovisionコンクールにLuxenbourg代表として出場。「A force de prier/お祈りしたので」を歌い8位 「A
force de prier」Eurovision で https://www.youtube.com/watch?v=98HlhsUVX70 ・1963年Parisに生活拠点を ・1964年10月~66年11月アメリカとカナダでの「Harry Belafonte show」に同道 ・1964年『Mes plus belles chansons grécques/私が歌うギリシャの最も美しい曲』(1963年リリース、ギリシャ語で歌った、主としてHadjidakis作曲の15曲収録)が、ACCのGrand Prix folkloreを受賞 ・1965年「Les parapluies de Cherbourg/シェルブールの雨傘」、「Les
valse des lilas/リラのワルツ」 ・1967年「Le tempss des cerises/サクランボの実る頃」、「C’est bon
la vie/人生は素晴らしい」 ・1967年「Le cœur trop tendre/優しすぎる心」(ACCの Grand Prix de la chanson受賞) 「Le
cœur trop tendre」 https://www.youtube.com/watch?v=LgGxcPePLDg ・1967年10月26日~11月12日3週間 vedetteとしてParis Olympiaに出演、16曲歌う。司会及び前座Jacques Martin、前座にはSerge Lamaなど。1967年最初のlive『Nana
Mouskouri à l’Olympia』:「Celui que j’aime/私の愛する人」、「La dernière rose de l’été/夏の最後のバラ」、「Mon gentil pêcheur/私の優しい釣り人」、「Adieu Angelina/さよなら、アンジェリーナ」、「Au cœur de septembre/9月の真ん中に」、「Le temps des
cerises」など13曲収録 「La
dernière rose de l’été」 https://www.youtube.com/watch?v=-BKnNeCYTDk ・1967年12月から生活拠点をSuisseのGenèveに移す ・1969年ギリス向け『Over and over』:「Over and over」、「Cucurrucucu paloma」、「Scarborough fair canticle」、「Try to remember」、「The white rose of Athens」など12曲収録 ・1970年3月ロンドンRoyal Albert Hallに初出場 ・1971年「Comme un soleil/太陽のように」、「Plaisir d’amour/愛の歓び」 「Comme
un soleil」1974年https://www.youtube.com/watch?v=IZuyTKQotD0 ・1974年来日。7月22、23日中野サンプラザ公演・・・8月4日放送NHK「ビッグショー ナナ・ムスクーリ アテネの白いバラ」に「The Atheniens」と出演。その模様はLP『ナナ・ムスクーリ ビッグ-ショー』に収録。10曲:「日曜日はだめよ」、「明日に架ける橋」、「愛の歓び」、「アテネの白いバラ」、「太陽のように」、「シェルブールの雨傘」(荒川ひろし翻案の日本語で)、「赤とんぼ」(日本語で)など 「シェルブールの雨傘」https://www.youtube.com/watch?v=0PToTd2_ZbQ 「赤とんぼ」 https://www.youtube.com/watch?v=Bl_jgIjWIVI ・1977年「Habanera/ハバネラ」(「Carmen」de Bizet) ・1978年「Dans les prisons de Nantes/ナントの牢獄で」 ・1981年「Je chante avec toi liberté/私はあなたと共に歌う、自由よ」 「Je chante avec toi liberté」1984年 https://www.youtube.com/watch?v=2U-06OCABjg ・1984年7月20年振りにギリシャに帰国。23、24日、アテネ Herode Atticus劇場で初のコンサート ・1990年「Oh happy day」 ・1993年10月からUNICEFのGoodwill Ambassador/親善大使(Audrey Hepburnの後任) ・1994年~1999年ギリシャ選出のEU議員(中道右翼)。 ・1997年『Hommages』(過去の名曲へのオマージュ):「Con te partiro/コン テ パルティロ」、「La chanson de Prévert/枯葉によせて」、「Parlez-moi d’amour/聞かせて世愛の言葉を」、「Caruso/カルーソ」、「Le plat pays/平野の国」、「Ne me quitte pas/行かないで」、「Une île/一つの島」、「Trois petites notes de musique/三つの小さな音符」、「Un
jour tu verras/いつの日にか」、「Les feuilles mortes/枯葉」、「La ballade de Zacco et Vanzetti/ザッコとヴァンゼッティのバラード」など15曲収録 「Le
plat pays」 https://www.youtube.com/watch?v=yx65Q5UrWKU 「Une île」 https://www.youtube.com/watch?v=aMvJPXwL9tM ・2002年「Fille de
soleil/太陽の少女」clip https://www.youtube.com/watch?v=KXfBICW40YU ・2004年34枚組みCDで675曲集録の「Nana Mouskouri Collection」。120ページの解説書付き ・2004年ベルリンで70歳記念公演の際ステージからの引退を宣言 ・2005年「The Farewell World Tour」。4月8日デンマークViborgから2008年7月23、24日アテネHerode Atticus劇場まで、世界中の85都市を回る:2007年11月24日Paris Opéra ・2006年SACEMのGrand Prix de la chanson française受賞 ・2011年ドイツでの「50Jahre WEISSE ROSEN/白いバラ50年」ツアーでカムバック。2011年11月29日ベルリンから2012年5月2日ハンブルグまで ・2011年11月『Nana and Friends:Rendez-vous』(自身の過去のヒット曲などのデュオによるカバー):「Pauvre Rutebeuf/哀れなリュトブフ」(Alain Delonと)、「Here's to You」(Joan Baezと)、「Adieu Angelina」(Roch Voisineと)、「Tous les arbres sont en fleur/すべての木々が花盛り」(Lénouと)、「Le temps des cerises」(Daveと)、「Guantanamera」(Francis Cabrelと)、「La vie, l’amour, la mort/人生、愛、死」(Lara Fabianと)、「Aux marches du palais/お城の階段で」(Serge Lamaと)、「C’est bon la vie」(Alain Souchonと)、「Je chante avec toi liberté」(Herbert Léonardと)、「Grande,grande,grande」(Julio Iglesiasと)など14曲 「Pauvre
Rutebeuf」Alain
Delonと https://www.youtube.com/watch?v=2-Srg5DNN5I 「Au marches du palais」Serge Lamaとhttps://www.youtube.com/watch?v=JApil08iLVs 「La vie, l’amour, la mort」Lara Fabianと https://www.youtube.com/watch?v=V6guB1VasiY ・・2012年『Nana and
Friends:Rendez-vous』(international version):上記に「Plaisir d’amour」(Charles Aznavourと)、「How Do You
Keep The Music Playing」(Harry Belafonteと)、「White Rose of
Athens」(The Paul Kuhn Big Bandと)など追加 「Plaisir d’amour」 Aznavourとhttps://www.youtube.com/watch?v=yT9Fk4ORXnQ ・2013年9月19日自伝「Itinéraire intime/個人的な旅程」 ・2013年「Joyeux
anniversaire/Happy Birthday」ツアー、11月17日ブラジル、ポルト・アレグレから2016年6月12日フランス、ルマンまで:2014年3月10、11日Paris Théâtre du Châtelet ・2014年2月『Happy Birthday
Tour』(英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ギリシャ語で歌った過去の自身のヒット曲のカバー):「Over the
Rainbow」(英語)、「Try to
remember」(英語)、「Plaisir d’amour」(フランス語)、「Je chante avec
toi liberté」(フランス語)、「L’histoire de
nous」(フランス語)、「Schau mich bitte nicht so an」(ドイツ語、「La vie en rose」のドイツ語版)、「La Paloma」(スペイン語)、「Hartino To
Fengsraski」(ギリシャ語)、「Milisse Mou」(ギリシャ語)など22曲収録 「L’histoire
de nous」https://www.youtube.com/watch?v=JNQLSzAw2j4 ・2018年2月『Forever Youg』(カバーアルバム「私に影響を与えてくれたアーティストへのオマージュ」):「In the Ghetto」(Presley) 「Sa jeunesse/青春という宝」(Aznavour)、「Forever
Youg」(Bob Dylan)、「Lili
Marleen」(Lale Andersen)、「Dis
quand reviendras-tu ?/いつ帰ってくるの」(Barbara)、「Hey Jude」(The
Beatles)、「Hallelujah」(Cohen)、「Jamaica
Farewell」(Belafonte)、「Salma
Ya Salama」(Dalida)など15曲収録 「Dis
quand reviendras-tu?」https://www.youtube.com/watch?v=k4YSMN47byY 「Hey Jude」https://www.youtube.com/watch?v=73dHNTHvlKk ・2018年「Forever Youg」ツアー:1月25日フランス、Lyonから11月27日オランダ、アムステルダムまで。2018年3月8日Paris Salle Pleyelに出演 ・2019年4月2枚組みCDcompilation『Quand on s’aime;Tribute to Michel Legrand愛し合う時;ミシェル・ルグラントリビュートアルバム』:「Quand on s’aime」、「Les parapluies de
Cherbourg/シェルブールの雨傘」(フランス語)、「Los paraguas de Cherbourg/シェルブールの雨傘」(スペイン語)、「Sheruburu no Amagasa/シェルブールの雨傘」(日本語)、「La
valse des lilas」(リラのワルツ)、「The windmils of your mind」など34曲収録 「La
valse des lilas」1965年録音https://www.youtube.com/watch?v=GHpF2gywuvk ・2019年7月16日Légion d’HonneurのCommandeur章受章 ・2019年11月21日 TVFrance3「300 chœurs chantent les grands airs classiques」に出演Vincent Nicloと「Je chante avec
toi liberté」を歌うhttps://www.youtube.com/watch?v=A-VJxkqfTQ0 2.「Roses blanches de Corfou」について 1960年ドイツでギリシャを紹介するTVのドキュメンタリーフィルム「Traumland des Sehnsucht/あこがれの夢の国」が放映された。その中でNana MouskouriはNikos Gaston作詞、Manos Hadjidakis作曲による5曲をギリシャ語で歌っている。このドキュメンタリーフィルムは好評で1961年6月のBerlin映画祭で、Mouskouriが出席して、銀獅子賞(Silberner Bär)を受賞した。フィルムの中で使われた「San
Sfyrixeis Treis Fores/あなたが3回口笛を吹く時」は特に好評であった。 「San Sfyrixeis Treis Fores」 https://www.youtube.com/watch?v=8ANlGGNPcuY この曲にドイツの作詞家Hans Bradtkeが、原曲とは異なるドイツ語の詩を付けて、タイトルを「Weisse Rosen aus Athen/アテネの白いバラ」とした。これをMouskouriが歌い、1961年7月に「Addio(Ebbe und Flut)」とのカップリングのSPレコードで、ドイツでリリースされた。レコードは大ヒットで、1962年2月には100万枚以上の売り上げで、当時のdisque d’or/ゴールデンディスクになり、Mouskouriのヨーロッパにおける最初のヒットになった。Mouskouriは2011年にはドイツで「50Jahre
WEISSE ROSEN/白いバラ50年」ツアーを11月29日BerlinのPhilharmonieで開始している。 「Weisse Rosen aus Athen」1961年 https://www.youtube.com/watch?v=b0_gDCbCRM8 ドイツでのヒットを受けてフランスではFrank Gérard
がフランス語の詩を付け、タイトルを「Roses Blanches de Corfou/コルフの白いバラ」とした。Frank Gérard(1928-2015 作詞家、作曲家)はPierre
Delanoë(1940-2006 作詞家。生涯に5000曲以上作詞したと言われている)の義兄弟で、1950年代にはDelanoëとデュオで歌っていたが1960年代から作詞家に。Michel
Polnareffの「La poupée qui fait non」や「Love me, please love me」の作詞者。資料によると「Roses Blanches de Corfou」はDelanoëの詩としているものがあるが、SACEMの資料ではadaptateur(翻案者)はFrank Gérardとなっている。タイトルをドイツ語からの直訳「Roses blanches d’Athènes」としなかったのはフランス語でアテネを表すAthènesでは脚韻が難しいためだと言われている。また、Corfou はギリシャにある200以上の島の一つ、ギリシャ語ではケルキラ島、イタリア語でCorfu、イオニア海にあり、200余の島の中で最も西、イタリア寄りに位置している。ヴェネッチア共和国に一部になったこともある。旧市街地は世界遺産で、ギリシャ神話にも登場。ギリシャ人が住みたい島1位、フランスでも最も人気の観光地の一つであった。同島に咲くバラが特に有名であったことからタイトルに選ばれたようだ。 「Roses blanches de Corfou」は1961年10月17日ParisのBlanquiスタジオでHeinz
Alisch指揮のオーケストラの伴奏で録音された。そして1962年Fontana社から「Roses blanches de Corfou」、「Adieu mon cœur」など4曲を収録したEPがリリースされた。 「Roses blanches de Corfou」audio officiel https://www.youtube.com/watch?v=UTfYqu-rkwE Mouskouriはこの曲を英語(「The white rose of Athes」)、イタリア語(「Rosa d’Atene」)、スペイン語(「Rosas blancas」)、オランダ語(「Witte Rozen Uit Athene」)などでも歌っている。 「The white rose of Athes」 https://www.youtube.com/watch?v=tc3qmwaUVr8 「Roses blanches de Corfou」はTino Rossiも歌っていて、1962年「Tango italiano」などともに収録されたEPをリリースしている。 「Roses blanches de Corfou」Tino Rossi https://www.youtube.com/watch?v=wA8c4XuELWE |
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今月の顔 2021年11月 Novembre 2021 フロラン・パニー Florent Pagny <img width フロラン・パニー Florent Pagnyは1997年11月7日、自身の最大のヒット「Savoir aimer/愛する術を知ること」を収録し、180万枚以上売り上げたと言われるアルバム『Savoir aimer』をリリースした。 「Savoir aimer」(1997年Lionel Florence作詞/Pascal
Obispo作曲) 2003年ParisのOlympiaでhttps://www.youtube.com/watch?v=hHQDTdqB6d4 歌詞の大意: ・・微笑む術を知ること、通りすがりの見知らぬ女性に、そうする喜び以外に何も残さずに。愛する術を知ること、敬意とか大きな愛とか、素晴らしいラヴストリーを期待せずに、いわんや愛されたいという望みなど持たずに。 与える術を知ること、見返りなしで与える術を、愛することを学ぶ、期待することなくただ単に愛することを学ぶ。 微笑むことを学ぶ、態度で返してくれることの他は何も望まずに。生きることを、そして去って行くことを学ぶ。 待つ術を知ること、期待せずにやって来た幸せを心から味わうこと。鏡を曇らせる顔の皺のようにとりついた虚無への恐怖を紛らわすために、期待せずにやってくる幸福の存在を信じること。 苦しむ術を知ること、黙って、声を立てずに、防御も付けず、甲冑を付けずに、死にたくなるほど苦しむこと、そして灰の中から再び蘇ること、過去を忘れさせる有り余る愛に満たされて。 夢みることを学ぶ、瞳を閉じて、二人のために夢みることを。そして与える術を知ること、中途半端でなく与えることを。留まることを学ぶ、何があっても最後まで留まることを。愛することを学ぶ。そして立ち去ることを学ぶ、立ち去ることを・・ 1.Florent Pagnyの略歴 Florent Pagnyは1961年11月6日 Bourgogne地方Chalon-Sur- Saône生まれ、映画・TV俳優、ACI。 13歳で地方紙主催ののど自慢大会で優勝、美声が地元で知られるように。16歳で学業を放棄Parisに。演劇学校で演劇とクラシックを学び、映画、TVドラマに出演、キャバレで歌う。1984年公開映画「Fort Saganne/フォート サガン」ではGérard Depardieu、Catherine Deneuveらと共演している。Pagnyの歌を聞いたAlain Chamfort(1949- 歌手、作曲家)のマネジャーの推薦でPhilips-Phonogram社と契約。 ・1987年Philips社から最初のSP「N'importe quoi/何でも」(Pagnyほか作詞/Pagny作曲)をリリース。70万枚の売上げの大ヒットに 「N’importe quoi」1988年2月22日 https://www.youtube.com/watch?v=yLc2_p17Spg ・1988年VdMで男性新人歌手賞 ・1990年3月ファーストアルバム『Merci』:「Merci」、「J’te
le jure/君にそれを誓う」、「Heureux de vivre/生きる喜び」、「Pour la vie/命ある限り」、「Reste chez toi/君の家に留まってて」など11曲収録 比較的多産のPagnyはその後定期的にアルバムをリリース、いずれも好評。2021年9月リリースの『L’avenir/未来』は20枚目のスタジオ録音アルバム ・1991年1月Paris Zénithに出演、3日で14000人の観客 ・1993年Les Enfoirésに初出演(その後都合7回出演、最近は2021年) ・1994年3月3枚目『Rester vrai/真実のままで』:「Si tu veux m’essayer/僕を試したいなら」(Jean-Jacques Goldman<1951- ACI>にSam Brewskiの名で提供された)、「Loin/遠く」(dito)「Rester
Vrai」、「Jamais/決して」(Johnny
Hallydayとのデュオ)など11曲 ・1994年11月28、29日Paris Olympiaに出演 ・1995年9月compilation『Bienvenue
chez moi/我が家へようこそ』:「Bienvenue chez moi」、「Caruso/カルーソ」など14曲(他の12曲は過去のヒット曲のセルフカバー) 「Bienvenue
chez moi」1997年 https://www.youtube.com/watch?v=eA88VM8c-II 「Caruso」https://www.youtube.com/watch?v=DYQacv9CHPI ・1998年VdMで男性歌手賞 ・1997年南米のPatagonieに移住。パートナーAzucena Caamafio(モデル、画家、1993年からのパートナー。 2児、1996年生まれと1999年生まれの男児、2006年結婚)の出身地。 2009年から一時アメリカMiamiに居を移す。2013年には再びPatagonieに ・1997年11月4枚目『Savoir aimer/愛する術』 ・2000年11月6枚目『Châtelet Les Halles/シャトレ レ アル』:「Châtelet Les
Halles」(Paris1区にある地下鉄などの駅)、「Et un jour, une femme/ある日一人の女性が」、「Un mot de Prévert/(ジャック・)プレヴェールの一語」など13曲 「Châtelet
Les Halles」 https://www.youtube.com/watch?v=Yf5WI0aFXfo ・2001年12月『2』(過去のヒット曲、自身のものを含め、をデュオでカバー):「Et maintenant/エ マントナン」(Lara Fabianと)、「Les emmerdes/想い出を見つめて」(Patrick Bruelと)、「Châtelet Les
Halles」(Calogeroと)、「Et un jour, une femme」(Marc
Lavoineと)、「Savoir aimer」(Souad
Massiと)、「Chanter」(Isabelle
Boulayと)など15曲 ・2003年4月8枚目『Ailleurs Land/異国』:「Ailleurs Land」、「Demandez
à mon cheval/僕の馬に聞いてくれ」、「Ma
liberté de penser/僕が考えることの自由」、「La
folie d’un ange/天使の気まぐれ」、「Sauf
toi/君を除いて」など11曲 「Ma
liberté de penser」 https://www.youtube.com/watch?v=ks-WzuTB3Dc ・2004年11月9枚目『Baryton/バリトン』(フルオーケストラをバックに歌われたオペラのアリア):「Nessun dorma」(「Turandoto」)、「La donna e
mobile」(「Rigoletto」)、「E lucean le
stelle」(「Tosca」)、「Maria」(「West side
story」)など11曲 ・2007年11月11枚目『Pagny chante Brel/パニー、ブレルを歌う』:「La chanson de Jacky/ジャッキーのシャンソン」、「Ne me quitte pas/行かないで」、「La chanson des vieux amants/懐かしき恋人の歌」、「La Fanette/ファネット」など11曲 「Fanette」 https://www.youtube.com/watch?v=F5eDo-CTybQ ・2013年11月15枚目『Vieillir avec toi/君とともに老いる』(収録10曲の作曲はすべてCalogero<1971-ACI、VdMで04年男性歌手賞、05年シャンソン賞を受賞>):「Vieillir avec toi」、「Le soldat/兵士」、「Combien de gens/どれだけの人々が」、「Après nous/我々の後には」、「Les murs porteurs/支える壁」、「Quand on est seul en
décembre/12月にひとりだと」など 「Vieillir
avec toi」 https://www.youtube.com/watch?v=4Os8xLo1m74 ・2018年3月30日18枚目『Tout simplement/ただ単に』(ピアノの伴奏による過去のシャンソンのヒット10曲のカバー):「Mistral
gagnant/ミストラン ガニャン」(Renaudのヒット)、「Le mal de
vivre/生きる苦しみ」(Barbara)、「Des
gens formidables/素晴らしい人々」(Francis Cabrel)、「Ma
solitude/僕の孤独」(Georges Moustaki)、「20 ans/二十歳」(Léo Ferré)など ・2019年6月7日19枚目『Aime la vie/人生を愛せよ』:「Aime la vie」、「Rafale de vent/突風」、「C’est ta route/それが君の道」(Anna Silaとのデュオ)、「Garçons/少年たち」(Jean Rénoとのデュオ)、「Raison d’aimer/愛する理由」など11曲 「Farale
de vent」 https://www.youtube.com/watch?v=ATlm8lW2CQ4 ・2021年9月17日20枚目のスタジオ録音アルバム『L’Avenir/未来』(10曲収録。うち9曲はCologeroの作曲による):「L’avenir」(Serge Lama作詞/Calo作曲)、「Les nouveaux rêves/新しい夢」(Paul Ecole作詞/Calo作曲、Barbara
Praviとのデュオ)、「Quand elle rentrera/彼女が戻ってきたら」(Barbara Pravi作詞/Calo作曲)、「Plus ta voix/もうあなたの声が聞こえない」(Carra Bruni作詞/Calo作曲)、「Comme avant/以前のように」(Marie Bastide作詞/Calo作曲)など 「L’avenir」 https://www.youtube.com/watch?v=KApLrZbIycY 2.「Savoir aimer」について Florent Pagnyは生活の居をパートナーの出身地である南米Patagonie/パタゴニアに移した。1997年2月VdMに出演するためParisに戻ったPagnyは次のアルバムでは自身は歌手に徹しようと、多くの作詞作曲者たちに曲の提供を依頼した。前年「Lucie/ルシー」を大ヒットさせ人気上昇中のPascal Obispo(1965-ACI)もその一人であった。Pagnyの歌唱力を高く評価していたObispoは直ちにPagnyの要請に応えた。そして1995年から詩の提供を受けていた作詞家Lionel Florence(1958―作詞家、カメラマン、画家、「Lucie」の作詞者)に協力を依頼。Florenceは数日後「Savoir」とタイトルを付けた詩を送ってきた。早速曲を付けたObispoはルフラン部分によりインパクトがほしいとFlorenceに電話。そして自身で作曲したルフラン部分でラララと口ずさみながら詩を付けるように要求。曲が出来上がった。Obispoはタイトルを「Savoir aimer」とすることを提案、Florenceには異存はなかった。Obispoはこの曲を含めいくつかの曲をPagnyに提示、Pagnyは直ちに「Savoir aimer」を選んだ。そしてObispo/Florenceコンビによる「Chanter/歌う」も。 「Savoir aimer」と「Chanter」は、「Dors/お休み」(Erick Bebzi作詞/作曲)、「Loin de toi/君から遠く」(Jacques Veneruso作詞/作曲)、「Mourir les yeux ouverts/目を開いたまま死ぬ」(Didier Golemanas作詞/Pascal Obispo作曲)、「Une place pour moi/僕のための一つの場所」(Jean-Jacques Goldman作詞/Kapler他作曲)、「Combien ça va/それはいかほど」(Zazie作詞/作曲)、またPagnyが新しく居を構えたアルゼンチンの民謡「Solo le pido a Dios」などと共に、全11曲、1997年11月7日リリースされたPagnyの4枚目のアルバム『Savoir aimer』に収録された。アルバムのジャケットにはパートナーAzucenaの作品が使用された。 リリースと同時にアルバムは大好評で180万枚の売り上げでPagnyの最初のdisque de diamantになり、今日までPagnyの最も売れたアルバムになっている。Pagnyのアルバムではその後2003年の『Ailleurs land』、2013年の『Vieillir avec toi』もdisque de diamantになっている。 楽曲「Savoir aimer」も好評で1989年ラジオから最も頻繁に流された曲になり、Pagnyの代表曲であるばかりではなく、2012年には「過去20年を代表する曲」と評価されている(2012年に刊行されたFlammarion社の「1000chansons françaises」で)。 1998年2月20日Paris、Olympiaで行われて第13回VdMではPagnyは男性歌手賞に、「Savoir
aimer」は「Chanson de l’année/今年のシャンソン」賞に、Sylvain Bergèreの製作になる「Savoir aimer」officiel clipはVidéo-clip賞にノミネートされた。男性歌手賞及びVidéo-clip賞を受賞したが、「Chanson de l’année」賞は受賞を逃した(受賞したのはNoir Désirの「L‘homme
presseé)。 「Savoir aimer」officiel clip https://www.youtube.com/watch?v=g-gh2hIRhkc (ここでPagnyは手話による歌詞の翻訳ではなく、歌詞の内容を手話によって説明しているよう。映像の最後にパートナーのAzucenaと1996年生まれの長男Incaの姿が見える) 「Savoir
aimer」の他の映像 Pagnyは多くの機会にこの曲を歌っている。またTV番組などでは多くの歌手がカバーしている。 Pagny 2003年TVTF1でhttps://www.youtube.com/watch?v=9sdRDRYcKrg Pagny
2014年TVFrance 2のGrand showで https://www.youtube.com/watch?v=QD3R9qxJV_Y PagnyとSouad Massi アルバム「2」でhttps://www.youtube.com/watch?v=n2n8ovy4EoE Pascal
Obispo https://www.youtube.com/watch?v=V005jc9xIDE Anggun
& Patrick Fiori https://www.youtube.com/watch?v=mynOBmV-zZ4 2011年にはLes Prêtres(聖職者3人のグループ 2010-2015活動)がアルバム 『Gloria』に収録 https://www.youtube.com/watch?v=w5C6-Rs3wyU 2014年にはAmandine Bourgeois(1979-歌手)がアルバム『Au masculin』に収録している |
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今月の顔 2021年10月 Octobre 2021
カトリーヌ・ソヴァージュCatherine Sauvageは1965年10月7日、TV番組で「Paris
Canaille/パリ カナイユ(邦題)巴里野郎」を歌った。 「Paris Canaille」(1953年 Leo Ferre作詞/作曲) 1965年10月7日https://www.youtube.com/watch?v=sbkCR6e3Rek canaille(仏和辞書によれば):悪党、ごろつき、悪戯っ子、不良、げすな奴・・・ 歌詞の大意: ・・Parisは女の子の目をしたヒモ男。顔つきはペテン師。着ているものはボロ着。アコーデオンは騒々しくがなり立てるけど、実入りはわずか。だけどそれは素晴らしい。Paris、お前のジゴロたちはメトロのバスティーユ駅の下でお前を裸にして、お前のペティコートに陶酔しようとするけど、そんなことをすれば大騒ぎ。だけどそれは素晴らしい。Lilasの小枝たち、Pantinの花たちは通りで客引きをする。娼婦たちの稼ぎは立派で、年中やっていれば金持ちになる。それは素晴らしい。Dédé-la-Croix(デデ=ラ=クロワ、十字架のデデ)とBebert d’Anvers(ベベール・ダンヴェール、アントワープのベベール)は警察の目を逃れて何ヶ月も田舎に隠れ住んでいる。それをいいことにその奥方たちは不倫に走る。それは素晴らしい。 Parisは器用な手先を持った悪ガキ、警察に友だちはいない、ネオンのようなブラウスでは大人しくしてはいられない。だけどそれは素晴らしい。新聞では手練れと言われている拳銃強盗、シトロエンでやって来て、その場で乾いた銃声一発、金を並べろ、さもないとひどい目に遭うぞ。 1枚、2枚、5フラン硬貨を3枚で見てやろう、お前の最終章がよく見える、刑務所暮らしだ。 だけどそれは素晴らしい。お前は最低の、大したことない、見かけ倒しのギャング、標的を射抜くには上手なならなきゃ、この次は多分うまく行くだろう。 <パリは奪って行く、銀行口座から金を、情け容赦なく、手際よく、見事に、必要な時には必要なことをしなければと。だけど素晴らしい。正体不明の株式会社、評判の良い代議士、つるしの服を着ているモデル、そんなのに敬意を表す必要ない。だけど素晴らしい。 早く金を払いなよ、ほら金ぴかだよ、少しはまけとくよ、旦那、不渡り手形でも、それで我慢しなくては。それでも素晴らしい。ちょっとSaint Honoré通りでプティ・フール(一口ケーキ)を三つ買ってサプライズパーティーに出掛けよう、みんなびっくり。だけど素晴らしい> Parisは飲んだ。そしてほろ酔いの声で道に沿って歩きながら大声で歌う、ボロを着ていちゃ希望はないが歩道だけはある。だけどそれは素晴らしい。お前の町の浮浪者たち言い争いをするが、お前の橋の下にはセーヌ川が流れている。幻想を抱かせるようなロマンスなら五万とある、それは素晴らしい。場末にははぐれた少女たち、舗装された草原には恋が芽生える、家の中にも恋は芽生える、人は間違いを犯した。でもそれは素晴らしい。 うつろな目で川を眺めていると、道路が船のように見える、船は縦に揺れて3等船室では苦労する。だけど素晴らしい。Parisは楽隊のジャンカ、ジャンカでお祭り気分、お前の詩人たちには数百万サンチームを、私のシャンソンには数サンチームを、それで平仄が合うというもの、それは素晴らしい・・ (注)この映像ではSauvageは< >の部分を歌っていない。 1.Cathrine Sauvageの略歴 Catherine
Sauvage、本名Jeanine Marcelle Saunier、は1929年5月26日Nancy生まれ、1998年3月19日Parisの東方郊外Bry-sur-Marneで死去した歌手、俳優。1947年9月Parisに上り、Jean-Louis Barraultの許で演劇を学ぶ。仲間内のパーティーの際cabaret「Bœuf sur le toit」のオーナーMoysesの前で披露した歌と詩の朗読が好評で、翌日から同cabaretに出演、「Grand-papa laboureur/百姓のお祖父さん」(Jean Broussole作詞/André Popp作曲)などをレパートリーに。その後「Quod-libet」、「L’Arlequin」、「L’Ecluse」に出演。1949年「Aux Trois Mailletz」に出演の際Léo Ferré(Monaco1916-Ilalie1993、ACI、詩人)と知り合う。1953年から54年にかけてJacques Canettiのcabaret「Trois Baudets」に出演。 ・1953年「Paris Canaille」収録のSPリリース。 ・1954年リリースしたSPに収録されていた「L’homme/男」(Léo Ferré作詞/作曲)でACC大賞を受賞。「L’homme」1979年4月6日https://www.youtube.com/watch?v=67le00V3WuI ・1954年最初のLP『Catherine Sauvage chante ses derniers succés/カトリーヌ・ソヴァージュ、自身の最新のヒットを歌う』をリリース。これには8曲収録。「Grand-papa laboureur」、「Complainte des femmes
infidèles/不実女の嘆き」などのほかFerréの作詞/作曲になる「Paris Canaille」、「L’Ile Saint-Louis/サン・ルイ島」、「Monsieur William」の3曲を収録。 ・1954年LP『Catherine Sauvage chante Léo Ferré/カトリーヌ・ソヴァージュ、レオ・フェレを歌う』リリース、これには「L’homme」、「Le Piano du pauvre/貧乏人のピアノ」など8曲を収録 ・1954年Canettiの推薦でOlympiaにvedetteとして出演(54年12月16日から55年1月5日まで) ・1956年公開Pierre
Gaspard-Huit監督映画「Paris coquin/(邦題)巴里野郎」に歌手役で特別出演、アコーデオンとギターをバックに「Paris Canaille」を歌う。この映画には谷洋子も出演している。 ・1960年Bobino出演して好評で人気を確実なものに ・1961年Léo Ferréの曲を歌ったLPを2枚リリース。『Catherine Sauvage chante Léo
Ferré volum 1』には「Jolie môme/ジョリ モーム」、「Le temps du tango/タンゴの時代」、「Paname/パナム」、「Pauvre Rutebeuf/哀れなリュトブフ」などが10曲収録。『Catherine
Sauvage chante Léo Ferré volum 2』には「Paris Canaille」、「Le piano du pauvre/貧乏人のピアノ」、「Nous les filles/私たち少女」、「Les amoureux du
Havre/ル アーヴルの恋人たち」など10曲収録 「Le temps du tango」 https://www.youtube.com/watch?v=ys1BbF4sYB8 ・1961年LP『Catherine Sauvage chante Louis Aragon/カトリーヌ・ソヴァージュ、ルイ・アラゴンを歌う」をリリース。これにはLouis Aragon(1897-1982 詩人)の詩にFerréが曲を付けた「Est-ce ainsi que les hommes vivent/男の生き方」、「L’affiche
rouge/赤いポスター」、「Je chante pour passer le temps/時を過ごすために歌う」、Georges Brassensが曲を付けた「Il n’y a pas d’amour
heureux/幸せな愛はない」、Jean Ferratが曲を付けた「J’entends, j’entends/聞こえる、聞こえる」など12曲収録 「Est-ce
ainsi que les hommes vivent」 https://www.youtube.com/watch?v=8f3cfW9qie 「Il n’y a pas d’amour heureux」 https://www.youtube.com/watch?v=ICsH-yp1lcE ・1962年EP『Catherine Sauvage chante Serge Gainsbourg/カトリーヌ・ソヴァージュ、セルジュ・ゲンズブールを歌う』には「Black trombone」、「Les goémons/海藻」など4曲を収録 ・1964年LP『Catherine Sauvage chante Kurt Weill/カトリーヌ・ソヴァージュ、クルト・ヴァイルを歌う』には「La complainte de Mackie/匕首マッキー」、「La chanson de Barbara/バルバラの歌」、「Bilbao song」、「Surabaya
Johnny」、「Alabama song」、「La fiancée du pirate/海賊の許嫁」など12曲収録 「Surabaya Johnny」 https://www.youtube.com/watch?v=WfmNL-uPCF8 フランスにおけるロックミュージック隆盛時には一時活動の中心を演劇に。Sauvageはすでに1954年からBrecht劇に出演していて演劇女優としても高い評価を得ていた。 ・1968年Bobinoに出演。Live『Le Bonheur:Catherive
Sauvage á Bobino1968』:「C’est un air/一つのメロディー」、「Le bonheur/幸福」、「Avec/共に」、「L’êcharpe/スカーフ」など13曲収録 「L’êcharpe」(Maurice
Fanon作詞/作曲) https://www.youtube.com/watch?v=BKBCYgwh-g4 ・1970年大阪万博の際来日。 ・1971年LP『Avec le temps/時の流れに』:「Avec le temps」、「Tzigane/ジプシー」など12曲収録 「Avec le temps」(Ferré/Ferré) https://www.youtube.com/watch?v=Jh36-BMEvQI ・1973年LP『J’ai tout vu, tout connu/私はすべてを見て、すべてを知った』:「J’ai tout vu, tout connu」、「Je n’ai
pas souvenance/私は覚えていない」など13曲収録 ・1979年Petit Théâtre de Parisでコンサート「25 Ans de
chanson de Léo Ferré/レオ・フェレを歌って 25年」。「Sur la scène/舞台の上で」、「Comme à Ostende/オスタンドでのように」、「L’Age d’or/黄金時代」、「L’homme」、「Le temps
du tango 」、「Avec le temps」、「Paris Canaille」、「Vingt ans/20歳」などを歌う 「Sur la scène」1980年 https://www.youtube.com/watch?v=I6JZhqLx4Hg ・1982年7月来日公演、草月ホールでのステージの模様は1983年リリースのlive盤LP『Récital à
Tokyo/東京でのリサイタル』に収録。収録されているのは:「Jolie môme/ジョリ モーム」、「La tendresse/優しさ」、「Tzigane」、「A tous les enfants/すべての子供たちに」、「L’écharpe/スカーフ」、「Complainte de Mackie」など14曲 ・1992年Colette(1873-1954 作家)の詩集「Dialogues de bêtes/動物の対話」からの詩を朗読したLP『Dialogues de bêtes』をリリース ・1992年生前最後のLP『Démons et merveilles.Catherine Sauvage
chante Prévert/悪魔と奇跡。カトリーヌ・ソヴァージュ プレヴェールを歌う』をリリース。これにはJacques
Prévert(1900-1977 詩人、映画作家)の詩にJoseph Cosmaらが曲を付けた、「Démons et merveilles」、「Déjeuner du matin/朝の食事」、「Quand tu dors/あなたが眠っている時」、「Et la fête
continue/祭りは続く」、「Cri du cœur/心の叫び」、「Les enfants qui s’aiment/愛し合う子供たち」など27曲集録 ・1994年7月Sauvageの最後のステージはFrancofolies de La Rochelle ・1998年3月19日癌のためBry-sur-Marneで死去。享年68歳。 ・2019年6月28日compilationアルバム『Chansons de poètes/詩人のシャンソンたち』リリース。CD 3枚組みで82曲収録 2.SauvageとFerréと「Paris Canaille」について Sauvageは1949年「Aux Trois
Mailletz」(Quartier latin、 56, rue Galande 5区)に出演の際、一緒に出演していたLéo Ferré(1916-1993 ACI)と知り合い、Ferréに提供された曲をレパートリーにした。SauvageはFerréの曲を紹介しFerréが世に出るとことを助けると共に、Ferréの曲を歌うことによって自身も人気歌手に。 Ferréは「Grande Catherine/偉大なカトリーヌは私のシャンソン信念を持って歌ってくれた。私は彼女が歌ってくれのが一番好きだ。彼女は私の曲を100曲以上録音してくれた」。 Ferréは作詞作曲した「Paris Canaille」が出来上がったとき、最初Les Frères Jacques、Yves Montand、Mouloudjiに持って行った。いずれも拒否された。Frères Jacquesは「言葉が多すぎる」として、Montandは「Parisの悪党をテーマにした曲ならすでにレパートリーにあるので」として、(Montandはその後、1964年リリースのLP『Le Paris de ・・Montand』に「Paris Canaille」を収録している)、またいつもFerréの曲に衝撃を受け歌ってくれたMouloudjiは「今回は気持ちが乗らないので」として。 そこでFerréは同じキャバレに出演していたSauvageに提案、Sauvageは当時新進気鋭のMichel Legrand(1932-2019 作曲家、ピアニスト、指揮者)のアレンジによりこの曲を録音した。そして、1953年にPhilippe社からリリースしたSauvageの最初のレコード、78回転SPに「Paris Canaille」を「La fille de Londres/ロンドンの女の子」(Pierre
Marc-Orlan作詞/Victor Marceau作曲)とのカップリングで収録した。 Ferréは1953年4月10日~29日録音、10月末(又は11月初め)リリースのファーストLP『Léo Ferré』に「Monsieur William」、「Le Pont Mirabeau」などと共にB面最後の曲として収録。 「Paris Canaille」 Léo Ferré https://www.youtube.com/watch?v=o1dFMhZ7I-c 「Paris Canaille」はSauvageヴァージョンとFerréヴァいジョンとが相俟ってFerré作詞/作曲の最初のヒット曲になり、当時のFerréの窮乏を救ったと言われている。 なお、俗語を使った歌詞は公序良俗に反するとされたためか1953年4月から5月にかけて3週間ほど放送禁止処分を受けたようだ。 「Paris Canaille」はFerre、Sauvageの他多くの歌手が歌っている。その中には:Renée Lebas(1917-2009 歌手)、Juliette Gréco(1927-2020 歌手、俳優)、Yves Montand(1921-1991 歌手、俳優)、Isabelle Aubret(1938-歌手)、Zaz(1980- ACI)がいる。 Renée Lebas https://www.youtube.com/watch?v=JGTPIyJ8-e0 Yves Montand https://www.youtube.com/watch?v=cQucZZWNrVk Juliette
Gréco https://www.youtube.com/watch?v=L96166SFh_o Isabelle Aubret https://www.youtube.com/watch?v=L5c_vEnhdaE |
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今月の顔 2021年9月 septembre 2021 ジェーン・バーキンJane Birkin Jane
Birkinは1998年9月14日、全曲Serge
Gainsbourgの作詞/作曲以外の曲で構成されたアルバム『A la légère/軽く:(日本で発売されたCDのタイトル)ラヴ・スロウ・モーション』をリリースした。 「Les clés du paradis/天国の鍵束」(1998年 Jacques Duvall作詞/Alain
Chamfort &J-N Chaleat作曲) アルバム『A
la légère』から https://www.youtube.com/watch?v=yRteJcGUANk 歌詞の大意: ・・私は天国の鍵束を持っている、一度も勝負事に勝ったことのない私が。少しさび付いている鍵束を道端で見つけた。あり得ない話だと解ってはいるけれど、道に転がっていたのでポケットに入れた。誰も私を責められない。私はとびきり運が良いという女じゃないけど、私は天国の鍵束を持っている。それで元気いっぱい。 でも困っているのはそれを使って開ける天国の扉が見つからないこと。360億個の錠を開けるなんて、やる甲斐があるかしら。そんなこと望みなし、ぎっくり腰になるのがせいぜい。 せっかくの品をうまく使えない。 私には私と同じくらいのだめ人間の彼がいて時々一緒に出かけるの。彼は一緒に住みたいらしいけど、私は言ってやる「出ていって」と。 私は、特に優しい女というわけじゃないけど、彼にあげる、天国の鍵束を。冗談じゃないの、誓って言うわ、そう天国の鍵束・・ 1.Jane Birkinの略歴 1946年12月14日イギリス、ロンドン生まれの俳優、歌手、作詞も行う。イギリスで1963年(17歳)戯曲に出演、18歳から数本の映画に出演。1966年映画音楽作曲家John Barryと結婚。1967年4月女児Kate Barry誕生(―2013.12)。1968年離婚 ・1968年フランスに ・1969年7月フランスで公開されたPierre
Grimblat監督の映画「Slogan/スローガン」に出演。主役のSerge Gainsbourg(Paris1928年4月2日-Paris1991年3月2日 ACI、俳優、作家、脚本家、演出家、画家)と知り合い、1969年~80年9月の間パートナーに。1971年7月女児Chalotte Gainsbourg誕生。 ・1969年2月アルバム『Jane
Birkin-Serge Gainsbourg/ジェーン&セルジュ』(Gainsbourgの2枚目のアルバムで、Birkinのファーストアルバムとする資料もある。11曲収録。そのうち、BirkinはGainsbourgとのデュオまたはソロで次の6曲歌っている):「Je t’aime,
moi non plus/ジュ テーム モワ ノン プリュ」(デュオで)、「69 Année érotique/69年はエロティックな年」(デュオで)、「Jane B」(ソロ、原曲はFrederic Chopinの前奏曲第4番)、「Le canari sur le balcon/バルコニーのカナリア」(ソロ)、「La chanson de slogan/スローガンのシャンソン」(デュオで)、「Orang-Outan/オランウータン」(ソロ) 「Je t’aime, moi non plus」 https://www.youtube.com/watch?v=TtMSthd6EDM ・1971年5月日本公開Pierre
Koralnik監督映画「Cannabis/(邦題)ガラスの墓標」プロモーションのためSerge Gainsbourgと初来日 ・1973年「Di Doo Dah/ディ・ドウ・ダ」https://www.youtube.com/watch?v=zaxxDh5rNPo ・1978年「Ex Fan des
sixties/思い出のロックン・ローラー」、「Aquoiboniste/無造作紳士」、「Ballade de Johnny Jane/ジョニー・ジェーンのバラード」 「Aquoiboiste」 https://www.youtube.com/watch?v=yLQE7Tfs5HY ・1980年映画監督Jacques
Doillonと出会い、81年-93年パートナー。1982年9月女児Lou Doillon誕生 ・1983年10月リリースのアルバム『Baby Alone in Babylone/バビロンの妖精』がACC大賞授賞。「Baby Alone in Babylone」(原曲はJohannes Brahmsの交響曲第3楽章)、「Les dessous chics/シックな下着」、「Fuir le bonheur de peur qu’il ne se sauve/幸福が逃げるのを恐れて幸福を避ける」 「Fuir le bonheur de peur qu’il ne se sauve」 https://www.youtube.com/watch?v=Ll6ribfGJVA ・1987年3月Bataclanに出演、初ライヴ。「Avec le temps/時の流れに」を歌う 「Avec le temps」 https://www.youtube.com/watch?v=P782WRy6M84 ・1989年2月公演のため初来日。その後都合10数回来日公演 ・1990年「Amours des
feintes/いつわりの愛」 ・1991年5月13日から6月1日までCasino de Parisで「Serge Gainsbourg追悼コンサート」 ・1992年2月VdM女性歌手賞受賞 ・1996年2月アルバム『Version
Jane/ジェーン ヴァージョン』(Gainsbourgの作曲による過去のヒット曲をJean-Claude Vannierらの新しいアレンジで):「La gadoue/ぬかるみ」、「Elisa/エリザ」、「Couleur café/コーヒー色」、「Comment te dire adieu/さよならを教えて」など15曲収録 「Comment te
dire adieu」 Françoise Hardyとhttps://www.youtube.com/watch?v=0xJwTV7jzwU ・1996年10月Olympiaに出演。1997年liveアルバム『Intégrale
Olympia』26曲収録 ・1998年9月アルバム『A la legère』 ・1999年「無造作紳士」が日本のTVTBSのドラマ「美しい人」の主題歌に使用される ・2001年イギリスのMost
Exellent Order of the British Empire/大英帝国勲章、officer章受章 ・2002年11月liveアルバム『Arabesque/アラベスク』(2002年3月Odéonでの公演。Gainsbourgの作品をアルジェリア人ヴァイオリニストDjamel
Benyellesのアレンジでアラビア風に):「Elisa」、「Couleur café」、「Amours des feintes」、「Baby alone in Babylone」など16曲収録 「Baby alone in
Babylone」 https://www.youtube.com/watch?v=QJUyEgCEk84 ・2004年3月アルバム『Rendez-vous/ランデ・ヴー』(世界中の著名なACIなどに提供された曲をデュオで):「Je m’appelle Jane/私の名はジェーン」(Mickey 3Dと)、「T’as pas le droit d’avoir moins
mal que moi/私より苦しまないなんて許さない」(Alain Chamfortと)、「Palais royal/パレロワイヤル」(Alain Souchonと)、「Canary canary」(Yosui Inoueと)、「La grippe/インフルエンザ」(Etienne Dahoと)、「Surannée/時代遅れの女」(Françoise Hardyと)など15曲収録 「Canary canary」https://www.youtube.com/watch?v=7uI-zoQsrIs ・2006年3月アルバム『Fictions/フィクションズ』(英仏の若いACIから提供された曲を中心に、英仏語で歌う):「Home」、「My secret」、「Où est la ville?/町はどこに」、「Sans toi/あなたなしで」、「Les reine sans royame/王国のない女王たち」など12曲収録 ・2008年11月アルバム『Enfants
d’hiver/冬の子供たち』(作詞はすべてBirkin自身):「Prends cette main/この手を取って」(Phil Barton作曲)、「Enfants d'hiver」(Hawksiery Workman作曲)、「Pourquoi/なぜ」(Alain Lanty作曲)、「Aung San Suu Kyi/アウン サン スー チー」(歌詞は英語。「私の告発を世界中に知ってもらうため詩は英語で書いた」Franck Euolry作曲)、「Il fait nuit/夜になった」(Pascal Rodde作曲)など12曲収録 「Enfants
d’hiver」https://www.youtube.com/watch?v=B_r4tQxt9FM ・2011年東日本大震災の後来日、復興支援チャリティーコンサート「Together for Japan」4月6日渋谷クラブクアトロで。中島ノブユキ(1969-ピアニスト・作曲家・アレンジャー)がバックバンドのリーダー ・2011年10月から2013年7月(体調不良、映画撮影などのため中断があったが)まで世界ツアー「Jean
Birkin sings Serge Gainsbourh via Japan」。バックは中島ノブユキをリーダーとする4人の日本人ミューィシャン(金子飛鳥、坂口修一郎、栗原努)。この間27カ国、74都市で公演。日本公演は2011年11月25日及び2013年3月28日 ・2015年フランスのOrdre national du Mérite/国家功労勲章のofficier章受章 ・2017年4月アルバム『Birkin/Gainsbourg: le symphonique』(Gainsbourgの曲を中島ノブユキのアレンジにより、L’Orchestre symphonique de la radio polonaiseをバックにワルシャワで録音した21曲収録):「Baby
alone in Babylone」、「L’Aquoiboniste」、「Ces petits riens/これらの些細なこと」、「Fuir de bonheur de peur qu’il ne se sauve」、「Requuiem
pour un con/愚か者のためのレクイエム」、「La chanson de Prévert/枯葉に寄せて」、「La gadoue」、「L’anamour」、「Lost
Song」、「Dépression au-dessus du jardin/公園を通りすぎる憂鬱」、「La Javanaise/ラ ジャヴァネーズ」、「Pull
marine/マリンブルーのセーター」など 「La
javanaise」 https://www.youtube.com/watch?v=M0T0PpyzcEA ・2016年10月26日Troyesから2018年2月1日NY Cawnegie
HallのStern Auditoriumまで世界ツアー「Gainsboug symphonique」。2017年8月19日東京公演 ・2018年日本政府から旭日小綬章を授与される ・2020年12月アルバム『Oh !
Pardon tu dormais/おー、失礼、お休み中でしたか』(14枚目のスタジオ録音アルバムとの報道がある。作詞はBirkin自身、Etienne
Daho<1955-ACI>の協力を得たものもある、作曲はEtienne Daho及びJean-Louis Pierot<1965- 作曲家、アレンジャー、ディレクター>):「Oh! Pardon tu dormais」(Dahoとのデュオ)、「Ces murs épais/これらの厚い壁」、「Cigarettes/タバコ」、「Les jeux interdits/禁じられた遊び」、「A marée haute/高潮で」、「Pas d’accord/不同意」、「Catch me if you can」など13曲収録。「Ces murs épais」、「Cigarettes」及び「Catch me if you can」の3曲は長女Kate Barryの追憶。Kate Barryは1967年生まれの写真家。父親はJaneが1965年に結婚し68年に離婚した映画音楽の作曲家John Barry。Kateは2013年12月自宅のあった Paris16区のアパートの5階から転落死した。「Les jeux interdis」はKateとCharlotte姉妹をテーマにしている。 「Les
jeux interdis」2020年 https://www.youtube.com/watch?v=oUwhEHRhdO0 ・2021年2月第36回VdMで特別賞受賞 2.アルバム『A la légère』について Birkinは1991年5月Casino de Parisで「Serge Gainsbourg追悼コンサート」を行ってから5年間は音楽活動を行っていなかった。しかし1996年2月Serge Gainsbourgの作曲による過去のヒット曲でBirkinのレパートリーにはなかった15曲をJean-Claude Vannierらの新しいアレンジ歌ったアルバム『Version
Jane/ジェーン ヴァージョン』をリリースして、Gainsbourgにオマージュを送った。それから2年、Gainsbourgの没後7年に当たる1998年Birkinは、それまで彼女のレコードすべてのプロデューサーであったPhilippe Lerichomme宅を訪問、尋ねた「Sergeがいない今、私は歌手としてやっていけるだろうか」。それを聞いたLerichomme夫人は夫に「この問いは、『歌手としてやっていくために協力してほしい』と言うことよ」。Lerichommeは答えた「やってみましょう。任せて下さい」。Lerichommeの求めに応じて、当時既に定評のあったACI(Alain Chamfort、Alain
Souchon、Françoise Hardy、Laurent
Voulzy、Marc Lavoine、Gérard
Mansetら)、あるいは当時の新進気鋭のACI(Miossec、Zazie、MC Solaarら)が曲を提供。そして9月14日、収録されている12曲すべてがGainsbourg以外の者の作詞、作曲による初めてのアルバム『A la légère』がリリースされた。このアルバムについては「Elle vole seule/彼女は一人で飛ぶ立つ」、「La deuxième vie
de Jane Birkin commence sans Gainsbourg/GainsbourgのいないJane Birkinの第2の人生が始まる」、「Jane a tourné une
page/Janeはページをめくった」などと形容された。しかし、「これらの作詞/作曲家が集まってもGaibsbourg一人に対抗することは出来なかった」との評もあった。 アルバムに収録されている12曲は: ・「Les clés du paradis/天国の鍵束」(Jacques Duvall作詞/Alain Chamfort &J-N Chaleat作曲) ・「Les avalanches/雪崩」(Miossec作詞/Richard Mortier作曲)、 ・「A la légère/軽く」(Alain Souchon作詞/Laurent Voulzy作曲) 「これをアルバムのタイトルにした。 この曲は一種の願い。私は人生のごく些細な問題についても、愛や性についても深刻に考えて、悩んでしまう。Alainはもっと軽く考えた方がよいと言ってくれた。ファンも私は微笑んでいる方が好きだろう。」 clip officiel https://www.youtube.com/watch?v=qeQHG4BVdLw ・「Plus loin de ta rue/あなたの街から一番遠く」(Nilda
Fernandez作詞/作曲) ・「Trouble/心の動揺」(Daria de Martynoffe作詞/Michel Cywie作曲) ・「La bulle/泡」(Patrice Guirao作詞/Art Mengo作曲)、 ・「Love slow mortion」(MC
Solar/作詞Zackman作曲。ルフランでLove
slow mortionと歌っている以外歌詞はフランス語) https://www.youtube.com/watch?v=QeRu4k5233g ・「Si tout était faux/もしすべて間違いだったら」(Gérard Manset/作詞/作曲) ・「L’autre moi/別の私」(Etienne Daho作詞/作曲) ・「La pleine lune/満月」(Françoise Hardy作詞/Alain Lubrano作曲) ・「Simple en français/フランス語ではサンプル」(Marc Lavoine作詞/Alain Lanty作曲) ・「C’est comme ça/それはそういうこと」(Zazie作詞/作曲) https://www.youtube.com/watch?v=GvPOwF8qXWA |
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今月の顔 2021年5月 Serge Reggiani
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今月の顔 2020年11月 novembre 2020 ニコラ・ペイラック Nicolas Peyrac Nicolas Peyracは1975年11月TV番組に出演「Et mon père/そして 父は」を歌った。 「Et mon père」(1975年 Nicolas Peyrac作詩/作曲) 1975年11月29日TV「Numéro un/ナンバー ワン」で。 背景の映像は当時のSaint-Germain-des-Prés のcave(地下の酒場) https://www.youtube.com/watch?v=Ol7-InPByuU 歌詞の大意: ・・あの当時ダンスをするのにワウ・ペダルは必要なかった。ボサ ノヴァではなかったけれど、体を激しく動かした。地下の酒場は奥深く、ダンスは止まらなかった。古いピアノが騒々しく演奏され、いかれた連中が踊っていた。Juliette(Gréco)の鼻は生まれた時のままだったし(注)、(Louis)Aragonは軽薄ではなかったし、(Jean-Paul)Sartreはすでにコミットしていた。Café de Floreにはすでに無分別さがあった。 そして僕の父は着いたばかりで、小店主たちとよく付き合っていた。父の部屋で、コーヒーを物々交換していた。父は僕がいつかそのことを話題にするとは思っても見なかっただろう。 当時異性と交際する時には、お互いに指先で触れ合った。ピルはまだなかったし、あんなことをしてはいけなかった。お互いに愛していると言い、時には愛し合うこともあった。 今ではでたらめ話を2回、長い口上を3回、それで直ぐコトに及ぶ。 Adolf(Hitler)小父さんは銃で自殺し、(愛人の)Eva(Braun)は付いて行った。彼は女性を引っかけようとするだろう、でもあの世には愚かな女はいない。 そして父は早速植え付けようとしていた、後に歌手になる馬鹿者の種を。彼は僕に弟たちが出来るとは思っても見なかった。 この時代、歌っていれば金なんて大事じゃなかった。ヒットパレードはまだなかった。少なくとも大したものじゃなかった。何週間もあるいは何年かけてもトリップ状態にならなければ、商売替えをすることが出来た。(Charles)Trenetは何年も頑張っていたし、(Georges)Brassensは四苦八苦していたし、(Gilbert)Bécaudは自分のピアノを磨いていたし、Monsieur(Jacques)Brelはまだ常軌を逸した女性たちを歌ってはいなかった。 そして父はまだいくらかの人間性が残っている土地に着いたばかりだった。そこでは人々は疲れ切ってはいたが、語ることが出来た、未来について。 Julietteの鼻は生まれた時のままだったし、Aragonは軽薄ではなかったし、Sartreはすでにコミットしていた。Café de Floreにはすで無分別さがあった。 そして父はまだいくらかの人間性が残っている土地に着いたばかりだった。そこでは人々は疲れ切ってはいたが、語ることが出来た、未来について・・ (注)Julietteの鼻・・Juliette Grécoは1946年から恋人であった自動車レーサーJean-Pierre Wimille(1908-1949 テスト走行中に事故死)の勧めにより1940年代末に最初の鼻の整形を行い、その後も都合3回の整形を行ったと言われている。 1.
Nicolas Peyracの略歴 Nicolas
Peyrac、本名Jean-Jacques Tazartezは1949年10月6日ブルターニュ地方、Rennes生まれのACI、作家。 幼年時代をブルターニュ地方で過ごし、両親が離婚した後母親について1年間NYで過ごす。その後ブルターニュ地方の父の許へ。祖父、父が医師であったことから、医学を学ぶ。その傍ら曲を作りMarie Laforêt(1973年、「Tant qu’il y aura des chevaux」)、Gérard Lenorman(1975年「Ailleurs」)らに提供。その後1974年から自分でも歌うように。1975年4月の「So far away from LA/LAから遠く離れて」、1975年11月の「Et mon père/そして父は」がヒット。 「So far away from LA」 https://www.youtube.com/watch?v=ipt3ekGv0Mo その後「Je pars/僕は出発する」(77年)、「Elle disait/彼女は言っていた」(82年)、「Et même/もし、仮に」(89年)などがヒット。 「Je pars」 https://www.youtube.com/watch?v=stGUsmBboM4 1978年11月武道館で開催された第9回ヤマハ世界歌謡祭に出場、「Et les hommes/(邦題)愛の戦士」を歌っている。 1979年にはvedetteとしてOlympiaに出演。1981年にはBobinoに出演している。 1990年代に入り母親の死去などから鬱になったこともあり、1993年から15年間、カリフォルニアに、次いでCanada 、Québec、Montréalに移り住む。 この間曲作りをし、アルバムをリリース。リリースされたアルバムには: 1993年「Tempète sur Ouessant/ウエサン島の嵐」、1995年「J’avace/僕は進む」、1999年「Autrement/他の方法で」、2003年「Seulement l’amour/愛だけ」、2006年「Vice-versa/逆も同様に」がある。 また時折Parisに帰ってコンサートを行った。即ち1996年5月Casino de Parisに出演(この模様はliveアルバム「Puzzle」に収録)、1997年1月Bobinoに出演など。 他に、小説(1994年「Qu'importe le boulevard où tu m'attends」、1996年「J’ai su dès le premier jour
que je la tuerais」)の執筆や映画評論の執筆などの活動を行った。 2008年ブルターニュに帰り、2009年アルバム「Case départ/振り出し」をリリースしてフランスでの活動を再開した。 2010年CD3枚組み56曲収録compilation「Platinum collection/プタチナコレクション」がリリースされている。 2011年にはアルバム「Du Golden Gate à Monterey/ゴールデンゲイトからモントレイまで」をリリース。 2013年にリリースした「Et nous voilà/そして我々はここに」には自身の過去のヒットを主に若手歌手とデュオでカバーした12曲が収録されていて、「Et mon père」はCarmen Maria Vegaと、「So far away from L.A.」はSofia Essaïdiと、「Je pars」はSerge Lamaと、「Seulement
l’amour qui vaille la peine/苦しむ甲斐があるのは愛だけ」をJulie
Zenattiと、「On dit」をBénabrと歌っている。 「So far away from LA」 Essaïsiと https://www.youtube.com/watch?v=h19rrs6y6WM 2018年1月にリリースした「Suffit
que tu oses/君は思いきってやるだけで十分」には過去の自身の有為転変を語り、苦しいことがあっても決して諦めないこと、何があっても立っていようと歌う、「On tien debout/立っている」、「La laissez
pas tomber/彼女を放っておくな」、「On
aura tous les deux vingt ans/二人とも20歳になる」、「Suffit que tu oses」、「C’ était ça ma vie/それが僕の人生だった」、「On se retrouvera/再び出会うだろう」、「J’aimarais bien dire au temps qui passe/過ぎ去って行く時間に話しかけたい」など13曲が収録されている。 「C’ était ça ma vie」 https://www.youtube.com/watch?v=4gPv9CSTzVQ Peyracは控えめな性質から、マスメディアに登場することも少なく、大規模ツアーを行うこともないが、数年毎に、優しい暖かみのある声で、中身の濃い、良質なアルバムを出している。 2.「Et mon
père」について 1974年のある朝PeyracはPitié Salptêrière大学病院での授業に出ていた。「神経病に関する講義だったか、Adisson病に関する講義だったかよく覚えていないが、講義は退屈だった。そんなときの常で、私は講義内容を記録するノートとは別のノートに思いつく詩句を書いた。その日は父のことを思い出した。父は失敗を犯してこそ成功があると語っていた。そして創造すること、特にシャンソンを作ることが私のやりたいことなら、私を応援すると言っていたことを思い出した。もう教授の言うことは聞こえなかった。言葉が次々ノートの上に現れてきた。講義が終わった時には詩が完全に出来上がっていた。その日は私にとって吉の日だったのか、学生寮に帰るまで、Rue Jeannn-D’Arcを歩いていて曲も出来た。楽譜を書くことが出来なかった私には、いつも恐れていることがあった。それは曲をカセットに録音する前に誰かが私に話しかけてきて、曲の糸が切れてしまうのではないかという。寮に着くと直ぐに録音した」。 カセットは机の引き出しにしまわれた。 数年後PeyracはPathe Marconi社と契約することが出来、まず「So far away from LA」を録音した。SPは1975年4月15日にリリースされ、10万枚以上の売り上げというヒットになった。2枚目のレコードを出すことになり、しまってあった「Et mon père」を取り出し、「Tu rêvais de Mappenmondes/君は地球儀を夢見ていた」とのカップリングで1975年11月1日SPリリース。レコードは1976年上半期までに80万枚以上の売り上げという大ヒットになり、「Et mon père」はSACEMのGrand Prix
de l‘Unacを受賞した。 この曲のヒットにより、Peyracは歌手としての地位を確立。1976年Théâtre de la Ville de Parisにvedetteで出演、Serge Lamaの前座で200公演に及ぶLamaの国内ツアーに同道。 また、Dalidaは1977年1月のOlympia公演でPeyracを前座で招いた。 この曲はPeyracの代表曲でPeyracは最近でも様々な機会にこの曲を歌っている。また、上記の通り2013年リリースのアルバム「Et nous voilà」ではCarmen Maria Vegaとデュオで歌っている。 「Et mon père」2011年 https://www.youtube.com/watch?v=Zs6Te12WYxg 「Et mon père」2013年Vegaとhttps://www.youtube.com/watch?v=dRS3TFXEbGY 「Et mon père」2019年8月https://www.youtube.com/watch?v=ghq4hq8XeN4 |
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今月の顔 2020年10月 octobre 2020
Francis Lemarqueは1965年10月7日TVに出演、ヒット曲「A Paris/パリで」を歌った。 「A Paris」(1946年 Francis Lemarque 作詞/作曲) 1965年10月7日TV番組「Palmarès des chansons/シャンソンヒットパレード」で https://www.youtube.com/watch?v=tH6Jowp1-qg 歌詞の大意: ・・パリでは一つの恋が花開けば、二つの心は何週間も微笑み合う、何故なら二人が愛し合っている場所がパリだから。 春には屋根の上の風見鶏がくるくる回って愛嬌を振りまく、しかし初めて吹く春風は知らん顔して行き過ぎる。 何故ならパリにやって来た風が考えていることはただ一つ、おしゃれなパリの町並みをぶらつくことだから。 風と昔からの友だちの太陽は一緒になってお祭り騒ぎ、酔っぱらって2人の中学生のように肩を組んでパリの街へ。 道すがら屈託なくパリは変わったかしらと観察する。 やはりいる、タクシー乗り場の手前で係員にばれないようにこっそり客を乗せる流しのタクシーが。 カフェーではあらゆる種類の人々があらゆる種類の飲み物飲みながら、朝からずっと座って大げさな身振りで話している。 そしてセーヌ河がある、どんな時間にもセーヌを訪ねる人がいる、じっとセーヌを見つめている人たち、その人たちはセーヌに恋した人たち。 セーヌに住み着いた人もいる、その人たちは週日には毎日昼にセーヌで体を洗う。 それにいろんなことがあって、それを忘れるためにセーヌに身を投げる人がいる。 でもセーヌが好きなのはゆっくり川面を進む綺麗な船、流れに乗ってカラヴェル船を気取っている。 やっかい事はパリだけにある訳じゃない、世界中どこのでもある、でもやっかいなのは世界中どこにでもパリがある訳じゃないこと。 パリでは7月14日、提灯の下で、アコーデオンに合わせて、街の通りでみんなが踊る。 パリではバスティーユが陥落した時から、下町の四つ辻ではどこでも、男たちが、女たちが、石畳の上で、夜も昼もなくくるくる回って踊っている。 パリでは・・ 1.Francis Lemarqueの略歴 Francis
Lemarque、本名 Nathan Korb、は1917年12月25日Paris生まれ、2002年4月20日Paris郊外で死去したACI。両親はユダヤ系の移民。生地はParisの庶民的な街の中心Bastille広場の近く、51,rue de Lappe、11区、アパートの3階。現在、生家にはプレートが付けられている。アパートの地下1階にはダンスホール「Bal des Trois Colonnes」があった。Lemarqueの回想「午後から夜にかけて多くのバーやビアホールで楽隊がミュゼットやジャヴァを演奏していた。『Bal des Trois Colonnes』から聞こえてくる『Les nocturnes/ノクターン』(Georgette Planaにヒット曲)は物心ついた私がよく聞いた曲で、今でもそのルフラン『Ce sont les nocturmes, les papillons de nuit・・/あれはノクターン 夜の蝶・・』を口ずさむと懐かしさで身が震える」。Lemarqueは終生この街を愛し、75歳の誕生日は同地にあるダンスホールBalajo(9,rue de Lappe)で祝っている。 11歳で働きに出だし、家庭用品の販売員、鋳物工場の工員、メッセンジャーボーイ、毛皮商、端役の役者など36種の職を経験したと言われている。1934年、兄のMauriceと組んでデユオで歌っていたところLouis Aragonに気に入られて「Les frères Marc/マルク兄弟」という芸名をもらった。Jacques Prévertと共演する機会があり、Prevértを通じてMouloudjiなどの知己を得る。第2次大戦中はMarseilleでレジスタンス活動に参加。母親はアウシュヴィッツから帰らなかった。 1945年にParisに戻り、ソロ歌手としての道を進み、rive gaucheのキャバレーでギターの弾き語り。1946年ステージのYves Montandを初めて聞いた時、そのパフォーマンスに圧倒され、歌手の道を進むより、シャンソンを書く方が向いているのではと考えた、Jacques Prévertを通じて、自ら作詩・作曲した「A Paris」などをMontandに提供。 1949年LemarqueはJacques Canettiの勧めにより歌手としての活動を再開し、「Les Trois Baudets」、「Rose Rouge」「L’Echelle de Jacob」などに出演。1949年「A Paris」を収録した最初のSPを出し、同年には他に「Cornet de frites/フライドポテトの三角袋」、「Bal,petit bal/小さな舞踏会」などもSPで出している。それにより歌手としての評価が定まった。 その後: 1949年「A Paris」がSACEMのPrix
Vincent Scotto受賞 1951年「Le
cocher de fiacre/辻馬車の御者」がACC大賞受賞 https://www.youtube.com/watch?v=ycPkUppAg90 1953年「Le petit cordonier/小さな靴屋さん」 https://www.youtube.com/watch?v=HagdXFPNghE 1953年「Quand un soldat/兵隊が戦争に行く時」 https://www.youtube.com/watch?v=80arAJELM34 1956年「La
grenouille/蛙」がACC大賞受賞 https://www.youtube.com/watch?v=LU2HkvZYB4M 1957年「Marlolaine」 https://www.youtube.com/watch?v=4gAHHezDdmc 1958年Olympiaに出演。Paul
Anka、Colette Renardと 1958年「L’air de Paris/パリの空気」がPrix Vincent Scotto受賞 https://www.youtube.com/watch?v=xqzh1gfH3kw 1965年「Le bar du dernier verre」がAntibesのPrix de Rosed‘Or受賞 https://www.youtube.com/watch?v=nKjg6Oy4x-Y 1973年LP『Paris Populi/パリの庶民』(1789年から1944年までのParisの人々の物語)でACC大賞受賞。「Bonnes gens/善良な人々」、「1830,Faubourg St Antoine/1830年フォーブール サン=トワンヌ」、「A
votre cœur/あなたの心に」、「Après
dix ans d’exil/10年の亡命」、「Hugo
de Paris/パリのユーゴ」など収録 「Hugo de Paris」1988年Théâtre
de l‘Este
parisienで https://www.youtube.com/watch?v=DCWB90gwLmo 1978年Grand Prix du Président
de la République受賞
1982年Grand Prix national de la
chanson受賞 1986年SACEM大賞受賞 1989年OlympiaにVedetteとして出演 1989年LP8枚組み「A la decouverte de la
chanson populaire/大衆に人気のシャンソンを求めて」(Reader’s Digest社が選んだLemarque及び他の歌手のヒット曲100曲収録)でACC大賞受賞 1992年2月14日自伝「J’ai la mémoire qui chante/我が思い出は歌う」刊行 1992年4月Légion d’Honneur Chevalier勲章受章 2002年1月最後のリサイタルViarmes(Val-d‘Oise県)で 2002年4月20日Paris郊外Marne河畔La
Varenne-Saint-Hilaireの自宅で死去、享年84歳。遺体はPère-Lachaiseの44地区(Montandの隣、Michel Legrandも同じ地区)に埋葬されている 2003年新人歌手を対象にしたSACEMのPrix
Francis Lemarque創設 2010年6月18曲を収録したcompilation 「A Paris + 17 succès de Francis Lemarque/パリで+フランシス・ルマルクのヒット17曲」がリリースされている。収められているのは:「A Paris」、「Majolaine/マジョレヌ」、「Bal, petit bal/小さな舞踏会」、「Les routiers/トラックの運転手」「Mathilda/マチルダ」、「Le petit cordonnier/小さな靴屋さん」、「Mon copain d’Pekin/北京の仲間」、「Cornet de frites/フライドポテト袋」、「L’air de Paris/パリの空気」、「Toi,tu ne ressembles a personne/君は誰にも似ていない」、「Paris se regarde/自分を見つめるパリ」など Lemarqueは生涯で400曲以上を作詞・作曲、あるいは作詞または作曲している。それらはLemarque自身及び多くの歌手が歌っていて、その歌手の代表曲になったものも多い。特にYves Montandは「A Paris」、「Ma douce Vallée/我がやさしき谷間」、「Quand un soldat」、「Les routiers」、「Je suis venu à pied/僕は歩いてきた」、「Cornet de frites」、「Bal, petit bal」、「Le cocher de fiacre」、「Marjoleine」、「L’assassin du dimanche/日曜日の暗殺者」、「Les petits
rien/つまらないこと」など30曲を歌っている。 「Quand un soldat」https://www.youtube.com/watch?v=lEJyRJQ8fro 「Je suis venue à pied」https://www.youtube.com/watch?v=G0kL9rUhHrs 他に:Edith Piaf(「Johnny,tu
n’es pas un ange/ジョニー、あんたは天使じゃない」)、Maurice Chevalier(「Le tueur affamé/殺人鬼」)、Mouloudji(「Rue de Lappe/ラップ通り」、Yvette Giraud(「La grenouille/蛙」)、Juliette Greco(「Elles ne tirent plus l’aiguille/彼女たちはもう針を持たない」、Marlene Dietrich(「Où vont les fleurs/花はどこへ行った」・・「Where have all the
flowers gone?」にLemarqueがフランス語の詩を付けた)、Abdre Claveau(「Marjoleine」)、Renée
Lebas(「L’air
de Paris」)、Danielle Darrieu(「Le temps du muguet/スズランの季節」)、Dalida(「Marjoleine」)ら50人以上の歌手が歌っている。 Edith Piaf 「Johnny tu n’est un ange」 https://www.youtube.com/watch?v=NFS8aaqWqec Mouloudji 「Rue de
Lappe」 https://www.youtube.com/watch?v=G0kL9rUhHrs Dalida 「Marjolaine」 https://www.youtube.com/watch?v=7YS0sDz_JVA Danielle
Darrieu 「Le
temps du muguet」 https://www.youtube.com/watch?v=-QXIFJQGqao 2.「A Paris」について 1946年歌手としてrive gaucheのキャバレーでギターの弾き語りをしていたLemarqueはMontmartreのLe
Club des CinqにEdith Piafの前座で出演していた当時25歳、人気上昇中のYves Montandのステージを見た。Montandは「Battling Joe」、「Dans les plaines du Far West」などを歌った。Lemarque談「それはショックだった。Montandは私がなりたいと思っていた歌手そのものだった。私は全く意気消沈した。すでに30歳近くになっても頭角を表さないでいる自分は歌手としてよりもシャンソンを書く方が向いているのではと考えた。そして劇場を出る時にはMontandのために曲を作れたらと思うようになっていた」。そして旧知のJacques
PrévertにMontandとの仲介を依頼。Prévertは1946年公開Marcel Carné監督映画「Les portes de la nuit/夜の門」の脚本を担当。この映画で主役を演じたMontandは劇中Prévert作詩、Joseph Kosma作曲の「Les feuilles mortes/枯葉」を口ずさんでいる。LemarqueはMontandに「A Paris」など数曲を示した。Montandは「A Paris」、「Je
vais à pied」、「Ma douce Vallée」、「Bal, petit bal」を選んだ。これがLemaque/Montandのその後の長い協力の第1歩となった。 なお、Fabien Lecœvre著「Dictinnaire、Histoire des chanson de A à Z」によれば:Montandは当初「A Pris」を歌うことに躊躇した。そこでLemarqueはEdith Piafに持って行った。Piafはこの曲を「素晴らしい。きっとヒットするわ」と評価した。しかしPiafは当時Parisを歌った曲でLéo
Ferréの作曲による「Les amants de Paris/パリの恋人たち」をレパートリーに加えたばかりであったこともあり「A Paris」を歌うことはなかった。 Montandは「A Paris」をOdeon社から1948年SPのB面でリリース。Montandには1959年及び1981年に録音したlive版がある。 Montand(不明)https://www.youtube.com/watch?v=bDjrL0Zlkdw Montand(1981年Olympia公演) https://www.youtube.com/watch?v=0do-UYWZKoY LemaqueはPolydor社から1949年SPでリリース。B面「Le tueur affamé」とのカップリング。これはLemarqueの最初のレコード。その後1953年にはEPに「Le petit cordonnier」、「Toi tu ne ressembles à
personne」、「Quand un soldat」と共に収録、1964年には30cmLP「Les grandes chansons」などに収録されている。 「A Paris」は1949年SACEMのPrix
Vincent Scotto(最も優れた「chanson populaire/庶民的シャンソン」に与えられる)を受賞。 「A Paris」は他にPatahcou(1955年)、Colette Renard(1959年)、Josephine Baker(1963年)、Jacqueline François(1970年)、Zaz(2014年)らがレーコーディングしている。また、TV番組などでは多くの歌手が歌っている。 Patachou https://www.youtube.com/watch?v=bwvk233Pnr8 Jacquline François https://www.youtube.com/watch?v=sEZxDEOuCwI Zaz https://www.youtube.com/watch?v=Q-Nt7J8hgp4 Natasha
St Pier (2014年TV番組で) https://www.youtube.com/watch?v=AovBFku2iew |
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今月の顔 2020年9月 Enzo Enzo エンゾ エンゾ 1994年9月5日TVに出演、最大のヒット曲「Juste quelqu’un de bien/ごく普通のいい人」を歌った。
1994年9月5日TV番組「Le
cercle de minuit/真夜中の集い」で https://www.youtube.com/watch?v=PPyZOt0xQr4 歌詞の大意: ・・自分の幻想と向き合い立っている一人の女性、もう何ものも彼女の心を乱すものはない。うち捨てられたという気持ちに捉えられ、憂鬱感に騙される。 彼女は自分の人生で何を記憶にとどめているか。壁の目につくところに飾ってあるニスを塗った綺麗な額の中に、彼女は人生のどんな絵を再び見つけることができるというのか。 テクニカラーの結婚式、パステル画調のカップル。大した努力もせずに月に2、3回はお祭り騒ぎをするのに十分な収入。 彼女はみんなと同じように夢見た、人気スターと「tu」で話す程親しくなることを。しかし彼女の夢は消え去り、今の彼女の望みは・・・ごく普通のいい人であること、ごく普通のいい人で。心は手の届くところにある、ごく普通のいい人であること。大きな運に恵まれなくても、人に愛される女友達であること。ごく普通のいい人であること、ごく普通のいい人で・・・。 私に起こる、エンジン音はすべて切られ、乾燥して不毛な大地の上で、人生が虚空に身を乗り出すような時も。 私は不安を抱えて夜明けに夢想する、太陽は不幸を望んでいるので、私の疑問をいやしてくれる答えはない。 私はパン屋の奥さんに「今日はと」言い、老婦人のためにはドアーを押さえている。母の日には花束を贈り、週末はアムステルダムで過ごす。 あなたがまだもう少し私を愛してくれるように、軽蔑しか期待できない時に、神様が立ち去ってしまう時に、誰が私に言ってくれるだろうか、私は・・・ごく普通のいい人だと、ごく普通のいい人。心は手の届くところにある、ごく普通のいい人だと。、大きな運に恵まれなくても、人に愛される女友達であると。ごく普通のいい人だと、ごく普通のいい人だと・・・。 私は思いたい、すべての男性が立ち止まって、ローマへの道を進むという野望を時にはやめようと考えていると、そして道路の路肩で、非常駐車帯で生きるとことの恐怖を知っていると。 見かけ以上であることを話題にし、疑っている人々のように・・・ごく普通のいい人であること、ごく普通のいい人で。心は手の届くところにある、ごく普通のいい人であること、大きな運に恵まれなくても、人に愛される友達であると。ごく普通のいい人であると、ごく普通のいい人で・・・ 1.Enzo Enzoの略歴 Enzo Enzo、本名Korin Ternovtzeff、1959年8月29日Paris生まれのACI。 父親はロシア系。1970年代終わりから1980年代初めロックトリオ Lili Dropのベーシストとして活動。Lili Dropは「Sur ma mob/私のミニバイクで」などのヒットを持ち、フランスのロックグルーとしてそれなりの評価を得ていたが1981年解散。KorinはEnzo Enzo(フェラーリの創設者 Enzo Ferrariからと言われている)の名で1982年からソロ歌手に転じ、優れた作詞家・作曲家(Kentなど)、アレンジャー(François Bréantなど)に恵まれて活躍。1990年ファーストアルバム「Enzo Enzo/エンゾ エンゾ(邦題)エトランゼの吐息」をリリース。「Les
yeux ouverts/両目を開いて(邦題)夢の中の愛」(「Dream a little dream of
me」にEnzo Enzoがフランス語の詩を付けた)、「Chanson
confidentielle/内密のシャンソン」など12曲を収録、10万枚以上の売上げのヒット。 「Les
yeux ouverts」 https://www.youtube.com/watch?v=7Xgh3aIFpfU 1991年7月Francofolies
de la Rochelleに出演、その後国内、ヨーロッパなどツアー。このツアーの間に来日公演、日本でも人気に。Enzo Enzoはその後「阪神淡路大震災のチャリティーコンサート」を含め7、8回の来日公演を行っているらしい。 「Chanson
confidentielle」1998年8月日本公演で https://www.youtube.com/watch?v=SlQnek8whrU 1994年にはセカンドアルバム「Deux/2」をリリース。これには「Juste quelqu’un de bien」など12曲が収録されていて35万枚以上の売上げ。1995年VdMでは女性歌手賞と「Juste quelqu’un de bien」でオリジナルシャンソン賞を受賞。 1995年Jacques Rivette監督映画「Haut bas fragile/(邦題)パリでかくれんぼ」にクラブ歌手の役で出演。 「Le bal/ダンスパーティー」映画 「Haut bas fragile」から https://www.youtube.com/watch?v=nfRzA3bPt8k 1997年2月24日にはサードアルバム「Oui/ウイ」をリリース。このアルバムは同年4月23日ソニー・ミュージック社から来日記念アルバム「ウイ」として日本でもリリースされ、その際には収録曲にそれぞれ日本語のタイトルが付けられている。アルバムに収録されているのは:「L’amour
est un alcool/(日本語のタイトル)愛は陶酔」、「Les idées bizarres/(同)おかしな考え」、「Dans tes bras/(同)あなたの腕の中で」、「Paris
Bretelle(同)ブルテル」、「Désinvolte/(同)無造作」、「A nos chagrin d’amour/(同)愛の痛み」、「Jeudi/木曜日」 など11曲。 「Les idées
bizarres/おかしな考え」clip officiel https://www.youtube.com/watch?v=i7ofjE6dhKA 1997年には優れた若手作詞家、あるいは作曲家に与えられるSACEMのRaoul Breton賞を受賞。また、1998年のVdM女性歌手賞にノミネートされた(受賞はZazie)。 2000年代に入ってからも定期的にアルバムをリリース、2010年3月には「Têtue/頑固者の女」。これには「Quand j’étais mère/私が母親だった頃」、「La chose la meilleure/最も素晴らしいこと」(Victor Hugoの詩集「Les voix intérieuses/内心の声」に収められていた詩「Puisqu’ici-bas toute âme/この地上ではいかなる魂も」にBertrand Pierreが曲を付けたもので、Pierreとのデュオ)など14曲が収められている。 「La chose la
meilleure」 https://www.youtube.com/watch?v=S2uc7_VA23I 最新アルバムは2011年リリースの「Chanson d’une
maman pour culottes courtes (Chansons d’une maman vol 2)/小学生のための一人の母のシャンソン(一人の母のシャンソン vol 2)」。これには「Le soleil et
la lune/太陽と月」、「Salade
de fruits/フルーツサラダの歌」、「Dans les plaines du Far West/西部の草原で」、「Clopin- Clopant/クロパン・クロパン」、「J’ai deux amours/二人の恋人」など過去のヒット曲のカバー12曲収録。 「Salade de fruits」 https://www.youtube.com/watch?v=4palnv2dAHI Enzo Enzoは2014年1月16日Paris、Bois de BoulogneにあるThéâtre du
Jardin d’Acclimatationで女流詩人Marie Nimier(1957-)の詩を朗読し、またNimierの詩にArt Mengo、Daniel Lavoieら曲を付けたシャンソンを歌うコンサートを開催。その後同様のコンサート「Enzo Enzo chante Matie Nimier」をParis、Les Trois Baudetsなどフランス国内各地で行った。 「Enzo Enzo
chante Matie Nimier」 https://www.youtube.com/watch?v=NDD9anSS488 2018年からはLaurent
Viel(生年不詳― 俳優・歌手)及びThierry Garcia(生年不詳― ギタリスト・アレンジャー)と組んで音楽スペクタクル「Chacun sa
famille/誰にも家族がある」(Pascal Mathieu詩/Romain Didier曲)をフランス国内各地で上演。「Chacun
sa famille」2018年7月にはAvignonのフェスティヴァルで上演された。 「Chacun
sa famille」 https://www.youtube.com/watch?v=u7d7zckr0HI 2.「Juste
quelqu’un de bien」について 友情から名曲が生まれることがある。この曲はEnzo EnzoとKentとの友情から生まれた。Kent、本名Herve
Despesse、は1957年3月31日Lyon郊外生まれのACI、小説家、劇画作家。1977年ロックグループStarshooterを結成、ヴォーカルとして活躍。Enzo Enzoが属していたLili Dropとフランス国内のロックのクラブで共演する場面もあった。その後Kentは1981年からソロ活動、自ら歌うばかりでなく多くの歌手に曲を提供。Enzo
Enzoも1982年からソロ歌手になった。1994年Enzo Enzoは2枚目のアルバムを計画していた。彼女は旧知の仲であったKentに曲を書いてくれるように依頼した。Kentは昔から知っている女性のポートレートを描くように「Juste quelqu’un de bien」を作詞作曲した。そしてアレンジはFrançois
Bréantに依頼。数ヶ月して、この曲がアルバムのリリースに先行してシングルカットされることになった。その際この曲の尺が長いことが問題になった。Kent 談 「短縮して良いかと相談されOKした。短縮された曲を聞いた時、素晴らしい出来で、どこをどう短縮したのか解らなかった。正に『4分20秒の至極の時』だった」。「Juste quelqu’un de bien」は「Mes Malles/私のトランク」とのカップリングで1994年9月シングルリリースされ、その後1994年10月21日にリリースされたEnzo Enzoの2枚目のアルバム「Deux」に、「Les naufrages volontaires/故意の難破」、「La moitié
d’une pomme/リンゴ半分」、「Une chanson à la Cole/コールへのシャンソン」(Cole Porterへのオマージュ)、「Les idées floues/曖昧な考え」、「Le poison/毒」など他の11曲と共に収録された。 Enzo Enzoは1994年9月5日TVFrance 2の「Le cercle de minuit」に出演、「Juste quelqu’un de bien」を歌った。 「Juste quelqu’un
de bien」は1995年2月13日第10回VdM(会場はPalais des
Congrès de Paris)でオリジナルシャンソン賞を受賞。Enzo EnzoはこのVdMで女性歌手賞も受賞している(他の候補者はLiane FolyとVéronique Sanson)。 オリジナルシャンソン賞受賞の模様: https://www.youtube.com/watch?v=z5HHzup5wLM (説明)司会者は画面右から Michel Drucker、Alain Souchon 及びNagui。 Enzo
EnzoとKentが登場し、それぞれ受賞の挨拶。その後Enzo EnzoとKentはデュオで「Juste quelqu’un de bien」を歌った。 Enzo Enzoは2011年8月TVFrance 2の番組「Les années bonheur」に出演、「Juste quelqu’un de bien」を歌った。 「Juste
quelqu’un de bien」 2011年8月 https://www.youtube.com/watch?v=C4vtmWwsxmE Enzo Enzoは2015年「Juste quelqu’un
de bien」がVdMでオリジナルシャンソン賞受賞してから20年になるのを記念してZazとデュオでこの曲を歌った。 「Juste
quelqu’un de bien」 2015年 Zazと https://vimeo.com/149980885 なお「Juste quelqu’un de bien」は作詞作曲者であるKentも歌っている。 「Juste
quelqu’un de bien」 Kent 2017年 Paris、Café de la Danseで https://www.youtube.com/watch?v=PZ5KOdvDE7o |
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今月の顔 2020年8月 Août 2020 1960年8月、Melina Mercouri とダリダが歌った「「Ta paidia tou Peiraia/Les enfants du Pirée/ピレウスっ子たち: 1.Melina Mercouriの「Ta paidia tou Peiraia」 ギリシャ語のローマ字表示のタイトルでは「Ta paidia tou Peiraia」(あるいは「Ta pedia tou Pirea」)、フランス語のタイトル「Les enfants du Pirée」はギリシャ映画「Pote tin Kyriaki」(フランス語では「Jamais le dimanche」、英語では「Never on Sunday」、邦題は「日曜はだめよ」)のテーマ音楽。映画「Pote tin Kyriaki」はJules
Dassin脚本・監督・主演、Melina Mercouri主演、ギリシャの港町ピレウス(フランス語ではLe Pirée)を訪れたアメリカ人のギリシャ研究者Homer(Jules Dassin)と同地の娼婦Ilia(Melina Mercouri)との物語。映画のフランス公開は1960年5月25日。日本公開は1961年5月3日。テーマ音楽はManos Hadjidakisの作曲。1961年Oscarの歌曲賞(Academy Award for Best Original
Song)受賞。この年のOscarでこの映画は他に主演女優賞、衣裳デザイン賞、白黒作品賞、監督賞、脚本賞にノミネートされた。Mercouriは1960年のCannes映画祭では主演女優賞Prix d’interprétation féminineを受賞している。 このテーマ曲は映画「Pote tin Kyriaki」を通して主にブズーキ(ギリシャの民族楽器)の演奏で流されている。また、映画の一場面ではMercouriはレコードから流れるブズーキのリズムに合わせてHadjidakisの歌詞によるこの曲を歌っている。 https://www.youtube.com/watch?v=28EAWlOXrYs 歌詞の大意(原詩のフランス語訳から):私は窓から送る、一つ、二つ、三つ、四つのキスを、港に着いた、一羽、二羽、三羽、四羽の鳥たちに。私は一人、二人、三人、四人の子供が欲しい、彼らが大きくなったらピレウスの勇敢な男たちになるように。 どこを探してもピレウスほど私を熱狂させる港はない。夕べには歌が溢れ、ピレウスっ子で一杯になると歌の調子が変わる。 夜私は一歩家から出る、出会う人は誰でも大好き、眠る時には彼のことを夢見る。 私はネックレスを付け、お守りを付け、夜のなると港に行き、見知らぬ男を待つ。どこを探してもピレウスほど私を熱狂させる港はない、夕べには歌が溢れ、ピレウスっ子で一杯になると歌の調子が変わる・・ フランスでは1960年8月オリジナルサウントトラックEP「Jamais le dimanche」がリリースされている。これにはMercouriが映画の中で歌った「Ta paidia tou Peiraia」、同曲のインストロメンタルなど4曲が収録されている。 「Ta
paidia tou Peiraia」はその後、各国語で詩が付けられ、Dalida、Lala Andersen、Andy Williams、Connie Francisなど多くの歌手に歌われ、映画が好評であったことと相俟って、1960年代初頭を代表する世界的なヒット曲になった。 但しHadjidakisは自身の原詩が全く変えられ、ただ単にギリシャの観光地めぐりをするような歌詞もあることにひどく怒り、Oscarをゴミ箱に投げ捨てたこともあったという逸話も残っている。 ・Melina Mercouriの略歴; Mercouriは1920年10月18日ギリシャ、アテネに生まれ、1994年3月6日アメリカNYで死去した、女優、歌手、政治家。1966年アメリカ人映画監督Jules Dassin(1911-2008)と結婚、「Les Champs Elysées/オーシャンゼリゼ」などのヒットを持つJoe
Dassin(1938-1980)及び作家・作詞家Richelle Dassin(1940-)の継母。 舞台女優として活躍後、1955年「Stella」で映画女優としてギリシャでデビュー。その後「Celui qui doit
mourir/宿命」(1957年、仏・伊合作映画、以下映画のタイトルはフランス語によるものと邦題)、「La
loi/掟」(1958年、仏・伊)、「Jamais le dimanche/日曜はだめよ」(1960年 ギリシャ)、「Phaerdra/死んでもいい」(1962年、仏・米・ギリシャ合作)、「Topkapi/トプカピ」(1964年 米)、「Les pianos mécaniques/太陽が目にしみる」(1965年、仏・伊・西合作 岸恵子と共演)、「Cris de femmes/女の叫び」(1978年 ギリシャ)などに出演、国際的な女優として活躍。 Mouscouriはギリシャの軍事政権(1967―1974)に抵抗、同政権下では一時国籍を剥奪され、1967年フランスに亡命、1974年帰国。1981年から1989年まで社会党のAndreas Papandreou内閣で文化大臣を務めた。 歌手としては、フランス語で歌った曲には、「Je suis Grecque/私はギリシャ女性」(Richelle Dassin
& Pierre Delannë作詩/Joe
Dassin作曲)、「Le Portugais/ポルトガル人」(dido)、「Athènes, ma
ville/アテネ、我が町」(Richelle Dassin作詞/Vangelis作曲)、「Attendre, attendre/待つこと、待つこと」(原曲はギリシャのヒット曲、フランス語の詩Claude Lemesle/Mikis Theodorakis作曲)、「Les bateaux de Samos/サモス島の船」(Maurice Fanon作詞/Yani Spanos作曲)などがある。 「Je suis Greque」 https://www.youtube.com/watch?v=82jjXZkfbB0 「Athènes, ma ville」https://www.youtube.com/watch?v=IhJ70aMPEik 「Les bateaux de Samos」 https://www.youtube.com/watch?v=-8UmK_m5rU4 2.Dalidaの「Les enfants du Pirée」 Dalida (エジプト、カイロ 1933.1.17― Paris 1987.5.3 歌手、両親はイタリア出身)は「Ta paidia tou Peiraia」にJacques Larueがフランス語の詩を付けた「Les enfants du Pirée」を歌い、1960年6月リリースのEPに収録した。このEPには映画「Pote tin Kyriaki」の中から「Hassapico
nostalgique」のLarueのフランス語による詩「Le bonheur」など3曲も収録されている。Jacques Larue(1906-1961 作詞家)は「Les bleuets d’azur/空色の矢車菊」(Marcel Amont、Lucienne Delyleらのヒット曲)、「Cerisiers roses et
pommiere blancs/バラ色のサクランボの木と白いリンゴの木」(André Claveauらのヒット曲)などの作詩をしているほか、映画「Limelight」の主題歌にフランス語の詩を付けた「Deux petits chaussons/小さな2つのトウシューズ」などで知られていて、Dalidaにはイタリアの曲「Guaglione」にフランス語に詩を付けた「Bambino」(1956年)、同じく「Piove」にフランス語の詩を付けた「Ciao ciao bambina」(1959年)などを提供している。Dalidaの「Les enfants du Pirée」はフランスでチャート1位に。Dalidaは「Ta paidia tou Peiraia」をフランス語の他に、英語(「Never on
sunday」)、ドイツ語(「Das Madchen von
Piraus」)、スペイン語(「Los niños del Pireo」)、イタリア語(「I ragazzi del Pireo」)でも歌っていて、それぞれ国でも好評であった。楽曲「Les enfants du Pirée」は同年リリースのDalida7枚目のLP「Les enfants du Pirée」に「T’aimer follement/狂おしいほどあなたが好き」、「Dans les
rues de Bahia/バイアの通りで」、「Romantica/ロマンティカ」などと共に収録されている。 「Les enfants du Pirée」Dalida 1960年6月https://www.youtube.com/watch?v=-kLUA5lrKY8 Jacques Larueによるフランス語の歌詞の大意: ・・ギリシャの青い空のに紛れ、一艘の、二艘の、三艘の船が港を出て行く、歌いながら。一羽、二羽、三羽の小鳥が嘴で空をひっかきながら上天気をもたらしてくれる。通りでは一つ、二つ、三つの雨戸が突然の風でばたんと閉まる。一人の、二人の、三人の子供が輪になって踊っている。 ああ、私は世界のこの一角にある、太陽が燦々と降りそそぐこの港がどれほど好きなことか、ああ、私は、オレンジ色の帽子を被った、天使のような顔立ちのピレウスっ子たちがどんなに好きなことか。 私はいつかあそこで遊んでいるような子供を一人、二人、三人欲しい。波止場に沿って一人の、二人の、三人のアヴァンテュール好きな水夫がぶらついている。私たちは一つの愛から、一つの、二つの、何千もの愛を作り出すだろう。私たちの子供たちはいつか女の子たちから幸福を与えられる男の子になるだろう。 ああ、私は世界のこの一角にある、太陽が燦々と降りそそぐこの港がどれほど好きなことか、ああ、私はオレンジ色の帽子を被った、天使のような顔立ちのピレウスっ子たちがどんなに好きなことか・・ 3.その他の歌手による「Ta
paidia tou Peiraia」または「Les
enfants du Pirée」 Dalidaの他にもフランスで活躍した、活躍している歌手がこの曲を歌っている。その中には: Nana Moucouri (ギリシャ、クレタ島 1934- 歌手) 「Ta paidia tou Peiraia」1978年 Les Athéniensと https://www.youtube.com/watch?v=cf_Zf3Roz_c Georges Moustaki (エジプト、アレキサンドリア 1934- Nice 2013 ACI、両親はギリシャCorfou島出身) 「Ta paidia tou Peiraia」1960年Eddie Salemの名で https://www.youtube.com/watch?v=1BrPxaZfr7Q Luis Mariano (スペイン、イルン 1914- Paris 1970 テノール歌手) 「Les enfants du Pirée」1960年 https://www.youtube.com/watch?v=zxiUs3BD-EI Gloria Lasso( スペイン、カタロニア 1922- メキシコ、クエルナバカ 2005 歌手) 「Les enfants du Pirée」 1960年 https://www.youtube.com/watch?v=t2jBXs_zJ3M Dominique A (フランス、セーヌ=エ=マルヌ県 、プロヴァン 1968- ACI) |
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今月の顔 2020年7月 juillet2020 ギー・ベアールGuy Béartは1962年7月1日TV番組「Age tendre et tete de bois」に出演「Il n’y a plus
d’après/後には何もない」を歌った。 「Il n’y
a plus d’après」(1960年Guy Béart作詩/作曲) https://www.youtube.com/watch?v=3LKtK02Y3mc 歌詞の大意: ・・いま君はParisのもう一方の端に住んでいて、昔に戻りたいと思う時には、わざわざ長い道のりをやって来る。君は僕に「Bonjour」と言いにやって来る、Four通りの街角に。君は僕を訪ねてやって来るサン・ジェルマン・デ・プレに。 (ルフラン)今はもう「その後」はない、サン・ジェルマン・デ・プレには。明後日はもうないし、午後もない、あるのは今日だけ。僕が君とサン・ジェルマン・デ・プレで再び会う時には、君はもう君ではなくなっているだろうし、僕はもう僕でなくなっているだろう。「昔」はもう存在しない。 君は僕に言う「本当にすべてが変わってしまった」と、通りはすべて君には見知らぬもの、カフェークレームでさえ、君が好きだった味ではなくなっている。それは君が別人になったと言うこと、僕が別人になったと言うこと。僕たちは見知らぬ者どうし、サン・ジェルマン・デ・プレでは。 (ルフラン)もう「その後」はない、サン・ジェルマン・デ・プレには。明後日はないし、午後もない、あるのは今日だけ。僕が君とサン・ジェルマン・デ・プレで再び会う時には、君はもう君ではなくなっているだろうし、僕は僕でなくなっているだろう。過去はもう存在しない。 その日その日を生きる中で、ちょっとした愛でさえも、この界隈では、永遠に続くかと思えた。しかし夜ごと夜ごとを過ごすうちに、それは束の間の内に終わってしまった。これが永遠というもの、サン・ジェルマン・デ・プレの。 (ルフラン)もうその後はない、サン・ジェルマン・デ・プレには。明後日はないし、午後もない、あるのは今日だけ。僕が君とサン・ジェルマン・デ・プレで再び会う時、君はもう君ではなくなっているだろう、僕は僕でなくなっているだろう。過去はもう存在しない・・ 1.Guy Béartの略歴 Jacques Brel、Georges Brassensに次いででシャンソンフランセーズ3Bの一人とも言われ、250曲以上を作詩/作曲、20枚以上のアルバムをリリースしたGuy Béart は、1930年7月16日 父親の任地、エジプト、カイロ生まれのACI。 公認会計士であった父の都合でユーロッパ、地中海沿岸各国、メキシコを転々と、10歳から17歳までレバノンに。17歳でパリに、幹部土木技師養成機関であるL'Ecole nationale des ponts et chaussées(国立土木学校)を卒業し、当時の最先端技術であったコンクリートの専門家に。ナンシー近郊の橋梁建設の責任者も務めた。子供の頃から音楽に興味を持ち、マンドリン、ヴァイオリン、ギターなどを習い、土木工学を勉強の傍ら音楽学校にも通った。両親の没後の50年代半ばから「Sainrapt et Brice」社の研究所で働きながら左岸のキャバレ「La Colombe」、「Le Port du Salut」、「Michel Valette」などで歌う。 ・1957年には技師の職を捨てる。Jacques Canettiに認められ、「Trois Baudets」に出演 ・1957年Canettiの支援を得て最初のLP『Guy Béart 1』:「Qu’on est si bien/なんて良い気分」、「Bal chez Temporel/タンポレル軒の舞踏会」(André Hardellet詩に曲を付けた)、「Il y a plus d'un an/もう1年も前のこと」、「Laura/ローラ」など10曲。レコードジャケットの裏面にはPierre Marc OrlanとGeorges Brassensの推薦文が印刷されている LPは1958年ACC大賞を受賞 ・1958年François Villiers監督の映画「L'eau vive/河は呼んでいる」の同名の主題歌を作詞作曲し歌う 「L’eau vive」 https://www.youtube.com/watch?v=NkV8JQKSvdA ・1958年LP『Guy Béart 2』:「L’eau vive」、「Poste restante/局留め便」など10曲 ・1959年4月16日=5月11日Olympiaに初出演、Caterina Valenteと共演。Béartは歌の途中で歌詞を失念したが、観客の方が覚えていてBéartを助けた場面もあったという逸話が残っている ・1960年François Villiers監督の映画「Pierrot-la-Tendresse/やさしい男ピエロ」の音楽を担当 ・1960年LP『Guy Béart 3』:Battez-les/彼らを打て」、「Printemps sans amour/愛のない春」、「Il n’y a plus d’après」など10曲 1960年代に入るとアメリカからrock’n’roll、Twistなど新しいリズムが入ってきたこと、Gainsbourg、Bécaud、Aznavourらに押されて人気は低迷。 ・1963年芸能人を招くTV番組「Bienvenue chez Guy Béart/ギー・ベアール家へようこそ」を手がける。番組は70年まで続いた。この間Duke Elington、Simon et Garfunkel、Yves Montand らもゲストに招く ・1965年LP『Les grands principes/建て前』:「dito」、「Qui suis-je/私は誰」、「Les souliers/靴」、「La dame au petit chien/子犬を連れた婦人」など12曲 ・1966年古いシャンソンを集めたアルバム『Les très vieilles chansons de France』:「Vive la rose/バラに乾杯」、「Aux marches du palais/お城の階段で」、「Le pont de Nantes/ナントの橋」、「Brave marin/勇敢な水夫」など12曲 ・1968年LP『La verité/真実』:「dito」、「Tout comme avant/すべて前のように」など10曲 「La verité」https://www.youtube.com/watch?v=dJxMvJEbUPA その後ガンのためステージ活動休止、1971年から84年まで8枚のアルバムリリース。 ・1982年4月François Mitterrand大統領訪日の際、大統領とともに来日。この来日の際次のような逸話が知られている。 当時の文化大臣Jack Lang及びシャンソンジャーナリストFabian Lecœurによれば、宮中晩餐会の答礼としてフランス大使公邸で開催された大統領主催晩餐会には昭和天皇も出席された。晩餐会終了後のくつろいだ時間に Béartがギターを弾きながら日本語で歌い出した。そして一同に一緒に歌うことを要請。天皇も大統領も一緒に口ずさまれた。 その曲についてLangは「当時日本でも流行っていた曲」、Lecœurは「L’eau vive」だとしている。なお、「Le temps des cerises/桜んぼの実る頃」との資料も。 ・1986年アルバム『Demain je recommence/明日また始めるぞ』:「dito」、「Les mots/言葉」など10曲 「Demain je recommence」 https://www.youtube.com/watch?v=qP_Ac6Wf5ng ・1987年SACEMの「Grand Prix de la chanson française」受賞 ・1994年Académie Francçaiseから「Grande médaille de la chanson française」を授与される ・1996年アルバム「Il est temps/今はその時」:「dito」、「Disparaître/消え去る」など」12曲 ・1996年2月20~25日Olympiaに出演。1999年そのliveアルバム『Béart en public』、2枚組CD 36曲収録 ・2010年15年振りで最後のアルバム『Le meilleur des choses/最良のもの』: 「dito」、「Amour passant/行きずりの恋」、「Les amours tranquilles/静かな恋」、「Ça qu’est bien/それは素晴らしい」など「13曲 「Le meilleur des choses」 https://www.youtube.com/watch?v=0Y-OgKQJBIk ・2015年1月17日Olympia公演。最後のステージ、4時間で、ゲストとのデュオを含め60曲を歌う 「Il n’y a plus d’après」Emmanuelleと https://www.youtube.com/watch?v=DnqAr5NONPw ・2015年9月16日Paris 郊外Hauts-de-Seine県Gatchesで死去。享年85歳。同地の墓地に埋葬された。 ・2020年オマージュアルバムCD2枚組み『De Béart à Béarts』:Vianney「Il n’y a plus d’après」、Tohamas Dutronc&Emmanuelle Béart 「Qu’on est bien」、Vincent Delerm「Bal chez Temporel」、Rapfaël「Poste restante」など20曲 なお、1963年8月に生まれた女児Emmanuelleは女優。 2.「Il n’y a plus d’après」について Beart死去の報に接したJuliette Grécoの回想によると・・彼のことは若い頃からよく知っている。Canettiの企画によるツアーによく一緒した。彼は社交的ではなく、孤独好きな人物で、感情を表に出すことはなかった。1960年のある日彼から電話があって、私のために曲を作ったと言った。「Il n’y a plus d’après」だった。我が家にやってきて歌ってくれ、私に歌うようにといってくれた。素晴らしい贈り物だった私はとても嬉しかった。この曲を一度彼とデュオで歌ったことがある・・ Béartの初期の曲は他の歌手からの評価が高く、多くの歌手によって歌われた。例えばPatsachouは1957年EP「Patachou chante Guy Béart」に「Bal Chez Temporel」、「Poste restante」などを収録。Zizi Jeanmaireは1957年EP「Charmants Garçons」に「Qu’on est bien」を収録、Juliette Grécoは1958年EP「Juliette Gréco chante Guy Béart」に「Qu’on est
bien」などを収録、Simone Langloisは1960年SP「Simone Langois」に「Printemps
sans amour」を収録している。 「Il n’y a plus d’après」についても同様で、Béartは1960年リリースのLP「Béart 3」に、Grécoは1960年SP「Juliette
Gréco」に、Yves Montandは1961年LP「Rengaine et rengaine」に、さらに、Anthony Perkinsは1962年EP「Anthony Perkins chante en français」に収録している。その後もGeorges Chelon(1967年)、Annabel Buffet(1968年)、Hugues Aufray(1996年)、Nilda Fernandez(1999年)、Claire Elzière(2008年)、Joyeux Urbains(2011年)、Vianney(2020年)らが歌っている。「Il n’y a plus
d’après」は発表されるやいなやBéart個人のものではなくなり、多くの歌手の共通の財産になった。 「Il n’y a plus d’après」1960年Juliette Gréco https://www.youtube.com/watch?v=GX8XojZg6Hs 「Il n’y a plus d’après」1972年Juliette Gréco & Guy Béart https://www.youtube.com/watch?v=1sUkTIsWI2c 「Il n’y a plus d’après」Yves Montand https://www.youtube.com/watch?v=RgUZdS06FPk 「Il n’y a plus d’après」Anthony Perkins https://www.youtube.com/watch?v=XQ8qSZnTcjw 「Il n’y a plus d’après」Geores Chelon https://www.youtube.com/watch?v=bZBCQ6lGiRA 「Il n’y a plus d’après」Patrick Bruel & Emmanuelle Béart 2013年 https://www.youtube.com/watch?v=8PX-9phJ3NM 「Il n’y a plus d’après」Hugues Aufray https://www.youtube.com/watch?v=YLhSBSe4zhk 「Il n’y a plus d’après」Vianney https://www.youtube.com/watch?v=peXx6HeF5T4 |
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今月の顔 2020年6月 グレゴワール Grégoire インターネットが生んだ最初のビックアーティストと言われる 「Toi + moi」( 作詩/作曲 Grégoire 2008年) https://www.youtube.com/watch?v=BEI-zGX0gTk (2010年3月VdMで) 歌詞の大意: 君プラス僕、プラス彼ら、プラス望んでいる人すべて、プラス彼、プラス彼女、そして一人きりの人すべて、さあ、ここに来て、ダンスに加わって、さあ、ここに来て、気楽にやろう。 二人でも、千人でも、できると思う、すべてが可能、すべて実現できる。僕たちの夢(rêves)よりもっと高いところに逃げることもできるし、砂浜(grèves)よりもっと遠くに旅立つこともできる。 君プラス僕、プラス彼ら、プラス望んでいる人すべて、プラス彼、プラス彼女、そして一人きりの人すべて、さあ、ここに来て、ダンスに加わって、さあ、ここに来て、今日は僕たちにとって幸運の日。 希望と、力と、勇気があれば、寒さや、恐れは幻想に過ぎない。不幸なことは放って置いて、さあ、僕と一緒にまた始めよう。君プラス僕、プラス彼ら、プラス望んでいる人すべて、プラス彼、プラス彼女、そして一人きりの人すべて、さあ、ここに来て、ダンスに加わって、さあ、ここに来て、気楽にやろう。 分かっている、確かに僕のシャンソンは世間知らずで、そればかりか少し愚かでもある、でも害はない。僕のシャンソンが世界を変えることはできないが、皆さんを輪の中に入るように招いている。 君プラス僕、プラス彼ら、プラス望んでいる人すべて、プラス彼、プラス彼女、そして一人きりの人すべて、さあ、ここに来て、ダンスに加わって、さあ、ここに来て、今日は僕たちにとって幸運の日。希望、情熱、君に必要なものはすべて持つがいい、僕の腕、僕の心、僕の肩、僕の背中を。僕は君の瞳の中に星を見たい、僕は僕たちが自由で幸福であると感じたい。君プラス僕、プラス彼ら、プラス望んでいる人すべて、プラス彼、プラス彼女、そして一人きりの人すべて、さあ、ここに来て、ダンスに加わって、さあ、ここに来て、気楽にやろう。 MMC(My Major Company)とは? 2007年6月にJean-Jacques Goldmanの長男Michaelらがアーティストのデビューを援助するために設立。登録されたアーティストにつき、インターネットにクリップなどをupして出資者を募集し、ある一定の金額(70,000ユーロ、この金額についてはその後10万ユーロになったという情報もある)に達したら、そのアーティストのアルバム製作やプロモーションを行い、売上げの一定割合(40%)を出資額に応じ出資者に配当する。歌手には20%。 MMCはすでに、Gregoireの他、Joyce
Jonathan、Irma、Alan Théo、Baptiste Giabiconiら30人ほどを世に出している。 Grégoire略歴&ヒット曲 ・Grégoire、本名Grégoire Boissenot、1979年4月3日Senlis(Picardie地方 Oise県)生まれのACI。幼少の頃からLes Beatles、Jean-Jacques Goldmanらに憧れ歌手を志す。学業が終わってから種々の職業に就いた。あるレコード会社に勤務している際、MMC(注)の幹部と知り合い、2007年12月20日自作の「Toi
+ moi」デモテープを以てMMCに登録。347人の出資者を得て、MMC最初の歌手として2008年6月30日シングル 「Toi + moi」をリリース。この曲も収録したファーストアルバム「Toi+Moi/君プラス僕」を2008年12月リリース。2010年2月Paris Olympiaに初出演。2010年3月のVdMでは新人歌手賞にノミネートされた。(受賞はPony pony run run) 2010年11月2枚目のアルバム「Le même
soleil/同じ太陽」をリリース。アルバムには11曲収録、その中の「Soleil/太陽」のクリップは、最初別の方向を向いていた人々が最後には同じ方向を向くという内容で、感動的であるという評価を得た。 「Soleil」 https://www.youtube.com/watch?v=p1bY3lU4jj8 歌詞の大意・・我々はみな、国旗、肌の色、言語、文化は同じではない。ルーツも違うし、熱を上げるアイドルも違う、でも我々はみな生きている。血の色はみな同じ。習慣、衣裳、歴史も違う、しかしそれらが混じり合って物語を作ってきた。親は違っても、我々はみな子供、みな混血から生まれた、賢く生まれたのに、愚かになってしまったか。我々はみな同じ太陽、同じ月を持っている。我々はみな差し伸べようとする手を持っている、なのにこれ以上何を期待するのか・・ Grégoireは2013年4月Natasha St-Pier、Anggunらがリリースしたアルバム「Thérèse,Vivre d'amour/テレーズ、愛に生きる」ではLisieuxの聖女テレーズSainte Thérèse de Lisieux(1873-97)の詩に曲を付けている。 2013年9月自身3枚目のアルバム「Les roses
de mon silence/僕の沈黙のバラたち」をリリース、17曲収録。先行シングルカットされた「Les
roses de mon silence」が好評だった。 「Les roses de mon silence」 https://www.youtube.com/watch?v=6-PAt-Nqp-I 歌詞の大意・・君に僕の思っていることを全て伝える言葉を見つけることはとても難しい。僕はRimbaudではないし、雄弁にはほど遠い。僕の気持ちを告白するために、美辞麗句を並べる術を知らない。でも、ここにある・・・僕の沈黙のすべてのバラが、二分音符で書かれた僕の詩の全てが、僕の忍耐という素晴らしい花束が・・・ 2015年3月Jean Ferratオマージュアルバム「Des airs de liberté/自由の歌たち」には「Tu aurais pu
vivre/あなたは生きることができただろうに」で参加している。 2015年5月11日にリリースしたアルバム「Poésie de notre enfance/僕等の子供時代の詩情」には学校で習う詩人の詩にGrégoireが曲を付けた21曲収録。Jean de la Fontaineの「La cigale et la fourmi/蝉と蟻」、「Le corbeau et
le renard/カラスと狐」、「La grenouiile qui veut se faire aussi
grosse que le bœuf/牛と同じくらい大きくなりたかった蛙」、「Le laboureur et
ses enfants/農夫とその子供たち」、「Le lièvre et la tortue/ウサギとカメ」、「Le lion et le rat/ライオンとネズミ」など。 2017年11月にはアルバム「A écoter d’urgence/直ちに聞くべし」を、2018年アルバム「Expériences/経験」をリリースしているが、それまでのアルバムほどの評価は得られなかったよう。 2020年3月22日confinement生活中の人々に捧げる「Dans quelque temps ça ira mieux,lalala/しばらくすればうまく行くだろう、ラララ」を発表。confinement中のファンがGrégoireに合わせてこの曲を歌っている映像を3月27日アップしている。 https://www.youtube.com/watch?v=DFrH_ZIwui8 「Toi + moi」 誕生追記 若い頃からACIを目指していたGrégoireは早くから曲作りをしていた。MMCの幹部に出会った際、作詞作曲したばかりの「Toi + moi」のデモテープを提出した。少し前にpatinette/片足スクーターに乗っていた少女と知り合って作ったもの。この少女との仲はlove storyには発展しなかったが、彼には「Toi + moi」という素晴らしい曲を与えてくれた。2007年12月20日MMCはこの曲などをインターネットにup。Grégoireは2008年2月15日347人の出資(一人10ユーロから6,000ユーロ)を得、出資額は70,000ユーロに達した。その結果アルバム制作が企画された。そしてアルバムのリリースに先行してシングル「Toi + moi」が2008年6月30日リリースされた。夏になると軽快なこの曲はRTL、NRJなどの放送局を中心に頻繁に流された。Grégoireと共に出資者のうち60人ほどが出演しているofficiel clipも好評で、2008年8月27日の週にはシングルチャート1位になった。 clip oficiel https://www.youtube.com/watch?v=kOru9ITtVIg 2008年11月22日には「Toi + moi」の他に「Ta main/君の手」、「Nuages/雲」、「Rue des étoiles/星たちの通り」など12曲を収録したアルバム「Toi + moi」をリリース。アルバムは2009年には2週間アルバムチャートの1位になり、また2年間30位以内に留まり、都合120万枚の売り上げでdisque de diamantに。 その結果Grégoireへの出資者には出資額の約20倍の配当があったと言われている。 |
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今月の顔 2020年5月 Mai 2020年 マリー・ミリアム Marie Myriam 「L’oiseau et l’enfant/小鳥と子供」(1977 Joe Gracy作詩/Jean-Paul Cara作曲) 1977年Eurovisionでhttps://www.youtube.com/watch?v=Pa5ASp_EA-0 歌詞の大意: ・・遠くを渡っていく鳥たちを見ている輝く瞳をした少年のように、上空を飛ぶ青い鳥のように、世界がどんなに美しいか見てみよう、世界は美しい。 波間で踊っている船は美しい、人生に、愛に、風に酔いしれて。 波から生まれ、白い砂浜にうち捨てられたシャンソンは美しい。 真っ白な無垢な心の詩人の血は、歌いながら愛を作り出す、人生が晴れ着を着るようにと、夜が昼になるようにと。 人生のある日、夜が明ける、朝になり夢が徐々に消え去る時、街を目覚めさせるために、我々に愛の世界を提供するために。 愛それはあなた、愛それは私、小鳥それはあなた、子供それは私。 私は日陰の女の子だけれど、夕べの星が輝くのを見ている。あなたは私の星、私の黒い太陽に明かりを付けてくれる。 子供の心を持っている人々には愛の国には国境はない。遠くを渡っていく鳥たちを見ている輝く瞳をした少年のように、地上の上空を飛ぶ青い鳥のように、私たちはこの愛の世界を見つけるだろう。 愛はあなた、愛は私、小鳥はあなた、子供は私・・ 1.Marie Myriamの略歴 Marie Myriam(本名Myriam Lopes Elmosnino)は1957年5月8日当時のベルギー領Congo(現在République démocratique du Congo)のLuluabourg生まれの歌手。両親はポルトガル出身。一家は1963年Parisに。両親は10区のrue Planchatにレストラン「Le Ribatejo」(ポルトガルの一地方から)を開店。そこでは毎夜fadoの歌手とMyriamが出演していた。1976年のある夜ポルトガル料理を食したいと「Le
Ribatejo」を訪れたJean-Paul Cara(1948-ACI)はその夜Jacques Brelの「Ne me quite pas/行かないで」を歌ったMyriam Lopezの声に魅了された。そして早速歌手になることを夢見ていたMyriamのために曲を作ろうと提案。最初の2曲「Ma colombe/私の鳩」と「Rêve d’ailleur/他所での夢」を収録したSPをMyriamの名でリリース。レコードはフランスではそれほど評判にはならなかったが、Québecではかなり好評であった。Myriamは1977年5月イギリスLondresで開催された第22回Eurovisionにフランス代表として出場(その際ステージ名をMarie Myriamとした)、「L’oiseau et l’enfant」を歌って優勝。1981年第12回ヤマハ世界歌謡祭にフランス代表で出場「Sentimentale/恋はセンチメンタル」で入賞。 「Sentmentale」 1991年https://www.youtube.com/watch?v=S1vqguKodTM Myriamのヒット曲としては:「La leçon de Prévert/プレヴェールの教訓」、「Un homme
libre/自由な男」(1979年)、「Les visiteurs de Noël/クリスマスの来訪者」(1979年)、「J’aime quand tu es jaluox/あなたが嫉妬している時が好き」(1981年)、「Le Merveilleux voyage de Nils-Holgersson au pays des oies sauvages/ニルス・ホルガションの不思議な旅、雁の国へ」(1982年)、「La plus belle chanson d’amour/最も美しい愛のシャンソン」(1985年)、「Vivre/生きる」(1985年)、「Tout est pardonné/すべて許される」(1987年)、「Dis-moi les silences/黙ってと言って」(1988年)などが挙げられる。1989年にはCharles Aznavourの求めに応じて「Pour toi Arménie/アルメニアお前のために」に参加。その後両親が創業したレストラン経営に当たるため一時活動を縮小。2002年レストランは「Auberge de Marie」と改名している。1995年「Atouts/切り札」、96年には新曲4曲を収録したcompilation 「Charme/魅力」をリリース再びステージに。1997年から数年間Eurovisionのフランスの審査員・スポークスマンを務めている。2007、8年には「Age tendre et Têtes de
bois」に参加。2008年クリスマスソングのスタンダード13曲を収録した「Tous les anges
chantent/すべての天使が歌う」(「Douce nuit,sainte nuit/清しこの夜」、「Noël blanc/ホワイトクリスマス」、「Joyeux Noël/ハッピークリスマス」など収録) Myriamは2017年デビュー40年を記念してCD2枚組みbestアルバム「40 ans de carrière/40年のキャリア」(40曲集録)をリリースし、また「ファンの皆様にありがとう、さようなら」と言うため自伝「La fille de Ribatejo/Ribatejoの娘」を刊行した。 2.「L’oiseau et l’enfant」について 1977年Jean-Paul Caraはリベンジを誓っていた。1976年の第21回EurovisionではCaraが作詞した「Un, deux, trois」を歌ったCatherine Ferryが惜しくも2位だったから、この年はMyriam Lopezを擁して優勝しようと。楽曲を選ぶに当たってCaraは既に数年前に作曲していた曲を引っ張り出してきて、詩を付けることにした。MontmartreのMartyrs通りを歩いている時一人の少年が渡って行く鳥たちを見つめていた。そのとき最初のフレーズが浮かんだ。「Comme un enfant aux
yeux de lumière,qui voit passer au loin les oiseaux/遠くを渡っていく鳥たちを見ている輝く瞳をした少年のように」。そして続きを旧知のJoe Gracy(1931-2019作詞/作曲家)に依頼し、「L’oiseau et l’enfant」ができあがった。 1977年2月に行われたEurovisionのフランス代表選考会予選にはMyriam Lopezを含め14人の候補が名乗りを上げた。選考会に出場するに際してMyriam LopezはMarie Myriamをステージ名にした。3月6日の決勝戦には6人が出場。TVTF1で中継され 優勝者は視聴者の電話による投票で決められ、Miriamが選ばれた。 第22回EurovisionはMyriamの20歳の誕生日の前日1977年5月7日イギリスLondresのWemley Conference Centerで行われ、18カ国が出場。Myriamは18番目に登場Raymond Donnez指揮のオーケストラの伴奏で「L’oiseau et l’enfant」を歌い136ポイントで優勝。2位は121ポイントのイギリス代表であった。このEurovisionにはMonaco代表でMichèle Torrが出演、「Une petite Française/フランスの少女」を歌い4位であった。Marie Myriam以降フランス代表はEurovisionで優勝していない。Miriam以前には、1958年(André Claveauが「Dors,mon amour/お休み、恋人よ」で)、1960年(Jacqueline
Boyerが「Tom Pilibi」で)、1962年(Isabelle
Aubretが「Un premier amour/初恋」で)、1969年(Frida Boccaraが「Un jour, un enfant」で、この年は同点で4人が優勝)に優勝している。 「L’oiseau et l’enfant」1977年4月4日Polydor社から「On garde toujours/いつまでもとっておく」とのカップリングで、SPでリリースされた。「L’oiseau et l’enfant」はMyriamの優勝直後の5月14日の週から6週間にわたりチャートのトップ。スイスではチャートの2位、ベルギーで6位になり、レコードは100万枚以上売り上げた。この曲は「Ligue française des droit de l’enfant/子供の権利フランス連盟」のテーマ・ソングになった。 Myriamは「L’oiseau et l’enfant」を英語(「The Bird and the
Child」)、ドイツ語(「Der Vogel und das Mädchen/小鳥と少女」)、スペイン語(「El zagal y el ave azul/少年と青い鳥」)、ポルトガル語(「A ave e a infancia/小鳥と子供」)でも歌っている。 「The Bird and the Child」1977年BBCの番組で https://www.youtube.com/watch?v=J1rnn3VZZys 「L’oiseau et l’enfant」はMyriamの最大のヒット曲、Miriamは最近でも種々の機会にこの曲を歌っている。 2011年TV番組でAmaury Vassiliと https://www.youtube.com/watch?v=1wkwJ1pfe-4 2018年TV番組でhttps://www.youtube.com/watch?v=FmTGG1n1prY
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今月の顔 2020年4月 Avril 2020 フランシス・カブレル Francis Cabrel
・「Samedi soir sur la terre」(アルバム「Samedi soir
sur la terre」から 1994年 Francis Cabrel作詩/作曲) https://www.youtube.com/watch?v=aFUwNBs8YO4 歌詞の大意: 彼がやってくる、彼女は彼を見る、彼女は彼が気に入った。後は彼女の目の力がどうにかするだ。彼女は火を付けるため身なりを整える、それから先は昔からの恋物語、タバコの煙も音楽も気にせず、彼女は髪をかき上げ、彼が彼女の気持ちに気付くように願う。 彼は椅子に座る、辺りを見回し、言葉をかけようとする、彼女が少し前に進んだので二人の目が合う、それからはどこのでもある恋物語、彼女は一杯おごられ、彼の微笑みを受け入れる。 詮索する必要はないだろう、彼らがどこから来たのか、彼らが何を話しているかを。それはいつもの恋物語、ある土曜の夜、この地上で起こる。 彼らは語り合う、軽く触れ合う、そしてよく分かっている、外に出ることになるだろうと、音楽が激しくなってきた、その後は車の後部シートで始まるアヴァンテュール。それは繰り返される物語、土曜の夜この地上で・・ 1.Francis
Cabrelの略歴 1953年11月23日フランス西部Aquitaine地方、Lot-et-Garonne県Agen生まれのACI。Toulouse近郊、人口2000人ほどの小村Astaffortで成長し、現在も住み、村会議員を務めたこともあり(1989―2004)、「Gentelman d’Astaffort」と呼ばれている。2500万枚のレコード売上げの人気を誇る個性派歌手 ・13歳の頃からNeil Young,、Leonard Cohen、Bob Dylanの曲に興味を持ち、1966年伯父からギターを贈られ、曲作り、訳詩ながら英語の勉強を。規律違反indisciplineで高校を退校 ・1972年19歳で靴屋の店員をしながらジャズグループ(「Ray Frank et les Jazzmen」、その後全員が髭を付けていたため「Les
Gaulois/ゴール人」と改称)に入り地元のダンスパーティなどで演奏。 ・1974年6月Mariette Darjo(1953年5月生まれ)と結婚。娘2人Aurelie(1986年7月30日生まれ歌手)、Manon(1991年生まれ)、それにヴェトナムからの養女Thiu(2006年生まれ、同年養女に迎える) ・1974年6月Toulouseで行われた放送局Sud Radioのコンクールで(400人が参加)、夫人に捧げた「Petite Marie/可愛いマリー」を歌い優勝。コンクールの審査員のつてでCBSと契約 ・1977年ファーストアルバム『Francis Cabrel』:「Les murs de poussière/埃の壁」、「Petite Marie」、「Ma ville/僕の町」、「Je reviens bientôt/すぐ戻ります」など11曲収録 「Petite
Marie」 https://www.youtube.com/watch?v=VdRDF4s3hos ・1977年Daveの前座で1ヶ月Olympiaに出演 ・1978年SpaのFestivalで観客賞受賞 ・1979年セカンドアルバム『Les chemins de traverse/近道』:「dito」、「Souviens-toi de nous/我々のことを思い出してくれ」、「Je l’aime
à mourir/死ぬほど彼女を愛している」(1979年シングルカットは50万枚以上の売り上げでCabrelの代表曲に、2012年Shakiraが「Lo quiero a morir」のタイトルでカバー、世界的にヒット)など10曲収録 「Je l’aime à mourir」 Cabrel https://www.youtube.com/watch?v=wQW1rnRrPx4 「Lo quiero a morir」 Shakira 一部をフランス語で歌っている
https://www.youtube.com/watch?v=92tkZQB-Uj4 ・1980年5月20日『Fragile/もろい』:「La dame de Haute-Savoie/オート・サヴォワの貴婦人」、「L’encre de tes yeux/君の目に中のインク」など11曲収録、disque de diamantに 「L’encre de tes yeux」https://www.youtube.com/watch?v=iXruXEIM2BA ・1989年2月21日7枚目のアルバム『Sarbacane/吹き矢』:「dito」、「C’est écrit/それは書いてある」、「Rosie/ロジー」(Jackson Browneのカバー、Cabrelの翻案)、「Animal/動物」などを10曲収録、220万枚以上の売り上げ 「Sarbacane」 https://www.youtube.com/watch?v=JIEory57NY0 ・1990年2月第5回VdMで「男性歌手賞」、『Sarbacane』により「シャンソンアルバム賞」及びParis Zénith公演により「スペクタクル賞」を受賞 ・1992年Les Enfoirésに初出演、その後2016年までに15回出演 ・1994年4月8枚目『Samedi soir sur la Terre/土曜の夜に地上で』 ・1995年第1回「Rencontres d’Astaffort/アスタフォ-ルの出会い」(若いACIを養成する講座)を開催。年2回開催 2007年第25回の受講生Stephan Rizon(Agen1987-ACI)は2012年The
voiceの第1回優勝者 ・1998年12人の歌手(男女)によるCabrelのヒットのカバーアルバム『Ils chantent Francis
Cabrel』 ・1999年3 月9枚目『Hors-saison/季節外れ』:「dito 」、「Le monde est sourd/世間は耳が聞こえない」、「Cent ans de plus/更に100年」、「Presque rien/ほとんど何もない」など12曲、200万枚の売り上げ 「Hors-saison」 https://www.youtube.com/watch?v=5t2V3w2gyHI ・2004年5月10枚目『Les beaux dégats/見事な損害』:「dito」、「Bonne nouvelle/良い知らせ」、「Le danseur/ダンサー」、「Télécaster/(エレクトリックギター)テレキャスター」、「Les gens absents/いない人たち」など12曲 「Telecaster」https://www.youtube.com/watch?v=kqDKEvmYFbA ・2005年SACEMのGrand prix de la chanson française 受賞 ・2008年3月11枚目『Des roses et des orties/ばらとイラクサ』:「dito」、「La robe et l’echelle/ドレスと梯子」、「Les cardinaux
en costume/盛装した枢機卿たち」、「Des gens formidables/素晴らしい人々」など13曲 「La robe et l’echelle」https://www.youtube.com/watch?v=aSv3flKGQjY ・2010年12月2日それまでの業績全般に対してAcadémie françaiseのGrande Médaille de la chanson françaiseシャンソンフランセーズ大賞受賞 ・2010年12人の女性歌手によるカバーアルバム「Elles chantent Cabrel」 ・2012年10月リリースの12枚目アルバム『Viseleciel/空を目指せ』(Bob Dylanのヒット曲をCabrelの翻案によりカバーしたもの):「Comme une femme/一人の女性のように」(「Just like a woman」)、「D’en haut de la tour du guet/監視塔の上から」(「All along the wachtower」)、「On ne va null part/どこへも行かない」( 「You ain’gonin’
nowher」)など11曲 ・2014年には2月5日のParis Trianon劇場などで上演された音楽物語「Le Soldat Rose/ピンクの兵士」(その2)の作曲を担当(作詞はPierre-Dominique Burgaud)、また夜警役で出演し、Thomas Dutronc、Nolwenn Leroy、Elodie Frege、Renan
Luceらと共演 ・2014年3月には初のアメリカ公演、NY(19、20 Lycée français)、Los
Angeles(22、23 Raymond Kabaz)、Chicago(26)で ・2015年4月13枚目『In Extremis/最後の瞬間に』:「dito」、「Dur comme fer/鉄のように硬い」、「A chaque amour que nous
ferons/これからの愛ごとに」、「Le Pays d’à côté/隣の国」、「Azincourt/アザンクール」(百年戦争中1415年フランス軍が大敗を喫した戦場となったPas –de-Calais県の町)、「Dans chaque cœur/それぞれの心の中に」、「Partis pour rester/留まるために立ち去った」、「Les tours gratuits/無料ツアー」、「La voix du crooner/クルーナーの声」、「Pas si bêtes/そんなに愚かにならないで」など11曲 「Partis
pour rester」https://www.youtube.com/watch?v=7KBjJt39bdA ・2017年12月8日compilation『L’Essentiel1977-2017』:CD3枚組み50曲収録 ・2020年6月8日から国内(Paris登場の予定なし)、カナダ(6月16日~19日 Quebecなど)、アメリカ(10月23日~30日、NYなど)公演が予定されている。 2.アルバム「Samedi soir sur la terre」について アルバム「Samedi soir sur la terre」は1994年4月6日にリリースされたCabrelの8枚目のスタジオ録音アルバム。前作、1989年2月リリースの「Sarbacane」が200万枚以上の売り上げという大ヒット。自身では「これが絶頂期だろう。ここでやめておいた方が良いのでは」と考えるほど、次作へのプレッシャーを感じていたCabrelであったが、ファンの応援と「一か八かやってみよう」という気持ちからこのアルバムに取りかかった。前作までは3~4年間隔でアルバムを出していたが、今回は5年をかけた。こうしてリリースされたアルバムにはCabrelが1993年5月から12月にかけて作詩/作曲した10曲が収録されていて演奏時間50分。10曲は: ・「La Corrida/闘牛」(Bayonneの闘牛を見物した帰路車中でdictaphoneに録音したという曲。Cabrelの闘牛に反対する意思がテーマ、詩は牛の立場で書かれている) https://www.youtube.com/watch?v=IQ8OmLVn-f8 ・「Assi sur le
rebord du monde/世界の縁に座って」(世界の縁に座った神は自分が人類に与えた地球を人類がどのように管理しているか注視いている。そして不正や混乱が蔓延していることに涙を流している) ・「La cabane du pêcheur/漁師小屋」(この曲のみ作曲でJean-Pierre Buccoloの協力を得た) ・「Samedi soir sur la terre」(演奏時間7分弱。巡り会って愛し合う一組の男女のよくある物語) ・「Je t’aimais, je t’aime, je t’aimerai/お前を愛していた、愛している、愛するだろう」(Cabrelはこのシャンソンで歌われている愛の対象について意図的に曖昧にしている。しかし子供に対するものだろう。長女のAurelieか、次女のManonに対する) https://www.youtube.com/watch?v=85lKsSCZm4k ・「Les vidanges du diable/悪魔の尿」(汚染、戦争、暴力など世の中の堕落に対抗できるのは愛情だけ) ・「L’arbre va tomber/木が倒れそう」(樹齢100年以上の木が人類の進歩という名のもとに枯れて倒れて行く) ・「Octobre」(この秋の素晴らしい月をバラードで美しく歌い上げている) https://www.youtube.com/watch?v=wKycLysZNM0 ・「Le noceur/放蕩者」(放蕩息子が、良い車に乗って女の子を誘う、女の子は「no sir、no sir:noceur」と答える) ・「Tôt ou tard s’en aller/遅かれ早たれ立ち去る」(人は遅かれ早かれ立ち去るもの) アルバムはリリース直後から「Cabrelの最も優れたアルバム」、あるいはそれ以上に「Chanson françaiseの最も優れたアルバム」との評価を得て、リリースの週にアルバムチャートの1位になり、1995年2月11日の週まで(連続ではないが)29週間アルバムチャートのトップを占め、それを含め206週間top50にランクイン、400万枚の売り上げ。これはフランス語で歌われたアルバムの売り上げ枚数の第2位だと言われている。 このアルバムは1995年2月13日第10回VdMシャンソンアルバム賞を受賞。また、このVdMでCabrelは男性歌手賞にノミネートされた(受賞はMC Solaar)。 因みにフランス語で歌われたアルバムの売り上げ枚数上位については、種々の異なる資料があるが、上位3位までについてはどの資料にも異同はなく、次のようになっている。 1位:「D’eux」Celine Dion1995年3月27日リリース 441万5000枚 2位:「Samedi soir
sur la terre」Francis Cabrel 1994年4月6日リリース 400万枚 3位:「Alors
regarde」Patrick Bruel 1989年11月9日リリース 300万枚 |
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今月の顔 2020年3月 Mars 2020 Nino Ferrer ニノ・フェレール Nino
Ferrerは1966年3月24日TV「Palmères des chansons/シャンソン・ヒットパレード」に出演、最初のヒット曲「Mirza/ミルザ」(「Z’avez pas vu Mirza?/ミルザを見ませんでしたか?」のタイトルでも知られている)を歌った。 「Mirza:Z’avez pas vu Mirza?」(1965年 Nono
Ferrer作詩/作曲) https://www.youtube.com/watch?v=u5XwT6fc_Gg 歌詞の大意: ・・Z’avez pas
vu Mirza/ミルザを見ませんでしたか?オー・ラララ。あの犬はどこへ行ってしまったんだ。僕はそこら中探し回る。あの犬のせいで気が狂いそうだ。どこへ行ったんだ、あの犬は。おー、あそこにいた。さあこっちへお出で。もう放しはしない。さあこっちへお出で。困った犬め。また行ってしまった。どこへ行ったんだあの犬は。僕はそこら中探し回る。あの犬のせいで気が狂いそうだ。おー、あそこにいた。これが最後だぞ。さあこっちへお出で。もう同じことは言わないぞ。そこを動くな。オーイエー、やった!Mirza! Nino Ferrerの略歴 Nino Ferrer、本名 Agostino Ferrari、は1934年8月15日イタリアのジェノバ生まれ、1998年8月13日フランスOccitanie県Saint-Cyprien
で死去したACI。父はイタリア人、母はフランス人。父の仕事でNouvelle-Calédonieに居住。47年から一家はParisに。民族学と考古学を学んだ後「Musée de l'Homme/人類博物館」に入りオセアニアの考古学調査にも従事したことも。その後ニューオルリンズジャズに興味を持ち、友人とバンドを組み、Saint-German-des-Présの地下酒場でバンジョーやギターを弾き始めた。アメリカ出身で、フランスで活躍した女性ジャズ歌手Nancy Hollowayのバックバンドやバックコーラスなどをつとめ、デュオで歌うことも。Hallowayの勧めで、ソロで歌うように。63年11月最初のレコードをリリース。それには「Pour oublier qu'on s'est aimé/愛し合ったことを忘れるために」、「Un
an d'amour/一年の愛」など4曲が収められていた。「Un an d'amour」は「C'est
irréparable /修復不可能」のタイトルもあり、Dalidaはこのタイトルで歌っている。Ferrer自身もこのタイトルでも歌っている。10カ国語以上のヴァージョンがあると言われている。1992年Pedro Almodovar監督の映画「Talons Aiguilles/スパイクヒール」では主題歌としてこの曲のスペイン語ヴァージョン「Un año de amor」が使われている。邦題は「別離・わかれ」。 当時10代のイェイェ歌手たちが活躍する中にあってすでに29歳になっていたフェレールのこのレコードは当時フランスでは話題にならなかった。しかし、ヨーロッパの他の国々、日本、中近東諸国ではこの曲は頻繁にラジオから流れた。 「Un an d’amour: C’est irréparable」 https://www.youtube.com/watch?v=xK64pYcJ7Jc 65年にはリズム&ブルースの曲に滑稽な、馬鹿馬鹿しい歌詞の付いた「Mirza/ミルザ」、「Les cornichons/ピクルス」をリリース、大ヒットで人気歌手に。 「Les cornichons」https://www.youtube.com/watch?v=rfMDRJCqxc8 ・・土曜日に大きな車で郊外にピクニックに出かけた、ワインと栓抜き、パン、バター、ビール、マスタード、トマト、オニオン、ピクルスを持って、着いたら雨が降り出し、傘を持っていかなかったので、持ち帰り、家で食べた・・ そして、66年には195回のコンサート、30回のテレビ出演、Jacques Dutroncと並んぶダンデイで挑発的な歌手に。「Je
veux être noir/黒人になりたい」(66年)、「Le téléfon/電話」(67年)、「Je vends des
robes /私はドレスを売る」(69年)などのヒット続いた。そして72年「La maison près de la fontaine/泉の近くの家」を収めたアルバムが50万枚以上売り上げ。75年には100万枚以上売り上げたといわれる最大のヒット曲「Le Sud/南フランス」を発表。 「Le Sud」 https://www.youtube.com/watch?v=XBL71vlOJhI ・・そこはルイジアナやイタリアに似ていてテラスには洗濯物が干してある。まるで南国、時間はゆっくり過ぎて行き、時間も人生も100万年続くだろう、そして常に夏だ。いつかきっと戦争があるだろう、誰も好きではないのに、それは運命みたいなもの。それは南仏にとっては不幸なこと、でも100万年以上も生きてきた、そして常に夏だ・・ 1977年からフランス西南部のLot県Montcuqに居を構え、自宅に録音スタジオを設けて、79年10枚目のアルバム「Blanat」(Ferrerのスタジオの名称)をリリースし、Jacques Higelinと国内ツアー。その後86年の「13e album/13枚目のアルバム」、93年の「La vie chez les
automobiles/運転する人のいる家」まで6枚のアルバムをリリース、それらは商業的にはあまり成功しなかった。83年12月19日に1日だけOlympiaに出演。その後絵画や演劇の脚本などに活動の場を広げた。Ferrerのシャンソンは、ブルースの影響を受け、世の中の不条理を歌い、世間を嘲笑、独特のパーソナリテイを持っていた。98年8月13日64歳の誕生日を目前に銃より自殺。「Ninoはリズムを大切にする音楽家。美や芸術に貴族的な感性を持ち、純粋だった。」(死去の報に接した歌手Claude Nougaroの言)。2008年ジャーナリストのOlivier
Cachin著伝記「Nino Ferrer:C'était pourtan bien/ニノ・フェレール:それでもすばらしかった」が刊行された。その中でCachinはFerrerの為人は次のよう語っている。・・彼は自分自身では気に入ってはいないことで人気を得た。彼のヒット曲と言われている曲も彼には気に入らなかった。最大のヒット曲「Le Sud」も自身では未完成だと言っていた。そして自分自身では良い曲だと思っているものが商業的には成功しなかったことに失望していた。コンサートの際そうしたヒット曲ばかりをリクエストする観客にはうんざりし、だから「ミルザ」を殺し、「電話」を切ってしまいたいと思っていた。この不満足感が徐々に彼を閉じこもらせたのではないか。そして最後にはショービズの世界に身を置くことを嫌悪するようになった。彼の最終的な望みはたった一人の人物の気に入るようなアルバムを作ることだった。たった一人の人物、すなわち、彼自身の・・ 2018年没後20年を記念して8月3日CD3枚組のアルバム『Nino Ferrer・・Et toujours en été/ニノ・フェレール・・そして常に夏』(「Et
toujours en été」はヒット曲「Le Sud」の歌詞の最後)がリリースされた。CD1は「Les cornichons」、「Mirza」、「Je veux être noir」、「Le téléfon」、「Je vends des robes」、「La maison près de la fontaine」、「Pour oublier
qu’on s’est aimé」、「Millionnaire/百万長者」、「Je cherche une petite fille/僕は少女を捜している」、「Mon
copain Bismark/友人ビスマルク」などFerrerのベスト24曲収録、 CD2はFererがアングロサクソンの音楽から影響を受けて作ったロック系の曲、「Angleterre/英国」、「Cannabis/大麻」、「Looking for you」、「Little Lili」、「Moby Dick」、「Mashed Potatoes」など13曲収録。CD3はかつての、あるいは現在の人気歌手によるFerreヒット曲のカバーで「Le Sud」(Sebastien Tellier)、「Moses/モーゼ」(Arthur H)、「La maison près de la fontaine」(Nilda
Fernandez)、「Milza」(Arnaud)、「C’est irréparable」(Dalida)、「Le Sud」(英語で、Lola March)など23曲収録。 2.「Mirza」について 1965年の夏NinoとそのバンドはCôte-d‘Azur、Saint-Raphaëlの海辺のディスコ「La Playa」に出演していた。中休みの間、会場では当時ヒットしていたLittle Stevie Wanderの「La la la la」が流されていた。そのとき会場にいた老婦人がMirzaと名付けた雌犬がいなくなってしまったので探して欲しいと係員に申し出た。それを聞いたNinoはマイクを取り、即興で「Z’avez pas vu Mirza, la, la, la, la・・」と歌った。これが大いに受け、その後Saint-Tropezの他の店で歌ったがそこでも同様。そこでレコーディングを決心。Parisの帰ると直ぐに録音、A面に「Mirza」と「Les cornichons」、B面に「Il
me faudra ・・Natacha/僕には必要だろう・・ナターシャ」と「Ma vie pour rien/何の役にも立たない僕の人生」を収録したレコードが1966年1月にリリースされ、1966年を通してヒットした。特に小学校では休み時間にはよく歌われていた。それによりNinoは滑稽な歌詞を歌う歌手として一躍スターになった。しかし、Ninoはそのヒットにもかかわらず「Mirza」や「Les cornichons」は自分が求めている路線とは違っていると常に考えていた。そして1980年にリリースしたアルバム「La Carmencita」には、演奏時間20秒足らずというごく短い「Prelude
et mort de Mirza/ミルザの前奏曲及び死」を収録。この曲では「Z’avez pas
vu Mirza la, la, la・・・」と歌っているが、そのうち吠えている犬が馬に蹴られたよう。そしてNinoらしき男の声で「よしゃ、やった」とMirzaを葬った。 「La,
la, la, la」Little
Stevie Wandar https://www.youtube.com/watch?v=FybDCZDS7mM 「Prelude et
mort de Mirza」 https://www.youtube.com/watch?v=0mGWYoBv9Fk |
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今月の顔 2020年2月 février 2020 Michel Legrandが音楽を担当し、Jacques
Demy監督・脚本のミュージカル映画「Les parapluis de Cherbourg/シェルブールの雨傘」がフランスで公開されたのは1964年2月19日。 https://www.youtube.com/watch?v=YGbY5fEYZus 歌詞の大意: ・・(女性:Geneviève)でも私はあなたなしでは生きていけないわ。そんなことになったら私は死んでしまうわ。私はあなたを匿うわ。あなたの側にいるわ。愛しい人行かないで。 (男性:Guy)解っているだろう。そんなこと出来ないって。僕は行かなきゃならない。僕は君のことしか考えない。君は僕を待っていてくれるね。 (Geneviève)2年間、2人の生活がないなんて。 (Guy)泣かないで。お願いだ。 (Geneviève)2年間あなたのいない生活なんて出来ないわ。 (Guy)落ち着いて。もう時間がない。時間を無駄に出来ない。・・幸せになれることをしよう。最後の時間を大事にしよう。何よりも素晴らしい思い出を作ろう。これから生きて行くのに助けとなるような思い出を。 (Geneviève)私は本当に怖い。一人きりになるのが。あなたは他の女性を知って私のことを忘れてしまうは。 (Guy)一生君のことを忘れない。 (Geneviève)Guy愛している。行かないで。Mon amour!私を一人にしないで。(Guy)お出で! Mon amour!・・ ・ 1.Michel Legrandの略歴 1932年2月24日Paris 20区、Menilmontant地区生まれの ピアニスト、作曲家、オーケストラ指揮者、歌手、映画監督、脚本家、俳優。200曲以上の映画・TVドラマ音楽を含め、300曲以上を作曲。Academy賞を3回、Grammy 賞を5回受賞。多くの歌手のバックミュージシャン、スタジオミュージシャンを務め、歌手としても20数曲を録音。姉Christiane(1930-)は歌手。Michel は1942年から49年までParisのConservatoire
national supérieur de la musique et de danse/パリ国立高等音楽・舞踊学院で、特にピアノを学ぶ。 ・1954年シャンソンなどのヒット曲をムード音楽に編曲し、Michel Legrand & his Orchestraの演奏によるLP「I love Paris」をリリース。「I love Paris」、「Mademoiselle de Paris」、「La Seine」、「La vie en rose」など16曲収録 「I love Paris」https://www.youtube.com/watch?v=rffXtpQV1cY ・1956年7月リリースHenri Salvador(Henri Cordingの名で)のEP「Rock ad Roll」に、Boris
Vian(Vernon Sinclairの名で)作詞の「Rock
and Roll Mops」、「Va t’faire cuire un œuf, man/さっさと失せろ」などに作曲(Mig Bikeの名で) 「Rock and Roll
Mops」https://www.youtube.com/watch?v=3G68unbsCPI ・1958年Miles Davis、Bill Evansなどと共演したLP「Legrand
Jazz」をリリース。「The jitterbug Walz」、「Round Midnight」、「Night in Tunisia」、「Nuage」、「Django」など11曲収録 「The jitterbug
Walz」https://www.youtube.com/watch?v=sEBY7AMeMMQ ・1962年4月公開Agnes
Varda監督「Cléo de 5 à 7/5時から7時までのクレオ」(Corinne Marchand主演、LegrandはピアニストBob役で出演)で音楽担当 ・1964年2月公開Jacques
Demy監督「Les parapluies de Cherboug/シェルブールの雨傘」で音楽担当 ・1960年代から歌手として活動するように。Eddy Marnay、Jean Dréjacらの詩に曲を付けて歌う ・・・1968年LP「Michel Legrand chante Les moulins de mon cœur et・・」:「Les moulins de mon cœur/風のささやき」、「Paris Violon/パリ バイオリン、「Où vont les ballons/風船はどこへ行く」など12曲収録 「Les moulins de mon cœur」https://www.youtube.com/watch?v=fy5jsvF7H3E ・1967年3月公開Jacques Demy監督「Les
Demoiselles de Rochefort/ロシュフォールの恋人たち」(Catherine Deneuve、Françoise Dorléac、Danielle Darrieux出演)で音楽担当 ・1968年月アメリカ公開Norman Jewison監督「The Thomas Crown Affair/華麗なる賭」(Steve McQeen、Fay Dunaway主演で音楽担当。挿入歌「The Windmills of Your Mind」でAcademy「Best Original Song」受賞) 「The Windmills
of Your Mind」https://www.youtube.com/watch?v=OXFh-mYh2dQ ・1971年4月アメリカ公開Robert
Mulligan 監督「Summer of ‘42/想い出の夏」(Jennifer O’Neill主演で音楽担当。1972年Academy「Best Original Score」受賞) 「Summer of ‘42」 https://www.youtube.com/watch?v=bHezowVjDX4 ・1971年第14回Grammy Award:「Theme From Summer of ’42」で「Best Instrumental Composition」賞受賞 ・1971年11月第2回YAMAHA世界歌謡祭に初来日。以後度々来日 ・・・2012年10月、生誕80年記念ジャパンツアー ・・・2018年7月、日仏交流160周年記念、Blue Note Tokyo 30週年記念で来日公演 ・1972年第15回Grammy Award: 「What Are You Doing The Rest
Of Your Life?」(Sara Vauhan)で「Best
Arrangement Accompaning Vocalist」賞受賞 「Brian’s Song」で「Best Instrumental Composition」賞受賞 ・1975年第18回Grammy Award: 「Images」で「Best Jazz Performance By A Big Band」賞及び「Best
Instrumental Composition」賞受賞 ・1983年12月アメリカ公開Barbara
Streisand監督・主演「Yentl/愛のイエントル」で音楽担当。1984年Academy「Best Original Score」受賞 「Yentl」から「Papa、can you hear me」(Streisand)https://www.youtube.com/watch?v=QwCPAo5e_F8 ・1996年VdMで「Les parapluies de Cherbourg,, Un été ‘42, Le messager, Yentl」により「Album de musique de variété instrumentale賞」を受賞 ・2013年自伝「Rien n’est grave dans les aigus/高音の中には低音(深刻なこと)はない」 ・2015年11月27日アルバム「Michel Legrand et ses amis/ミシェル・ルグランとその友人たち」(Legrandの作曲による13曲を、現在のシャンソンフランセーズを代表する若手及びヴェテラン歌手などがLegrand指揮のオーケストラ、あるいはLegrandのピアノ伴奏で、歌っている):「La
valse des lilas」(Hélène
Ségara)、「Les
moulins de mon cœur」(Charles
Aznavour)、「Et si
demain/もし明日」(Mario
Pelchat)、「Un
parfum de fin du monde/世界の終わりの香り」(Vincent Niclo)、「Alcatraz」(Thomas Dutronc)など 録音風景Aznavour https://www.youtube.com/watch?v=9kfUbOHw-Sg Segara https://www.youtube.com/watch?v=WuTzBPtMuxI ・2015年12月31日L égion d’Honneurの Commandeur勲章受章 ・2017年CD「Michel Legrand - Concerto pour piano, concerto pour violoncelle/ピアノのための協奏曲、チェロのための協奏曲」リリース。自身の作曲による初の協奏曲、Orchestre phirharmonique de Radio Franceとの共演 ・2018年11月CD20枚、470曲収録の全集「Les moulins
de son cœur/彼の心の風車」 ・2019年1月26日Paris郊外Neuilly-sur-Seineのアメリカン病院で、夫人で俳優のMacha Méril(1940-)に看取られて死去、享年86歳。葬儀は2019年2月1日ParisのCathédrale
orthodoxe russe Saint-Alexandre-Navskyで行われ、遺体は同日Père
Lachaise墓地 44e divisionに埋葬された。 2.映画「Les
parapluies de Cherbourg」について 「Les parapluies de Cherboug」は1964年2月19日フランス公開されたJacques Demy監督・脚本、Michel Legrand音楽の、台詞が一切ない、ミュージカル映画。1964年第17回Cannes映画祭でPalme d’or受賞。主演はCatherine Deneuve(Geneviève
役・・歌の吹き替えはDanielle Licali )、Nino Castelnouvo(Guy役・・歌の吹き替えはJose Bartel)。Ellen Farner(Madeleine役・・歌の吹き替えClaudine Meunier)。Michel Legrandは郵便配達Bernardの吹き替えを、姉のChristian LegrandはMadame Emery(Genevièveの母)の吹き替えを担当している。 物語の概要:アルジェリア戦争(54~62)中の1957年の話。英仏海峡コンタン半島の先端の港町シェルブール。自動車修理工で20歳のGuyと雨傘店の娘Geneviève は愛し合っていた。結婚して真っ白なガソリンスタンドを開こう、そして生まれたのが男の子ならFrançois、女の子ならFrançoiseと名を付けようと話していた。Guyに召集令状が届いた日、二人は結ばれGenevièveは身ごもる。Guyは一緒に住んでいた叔母の面倒を幼なじみのMadeleineに頼み、Genevièveと駅で別れを告げて2年間の兵役に。足を負傷して入院していたGuyからの手紙が来なくなったGenevièveは宝石商Cassardの求婚を受け入れ、パリに。除隊して戻ってきたGuyはGenevièveが結婚して、町を去ったことを知り自暴自棄に。そして叔母の死。Guyは叔母の遺産でガソリンスタンドを開き、Madeleineと結婚、生まれた男の子にFrançoisと名付けた。数年後のある雪の日、Guyが一人でいるガソリンスタンドに、助手席に女の子を乗せたGenevièveが給油に立ち寄り再会。GuyとGenevièveは事務所で言葉を交わす。女の子の名はFrançoise、「あなたに似ているわ、顔を見る?」というGenevièveに「Non」と首を振るGuy。走り去るGeneviève、そこへMadeleinとFrançoisが帰ってくる・・ 映画の中では19のテーマが使われていて、そのうちの、本稿最初に掲げたテーマは映画のメインテーマでGuyがGenevièveに召集令状を受け取ったことを告げる上掲のシーンのほか、Guyが入隊のためGenevièveと駅で別れて列車に乗るシーン及びラストシーンなどに用いられている。 駅のシーン:https://www.youtube.com/watch?v=VV1aLDzgW_0 ラストシーン:https://www.youtube.com/watch?v=nfmjiFN573k 2014年9月この映画が公開されてから50年を記念にてParisのThéâtre du Châteletで上演されたミュージカル「Les parapluies de Cherbourg」では、Michel
Legrand指揮によるOrchestre national d’Ile-de-Franceをバックに、 Geneviève
役はMarie Oppert(1997-歌手、俳優)、Guy役はVincent Noclo(1975-歌手)、Genevièveの母親役はNatalie Dassayが演じた。OpperとNicloはラジオ局RTLの「Le Grand Studio」出演し、ミュージカルからGuyが召集令状を受け取ったことを告げるシーンを次のように歌った。。 https://www.youtube.com/watch?v=_5m139epf4M 歌詞の大意: (Geneviève)あなたに会えるか心配だったけれど、会えてとても嬉しい。あなたと一緒にいることができてとても幸せ。一人でいるときはヘマばかりしているの。母に私たちの結婚のことを話したら、私が気でも狂ったんじゃないかと言われた。そしてもうあなたに会ってはいけないと言われた。私怖いの。どこかへ行って、お母さんの顔を見ないですむところへ行って、隠れて結婚しましょう。 (Guy)ああ、そのことが大事じゃなくなったんだ。今朝召集令状を受け取った。2年間行かなきゃならないんだ。だから今は結婚の話はできない。今アルジェリアで起こっていることを考えると、長いこと帰って来られないだろう。(Geneviève)でも私はあなたなしでは生きていけないわ。そんなことになったら私は死んでしまうわ。私はあなたを匿うわ。あなたの側にいるわ。愛しい人行かないで。 (Guy)解っているだろう。そんなこと出来ないって。僕は行かなきゃならない。僕は君のことしか考えない。君は僕を待っていてくれるね。 (Geneviève)2年間、2人の生活がないなんて。 (Guy)泣かないで。お願いだ。 (Geneviève)2年間あなたのいない生活なんて出来ないわ。 (Guy)落ち着いて。もう時間がない。時間を無駄に出来ない。・・幸せになれることをしよう。最後の時間を大事にしよう。何よりも素晴らしい思い出を作ろう。これから生きて行くのに助けとなるような思い出を。 (Geneviève)私は本当に怖い。一人きりになるのが。あなたは他の女性を知って私のことを忘れてしまうは。 (Guy)一生君のことを忘れない。 (Geneviève)Guy愛している。行かないで。Mon amour!私を一人にしないで。(Guy)お出で! Mon amour!・・ このメロディーはDamyの歌詞によるシャンソン「Les parapluies de Cherbourg」に。 シャンソン「Les parapluies de cherbourg」Nana Mouskouri https://www.youtube.com/watch?v=H0PP49SYMHw 歌詞の大意: ・・もう何日も私は沈黙の中で生きている。空っぽになった会いの部屋に閉じこもって、あなたが行ってしまってから、あなたの影が毎夜私の後を追い、昼になると私から逃げて行く。もう私の目には誰も映らない。私は一人孤独の中。あなたがいなければ私は無。私はすべてをあきらめ、私たちの愛の幻想を抱かない。 この歌を聞いて下さい。 そう、私はあなたなしでは生きてゆけない、行かないで。そうなったら私は死んでしまう。ああ愛しい人行かないで。愛しい人私は一生あなたを待っている。戻ってきて、お願いだから。私にはあなたが必要なの、あなたのために生きたいの。ああ愛しい人行かないで。 彼らは駅のホームで別れた、お互いに遠ざかっていった、最後の眼差しを交わしながら・・ ああ、あなたを愛している、行かないで・・ |
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今月の顔 1月、 Janvier 2020 ニコレッタ Nicolettaは1968年1月4日TV番組「Palmères
des chansons/シャンソン ヒットパレード」に出演し、「Il est mort le soleil/太陽は死んだ:太陽が消えた朝」を歌った。 「Il est
mort le soleil」(1968年Pierre
Delanoë作詞/Hubert
Giraud作曲) https://www.youtube.com/watch?v=xWwlvcY0EL0 歌詞の大意: ・・それは死んだ。太陽は。あなたが私の許を去ったとき。夏も死んだ、愛も、太陽も。 太陽は死んだ、でも喪に服しているのは私だけ、もう日の光が私の家に入ってくることはない。昨日、私たちは熱い砂の上で眠った。いい天気だった、冬なのにいい天気だった、昨日は。 太陽は死んだ、私の人生に影が差し、私の心には雨が降る、そして私の魂は灰色の衣裳をまとう。 昨日私が一番好きだった色、それはあなたの目の色。それは海の色だった、でもそれは昨日のこと。太陽は死んだ、あなたが私の許を去ったとき。夏は死んだ、愛も、太陽も・・ 1.Nicolettaの略歴 本名Nicole Grisoni、1944年4月11日Haute-Savoie県Léman湖畔Vongy生まれの歌手、作詞も行う。家庭の事情で祖母に育てられる。1954年から60年まで修道女が経営したArdéche県Annonayの寄宿学校の寄宿生。教会のコーラスでゴスペルなどを歌う。60年代初めにParisに出て、Saint-Germain-des-PrésのクラブのDJに。1966年特徴のあるしゃがれ声でBarclayのアートディレクターだったLéo Missirに見出され歌手に ・1967年最初のEPレコードリリース。「L’homme à la moto/オートバイの男」(Edith Piafのヒット曲)、「Pour oublier qu’on s’est aimé/愛し合ったことを忘れるために」(Nino Ferrerのヒット曲)、「Encore un jour sans toi/またあなたのいない1日」)など4曲収録 ・1967年「La musique/音楽」(原曲はアメリカの「Angelica」、フランス語の詩はAnn Grégory) ・1967年「Il est mort le soleil」。 ・1969年1月Adamoの前座でOlympia初出演 ・1969年「Je n’pourrai jamais t’oublier/私は決してあなたを忘れることはできないでしょう:(邦題)過ぎ去りし恋:再会」、https://www.youtube.com/watch?v=weNA7fc5fWg 「Où es-tu passé mon
Saint-Germain-des-Prés/思い出のサン・ジェルマン・デ・プレ」、「Ma vie est un manège/私の人生は回転木馬」、「Quand on n’a que l’amour/愛しかないとき」 ・1970年「Dieu est nègre/神様は黒人」 ・1971年「Mamy blue/マミー・ブルー」https://www.youtube.com/watch?v=QrCnPtMP5Sc 「La solitude, ça n’exsite pas/孤独なんて存在しない」 ・1972年末来日 ・1973年「Enfants, venez chanter l’espoir/子供たちよ、希望を歌え」(ACC賞受賞)、「Fio Maravilla/想い出のカーニヴァル」(ブラジルのJorge Benのヒット曲)、「Les volets clos/閉じられた鎧戸」(Jean-Claude Briary監督同名映画の主題歌)、「Il neige au Sahara/サハラの雪」 ・1974年「Papillon/パピヨン」(Franklin J. Scaffner 監督の同名の映画から) ・1975年Olympiaにvedetteとして出演 ・1983年「Idées noires/不吉な予感」 Bernard Lavilliers(1946-ACI)とのデュオ ・1989年ミュージカル「Quasimodo/カジモド」(William Sheller1946-ACI 制作)でEsméralda役。 20万人の観客 ・1992年祖母を失い宗教に傾倒、ゴスペルを歌うように。Antillesのコーラス隊「les gospels voices」とともに教会を会場とする世界ツアー1年以上に渡り行い、180日の公演。「Amaging Grace」、「Happy day」、「Ave Maria(Charles Gounod)」などを歌う ・2006年10月アルバム『Le rendez-vous/ランデ・ヴー』(jazzを中心に):「Summertime」、「Georgia on my mide」、「Bei mir bist du schön/すてきなあなた」、「Cheek to cheek」など11曲 ・2008年Florent Massot社から自伝「La maison d’en
face/向かいの家」を刊行 ・2009年10月14~18日、デビュー40年(と65歳)を祝うコンサートをParis
Alhambraで ・2010年上記のliveアルバム 『Nicoletta en concert/コンサートのニコレッタ』:2枚組CD & DVD、24曲 ・2010年1月「Ordre des Arts et des Lettres/文化/芸術勲章」officier章受章 ・2013年3月18日最新アルバム『Ici et ailleurs/こことそこ』:「Tu es libre man/あなたは自由な男」(Florenr Pagnyとのデュオ)、「Petite sœur/妹」、「Si loin de nous/我々からとても遠くに」など12曲 ・2014年4月7日compilation
『Salut les copains/やあ仲間たち』:CD2枚組、36曲収録 ・2018年1月18日からAge
Tendreの公演に初参加。4月21日まで30公演に出演 ・2020年には新しいアルバムのリリースが予定され、また5月からツアーの予定との情報がある Nicolettaは事業家としても知られていて、化粧品会社CoverGirl、下着(「Nicoletta Séduction」)や香水(「L’eau de Nicoletta」)のブランド、レストランチェーン「Chez la grosse Nicoletta」、生地Vongyでフットボールチームを持っている。 2.「Il est mort
le soleil」について Hubert
Giraud(1920-2016 作曲家)は既に多くの歌手に優れた曲を提供していた。代表作としては:「Mea culpa」(Edith Piaf歌、Michel
Rivgauche作詞、DeauvilleシャンソンコンクールのGrand
Prix)、「Buenas noches mi amor」(André
Claveau、Dalida、Gloria Lasso歌)、「Dors mon amour」(André
Claveau歌、Pierre Delanoë作詞、1958年Eurovision優勝曲)、「Comme au Premier jour」(Jacqueline Boyer歌)など。 週末の家族と海辺で過ごしたGiraudは水平線に沈む夕日を見て、あるメロディーが浮かんが。帰路の車の中ではそのメロディーだけを口ずさんでいた。帰宅して、翌日それを譜面に起こそうとしたが、どうしてもメロディーを思い出せなかった。しかし同乗していた娘が、Giraudが口ずさんだメロディーを覚えていてくれた。曲が出来上がり、Giraudは長年コンビを組んでいるPierre Delanoë(1918-2006 作詞家)に曲が生まれた経緯を話して、詩を付けるように依頼、「Il est mort le soleil」が出来上がった。出来上がった曲に楽譜出版社は「mort/死んだ」と言う語が出てくることに賛成しなかった。またLéo Missirに歌うことを勧められた当時23歳のNicolettaも「この曲を歌うのには愛を経験することが必要。でも私にはまだそんな経験はない」と歌うことの消極的だった。そんな両者をMissirは説得。Jean Bouchety指揮のオーケストラの伴奏で録音、1967年リリースのLP「Nicoletta」に収録された。ラジオ局は楽譜出版社と同様の理由でこの曲を放送することはなかった。しかし、カナダ、ケベックの放送局がこの曲に興味を示し、Nicolettaはモントリオールでプロモーションを行った。Nicolettaがモントリオール滞在中、同地でアメリカのRay Charlesが公演、Nicolettaはその楽屋を訪ね、LPを進呈。Ray Charlesの耳に届いたことからこの曲は新しい発展を遂げた。Nicolettaを「la seule blanche qui chante comme une noire./黒人女性のように歌う唯一の白人女性 」と評したRay Charles、それから3週間後、フランスに戻ったNicolettaに電話でこの曲はどのような内容か質問。その後英語の歌詞を付けた「The Sun Died」が生まれた。Ray Charlesは1968年10月8日Paris、Salle Pleyelに出演した際これを歌った。「The Sun Died」はRay Charlesの他に、Tom Jonesらも歌っている。「Il est mort le soleil」はNicolettaの代表曲になり、Nicolettaは多くの機会にこの曲を歌っている。 「Il
est mort le soleil」Nicoletta 1978年 https://www.youtube.com/watch?v=l2EXALTfMTY 「Il
est mort le soleil」Nicoletta 2009年Paris Alhambraで https://www.youtube.com/watch?v=lqWtMApw2eQ 「Il
est mort le soleil」Nicolett 2019年9月コーラス隊とhttps://www.youtube.com/watch?v=AAghOKosXz8 |
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今月の顔 2019年12月 décembre 2019年11月20日 ジャックリーヌ・フランソワJacqueline François
Jacqueline Françoisは1963年12月09日TV番組「Douce France」に出演し、「Les lavandières du Portugal/ポルトガルの洗濯女」を 「Les lavandières du Portugal」(1955年Roger
Lucchesi /André Popp) https://www.ina.fr/video/I07095333/jacqueline-francois-les-lavandieres-du-portugal-video.html 歌詞の大意: ・・あなた方は知っているか、ポルトガルの洗濯女を。とりわけセティバル川の川辺にいる洗濯女たちを。そこは洗い場と言うよりおしゃべり 1. Jacqueline Françoisの略歴 本名Jacquline Guillemautot、1922年1月30日Paris郊外Neuilly-sur-Seine生まれ。ブルジョワ家庭の5人兄弟の最年長。父親は整髪料Roja(「愛されるため、魅力を」の広告で知られた)製造会社の社長。ピアノの練習も含め、厳格な教育を受けて育った。育ちはよかったが多少反逆的であったJacquelineはキャバレに出演するようになり、後年フランスで最も美しい声と言われるようになる声の持ち主であった彼女は人々を魅了。Françoisの訃報に接したCharles Aznavour談(以下同じ)、「彼女はアメリカ風のフレージングで歌い、明瞭で、完璧だった。」。Jacquelineは1950年代初めAznavourの曲(「Sa jeunesse/青春という宝」、「On ne sait jamais/決して解らない」など)を初めて取り上げて歌った歌手の一人で、デビュー当時のAznavourの名声を高めた。「On ne sait
jamais 」https://www.youtube.com/watch?v=fbH1HGWr1E0 Aznavour談。「彼女は並はずれて素晴らしい音感をしていた。彼女に初めて出会ったのは闇市にあった小さなレストランPont-Avenだった。彼女はわずかばかりのギャラとサンドイッチ一つで歌っていた。彼女はそれらを我々に与えてくれた。なぜならそんなものは彼女には必要でなかったから」。終戦後Jacquelineは彼女と同時期に活躍していたRenée Lebas(1917―2009歌手)、Léo Marjane(1912-2016歌手)、あるいはEdith Piaf(1915―1963歌手)などと同様「chanson réaliste/現実派シャンソン」を歌いたいと願った。1945年ラジオのオーデイションを受けたとき彼女はギタリストで作曲家、後にLine Renaudと結婚するLoulou Gastéと知り合った。Gastéは彼が作った曲2曲「Gentleman」と「Ça n’était pas original/それは独創的ではない」を歌うように勧め、78回転レコードに録音、それなりの評価を受けた。あるツアーの際彼女は歌手Henri Deckerと知り合い、その後結婚、1男Françoisをもうけた。Deckerは彼女にSèteゼット出身のPaul Durandを紹介した。Durandは当時ポリドール社のアートデイレクターであったJacques Canettiと共に、Jacquelineにchanson réalisteは止めて、よりモダンな曲、ジャズっぽい曲、ラテンのリズムを持った曲、青い花のような愛の曲、日曜日に明るい太陽の下で聞けるような曲、戦争の恐怖が終わった後の人々に幸福感をもたらすような曲を歌うべきだと説得した。 1948年彼女は「C'est le printemps/春なのよ」を歌った。Richard RodgersとOscar Hammersteinのコンビによる「It Might as Well Be
Spring」にJean Sablonがフランス語の詩を付けたこの曲は Sablonの創唱によるものであったが、彼女の歌によって大いにヒットし、48年ACC(Académie
Charles-Cros)のGrand Prixを受賞した。「C’est le printemps」https://www.youtube.com/watch?v=k1AkjR63usQ そして同年にDurandがHenri Contetと組んだ「Mademoiselle de Paris/マドモワゼル ド パリ:巴里のお嬢さん」が生まれる。「Mademoiselle de Paris」1965年https://www.youtube.com/watch?v=QSvwuKmVqpE その後も「Trois fois merci/3度ありがとう」(50年)、「Tu n'peux pas t'figurer/あなたには想像できない」(50年)などがヒット。53年には100万枚以上レコードを売り上げた最初の女性歌手になりSalle Pleyelで62人のミュージシャンをバックにコンサート。54年にはオランピアに出演、バックをつとめたのは二十歳そこそこのMichel Legrandであった。55年の 「Les Lavandières du
Portugal/ポルトガルの洗濯女」も大ヒット。彼女はPolydo社の企業としての地位を確固たるものにする。彼女はまた楽譜出版会社Raoul Bretonの隆盛にも貢献した。すなわち、彼女はこの出版社に属していた作家の曲を1960年代末まで世界中で歌ったから。例えばTrenetの「La mer/ラ メール」をアメリカで歌い、Aznavourをソ連やブラジルで歌って。 1950年彼女は初めてアメリカ公演を行った。Aznavour談「最終的には彼女はアメリカでPiafよりも知られる存在になった。NYのPlazzaに出演したときはすごかった。行列がブロックを一周するほどだった。彼女はこの劇場での公演を3枚のLPにしているが、これはフランス人歌手としては初。Piafのステージには常軌を逸したところ、説明できないような力があった。Jacquelineはきちんとした服装でシック、アメリカ的。リエゾンは完璧、発声法も申し分なかった。常に髪をきちんと整えていた。Jacquelineは『「外国では服装を雑にしていたらだめ』と語っていた」。1970年代に入ると彼女は20年間の成功にもかかわらず、姿を現すことが少なくなり、84年には引退。その後Pascal Sevranの番組でちょっとテレビに顔を出す程度だった。1958年に初来日してから数度来日。2009年3月7日、Paris郊外Courbevoieの自宅で死去、享年87歳。 2.「Les
lavandières du Portugal」について フランスでは「Mademoiselle
de Paris」よりも人気があると言われているこの曲「Les lavandières du Portugal」はRoger Lucchesi作詞、André Popp作曲。1955年6月28日公開されたWalter Kapps監督フランス映画「Mademoiselle de Paris/(邦題)水色の夜会服」に人気歌手である本人役で出演したFrançoisが、「Mademoiselle de Paris」などと共に劇中この曲を歌っている。映画「Mademoiselle de Paris」のタイトルは1949年公開のRoger Blanc監督映画「Scandale des Champs Elysées/シャンゼリゼのスキャンダル:(邦題)巴里の醜聞」の中でFrançoisが歌った「Mademoiselle de Paris」から採ったもの。 「Les lavandières du Portugal」は1955年EPでリリース。このEPにはこの曲の他にMouloudjiのヒットで知られている「Un jour tu verras/いつの日にか」(Georges Van Parys/Mouloudji)、「A t’regarder/君を見つめると」(Jean Constantin/Chales
Aznavour)など全4曲が収録され、伴奏はMichel Legrand指揮のオーケストラ。レコードはドイツ、スペイン、イタリアでもリリースされた。楽曲「Les lavandières du Portugal」は1955年のADF(Académie de disque français)のGrand-Prixを受賞、また同年の「Disque du bonheur」のGrand-Prixも受賞。1957年10月23日公開Pierre Gaspard-Huit監督映画「Les lavandières du
Portugal」のタイトルはこの曲から。この曲はFrançoisのほか:Luis
Mariano(1914-1970 歌手)、Yvette Giraud(1916-2014 歌手)、Suzy Delair(1917- 歌手、俳優)、Marie Myriam(1957-歌手)らも歌っている。 「Les
lavandières du Portugal」 Yvette Giraud https://www.youtube.com/watch?v=a6xW_houRpY |
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今月の顔 2019年11月 novembre 2019年 Pascal Danelが自身の最大のヒット曲「Kilimandjaro/キリマンジャロ」 ( 後に別名「Les neiges du Kilimandjaro/キリマンジャロの雪」 ) を収録したEPレコード「Pascal Danel」をリリースしたのは1966年11月。 「Kilimandjaro/キリマンジャロ」(1966年 Michel Delancray/Pascal
Danel) (1968年) https://www.youtube.com/watch?v=RTIBySNSuVU (1990年)https://www.youtube.com/watch?v=-nvrZgbXoEg (2017年)https://www.youtube.com/watch?v=vhMA0XU5sTM 歌詞の大意: ・・彼はもうこれ以上遠くには行けないだろう。もうすぐ夜になる。彼ははるか彼方に見る、キリマンジャロの雪を。その雪は白いマントになるだろう。そしてその中で眠ることができる、眠ることができる。 夢うつつの中で、彼の愛した女性がやってきた。二人は手を取り合って歩く。彼は微笑みかける彼女を見つめる。 雪は白いマントになるだろう。そしてその中で眠ることができる、眠ることができる。 彼はおそらくそこで死を迎えるだろう、キリマンジャロの雪がこれほど白いのは初めて。雪は白いマントになるだろう。そしてその中で眠ることができる、眠ることができる、もうすぐに・・ 1. Pasacal Danelの略歴 Pascal Danel、本名Jean-Jacques Pascal、は1944年3月31日Paris16区生まれの歌手、作曲家。歌っている曲の多くは自身の作曲。16歳でサーカスのオートバイの綱渡りで事故に遭う。入院中にギターを習い、1962年ロックグループ「Les Panthères」のギタリスト、歌手に。64年からソロ活動、65年「Hop là tu as vu!!/おーい、そこの人、君は見たか」、「Je m'en fout/僕には関係ない」がヒットしOlympiaに初出演。66年5月「La plage aux romantiques/ロマンテイックな人々の浜辺」をリリース。これが最初のヒットで、フランスばかりでなく、イタリア、ドイツ、スペイン、ベルギーなどでもヒット。「La plage aux romantiques」https://www.youtube.com/watch?v=yj0M73LnA2Q 66年11月にはDanel最大のヒット「Kilimandjaro/キリマンジャロ」(Michel Delancray作詞、Danel作曲)が生まれた。その後も「Les trois dernières minutes/最後の3分間:死の前の3分間」(67年)、[Comme une enfant/一人の女の子のように」(67年)、「Mon ami/我が友」(67年)、「L’Italie/イタリア」(68年)、「Mamina/マミーナ」(70年、Dalidaがカバー)、「Ton âme/君の心」(72年、Antiebesシャンソンコンクールで「金のばら」賞受賞)、「Je suis un aventurier/僕は冒険家」(73年)、「Rotterdam/ロッテルダム」(74年)などいくつかのヒット。69年から74年まではLaurent Voulzyが伴奏ギタリストを務めている。79年にはTV番組で「La plage aux romantiques」を歌い、また「Kilimandjaro」とのカップリングで再版され、この2曲は再び脚光を浴びた。80年にはOlympiaに出演しliveアルバム「Olympia 80」をリリースしている。80年代は当時のシャンソン界と波長が合わないと感じTVプデユーサーに転身、FR3の人気番組「Cadence 3」などを担当。その後自動車事故により活動の休止を余儀なくされたが、2000年新しいアルバム「Je voulais simplement te dire/君に言いたかっただけ」のリリースとCirque
d’Hiverでの3日間のコンサートでシャンソンに復帰。07年アルバム「Le
cœur des femmes/女性たちの心」をリリース、ここでは「La plage aux
romantiques」をVoulsyとのデュオで歌っている。07年からはモンパルナスのキャバレ「Petit
Journal Montparnasse」に出演している。また、07年から09年まで「Age tendre et têtes de bois」に参加。2014年アルバム「Putain d‘étoile」をリリース。2014年1月10日友人であり、またSACEM登録の際の推薦人でもあったGilbert Bécaudへのオマージュコンサート「Pascal Danel chante Bécaud.Du Kilimandjaro à La Place Rouge/パスカル・ダネル、ベコーを歌う、キリマンジャロから赤の広場へ」をCasino de Parisで行い、2016年にはCD2枚組みアルバム「L’hommage à Gilbert Bécaud」をリリース、これにはBécaudのヒット曲「Nathalie」、「Et maintenant」のカバーの他に「Les neige du Kilimandjaro」、「La plage aux
romantiques」など自身のヒット曲も収録されている。 2.「Kilimandjaro」について 1966年5月にリリースされた「La plage aux
romantiques」は夏の間大ヒットしレコードは50万枚以上の売り上げになった。真新しいゴールデンディスクをParisのアパートの壁に飾ったDanelは次のシャンソンの歌詞を依頼すべくMichel Delancrayに電話した。二人ともインスピレーションが湧かず、映画でも見に行こうと言うことになった。そして1952年に公開されたHenry King監督、Ava Gardner、Gregory Peck主演、Ernest Hemingway原作の「Les neiges du Kilimandjaro/キリマンジェロの雪」を観た。映画の感動したDanelはギターで、数時間で曲を作った。それにDelancrayが詩を付け「Kilimandjaro」が出来上がった。DanelはDijon出身の数人のミュージシャンをバックにデモテープを作り、AZ社社長Lucien Morisseの許へ届けた。Morisseはクープレの部分に少し手直しを加えた。スタジオ録音当日折悪しくミュージシャンたちが無期限ストライキに入ってしまった。Morisseは「ストが解決するまで待てない。デモのバックを使おう」。「Kilimandjaro/キリマンジャロ」(Michel Delancray作詞、Pascal Danel作曲:Laurent Voulzy編曲の資料あり)は1966年11月リリースのEPレコードのA面トップに収録された。他には「Les trois dernières minutes」など3曲。「Kilimandjaro」は当時のヒット曲、Mireille Mathieuの「Paris en colère」、Adamoの「Inch Allah」、Jacques Dutroncの「Les play boys」などに伍して、12月24日の週トップ20の18位にランクイン、最高位は1967年1月28日の週の2位、その後も非連続で5週間2位。4月8日の週までトップ20に留まり、レコードは100万枚以上の売り上げに。Charles De Gaulleは好きな歌の一つに上げているなど、60年代を代表するシャンソンのスタンダードになった。フランスばかりでなく、イタリア、スペインオランダ、ドイツ、中近東、アジア、特に日本でもヒットし、100以上のヴァージョンがあると言われ、Danel自身、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、コルシカ語で歌っている。(Wikipediaフランス語版などでは「日本語で録音」との記述があったが、確認できなかった)。日本では「Les trois dernières minutes」とのカップリングで68年にSPレコードでリリースされている。 この曲は「Les neiges du Kilimandjaro/キリマンジャロの雪」のタイトルでも知られている。1983年に新しいヴァージョンで再録音されPolydorからリリースされた際にこのタイトルになり、その後はこのタイトルにされているよう。2011年公開のRobert Guediguin監督フランス映画「Les neiges du Kilimandjaro/キリマンジャロの雪」でもこの曲が用いられている。 |
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今月の顔 2019年10月 Octobre 2019年 ミシェル・フガンMichel Fugain Michel
Fugainは1981年10月31日TV番組「Fugue à Fugain」で、自身の最大のヒット曲「Une belle histoire/美しき物語」(邦題 ミスターサマータイム)を歌った。 「Une belle
histoire」(1972年 Pierre Delanoë作詞/Michel
Fugain作曲) 1981年10月31日 https://www.youtube.com/watch?v=xsli9RS_dRc 歌詞の大意: ・・それは美しい物語、今日的な恋物語。彼は霧の立ちこめる北へ帰るところ、彼女は南仏へ向かうところ。彼らが出会ったのはヴァカンスの高速道路沿い。きっと幸運の日だったんだ、空は彼らの手が届くところにあった、神様からの贈り物、こんな時、明日のことなど考えるだろうか。二人は広い麦畑に身を隠した、流れに身を任せて・・幸せな日は終わった。翌日午前中遅くなって彼らは別れた、神様に感謝しながら。彼は北へ、彼女は南へ・・ 1. Michel Fugainの略歴 1942年5月12日Grenoble生まれの歌手で作曲家。1963年bac取得後Parisに上った。両親は父親と同じ医者になることを望んでいたが、第7の芸術に興味があったFugainは映画会社でアシスタントを務めるかたわら演劇学校に通いそこでMichel
Sardouと知り合う。Fugainは1966年Sardouのデビュー曲「Le Madras」の作曲を行っている。Fugainは1964年レコード会社Barclayに社付きの作曲家として入り、Hufues Aufray、Hérvé Vilard、Dalida、Marie
Laforêtらのために曲を提供。その後歌うようになり、1966年自作の4曲を収録した最初のEPをリリース。1967年の2枚目のEPに収録した「Je n'aurai pas le temps/僕には時間がないだろう」が最初のヒット。この曲はFugainの曲が最初にでき、それにPierre Delanoëが詩を付けたもの。当時25歳でデビューしたばかり、前途洋々の新人歌手Fugainは「僕には時間がない」には不満だったよう。しかし周囲の勧めに従って録音、レコードは発売と同時に評判になり、Fugainに歌手としての確固とした地位を与えた。この曲は発表から半世紀経った今日でもFugainのコンサートでは必ずリクエストされる曲の由。 「Je n’aurai pas le temps」1967年 https://www.youtube.com/watch?v=ukqxHYOYeRA 1967年3月Eddy Mitchellの前座で、69年にはvedetteとしてOlympiaに出演している。1972年1月には若手の俳優、歌手、ダンサーからなるグループ Big Bazarビッグ・バザールを結成。1972年リースのSPに収録した「Une belle histoire/美しき恋物語」が世界的に大ヒット。Big
Bazarとは「Fais comme l’oiseau/小鳥のように」(1972年)、「Chante/歌え」(73年)、「Bravo Monsieur le Monde/ブラヴォー、地球さん」(同)などのヒットを。 「Bravo Monsieur le monde」1974年https://www.youtube.com/watch?v=jev-el9HNy8 Fugainは1977年Big Bazarを去り、1979年にニースで「Atelier Fugain/アトリエ フュガン」を開設、若手アーティストの養成に当たり、またTV番組の編成などの活動を。1988年には「Viva la vida/人生万歳」で歌手活動を再開。 「Viva la vida」1993年3月https://www.youtube.com/watch?v=LzjFfgeby2g 2002年、21歳の長女Lauretteを白血病で失ってからは活動を大幅に縮小、夫人と共に白血病患者のための協会L’Association Laurette Fugainを設立、献血、血小板提供を呼びかけるキャンペーンなどを行っていた。2007年になってルバム「Bravo et Merci/ブラヴォー そしてありがとう」をリリースして積極的に歌手活動に復帰。このアルバムにはCharles Aznavourなどの「confrères、consœurs/男性の仕事仲間、女性の仕事仲間」に提供された詩にFugainが曲を付けた12曲が収録されている。その中には「Je parlerai de toi/君のことを話そう」、(Aznavourの詩)、「Le président/大統領」(Adamo)、「La rue du babouin/ヒヒ通り」(Françoise Hardy)、「Bravo et merci」(Yves Duteil)が。 「Je parlerai de toi」2007年 https://www.youtube.com/watch?v=_hm2k3AbE1A 2012年にはアルバム「Bon an,mal an/良い年、悪い年」をリリース。13年には新たに11人のミュージシャン兼歌手兼ダンサーで「Projet Pluribus/多様なバス計画」を結成、そのバックで最初のアルバム9月30日「Projet Pluribus」をリリース。これには「Chante」、「Jamais je ne t’oublierai/君を決して忘れない」、「Les Sud Américaines/南米の女性たち」など13曲収録。2015年3月7日にはParis
Folies Bergèresに出演した。2015年になってグループが財政的に危機に陥っていること、その原因がマネージャーによる出演料などの横領によると判明。マネージャーを解雇、グループの管理を夫妻で行うことにした。そしてグループは活動を倍増、乗り切った。2017年5月生誕75年及びデビュー50周年記念してFugainのヒット曲を現在活躍中の、特に若手の歌手がカバーしたアルバム「Chante la vie, chante(Love Michel Fugain)」がリリースされた。このアルバムでは「Chante」(73年)はKids Unitedが、「Une
belle histoire」はCorneilleが、「Je n’aurai
pas le temps」はClaudio Capéoが、「Viva la
vida」はAnais Delvaが、「Bravo Monsieur le
monde」(73年)はChimène Badiが、「Fais comme
l’oiseau」(71年)はBen l’Oncle Soulが歌っている。 「Chante」
Kids Unitedと2017年クリスマス特番https://www.youtube.com/watch?v=YNOFXwEmdxc 2.「La
belle histoire」について 1972年Fugainはミュージカル集団Big Bazarを立ち上げた。Big Bazarにはスターはなく25人のダンサー兼歌手からなるコミュニティー生活をする集団で、その年ブラジルの曲のカバー「Fais comme un oiseau/小鳥のように」が大ヒットした。そしてFugainは「68年5月[いわゆる5月革命]から4年ほどが経っていた。私はこの変化した社会を歌いたかった。私は曲を作った。1972年ある朝起きた時あるメロディーが頭に浮かんだ、それからシャワーを浴びたが頭からそのメロディーが消えなかった。メロディーにはアメリカ風の、そしてリュックを背負った若い男女がカリフォルニアのルート66の道路脇で出会うと言うようなイメージがあった」。そして作詩をPierre Delanoë(1918-2006 作詞家)に依頼した。DelanoëはFugainの最初のヒット曲「Je n’aurai pas le temps」の作詞をしている。「Delanoëが詩を完成させた日を良く覚えている。私はラジオ局Europe1にあった彼の事務所行った。昼時だったので私は昼食用にボルドーワイン1本とソーセージを持って。ゴルフ好きのDelanoëはパターの練習をしながら詩を練った。レコーディングが終わったとき彼は言った。『うーん。いい香がするね』。彼はヒットを信じていた」。 しかし最初「Une belle histoire」はEPのB面に収められた。FugainもDelanoëもA面に収められた「Allez,bouge-toi/さあどいて」の方にかけていた。「私は『Une belle histoire』が好きだったが、熱烈にというわけではない。今でも『Je
n’aurais pas le
temps』や『Chante』ほどの曲だとは思っていない」。レコードがリリースされた頃FugainとBig Bazarは公演でコルシカに向かっていた。「Ajaccioに着いたとき『毎夕ナイトクラブはあなたのシャンソンで盛り上がっています』と言われた。信じられなかったがパリに帰ってきてそのヒット振りに驚いた」。このレコードは1972年の「tube d’été/夏のヒット曲」になり、その年のうちに80万枚売り上げた。「絵画でも、文学作品でも同じことだろうけど、絶対に成功するというレシピはない。この曲は我々が想像していた以上に、タブーを乗り越えようとしていた若者たちの夢に合致したのだろう」。 1972年中にFugainはこの曲をイタリア語ヴァージョン「Un’estate fa」、スペイン語ヴァージョン「Una bella historia」でも録音し、それぞれの国でリリースしている。 「La belle histoire」は1972年にリリースされたLP「Fugain et le Big Bazar」にも収録された。 Claude Françoisは1974年3月2日Europe1の番組でこの曲をカバーしている。 Claude François https://www.youtube.com/watch?v=PA19eNfWGMk 日本のコーラス・グループ「サーカス」が1978年にリリースした「Mr.サマータイム」はこの曲に滝真知子が日本語の歌詞を付けたもの。 |
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今月の顔 2019年9月 septembre 2019 ローズRose 女性ACI Roseが「La Liste/リスト」などを収録したファーストアルバム「Rose」をリリースしたのは2006年9月22日 「La
Liste」(2006年 Rose作詞/作曲) 2007年の「Fête de la chanson」でhttps://www.youtube.com/watch?v=epiIMfIYa1A 歌詞の大意 ・・コンサートに行くこと、部屋を緑に塗り替えること、ウオッカを飲むこと、IKEAに行くこと、デコルテを着ること、家具を一つ借りること、すべてをめちゃめちゃにすること、具合が悪いふりをすること、何でもないことに涙を流すこと、犬を買うこと、地下鉄に乗ること、あなたの写真を撮ること、すべてを窓から投げること、心からあなたを愛すること。私にはそれしかできない、あなたを失望させるかも知れないし、こんなことはみなごく普通なことだけど、これがあなたと一緒にしたいことのリスト。 あなたの悩みを軽くすること、一日中部屋に籠もること、愛の言葉を書き連ねること、寝坊すること、あなたにぴったり寄り添うこと、あなたの過ちを許すこと、ギターを弾くこと、カート一杯に買い物すること、可愛い娘を持つこと、すべてを窓から投げ捨てること、心からあなたを愛すること。あなたと一緒にしたいことのリストはまだまだ完璧じゃない。 どこででもあなたにキスすること、酔って愛し合うこと、ニュース番組を見ること、少しばかり憂鬱になること、ジャニス・ジョプリンを聞くこと、あなたの眠っている姿を見ること、タンデム自転車に乗ること、お互いに幸せだと言うこと・・ 1.Roseの略歴 Rose、本名Keren
Meloul、1978年5月24日NIce生まれのACI。Nice大学で法律を勉強後、2年間パリ19区で小学校の先生に。Janis Joplin[彼女の芸名はMark Rydell監督の映画でJoplinがモデルになっている「The rose」からとったもの]、Bob Dylanらのファンであった彼女、物心ついた頃からMoleskineモレスキンの手帳に詩を書き、それにギターで曲を付け歌っていた。2006年年初からParisの「L’Européen」、「Le
sentier des Halles」などに出演していた彼女の新鮮さ、エレガントな詩と声にレコード会社Sourceが注目しアルバム制作を企画。Alain Souchonは2006年3月のParisのOlympia及び6月のZénith出演の際彼女を前座で歌うよう招いた。 2006年9月22日ファーストアルバム「Rose ローズ」をリリース。 アルバムには彼女の作詞作曲による「La liste」、「Ciao bella/チャオ ベラ」、「Les jeux sont faits/賽は投げられた」、「Rose」など12曲が収められていて、60万枚以上の売り上げと言われている。 その後2006年末から2007年初めにかけてAxelle RedのLa Cigale公演、Olivia Ruizのツアーなどでも前座をつとめた。2007年3月から自身の小規模な地方ツアーを行い、5月にはパリのCafé de la Danseに、10月にはLa Cigaleにソロ出演。また、9月からは本格的な国内ツアーを行った。 2008年2月Globe de Cristalで最優秀女性歌手賞受賞、2008年6月スターとしてOlympiaに出演。 20009年10月19日2枚目のアルバム「Les souvenirs sous ma frange/私の前髪に隠された思いで」をリリース。 「J’ai
18 ans/私は18歳」、「Chez moi/私の家で」、「Yes
we did」(「オバマ大統領のスローガン「Yes we can」のパロディー」、「De ma fenêtre/我が家の窓から」など10曲収録。 2013年3枚目のアルバム「Et puis juin/そして6月」をリリース。「Et puis juin」(11年6月にパートナーとの間に誕生した長男Solalに捧げられている)、「Aux éclats je ris/私は大笑いする」、「Mais ça va/それで結構」など11曲収録。 「Et
puis juin」clip officiel https://www.youtube.com/watch?v=K7rQuuMYZCA 2014年にはミュージカル「Le Soldat Rose 2」の地方公演にLa boîte à meuf(女の子が飛び出すびっくり箱)役で参加。 2015年6月4枚目となる「Pink Lady」をリリース。これには4つ☆を与えている評価も。収められている12曲は全てRoseの作詞。作曲は自身の他、Mehdi Parisot、Loane Rathierらの協力を得ている。「他のアーティストとのコラボは今回が初めて。違った考えや感性を持っているアーティストとのピンポンは全く新しいものを生み出してくれた」。収められているのは:「Pour être deux/二人でいるために」(Jean-Louis Murat<1952-Auvergne地方生まれのACI>とのデュオ「Muratの最新アルバムが気に入って何度も聞いた時期だった。デモを送ったらすぐ承諾してくれた。『女性が書いた詩で、しっかりしたものに初めてお目にかかった』と言って」。この曲はその後ステージ、TV番組などではVianneyなどと歌っている)、「Je compte/私は計算する」、「Pink Lady」、「Partie remise/延期された試合」、「Comme avant/以前のように」、「Histoire idéale/理想的な物語」、「Selon les jours/日によって」、「Séparément/別々に」、「Je ne viendrai pas à demain/明日私は来ない」など。 「Pour
être deux」(Jean-Louis Muratと) https://www.youtube.com/watch?v=-DkiNPHiSrw 2019年9月新しいアルバムリリースの予定 Roseは他の歌手にも歌詞を提供していて、主なものには「Le dos tourné/背を向けて」(2010年Jeniferに)、「Suis-moi/僕に付いてきて」(2014年Louis
Bertignacに)、「Cogne/叩け」(2016年Patricia
Kaasに)など。 2.「La liste」などについて Roseはデビュー及びファーストアルバムについてインタビューで次のように語っている。 問:あなたの最初のアルバムは大ヒットしたが予想はしていたか? 答:全くしていなかった。それに、私にとってはすべてがあっという間の出来事だった。「La liste」を書いてからまだ1年半しか経っていない。この曲の今の評判の良さを見るとレコード会社は、多少は予想していたのかも知れない。でもこの曲を書いたときのはまさかこの曲が私の最初のアルバムに収められる最初の曲になろうとは思ってもみなかった。 問:あなたが歌手としての道に入ってきたのはだいぶ遅くなってからだが? 答:私はそんなことが可能だとは思っていなかったから。書くことは新しいことではなく、小さな頃からやっていたこと。ギターは父が教えてくれた。よく歌ってはいたが自分で作った歌ではなかった。大分経ってから私にも曲が書け、作曲でき、歌えるんだと解ってきた。 問:芸名はJanis Joplinをテーマにした映画から採ったと言うことだが? 答:私がJoplinに興味を持ちようになったのは20歳を過ぎてから。たまたま数枚の写真を見て直ぐに好きになった。彼女に関する資料を集めたが、そんなに多くはなかった。彼女が活躍したのが24歳から27歳という短い期間だったからだろう。それでも私はすべてを聞き、すべてを読んだ。アルバム、伝記などを。そんなことは私にはかって起こらなかったこと。彼女の人となり、人生すべてが私をとらえた。歌いながら綺麗になっていくのが私にはとても印象的だった。 問:Joplinと似ているところがあるのでは? 答:ほんの少しは。彼女が活躍していた頃にはドラッグがはやっていて、それをやることはことさら異常なことではなかった。フェステイヴァルの写真を見るとみんなL.S.D.をやっていたみたいだ。特殊な雰囲気の時代で今の私とは全く違う。でも「ろうそくを両端から燃やす」ような、自分の体をあまりいたわらない生活、私にも多少そんなところがある。音楽的には私は彼女のような声はない。 問:このアルバムはどんな風に作られたのか? 答:一歩一歩。1年かけて。 問:このアルバムは結果的には極めて個人的なテーマを扱うものになった。あなたの曲がラジオから流れることによって、あなたの自身の歴史がありふれたなものになってしまうというおそれはなかったのか? 答:その通りになってしまったけれど、それがアルバムは成功した理由でもある。ありふれたもの、どこにでもあるものだからこそ、それが誰にでも起こることなのでは。捨てられたり、悩んだり、大切な人を失ったり、お祭り騒ぎをしたりすることは誰にでもあること。私は自分のことを話したし、アルバムを買ってくれた人のことを話したの。 問:このアルバムに収められた曲の順序を見ると、暗い曲「Je ne sais pas/私には解らない」(titre caché/隠しトラック)で終わっているが? 答:このシャンソンは一種結論みたいなもの。この曲を作ったときにはスタジオにいた。私は全部語り終え最後に自問した。「ところで、結論は?もっとうまく行くのではないか、これを1年掛けて待っていたのかしらと」。そしたら何も解なくなった、自分が幸せかどうかさえも。 問:舞台に立つことはどう?好きか? 答:好きになってきたが、最初はきつかった。「La liste」はプロモーションで何回となく歌ったが、それ以外の曲は歌えるかどうか心配だった。ミュージシャンと何度もリハーサルを繰り返し、勉強した。10日ほど経ったらステージに立つことが楽しくなった。 問:影響を受けた歌手は? 答:音では70年代のフォーク、Bob Dylan、James Taylorなど、詩ではGainsbourg、BrassensにAlain
Souchon。 問:そのSouchonがあなたを前座で歌うように呼んでくれたわけだが、どのような経緯で? 答:同じレコード会社に属しているので、会社が彼に私のアルバムを聞いてもらったら、気に入ってくれて。最初に会ったのが現場、Olympiaだった。彼が私を観客に紹介してくれた。本当に嬉しかった。それに彼は私の詩が好きで、私をフランスで最も優れた詩を書くアーティストの一人だと言ってくれた。光栄なことだ。 問:このアルバムの中から1曲選ぶとしたら? 答:私の一番好きな曲というわけではないけれど「La liste」になるだろう、私に幸運をもたらした曲だから。でも私の一番好きなのは「Ciao
bella」。 「Ciao bella」2012年11月https://www.youtube.com/watch?v=zV_56FvDCwM |
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2019年8月 août 2019 ヤニック・ノア Yannick Noah
Yannick
Noahがアメリカの女性黒人政治家Angela Davisをテーマにした「Angela」などを収録し、disque de diamant/ダイアモンド・ディスクになったアルバム「Frontières/国境」をリリースしたのは2010年8月23日。 「Angela」(2010年 Robert Goldman作詞/作曲) ・・・作詞/作曲はRobert GoldmanがMoïse Albertの名で。Robert Goldman(Paris 1953-作詞・作曲家)はJean-Jacques Goldman(Paris1951-ACI)の弟。1970年代からFlorent Pagny、Céline Dion、Chimène Badi、Michel Sardou、Noahなどのために70曲以上を作詞作曲して提供している。その際にJil Kapler、Moïse Albertの別名を使うことがある。 Clip officiel https://www.youtube.com/watch?v=7hHHAm9_a_M 「Le concert pour l’égalité/平等のためのコンサート」で2011年7月14日https://www.youtube.com/watch?v=JmWHvPOo78o 歌詞の大意 ・・1968年アメリカはかたくなだった。錆び付いていたネジに一人の天使(注1)が抗議の声を上げた。「I’m black and I’m proud」。黒人居住地区からの息吹。メキシコではある夕べ、黒い手袋が差し上げられた(注2)。 Marthin Luther Kingマーティン・ルーサー・キングの迫害された夢。焼かれた一人の裸の少年(注3)。暗殺されたBobby(注4)。追いつめられたPanthère noire/ブラックパンサー.。不寛容の教訓。この女性は有罪、希望を持った故に。Oh! Angela、oh! Angela、my
home is your home ,oh! Angela, you know you’ll
never walk alone。・・・2008年11月シカゴの夕べ(注5)、全ての州は、一つになり、肌合いを変えた。世界が敬意を表し、チャンスが来たと語った。Angela、その夕べ僕は君のことを思った・・Oh! Angela、my
home is your home,oh! Angela, you know you’ll
never walk alone。Angela my sister、Ton nom dans nos vies resonne:あなたの名は我々の生活の中で鳴り響いている・・ ・・(注1)Angela Davis(Alabama1944-)へのオマージュ。アメリカの女性黒人政治運動家で1950年代から黒人の公民権運動のパイオニアとして活躍した。The Rolling Stonesの1972年「Sweet Black Angel」は彼女に捧げられている。 ・・(注2)1968年メキシコオリンピックの際の男子200m金メダリストTommie
Smithと銀メダリストジョン・カーロスJohn Carlosgsが人種差別に抗議して黒手袋を掲げたこと ・・(注3)ヴェトナム戦争中ナパーム弾で焼かれた少年 ・・(注4)Bobby (Robert
Francis Bobby Kennedy1925-1968.6.6):JFK(1917-1963.11.22)の実弟 ・・(注5)2008年11月4日シカゴのおけるBarack
Obamaの大統領選勝利宣言 1. Yannick
Noahの略歴 1960年5月18日Ardennes県Sedan 生まれの歌手・テニスプレイヤー/ナショナルチーム監督。 父親の出身地カメルーンで3歳からテニスを始める。アメリカの伝説的テニスプレイヤーArthur Asheに才能を認められ、ニースのフランステニス連盟で練習に励み、1983年には全仏オープンで優勝。その後幼い頃からの情熱の対象であった歌の道に。フランス語、英語、カメルーン語で歌う・・ ・1991年ファーストアルバム『Black & What』:「Saga Africa/サガ アフリカ」、「Don’t
stay」、「My love is gone」、「My
Friend Joe」など11曲。歌手としても注目される ・1993年セカンドアルバム『Urban Tribu』リリース後、国内で40数回の「Urban Tribuツアー」コンサート実施、人気を確実なものに ・1993年2月Les Enfoirésに初参加。2012年まで11回参加 ・2000年9月アルバム『Yannick Noah』:「Simon Papa Tara/シモン パパ タラ」、「Les
lionnes/雌ライオンたち」、「La voix
des sages/賢者たちの声」、「Sans moi/僕なしで」など12曲、150万枚でdisque de diamant 「Simon Papa Tara」Clip officiel https://www.youtube.com/watch?v=fyxHLnDODbA ・2001年7月vedetteとしてOlympiaに初出演。2000年12月David Hallydayの前座で初めて出演している。 ・2001年10月「Les enfants de la
terre/地球の子供たち」協会(母親が会長)支援のコンサート ・2003年8月アルバム『Pokhara/ポカラ』(ネパールの都市):「Si tu savais/君が知っていたら」、「Ose/おもいきってやってみろ」、「Mon Eldorado/僕の黄金郷」など12曲、130万枚の売り上げでdisque de diamant ・2005年6月アルバム『Metisse(s)/混血の女性(たち)』(半分はlive、半分は新曲。「正に種々の文化が入り交じっているフランスのイメージそのもの」):「Metis(se)混血の」(Diziz la Pesteとのデユオ」、「Take your time」(ジャマイカのJimmy Cliffとのデュオ)、「La Bombe humaine/人間爆弾」(Téléphoneのカバー)、「C’est pour toi/それは君のため」など11曲 ・2005年7月実施「Le Top 50 des personnalités préférées des Français/フランス人の好きな人物トップ50」アンケートで1位。その後2012年7月実施分までの間10回1位 ・2006年10月アルバム『Charango/チャランゴ』(Charangoは南米アンデス地方の民族楽器で小型のギター):「Donne-moi
une vie/僕に一つの命を下さい」、「Danser/踊る」、「Aux arbres, Citoyens/木を、市民よ」、「C’est
toi/それは君」、「J’y crois encore/僕はまだそれを信じている」、「Assez bon pour moi/僕には十分に良い」など14曲、130万枚の売り上げでdisque de diamant 「Aux arbres, Citoyens」 2007年Paris Zénith https://www.youtube.com/watch?v=DTmsx17piZ0 ・2010年7月MarseilleのBaumettesから8箇所の刑務所でコンサート(2014年6月にはParis郊外のFresnes刑務所で) ・2010年8月アルバム『Frtontières/国境』 ・2010年9月25日Stade
de Franceでのコンサート。10万人以上の観客 ・2012年5月アルバム『Hommages/オマージュ』(ジャマイカのレゲ歌手Bob Marleyへオマージュ):「Easy Skanking」など11曲 ・2014年6月最新、10枚目のアルバム『Combats ordinaries/通常の戦い』:「Je n’aurai pas le temps/僕には時間がないだろう」、「Ma
colère/僕の怒り」、「Ainsi va la vie/人生はこのように過ぎて行く」、「Les pieds nus/素足」、「Où es-tu?あなたはどこにいるの?」、「Mon dernier amour/僕の最後の恋人」、「Les murs/壁」など14曲 ・2016年デ杯フランスチームの監督に就任、2017年優勝 ・2019年6月12日シングル「Viens/お出で」をリリース 2.アルバム「Frontière」について アルバム「Frontière」は、2006年にリリース130万枚以上売り上げたといわれている「Charango」から5年振りでNoahの8枚目のもの。2008年からNoahはアメリカNYに住む。「NYは人々のエネルギー溢れる、刺激的な、雑多な街、そこには国境がない。だから逆にタイトルを『国境』とした。」。社会問題に積極的にコミットするNoah、このアルバムに収められている14曲の中には、当時の、そしてそれは現在の、問題にそれまで以上に攻撃的に取り組んでいるものも。アルバム「Frontière」は2010年8月23日にリリース、リリースの週から4週間連続してフランスのアルバムチャートの1位。ベルギーでもアルバムチャートの1位になっている。62万枚の売り上げでdisque de diamant(注)。 収められているのは「Angela」の他に次のよう曲が: ・「Ma pomme/僕のリンゴ」は「big apple」と呼ばれるNYへの讃歌。自分自身の多文化性を誇り、「Douala[カメルーン共和国の最大の都市]でも、Parisでもなく、この街で僕は我が家を感じる」。 ・「No One’s Land」(フランス語で歌われている)では「あなたの思想は何?パスポートとヴィザを見せなさい。どこから来たのか?どこの生まれか?この国には法律があり、あなたはこの国に入ることも、滞在することもできない。書類が不備だから・・」 ・「Dans le rio grande/リオ グランデで」ではメキシコからアメリカへの移民問題 ・「Frontières」では「あなた方に現実には存在しない世界を語ろう。国境が分かつことのない世界を・・」 Clip officiel https://www.youtube.com/watch?v=MCXJl0hyxb8 ・「Hello」ナイジェリア出身の女性歌手Asaとのデュオ、ヨーロッパとアフリカの架け橋になりたい ・「Ça me regarde/それは僕に関係がある」・・僕は死ぬまで一生目を閉じたままでいることができようか?自分が外出するためだけにドアーを開けるなんてことがあろうか?痛みを抱えている人に思いをいたさずに、自分自身に期待することができようか?・・それは僕に関係のあること、君に、我々すべてに関係あること、知識人も、市井の人も、黄色い人、白い人、黒い人、赤い人すべてに関係あること・・ https://www.youtube.com/watch?v=MCXJl0hyxb8 (注)disque de diamantの売り上げ枚数による認定基準は2006年6月30日までは100万枚、2006年7月1日~2009年6月30日75万枚、2009年7月1日以降は50万枚。 |
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今月の顔 2019年7月 juillet 2019 Renaud & Axelle Redがデュオで歌った「Manhattan-Kaboul/マンハッタン=カブール」をシングルリリースしたのは2002年7月22日 「Manhhatan-Kaboul」(2002年 Renaud作詞/Jean-Pierre Bucolo作曲/Renaud & Axelle Red歌) 2003年2月15日 Victoire de la musique でhttps://www.youtube.com/watch?v=YH1CfGlOfrc 歌詞の大意・・ Renaud・・僕は若いプエルトリコ人。アメリカ社会によく適合して、ほとんどニューヨーカー。すべてガラスと鉄でできたビルの中で、仕事をし、コークを飲み、コーヒーを飲む。 Red・・私はアフガニスタンの少女。地球の反対側に住み、マンハッタンなんて聞いたこともない、私の日常、それは惨めさと戦争。 Renaud & Red・・地球の遠く離れた所に住むお互い知らない二人。こんなにも違う二人。無名の二人。生け贄台の上で、果てしのない暴力によって木っ端微塵に吹き飛ばされた。 Renaud・・1機のボーイング747が僕の窓に突っ込んできて爆発した。 Red・・爆撃が私の村を破壊しつくした。あんなに青かった空は雷雨に変わった。 Renaud & Red・・地球の遠く離れた所に住むお互い知らない二人。こんなにも違う二人。無名の二人。生け贄台の上で、果てしのない暴力によって木っ端微塵に吹き飛ばされた。 Renaud・・あばよ!僕のアメリカンドリーム。 Red・・私はもう権力の犬たちの奴隷ではない。 Renaud・・彼らは君にイスラム教徒になるように強制した。彼らは一度でもコーランを読んだことがあるのだろうか。 僕は再び塵になった。僕はこの世の支配者にはなれない。僕が愛したアメリカって、足が粘土の巨人に過ぎなかったんだ。 Red・・色々な神、色々な宗教、文明のための戦争、多くの兵器、国旗、祖国、国家、こんなものがいつも我々を大砲の餌食にする。 Renaud & Red・・地球の遠く離れた所に住むお互い知らない二人。こんなにも違う二人。無名の二人。生け贄台の上で、果てしのない暴力によって木っ端微塵に吹き飛ばされた・・ 1-1.Renaudの略歴 1.Renaud(本名Renaud Séchan)は1952年5月11日 Paris 14区生まれのACI。 1968年いわゆる「5月革命」のバリケードの中で曲を作り始め、73年から友人のアコーデオニストを伴い路上で歌う。 ・1975年3月ファーストアルバム『Amoureux
de Paname/パナム(パリ)の恋人』 ・1977年『Laisse béton/放っておいてくれ』(laisse tomberの逆さ言葉」):「Laisse béton」など12曲。55万枚 ・1983年『Morgane de toi/お前に夢中』10曲。SACEMの「Prix Raoul Breton/ラウル・ブルトン(作詞・作曲)賞」受賞 ・1985年『Mistral gagnant/ミストラル ガニャン』:「Mistral gagnant」、「Miss
Maggi」など11曲 ・1991年『Marchand de cailloux/小石売り』:「Marchand de cailloux」、「P’tit voleur/小さな泥棒」など14曲。ACC大賞 ・1996年『Renaud chante Brassens/ルノー、ブラッサンスを歌う』(Brassensの23曲をカバー) その後停滞期 ・2001年VdM特別賞 ・2002年『Boucan d'enfer/地獄の大騒音』:「Manhattan-Kaboul/マンハッタン=カブール」(Axelle Redとのデユオ)、「Cœur perdu/失われたこころ」、「Boucan d’enfer」など14曲でカムバック ・2003年VdMでアルバム賞、男性歌手賞及び「Manhattan-Kaboul」」によりオリジナルシャンソン賞を受賞 ・2004年Académie FrançaiseのGrande Médaille受賞 ・2006年『Rouge sang/赤い血』:(「Les Bobos/ボボたち:bourgeoisでbohèmeの人たち」、「Malone」、「Rouge sang」、「Les cinqsens/五感」、「Jusqu’à la fin du monde/世界の終わりまで」など17曲 ・2009年『Molly Malone-Balade irlandaise/モリー・マロン=アイルランドのバラード』:「Je viendrai/僕は戻るだろう」、「La ballade nord-irlandaise/北アイルランドのバラード」など13曲 「La ballade
nord-irlandaise 」 https://www.youtube.com/watch?v=BlrryHBmS6Q その後再度の停滞期。 南仏Provence地方、Vaucluse県、L’Isle-sur-la-Sorgueに居を構える ・2012年CD18枚組の『Intégrale/全集』、 ・2013年「Ordre des Arts et Lettres/芸術・文芸勲章」のCommandeur章を受章 ・2014年6月活躍中の歌手によるRenaudのヒット曲のカバーアルバム『La bande à Renaud/ルノー軍団』がリリースされた。10月『La bande à Renaud volume2』がリリースされた。いずも好評 ・2016年4月16枚目のスタジオ録音『Renaud』:「J’ai embrassé un
flic/僕は警官を抱きしめた」、「Les mots/ことばたち」、「Toujours debout/まだ立っている」など13曲で再度のカムバック 「Toujours debout」 https://www.youtube.com/watch?v=kGU-ud8BS_4 ・2016年5月自伝「Comme un enfant perdu/道に迷った子供のように」刊行 ・2018年12月10日SACEM特別賞受賞(長年ののキャリアに対し) Renaudはフランスでの人気は高く、Ifop(フランス世論研究所)が毎年2回行うアンケート「フランス人の好きな人物」では、常に上位。 1-2.Axelle Redの略歴 Axelle Red(本名Fabienne Damal)1968年2月15日ベルギーLimbourg県Hasselt 生まれのACI。幼少の頃から歌手になることが望み。1983年(15歳)、Fabbyの名で最初のSP「Little
girls」をリリース、国内で知られるように。その後数枚のレコードをリリースしたが、本格的な歌手活動を始めたのはブリュッセルの大学で法律の学士号を取得した後。最初のレコードから10年経った・・ ・1993年9月ファース『Sans plus attendre/これ以上待つことなく』:「Sensualité/官能」など12曲収録。これによりベルギー国外でも知られるように。アルバムはフランスで40枚以上売り上げるなど、世界中で60万枚以上の売上げ ・1996年2枚目の『A tâtons/暗中模索で』:「A tâtons」、「Rester femme/女性のままで」など14曲を収録。世界中で100万枚以上売上げ(フランスでは65万枚以上)の大ヒット 「Rester femme」 https://www.youtube.com/watch?v=DklY8iN6oU4 ・1998年6月10日「Coupe du monde de football/サッカーワールドカップ」の開会式にStade de Franceで、公式テーマ曲「La cour des grands/大国が集う庭」をYousson N’Dour(Dakar1959-セネガル出身のACI)とのデュオで歌う ・1999年2月VdMで女性歌手賞を受賞 ・1999年『Toujours moi/いつも私が』11曲収録 ・2003年VdMでRenaudとデュオで歌った「Manhattan-Kabour」がオリジナルシャンソン賞受賞 ・2002年11月『Face A, face B/A面、B面』12曲収録 ・2003年Edith Piafトリビュートアルバム『L’hymne à la môme/モーム讃歌』に「Mon Dieu/モン・デュー」で参加 ・2006年9月6日フランスの 「L’Ordre des
Arts et des Lettres/芸術・文芸勲章」Chevalier章受章 ・2006年10月『Jardin secret/秘密の庭』15曲収録 ・2007年ベルギーの「L’Ordre de la
Couronne/王冠勲章」Commandeur章受章 ・2011年4月『Un cœur comme le mien/私のハートと同じハート」』(当代を代表するACIに歌詞の提供を受けそれにRedが曲を付けた曲など):「Présidente/女性大統領」、「La claque/平手打ち」、「Entre nous/私たちの間に」、「L’amour, la mer, la mort/愛、海、死」(Stéphan Eicherとのデュオ)、「Mille regrets/千の後悔」など13曲収録 ・2013年2月9枚目『Rouge ardent/燃えるような赤』:「Rouge ardent」、「Amour profond/深い愛」、「C’est une ville/一つの町」、「Je te l’avais dit/あなたにそう言ってあった」、「La maison déserte/人気のない家」など10曲収録 ・2016年3月セルフカバー『The songs (Acoustic)』(CD2枚組、24曲をアコースティックでセルフカバーして収録) ・2018年3月16日10枚目のアルバム『Exil/亡命』:「Le plus
beau reste à venir/最も美しいものはこれからやってくる」、「Un ami/男友だち」、「Le grand retour/偉大なる復帰」など11曲収録 「Le plus beau reste à venir」 https://www.youtube.com/watch?v=guMNaRGt1Ck 2.「Manhattan-Kaboul」について Renaudは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件及び第2次アフガニスタン紛争を目の当たりにして詩を書き出した。NYマンハッタン地区のWorld Trade Centerビルの航空機による爆破テロで死亡したプエルトリコ出身の若者と、アメリカを中心とする有志連合軍によるカブール空爆により死亡したアフガニスタンの少女を主人公にした、デュオで歌うことを想定した物語を。曲はJean-Pierre Bucoloが過去に作って、引き出しに仕舞ってあったもののうちから提供された。Jean-Pierre Bucolo(1954-)はギタリストで、作曲家。Francis
Cabrel、Johnny Hallydayらの伴奏者、作曲者を務め、1985年にはRenaudのアルバム『Mistral gagnat』に収録されたいくつかの曲を作曲している。そして同じレコード会社に所属し、つとに社会の問題に積極的に関わる人道主義のACIとして知られているAxelle Redにデュオで歌うように依頼し、Redは快諾。「Manhattan-Kaboul」は2002年5月26日にリリースされたRenaudのアルバム『Boucan d’enfer』に収録され、7月22日には「Tout arreter」とのカップリングでシングルリリースされた。このシングルは70万枚以上売り上げる大ヒットになった。2003年2月15日にParisのZénithで行われた第18回VdMの授賞式でオリジナルシャンソン賞を受賞。この年この賞の他の候補は、「Tu es mon autre」(Lara Fabian & Maurane)、「Marie」(Johnny Hallyday)、「J’ai demandé à la lune」(Indochine)、「La fille d’avril」(Laurent Voulzy)といずれもそれぞれの歌手の代表曲であり、2000年代初頭を代表する曲であったにもかかわらず。さらにラジオ局「NRJ」の音楽賞でも「フランス語圏のシャンソン」賞を受賞。この曲は多くの歌手がカバーして歌っている。2015年にリリースされたRenaudへのオマージュアルバム「La Bande à Renaud 2」ではThomas DutroncとNikki Yanofskyが歌っている。Joan Baezはフランスツアーの際にはこの曲を歌っている。 Dutronc & Yanofky https://www.youtube.com/watch?v=JI952j_JokI Joan Baez https://www.youtube.com/watch?v=XxCWsqOC_hE |
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今月の顔 2019年6月 juin 2019 ローラン・ヴルジー Laurent Voulzy: Laurent
Voulzyが1980年代を代表するヒット「Belle-Ile-en-Mer, Marie Galante/ベリル・アン・メール、マリ・ギャラント」をB面に収録したSPレコードをリリースしたのは1985年6月1日。 「Belle-Ile-en-Mer, Marie
Galante」(1985年 Akain Souchon作詞/Laurent
Voulzy作曲) 1985年11月19日 https://www.youtube.com/watch?v=QSyZWsS_UZc 2013年1月25日 ParisのSaint Eustache教会でhttps://www.youtube.com/watch?v=UNbgr6zt_E0 歌詞の大意: ・・ベリル・アン・メール島、マリ・ギャラント島、サン・ヴァンサン島、遠くシンガポール島、セイムール島、セイロン島、これらの島々を大陸から ベリル・アン・メール島「Belle-Ile-en-Mer」・・ブルターニュ地方、キプロン半島から14kmの大西洋上 マリ・ギャラント島「Marie-Galante」・・カリブ海にある仏領グアドループ県を構成する島の一 サン・ヴァンサン島「Saint-Vincent」・・カリブ海の英連邦の島 シンガポール島「Singapour」・・アジア、マレー半島の最南端の島、シンガポール共和国を構成 セイムール島「Seymour」・・南米カラバゴス諸島の一 セイロン島「Ceylan」・・インド大陸南東に位置する島。現マレーシア カルケラ島「Karukera」・・カリブ海にある仏領グアドループ群島の一 カレドニア島「Calédonie」・・オーストラリア東方、フランス海外領土である島 ウエサン島「Ouessant」・・ブルターニュ地方、Finistereから20kmの大西洋上の島 ヴァージン諸島「Vierges」・・カリブ海にある諸島 1.Laurent Voulzyの略歴 1948年12月18日パリ生まれのACI、アレンジャー、ギタリスト。両親はグアドループGuadeloupe(カリブ海のフランス海外県)生まれ。 ・1974年レコード会社のディレクターを通じてAlain Souchon(1944-ACI)と知り合い、その後Souchon作詞/Voulzy作曲で数々のヒット曲を。 ・1974年Souchon のファーストアルバム『Alain Souchon』に収録された「J’ai dix ans/僕は10歳」がSouchon/Voulyコンビの最初の曲。 ・1977年4月SP「Rockollection/ロッコレクション」(Souchon/Voulzy/Voulzy歌)をリリース。フランスで年間チャート1位に。 ・1979年ファーストアルバム『Le cœur
grenadine/グルナディンの心』をリリース。「Le cœur grenadine」、「Grimaud/劣等生」、「He! P’ ・1980年SouchonのvedetteとしてのOlympia出演にゲストで、2曲デュオで歌う ・1983年6月セカンドアルバム『Bopper en
larmes/涙のボッパー』:「Bopper en larmes」、「Liebe/愛」など13曲収録。 ・1985年6月B面に「「Belle Ile en Mer-Marie Galante」を収録したSPリリース。 ・1992年6月サード『Caché derrière/後ろに隠れて』:「Caché derrière」、「La rêve du pecheur/pecheurの夢」(pecheurは「pêcheur ・1992年12月SACEMのGrand Prix
de la chanson françaiseを受賞。 ・1993年2月8日VdMで『Cache
derrière』アルバム賞受賞。 ・1993年3月23日から3週間Casino de Parisに出演、初めてソロでステージに。その後ツアー 12月Paris
Zénithまで。94年CD2枚組2 ・1994年Les Enfoirésに初出演、その後2002年までに5回出演。 ・2001年12月4枚目のアルバム『Avril/4月』リリース。「Quatre nuages/4つの雲」、「La fille d’avril/4月の少女」、「Je suis venu ・2006年6月アルバム『La septième vague/第7の波』((50年代から80年代に世界的にヒットした曲などのカバー)をリリース。「Do ・2011年11月8枚目アルバムの『Lys & love』(新曲を集めたアルバムは10年ぶり)をリリース。「Ma
seule amour/私のたった一人の ・2014年11月アルバム『Alain Souchon & Laurent Voulzy』(40年コンビを組んでいる2人の最初のデュオアルバム)リリース。「 ・2015年4月13日Globe de CristalでAlain Souchon et Laurent
Voulzy男性歌手賞受賞。 ・2017年9月1日最新9枚目のスタジオ録音アルバム『Belem/ベレム』(ブラジル北部の都市「Belem」、Antilles諸島を航行する3本マ 2.「Belle-Ile-en-Mer, Marie Galante」について Voulzyは肌の色が褐色だったため、孤独感、孤立感を感じていた。「1956年から58年頃学校で肌の色が白くなかったのは僕一人だった。 1983年にVoulzyは初めて両親の出身地であるGuadeloupeを訪ねた。3日間滞在であった。そして、自分が幼少の頃感じた孤独感、孤立 1985年リリースのSP 1986年リリースのSP |
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今月の顔 5月、 mai 2019 ナターシャ・サン=ピエールNatasha St-Pierは2001年5月、第46回Eurovisionにフランス代表として出場、「Je n’ai que mon âme/私にあるのは心だけ」を歌い4位。 「Je n’ai que mon âme」(2001年Jil Kapler作詞/作曲) 2001年5月12日 Eurovisionでhttps://www.youtube.com/watch?v=ZpKIIGr2Q0Y 歌詞の大意: ・・話すことが必要なら、自分たちのことを話すことが必要なら、あなたの気持ちは以前ほど燃えていないし、二人の間で愛が語られることはないのだから、私の話を聞いて下さい。私のことをあなたに話すために私にあるのは心だけ。私の心と私の声だけ。私の指の先にあるのはか弱い炎、あなたに私のことを話すためのとるに足らない武器。 たとえあなたが私はあなたのもの、私たちの歴史はこれからも一歩一歩私たちの後をついてくるだろうと言っても、私にはよく分かっている、愛にはそれなりのルールがあると。 私たちの愛を救う必要があるなら、私の話を聞いて下さい。私のことをあなたに話すために私にあるのは心と声だけ。そしてあなたの声を聞くと燃え上がる私の体だけ。 私は密かにあなたを愛している一人の女。もし私が声を忘れたら神様が私を地獄へ落としてもいい、もしあなたがもう私の進むべき道でなくなったら、人生が私を罰してもいい、あなたのために燃えている炎は消えてもいい。 私のことをあなたに話すために私にあるのは心だけ・・ 1.Natasha St-Pier略歴 St-Pierは1981年 Canada、Nouvelle-Brunswick州、Bathurst生まれの歌手、TV司会者。英語を話す母親とフランス語を話す父親とのお陰で仏英のバイリンガル。シャンソンフランセーズで最も美しい声を持つ女性歌手に一人と言われている。幼少の頃からピアノ、バレーを習い、1993年には地元テレビ局ののど自慢番組で最も若い決勝進出者になりカナダのフランス語圏で有名に。14歳で最初のアルバム「Emergence/突然の出現」をQuébecでリリース、20万枚売り上げたと言われている。1999年ミュージカル「Notre-Dame de Paris」のQuébecとロンドン公演にFleur-de-Lys役で出演。2枚目のアルバム「A chacun son histoire/人それぞれにはそれぞれの歴史が」を2000年カナダで、2001年4月にはフランスとベルギーでリリース。フランスでリリースされたヴァージョンには「A chacun son histoire」、「Je n’ai que mon âme」が収められていて、好評、10万枚以上の売り上げ。ケベック出身のGarou(1972- 歌手)がヨーロッパツアー(特にParis、Olympia公演を含め)の前座に彼女を起用したことなどもありフランスで人気になり、その後フランスに居住している。2001年Eurovisionで4位。2002年3月19日Pascal Obispoに提供された曲(「Tu trouveras/あなたはきっと分かる」など)を中心にしたアルバム「De l'amour le mieux/最高の愛を」をリリース、フランスで60万枚以上の売り上げ。このアルバムは2003年19月29日には日本でもリリースされた。2002年9月にはvedetteしてOlympiaに出演。2003年VdMで新人賞を受賞。2003年6月にはJohhny Hallydayの60歳記念コンサートに招かれ、6回同じ舞台に立った。2003年11月のアルバム「L’Instant d’après/直後」も50万枚以上売り上げ。その後も定期的にアルバムをリリース。その中で特に話題になったのは2013年4月22日にリリースした「Thérèse,vivred’amour/テレーズ、愛に生きる」。これはSainte Thérèse de Lisieuxの詩にGregoire(1979-ACI)が曲を付けた16曲を、St-Pierがソロで(「Jetter des fleurs/花を投げる」ほか)、あるいはAnggunとのデュオ(「Vivre d’amour/愛に生きる」ほか)などで歌っている。Sainte
Thérèse de Lisieux(1873-1897)は16歳でLisieux(Calvados県)のカルメル会の修道院に入り24歳、結核で死去、死後自叙伝「Histoire
d’une Ame/一つの魂の物語」が出版され、世界中でベストセラーに、1925年列聖された。また2018年6月3日にはその続編「Thérèse de Lisieux, Aimer c’est tout donner/愛することはすべてを与えること」をリリース、これには作曲とバックコーラスで、カトリック教徒で構成されるロックグループGloriusの協力を得た「Aimer c’est tout
donner」、「Enfant tu conais mon nom/我が子よ、お前は私の名を知っている」、「Mon ciel à moi !/私の空」など13曲が収められている。St Pierは2013年9月から2014年6月までTVFrance3で放送された歌謡番組「Les chansons d’abord」の司会を務めた。2003年から2015年までの間に11回Les Enfoiresに参加。2012年消防士と結婚(1男)したこともあり「消防士の遺児を支援する協会」の活動に積極的に参加している。 「Tu trouneras」作曲者のPascal Obispoと https://www.youtube.com/watch?v=GBCCMjDglPM 「Vivre d’amour」clip officiel https://www.youtube.com/watch?v=NNsFHiW4oD0 「Aimer c’est tout donner」https://www.youtube.com/watch?v=vNX8tYn8Hn0 2.2001年第46回Eurovision 1956年の第1回から出場しているフランスはこのコンクールで5回優勝している。すなわち:1958年André Claveauの「Dors,mon amour」、60年Jacquerine Boyerの「Tom Pilibi」、62年Isabelle Aubretの「Un premier amour」、69年Frida Boccarasの「Un jour, un enfant」及び77年Marie Myriamの「L’oiseau et l’enfant」。 2001年フランス国内でEurovisionの代表選考に当たっているTV局France3は、この年の代表をコンクールで選ぶ方式によらず、部内で選考することにした。それはコンクール方式で選んだ代表の前3年の成績が24、19、23位と芳しくなかったためだと言われている。そして、歌手としてはSt-Pierを、曲としては「Je n’ai que mon âme」を選んだ。「Je n’ai que mon âme」の作詞/作曲はJil Kapter。Jil
KapterはRobert Goldman(1953-作詞・作曲家、音楽プロデューサー。Jean-Jacques Goldmanの弟)が作詞・作曲の際使用する別名。 2001年第46回コンクールは前年の優勝者の出身国デンマークのコペンハーゲンで行われ、決勝は5月12日、1部英語を交えて「Je n’ai que mon âme」を歌ったSt Pierはエストニア、デンマーク、ギリシャ代表に続き4位であった。St Pierと同じくカナダ出身、1988年スイス代表として出場して優勝したCéline
Dionから「『冷静に、そして楽しんできて」』という激励の電話を受けたが、この先輩ほどの成績は上げられなかった。しかしフランスに帰った時には大歓迎を受けた」。St Pierの4位という成績は1995年のNathalie Santamariaの4位以降フランスの最高位。ちなみに、2009年のPatricia Kaasは8位、2011年のAmauri Vassiliは15位、2012年のAnggunは22位、2016年のAmirは6位、2018年のMadame Monsieurは13位。 |
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今月の顔 2019年4月 Avril 2019 ジョニー・アリディJohnny Hallyday(Paris 1943.6.15 - Marnes-La-Coquette2017.12.6 歌手、作曲家、俳優)は1960年4月18日TVに初出演した。 Johnny
Hallyday、本名Jean-Philippe
Smet、はParis 9区、Cité MalesherbesのVilla Marie-Louise産院生まれ。母Huguette Clercはフランス人、父Léon Smetはキャバレに出演していた芸人でベルギー人。生後8ヶ月に父親が失踪したこともあり、父方の叔母Hélène
Marに育てられ、ダンサーだったHélèneの娘2人、DestaとMenent、について国内、国外各地を回り、その間ダンスとギターを習う。1949年ロンドン公演の際Destaはアメリカ人ダンサーLee Hallidayと知り合い結婚、ダンスチームLes Hallidayを結成し各地を巡業、Jean-Philippeはそれについて回る。1953年Dusseldorf公演の際Les Hallidayのダンスの合間に初めてステージに立ち「David Crocket」などを歌い、その後はそれが常態に。14歳でElvis
Presleyの映画「Loving you」を見てロック歌手を目指す。Lee Hallidayはそれを応援、Jean-Philippeにエレキギターを贈り、アメリカに住む家族からレコードを送ってもらい提供。それによりJean-Philippeは誰よりも早く、PresleyやBill Haleyなど当時のアメリカでのヒット曲に接することができた。そして1958年から若者たちが集まるクラブ「Golf-Drouot」(2,rue Drouot Paris9区)に通う。「Golf-Drouot」はその後Parisにおける「Temple du rock/ロックの殿堂」と呼ばれるディスコに。Johnnyはそこで生涯を通じての友人になるJacques DutroncやEddy Mitchellと知り合う。またロックバンド「La ban de la
Trinite/トリニテバンド」(Triniteはパリ9区、Trinite教会を中心にした地区の名称)を結成して歌うように。1959年12月30日にはColette Renardがメインゲストを務めるラジオ番組「Paris-Coctail」に出演、「Let’s have a party」を歌う。その際作詞家コンビJil et Jan(Gilbert GuenetとJean Settiで、二人で組んでMaurice Chevalier、Sheilaなどに詩を提供)に認められ、Vogue社のアートディレクターJacques Wolfsongに紹介される。1960年1月16日Vogue社とJohnny Halliday(JohnnyはLeeの勧めによるものでアメリカ風に)の名で契約。1960年3月14日、「T’aimer follement(Makin’n love)」、「Laisse les filles/女の子をうっちゃっておけ」など4曲を収録した最初のEPをリリース。「T’aimer follement」は「Makin’n love」(Floyd Robinのヒット)にAndre Salvetらがフランス語の詩を付けたものでDalidaもレコーディングしていて2月にリリース、競作となった。Johnnyのレコードのジャッケットに誤って歌手を「Johhny Hallyday」と印刷された。その後はそれをそのまま芸名に。 Johnnyのレコードはリリース当初は一般には不評で、ラジオ局Europe 1から最初に流された時ディレクターのLucien Morisseは「皆さんがJohhny Hallydayの歌を聞くのはこれが最初で最後でしょう」と紹介したという逸話があるほど。しかしDaniel Flipacciが司会の同ラジオ局の若者向け歌謡番組で、月曜日から金曜日まで毎日番組17時から19時まで放送されていた「Salut les copains/やあ仲間たち」では頻繁に放送された。 Johnnyは1960年4月18日RTFの番組「L’Ecole des vedettes/スターの学校」でTV初出演。番組ではまずギターを弾きながら「Laisse les filles」を歌った。 「Lasse les filles」(1960年Jil et Jan作詞/Jean-Philippe Smet作曲) 歌詞大意:・・母がいつも言っている「お前は何もしないで時間を無為に過ごしている。ぶらぶらしていていないで働きなさい。アン、アン、アン 女の子に手を出すんじゃないの。これから先厄介なことは山ほどあるんだから、女の子に手を出すんじゃないの。私を信じなさい」。 母の忠告は無駄、僕は窓辺で女の子たちが通り過ぎるのを眺めて声を上げている、母が「女の子に手を出すんじゃないの」と大声で叫んでいる時にも。 昨日の夜バーのカウンターの側にあるジュークボックスの前でClaudeと楽しく踊っているとき突然母がやって来て、「これから先厄介なことは山ほどあるんだから、女の子に手を出すんじゃないの。私を信じなさい」。 哀れな僕、でも幸いなことに僕には応援してくれる父がいる。父はいつも僕に言っている「息子よ、行ってこい、女の子はそのためにいるんだから。女の子に愛されなさい、かわいがられなさい、優しくされなさい。私を信じて。そう、女の子たちに愛されなさい。愛されなさい」・・ (注)Claudeは当時Johnnyが親しくしていた女性の名。共産主義を信奉していたClaudeはアメリカの音楽に影響を受けたJohnnyとは意見が合わず、二人の仲は間もなく破綻したと言われている。 番組ではJohhnyが歌った後、ゲストのLine Renaudが、司会者Aimée Mortimerに答えて「彼はJohnny Hallyday/ジョニー・ハリディ、父親はハリディという名のアメリカ人、母親はフランス人。だから半分フランス人で半分アメリカ人」と紹介。Johnnyの父親はベルギー人であったからRenaudのこの発言は正確ではなかったが、すでにEPのジャケット裏面でJohnnyを「Americain, de culture française/フランス文化の影響を受けたアメリカ人。英語とフランス語で歌う」と紹介していたこと、またLee Hollidayが実質父親的な存在であったこともあり、Johnnyはあえて訂正しなかった。しかし1961年7月初めにCôte d’Azurでの公演の際、Johhnyは記者会見を行い、自分はアメリカ人ではないこと。父親はベルギー人、母親はフランス人、本名はJean-Philippe Smetであることを告白した。これはCharles Aznavourの忠告によったものだと言われている。Johnnyは1年間Aznavour宅に寄宿していたことがある。Johnny「僕は17歳(1961年)、Parisの小さなstudio/ワンルームマンションに住んでいた。僕に同情してくれたのか、素晴らしい家に住んでいた彼は『私の家に来ないか』と言ってくれた。そこで1年間過ごした。僕はいつもCharlesの右側に座っていた」。Aznavour「彼に歌のことで何かを教えたことはなかった。ただ私が自分の仕事をどう考えているかについて語った。彼は新人だったし、私はきっと彼が初めて出会ったスターだっただろうから。その頃彼はアメリカの出身で、テキサスの大農場で生まれ、大平原で育ったなどと言われていた。私が彼に言ったのは『これから先そんな風に語ってはだめ。将来スターになった時にそれを訂正するのは困難になる。誤った伝説を続けるのは良くない』。家ではよくセッションをやった姉のAidaがピアノを弾き、Johnnyがギターを弾き、みんなで歌った」。 TVに出演後レコードは評判になり、週間チャートの最高位4位になった。 |
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今月の顔 2019年3月 シメーヌ・バディChimène Badi 1.「Entre nous」(2003年 Rick Allison作詞/作曲) 「Entre nous」2003年https://www.youtube.com/watch?v=bYtB163crug 歌詞の大意: ・・「Entre nous/私たちのあいだでは」(2003年Rick Allison作詞/作曲) 歌詞の大意: ・・私たちのあいだでは、それは互いに求め合う二人の眼差しから偶然始まる物語、私たちのあいだでは。 私たちのあいだでは、私たちの両腕に、時が最初の出会いを与えてくれるだろう、私たちのあいだでは。私たちのあいだでは、去って行き、消えて行くのは時、私たちをその脈拍の中に取り込むのは人生、告白するのは心、私たちのあいだでは、私たちのあいだでは。 私たちのあいだでは、私たちが一緒にいないわずかな時間に嫉妬して触れる私たちの肌の下で私たちを燃やすのは告白。 私たちのあいだでは、それはいつかある日のではない、いつも帰りのない旅、私たちのあいだでは。 私たちのあいだでは、それは力、理性と過ち、それは欲望、私たちの首に食い込むのは。 私たちのあいだでは、去って行き、消えて行くのは時、私たちをその脈拍の中に取り込むは人生、告白するのは心、私たちのあいだでは、私たちのあいだでは。 私たちのあいだでは、私たちが一緒にいないわずかな時間に嫉妬して触れる私たちの肌の下で私たちを燃やすのは告白。 私たちのあいだでは、それは常に帰りのない旅、私たちのあいだでは・・ 2.Chimène Badiの略歴 1982年10月30にParis郊外Melun生まれの歌手。両親はアルジェリア出身。Villeneuve-sur-Lot(Lot-et Garonne県)で育つ。2002年TVM6のスター誕生番組「Popstars」に出場。 ・2003年3月ファーストアルバム『Entre nous/私たちのあいだでは』をリリース ・2003年6月21日ParisのChamps-Elyséesスタジオで行われた「Fête de la musique/音楽の祭典」に出演、これがステージ初登場 ・2003年6、7月Johhny Hallydayの60歳ツアーに招かれ、11公演で、「Je te promets/あなたに誓う」をデュオで歌う https://www.youtube.com/watch?v=xBlTJ5R2RtI ・2004年1月21、22日Casino de Paris(16,rue de Clichy 9区)で初のコンサー ・2004年Les Enfoirésに初出場、2014年までに7回出演 ・2004年10月セカンドアルバム『Dis-moi que tu m’aimes/愛していると言って』をリリース:「Le jour d’après/翌日」(映画「The day after tomorrow」のフランス語版のテーマ曲)、「Dis-moi que tu m’aimes」、「Je viens du Sud/南仏出身」(Michel Sardouのカバー)、「Je ne sais pas son nom/私は彼の名を知らない」、「J’ai tout oublié/私はすべて忘れた」など15曲収録、120万枚以上の売り上げでdisque
de diamantに ・2005年2月20、21日Paris、Olympiaに初出演。4月23日及び5月4日の公演が追加された。 「Je viens du Sud」2005年Olympia出演時https://www.youtube.com/watch?v=uKTLeu_KWd4 ・2006年liveアルバム『Live à
l’Olympia』をリリース ・2006年11月アルバム『Le Miroir/鏡』をリリース:「Le
Miroir」、「Pourquoi le monde a peur/なぜ世界は恐れるのか」、「Malgré tout/いずれにせよ」、「Tellement beau/とても美しい」(Dionの「Would I know」のフランス語によるカバー)など11曲収録 ・2010年5月アルバム『Laisse-les dire/彼らに言わせておけ』リリース:「Laisse-les dire」、「Plus de devoirs que de droits/権利よりの多く義務」、「En équilibre/釣りあっている」、「D’une fille à sa mère/一人の娘からその母へ」(Badiの詩)、「L’amour ne suffit pas/愛だけでは十分ではない」、「Et vous/そしてあなたは」など14曲収録 ・2011年11月5枚目のアルバム『Gospel and Soul』をリリース:仏・米のヒット曲などを、ゴスペル・グループLiberty Gospelとのデュオでゴスペル調にカバー。「Amazing grace」、「For once in my life」(Stevie Wonderのカバー)、「Ain’t no mountain high enough」(Marvin Gayeのカバー)、「Try my little tendress」(Otis Reddigのカバー)、「Mercedes Bentz」 (Janis Joplinのカバー)、「Le blues/ブルース」(Florent Pagnyのカバー)、「Parlez-moi de lui/彼のことを話して」(Nicole Croisilleのカバー)、「Quand je pense à ça/そのことを思うと」(Josephine Bakerのカバー)、「Ma liberté/僕の自由」(Georges Moustakiのカバー)など14曲収録。30万枚以上の売り上げで、disque de triple platineに 「Parlez-moi lui」2011年https://www.youtube.com/watch?v=wNSmjg7uo3U ・2013年7月から声帯不調により1年間活動を休止 ・2013年の報道では、BadiはTV各局が行っている各種スター誕生番組出身の歌手の中では、Nolwenn Leroy、Jeniferを抑えてレコードの売り上げが最も多い歌手。また、2003年から2012年の10年間のレコード売上げは370万枚で、女性歌手ではCeline Dion(437万枚)、Lorie(394万枚)についで3位。 ・2015年9月アルバム『Au-delà des maux/痛みを乗り越えて』をリリース:「Elle vit/彼女は生きている」、「L’usine/工場」、「Seule/たった一人」、「Au-delà des maux」、「Pour tous les hommes/すべての男性のために」、「Personne/誰も」など12曲収録 ・2016年4月28日~6月3日Paris Théâtre Mogador劇場で上演されたミュージカル「Cats」にGrizabella役で35公演に出演。「Ma
vie/私の人生」(「Memory」のフランス語版)などを歌う ・2017年3月Julie Zenatti(1981-ACI、両親はイタリア系アルジェリア人)らとのアルバム『Méditerranéennes(ici ou là-bas)/地中海沿岸の女性たち(こちらか、あちらか)』に参加。地中海のこちら側(フランス、イタリアなどヨーロッパ諸国)か、あちら側(アフリカ諸国)出身の、あるいはゆかりのある10人以上の歌手が参加、ルーツを語る曲など15曲収録、Badiは:「Ssendu/天の川」(ソロ)、「Zina(Ici ou là-bas)/ジーナ(こちらとあちら)」(Julie Zenattiとのデュオ)、 「Au café des délices/悦楽カフェーで」(Zenattiとのデュオ)などを歌う。 「Zina」clip officiel https://www.youtube.com/watch?v=v47KKhknmbQ ・2018年10月5日から2019年3月国内、ベルギー公演 ・2019年1月Eurovisionのフランス代表者を決めるコンクール「Destination
Eurovision」に出場、代表には選ばれず 3.アルバム「Entre nous」について 幼少のころから歌手になりたいという希望を持っていたBadiはTVのスター誕生番組に出場したいと願い、デモテープをStar Academie(TV局TF1のスタ誕番組)、Graines de star(TV局M6のスタ誕番組)に送った。しかし各局からOKの返事はなかった。Badiの才能を信じていた両親はBadiの希望を叶えるためにParisに転居するなど協力。Badiは2002年になってM6のスタ誕番組「Popstars」のBordeaux予選に合格、2002年8月29日から放送された同番組の第2シーズンに出演することができた。決勝は9月19日。この番組の目的は出場者のうち優れた者3人でグループを作り国内を巡業させると言うものだった。Badiの声は他の出場者とグループを組むのには適していないとされて早い段階に脱落。しかし本番の審査員の一人で、Bordeauxの予選でも審査員を務めていたレコード会社AZのディレクターであったValéry ZeitounはBadiの力強い声を高く評価、ソロの歌手としてやっていけると判断。BadiはAZ社と契約。そしてZeitounは2003年1月Badiにベルギー出身、カナダで活躍中のACI、Ricck Allisonを紹介。Allison(Bruxelles1964―)は気鋭の、人気のACI、プロデューサー、すでにLara FabianのCDのプロデュースを担当し、Fabianが世に出るのを後押ししていたほか、Fabian、Patrick Fiori、Roch Voisine、Johnny Hallydayなどに曲を提供していた。AllisonはZeitounの求めに応じBadiのために「Entre nous」を作詞/作曲。AllisonはBadiにデモを送り、「できればCanadaで録音したい」と提案。デモを聞いたBadiは感激、早速Canadaに飛び、MontréalのAllisonのスタジオで録音され、2003年1月28日シングルでリリースされ、フランスでは2週にわたりシングルチャートの1位を占めるなどのヒット。そしてBadiは2003年3月13日ファーストアルバム「Entre nous」をリリース。これには「Entre nous」、「Si j’avais
su t’aimer/あなたを愛する術を知っていたら」、「Pour l’amour qu’il nous reste/私たちにまだ残っている愛のために」、「Répondez-moi/返事を下さい」(Francis Cabrelが作詞/作曲し提供してくれた)、「En attendant/待ちながら」、「Comme une ombre/一つの陰のように」、「Jezebel/ジェゼベル」(Charles
Aznavourのヒットのカバー)、「Je vais te chercher/あなたを探す」、「Un père/父親」など11曲が収録されていた。このアルバムはフランスでのアルバムチャートの4位が最高位であったが、フランス国内で47万枚、他の国々での売り上げを合わせて80万枚以上という大ヒットになった。 「Entre nous」はGrégory Lemarchal(1983.5.13-2007.4.30 歌手)がカバー、Lemarchalの没後2009年にリリースされたアルバム「Rêves/夢」に収録されている。https://www.youtube.com/watch?v=p70b6aGI2C4 |
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今月の顔 2019年2月 fevrier 2019 サッシャ・ディステルSacha Distel
1.「Scoubidou」(1959年 フランス語の歌詩Maurice Tézé/Lewis Allan作曲・Sacha Distel編曲) 「Scoubidou」 1959年2月25日TV番組「Le magazin de la
chanson」で https://www.ina.fr/video/I04177683/sacha-distel-des-pommes-des-poires-des-scoubidous-video.html 「Scoubidou」 1977年4月12日TV番組「Pascal SevranのSurprise Party」で https://www.youtube.com/watch?v=qrS_hLDE2E4 歌詞の大意: ・・友人の家で彼女にあったとき、僕は尋ねた。「マドモワゼル、あなたの仕事は何?」ってね。すると彼女は答えた。「私はリンゴと梨を売っているの。それにスクビドウもね。そうスクビドウもね」。一晩中踊って、夜が明けてから僕たちは僕の家に行った。そこで愛について語り、果物について語った。彼女は我が家が気に入ったらしくて居着いてしまった。そして毎夜ディナーとして彼女は僕に食べさせる。リンゴと梨とスクビドウを。 そんなことは長続きするはずがない。なぜなら果物は、愛情と同じで控えめに食べなきゃいけないものだから。そうしないとひどい目に遭ってしまう。僕が彼女に「僕たち別れた方がいいね」と言った時、彼女は「あなたみたいな男の子は何千人と見つけることができるわ」。ここから僕が得た教訓、容易に想像できると思うけど、独り身でいる方がいい・・ 2.Sacha Distelの略歴 Sacha Distelは1933年1月29日パリ13区生まれ、ジャズギタリスト、歌手、作曲家、TV司会者。両親はロシアからの移民で、母親はピアニスト。母の兄弟の一人が楽団の指揮者で作曲家でもあったRay Ventura。Sachaは14歳で、当時叔父のバンドのギタリストであったHenri Saivadorにギターを学ぶ。そして若くして叔父のバンドのギタリストに。1951年VenturaはSachaをアメリカ、NYに送り出す。滞米中にStan Getz、Sinatra、Tony
Benet、さらにはLouis Armstrongなどの知己を得てギタリストとしての腕を磨き、また英語も堪能に。帰国後はSaint-Germain-des-Présなどのジャズクラブに出演。53年にはLionel
Hamptonとの共演でLP「French New Sound」を、56年にはJohn Lewisとの共演で「Afternoon in Paris」をリリース。またJuliette GrécoやSara Vaughanの伴奏者を務めた。50年代後半には「フランスで最も優れたジャズギタリスト」の名声を得る。 Distelは「プレーボーイのギタリスト」と言われ、58年にはBrigitte
Bardotの仲が喧伝され、また、Gréco、Jeanne
Moreau、Audrey Hepburniなどとの仲も噂になったがいずれも、長続きしなかった。63年スキーのチャンピオンFrancine Breaudと結婚、2児。Distelは50年代末から歌うようになり「Scoubidou」が最初のヒット。その後「La belle vie/美しい人生」(62年)、「Scandale dans la
famille/家庭内スキャンダル」(65年)、「Monsieur Cannibale/人食い紳士」(66年)、「Toute la pluie tombe sur moi/すべての雨が僕に上に降る」(70年「Raindrops keep fallin’ on my head/雨に濡れても」のTézéによるフランス語の詩)、「Le soleil de ma vie/僕の人生の太陽」(73年Bardotとのデュオ)など数々のヒット曲を出した。特に1962年の「La belle vie」(Jean Broussolle作詞/Distel作曲)は世界中でヒット、250以上のヴァージョンが生まれ、その中にはTony
Bennettなどが歌った「The good life」もある。63年から71年まではTVのアメリカ風の歌謡番組「Sacha Show」の司会を務めた。この番組はPetula Clark、Gilbert Bécaudの活躍の場となり、Mireille Mathieuの最初の歌謡番組出演の番組となった。85年4月には運転していたポルシュで、同乗していた人気TV女優が大怪我するという事故を起こし、過失傷害罪で執行猶予付きの有罪判決を受けた。そこから立ち直るのに苦労している頃、Distelを「French lover」と呼んだイギリスが彼を迎えた。特に2000年にロンドンで上演されたミュージカル「Chicago」で演じた辣腕弁護士Billy Flynnは大好評だった。イギリスでの人気の高さはエリザベス女王が彼を3回も宮殿に招待したことでも知られる。2003年にはフランスでアルバム「Envers et cotre vous」をリリース。Distelは「シャンソンフランセーズで最も美しい80歳代の歌手になること」が希望だと語っていたが、運命はこの希望を叶えてくれず、2004年7月22日ガンのため死去、享年71歳。訃報に接したJacque Chirac大統領は「シャンソンフランセーズは最も才能に溢れ、人気のある歌手の一人を失った。彼のメロデイは多くのフランス人に幸福感と楽しい気分を与えてくれた。誰もが彼の笑顔、魅力、エレガンスを忘れないだろう」。と哀悼の辞を述べた。 「La belle vie」1963年 https://www.youtube.com/watch?v=YylZoZmfwRQ 「La belle vie」1997年https://www.youtube.com/watch?v=JM5mI3U0z8M 3.「Scoubidou」について 「Scoubidou」の原曲はアメリカPeggy Leeのヒット曲「Apples, Peaches and Cherries」。1950年代には人気のジャズギタリストであったがDistelはそれだけでは満足せず、滞米中にLouis Armstrongに「ジャズのバンドマンも良いけれど、スターになりたかったら歌手になること」とアドバイスを受けたこともあり、元々好きだった歌手としても活動しようと考えていた。叔父Ray Venturaがレコーディング会社Versailleを設立したこともあり、1957年同社から「Maladie d’amour/恋の病」(Henri Saivadorのヒットのカバー)、「Insensiblement/知らず知らずに」など10曲を収録したLP「Sacha Distel chante」をリリースした。Maurice Tézé(1918-2016、作詞家・音楽プロデューサー・マネージャー)は「chanteur de charme/甘い声で魅了する歌手」の路線を目指すよりも一風変わった、独創的な曲をレパートリーにしたどうかと提案していた。1958年12月7日、アルジェリアで予定されていたコンサートのために出発する予定の2日前、SachaはTézéともう一人の友人とで、Parisのオペラ地区にあったジャズクラブ「Ringside」に赴いた。そこでは友人が毎日ドラムスを演奏していた。その夜に出演したのはNancy Holloway、Hollowayは1932念アメリカOhio生まれのジャズ歌手で1960年代からフランスで活動。この夜Hollowayはジャズのスタンダードを歌ったほか、アメリカで人気の曲も歌った。その中に「Apples, Peaches and Cherries」があった。この曲は、作詞作曲Lewis
Allan、Peggy Leeが歌って、当時アメリカで大ヒットしていた。それを聞いた途端SachaとTézéは独特なコードと覚えやすいメロデイが気に入った。そして迫っていたアルジェリアでのコンサートに何かインパクトが欲しいと感じていた二人は、これにフランス語の詩を付けてレパートリーに加えることを思いついた。早速Tézéがフランス語の詩を考え、Sachaが曲を手直しした。翌日から録音のためのリハーサルが始まった。しかし、曲に独創性を与えるためには何かが不足していた。そこでSachaは伴奏しているミュージシャンに、彼らが好きなオノマトペ「Scoo bi doo bi doo ah!」と叫びながら演奏するように要請。Tézéの方はいっそのことそれを歌詞の中に入れたらどうかと考えた。そしてこの曲の主人公の女性は「リンゴと梨とスクビドウ」を売ることになった。 そしてアルジェリアのCasino d’Algerでの初披露はほとんどぶっつけ本番であったが会場が割れんばかりの反応。 1959年Philips社からA面「Scoubidou(Pommes
et poires)/スクビドウ(リンゴと梨)」、「Et que ça dure/それが続きますように」、B面「Quand on s’est connu/知り合った時」、「Ce serait dommage/それは残念なこと」を収録したEPがリリースされた。Versaille社からでなかったのはDistelが叔父のお陰と言われるのを避けたためだと言われている。レコードジャケットの裏面にはMaurice Chevalierの自筆の推薦文が印刷されていた。 DistelはBruxellesのCirque Royalで録画されたTV番組「Nuit électrique」で歌った。放映の翌日にはレコード店に客が殺到、2万件以上の注文があったと言われている。レコードは100万枚以上売り上げた。1959年2月1日の週にシングルチャートトップ50に登場、最高位は7位だったが48週間チャートに留まった。 このヒットからFolioplast社は「Scoubidou/スクビドウ」という名称のプラステイック製の紐を売り出した。キーなどをつるすのに用いることができる「Scoubidou」はティエネイジャーの間で大ヒット、特に小学生達にお守りのように持たれた。当時の大統領De Gaullle将軍の孫はこの曲が好きで、常に口ずさんでいたばかりではなく、Elysée宮のドアというドアに「Scoubidou」を取り付けてしまったという逸話が残っている。 |
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今月の顔 2019年1月 janvier 2019 ジャンヌ・モローJeanne Moreau ジャンヌ・モローJeanne Moreauが出演し、劇中「Le tourbillon/つむじ風」を歌ったFrançois Truffaut監督の映画「Jules et Jim/ジュールとジム:(邦題)突然炎のように」がフランスで公開されたのは1962年1月23日。 1.「Le tourbillon」(1962年Cyrus Bassiak作詞/作曲) 映画の中でhttps://www.youtube.com/watch?v=dcVcwwo8QFE ギターを弾いているのはこの映画にギタリストAlbert役で出演しているCyrus Bassiak TV番組で1969年3月2日https://www.youtube.com/watch?v=B4nHBn8zypc 歌詞の大意: ・・彼女はどの指にも指輪をし、手首には沢山のブレスレット。そして歌っていた、僕を虜にする声で。彼女の瞳はオパール色、それは僕を惑わした。青白い卵形の顔立ちは僕を破滅させた妖婦のもの。僕たちは出会い、会わなくなり、再び出会い、再び会わなくなり、また出会い、また暖めあい、そして別れた。 それぞれ人生のつむじ風の中に再び去っていた。 僕はある晩再び彼女に出会った、アイアイアイ、久しぶりに。バンジョーの音色で彼女だと解った。僕が大好きだったあの好奇心に満ちた微笑み、男を破滅させる彼女の声、美しい青白い顔、それらが僕を今まで以上に感動させた。彼女の声を聞きながら僕は酔った。アルコールは時間を忘れさせる。僕は目を覚ました熱くなった額にキスされたのを感じて。僕たちは出会い、会わなくなり、再び出会い、再び会わなくなり、また出会い、また暖めあい、そして別れた。 それぞれ人生のつむじ風の中に再び去っていた。 僕はある晩再び彼女に出会った、アイアイアイ、彼女はまた僕の腕の中に飛び込んできた。僕たちは出会った時、また出会った時、何故別れるのだろう、再び出会って、再び暖め合って、何故別れるのだろう。そして二人とも人生のつむじ風の中にまた去っていった。二人は回り続けた抱き合って・ 2.Jeanne
Moreaur略歴 1928年1月23日Paris10区生まれの映画・舞台俳優、映画監督、歌手。、 1950年代から映画に出演。「Dernier Amour/最後の愛」(1949年初出演)、「Pigalle-Saint-Germain-des-
Prés/(邦題)オーケストラ」(1950年)、「Ascenseur pour l’échafaud/(邦題)死刑台のエレヴェーター」(1958年)、「Moderato
cantabile/(邦題)雨のしのび逢い」(1960年カンヌ女優賞)、「Jules et Jim/ジュールとジム:(邦題)突然炎のごとく」(1962年)、「Viva Maria!/ビバ マリア」(1965年 英国アカデミー主演女優賞)、「La vieille qui marchait dans la mer/(邦題)海を渡るジャンヌ」(1991年セザール主演女優賞)、「Une Estonienne à Paris/(邦題)クロワッサンで朝食を」(2012年)など130本以上の映画に出演した映画・舞台俳優。1979年には「L’adolescente/(邦題)ジャンヌ・モローの青春」を監督。また独特の、多少嗄れた声で歌う歌手としても知られている。 歌手としての略歴は次の通り: ・1953年Théâtre Antoine(14,Bd, de Strasbourg 10e 1866年-)劇場で上演された「L’heure
éblouissante/まばゆい時間」に出演した際に歌った「L’amour s’en vient, l’amour s’en va/愛は訪れ、愛は去って行く」及び「J’ai
choisi de rire/私は笑うことを選んだ」を収録したSPを出している ・1962年フランス公開François Truffaut監督の「Jules et Jim」でCatherineを演じ、劇中で「Le Tourbillon/つむじ風」を歌う その後Jacques Canetti(1909-1997 Polydor社とPhilips社のアートディレクター、プロデューサー)の勧めなどにより歌うように ・1963年ファーストアルバム「Chante 12
chansons de Cyrus Bassiak/シリュス・バシアクの12曲を歌う」(Cyrus BassiakはSerge Rezvani(1928- 画家、作家)が作詞・作曲する時に用いる名で、150曲以上作っている) 収められているのは:「J’ai la memoire qui flanche/途切れる思い出」、「La vie de
cocagne/極楽生活」、「Ni trop tôt, ni trop tard/早過ぎもせず、遅過ぎもせず」、「Rien n’arivve plus/もう何も起こらない」など ・1965年11月22日公開Louis Malle監督「Viva Maria」でBrigitte Bsrdotと共演。「Ah!Les petites femmes de Paris/パリの女の子たち」などを歌う ・1966年2枚目のアルバム「Chante 12 nouvelles chansons de Cyrus Bassiak/シリュス・バシアクの新曲12曲を歌う」収められているのは:「Jamais je ne t’ai dit que je t’aimerai toujours/私は永遠にあなたを愛すとは言わなかった」、「J’avais un ami/私には一人の男友だちがいた」、「Des mots de rien/何でもない言葉」など ・1967年3枚目のアルバム「Les chansons de
Clarisse/聖クララ会修道女のシャンソン」(Elsa Triolet<1896-1970>の原詩にEugene Guillevecが脚色した歌詩にPhilippe-Gérardが曲を付けた17曲) 収められているのは:「Aimer/愛すること」、「J’ai l’air de plaisanter/冗談の振りをする」、「La tricoteuse/編む女」など ・1969年4枚目のアルバム「Jeanne chante Jeanne/ジャンヌ、ジャンヌを歌う」(Jeanne Moreau自身の詩にJacques Datin、Antoine Duhamelが曲を付けた12曲) 収められているのは:「La célébrité, la pubricité/名声・広告」、「Quelle histoire/何という話」、「L’enfant que j’étais/私はこんな子供だった」など ・1975年シングル「India song」(Marguerite Durasの詩) ・1979年Yves Duteil(1949-ACI)と「L’adolescente/青春期の少女」をデュオで歌い、SPに「L’adlescente」の収録 ・1980年Guy Béart(1930-2015 ACI)と「Parlez-moi d’moi/私に私のことを話して下さい」のデュオで歌い、SP「Parlez-moi d’moi」に収録 ・1981年5枚目のアルバム「Chante Norge/ノルジュを歌う」(ベルギー出身の詩人Norge、本名Georges Moginの詩にPhilippe-Gérardが曲を付けた22曲)収められているのは:「Le tueur et la tuée/殺人者と殺された女」、「Chanson à tuer/殺すためのシャンソン」、「Le petit non/ちょっとしたノン」など ・1982年9月8日公開Jean Genet(1910-1986)の小説「Querelle de Brest/ブレストの乱暴者」(1947年)が原作の映画「Querelle/ケレル(主人公の名)」(仏独共作、使用言語は英語)で、主題歌「Each man kills the thing he loves」などを歌う ・2002年12月コンピレーションアルバム「Jeanne Moreau chansons」(過去の代表曲46曲をCD3枚に収録) ・2009年Boris Vian(1920-1959 ACI)へのオマージュアルバム「On n’est pas là pour se faire
engueuler/怒鳴られるためにここにいるのではない」」には「Que tu es impatiente/お前は何と性急なんだ」の朗読で参加 ・2010年11月9日6枚目のアルバム「Le Condamné à
mort/死刑囚」(Etienne Daho<1956-ACI>とのデュオ):「Le Condamné à mort」は2010年が生誕100年に当たるJean Genetが1942年刑務所で書いた処女詩集で、20歳の死刑囚Maurice Pilorgeをテーマにしたもの。詩集に収められている詩には1964年Hélène Martin(1928-ACI)が曲を付けていて、Martin自身やMarc Ogeret(1932-2018 歌手)らが歌っている。このアルバムではMartinの曲をDahoが「我々に合うように」アレンジし、Moreauが語り、Dahoが歌っている ・2011年Têtes Raidesのアルバム「L’an demain」に収録された「Emma」をChristian Olivierとデュオで歌う ・2017年7月31日Paris 8区 rue du Faubourg
Saint-Honoréの自宅で老衰のため死去。享年89歳。8月9日Montmartre墓地に埋葬 3.「Le troubillon」について 「Le troubillon」(「Le troubillon de la vie/人生のつむじ風」のタイトルでも知られている)はCyrus Bassiak作詞/作曲(作曲者につきGeorges
Delerueとの共作の資料もある)で、1962年1月公開のFrançois Truffaut監督の映画「Jules et Jim/ジュールとジム:(邦題)突然炎のように」の中でMoreauが歌っているもので、サウンドトラックとしてEPに収録されリリースされている。 Moreauは2002年12月20日コンピレーションアルバム「Jeanne Moreau chansons」のリリースに際して、歌手人生について、「Le troubillon」について、Libération誌とのインタヴユーで次のように語っている。 問:あなたの歌手としてのキャリアは・・。 答:歌手としてのキャリアなんてない。歌手と言うのは止めて欲しい。そう言われるのは好きじゃない。私は女優。歌う機会はあったけれどそれはあくまでも女優としての活動の延長線にあったから。女優と言う仕事はあらゆることに道を開いてくれる。書くことに、演劇の演出に、映画に、歌に。 問:どのようにして歌うようになったのか? 答:1930年代には誰もが歌っていた。タイル磨きも、画家も、流しの歌手も。あらゆるところに歌があった。私は子供時代の大半をパリ9区で過ごした。Les Martyrs地区、Place Clicy/クリシー広場やBatignolles地区で。Chaptal/シャプタル通りの小学校に通った。父はFontaine/フォンテーヌ通りとMansart/マンサール通りに角にあったカフェレストランで働いていた。付近にナイトクラブがあったので、DamiaがLucienne Delyleが通った。赤い髪の毛で大きな部屋着を着た女性が通った。その人を見て人々が「あれはFréhelだ。」と囁いていた。そこには大衆のシャンソンがあった。私の若い頃にはパリの至る所に。それは愛を、不幸な愛を歌ったものだった。現在人々はほとんど歌わなくなってしまった。40年代末にはコメデイー フランセーズにはダンスや歌の授業があった。そこで私は歌を学んだ。Molièreの芝居の中にも、Mériméeの芝居の中にも歌があった。少し後になるけれど、Simone Berriau演出の「L’heure éblouissante」では、若い娼婦の役をやりPaul Misrakiの曲を一人で歌 ったこともある。「愛は訪れ、愛は去って行く・・」って。 問: Cyrus
Bassiakのシャンソンについては? 答:BassiakはJean-Louis Richardの親友だった。Jean-Louisは私の最初の夫で、私の息子Jérômeの父親でもある。私たちはBassiak夫妻たちとグループを作っていてよく一緒に行動していた。夜中車で走ってブルターニュ地方を旅行したりした。そのとき皆で歌った。50年代の末にTruffautに出会った頃は、幌付きのオープンカーFacel Vegaで走りまわっていた。TrenetやBassiakの曲を大声で歌いながら。「Le tourbillon」はBassiakiが私とJean-Louisの仲を歌った曲だった。「二人は知り合い、二人は離れ離れになり、再び巡り合い、そして別れた・・」 問:Truffautは最初「Le tourbillon」を映画「Jules et Jim」の中で使おうと考えていなかったのか? 答:この曲は映画とは全く関係のないものだった。でもこの曲は映画の雰囲気、「複数の男性の間で揺れ動いていた一人の女性が全ての男性を愛そうと決めた」にぴったりだった。 問:どういう経緯でこの映画に使われたのか? 答:この映画の撮影は順調ではなかった。資金も不足していたし、技術者がヘリコプターの下敷きになる事故もあった。撮影を中止しなければならなくなったことも。そんなある日Truffautが「歌でも歌おう」と言い出した。我々はヴォージュ山地の大きな山小屋にいたが、彼は音響技師を呼び出した。そこで私はBassiakのギターの伴奏で「Le tourbillon」を歌った。この場面を撮影していたTruffautはそのシーンがおおいに気に入った。そして映画で使うようになった。この映画よりも7年も前に作られたこの曲がこの映画のシンボルに、そして、ほとんどTruffaut自身のシンボルになったことに驚いている。問:1963年に最初のアルバムを録音した経緯は? 答:「Jules et Jim」の後Jacques Canettiが会いに来た。彼はフィリップ社にいたが「他に曲はないのか?」と私に聞いた。「あるわ」、「歌える?」、「ええ」。彼は直ぐ録音するようにと提案した。勢いに乗ってアルバムを2つも。30曲余りをElek Bacsikのギター伴奏で。BacsikはMiles Davisを通じて知り合ったけれど映画「L’ascenseur pour l’échafaud」にも協力してくれたジャズギターの一人者だった。Bassiakのシャンソンの中には私が録音したけれど世に出してないものなどで、彼のダンボール箱に収められているものが数多くあると思う。 問:「Le tourbillon」ヒットの後多くの作詞家から話があったのでは? 答:もちろん。でも私は「歌手」にはなりたくなかった。私が好きだったのは詩を歌うこと。Canettiがベルギー出身の詩人 Norgeを紹介してくれ彼の自宅に訪ねたこともあった。私にとってはシャンソンよりも人々との邂逅の方が大事だった。Marguerite Durasの「India Song」もそうだった。彼女の映画は皆メロドラマだった。「私はあなたが好き。でもあなたは私を愛していない。だから私は苦しい。」という内容の。でも彼女は素晴らしいシャンソンを書けるはずだった。だから彼女に言った「Margo、書いて、それを私が歌うから」。 問:1970年のアルバム「Jeanne chante Jeanne」では作詞もしているが? 答:私は精神療法を受けていた。私の精神分析医は何か書くようにと言ってくれた。そして書いたものを持って行った。そうしたら「これは美しいシャンソンになる。」と言われた。彼は正しかった。少なくとも書くことによって立ち直ることができた。問:ステージで歌うことはあまりないが? 答:そう、確かに。CanettiがMontreuxのフェステイヴァルに出演するように誘ってくれたことがある。3時間前からとても怖くなり声が出なくなってしまった。医者が来て診てもらい落ち着いたけど、舞台に立つ直前再び同様な事態になってしまった。Royaumontの修道院で歌ったこともあるし、Palais de Chaillotで「Les chanson de Clarisse」を歌ったこともあるけれど、大きいステージは怖い。照明の中にいるとバックのミュージシャン達の顔が見えず不安だ。フラストレーションがたまる。 問:シャンソンは何を残しているか? 答:エネルギーを。それは一瞬の感覚、時には数分続くことはあっても、いずれにしても素早いもの。ショックと同じ。テーマのあるシャンソンなんて退屈なだけ。ある考えが一つの感覚と遭遇することが大事。 1995年5月17日第48回Cannes映画祭の開会式で、Vanessa Paradisはこの回の審査員長を務めていたJeanne Moreauに敬意を込めて「Le tourbillon」を歌った。Moreauは審査員席からそれに和し、素晴らしいデュオが実現、場内は歓声に包まれた。https://www.youtube.com/watch?v=tKuw-F5COtQ 2001年9月にリリースされた18人のアーティストがその子供時代を象徴する曲、あるいは好きだった曲を歌ったcompilation「Ma chanson d‘enfance/子供時代のシャンソン」にParadisはこの曲で参加している。 この曲はFrancenca Solville、Cora Vaucaireらもカバーしている。若い歌手Tal(1989―)は2014年3月2日放送のTVF3の歌謡番組「Les chansons d’abors」でLe tourbillon」を歌った。https://www.youtube.com/watch?v=oddlblBWVzo |
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今月の顔 12月 シルヴィー・ヴァルタン Sylvie Vartan シルヴィー・ヴァルタン Sylvie Vartanは1968年12月3日から9日までのParis Olympia出演の際「La Maritza/ラ マリッツア」を歌った。 1.「La
Maritza/思い出のマリッツア」(1968年 作詞Pierre Delanoë/作曲Jean Renard) 1968年12月4日TV番組出演時 https://www.youtube.com/watch?v=QR59Vh_mbQc 2017年9月16日Paris Olympia出演時 https://www.youtube.com/watch?v=fWMo2A1dzYw 歌詞の大意・・ ・・マリッツアは私の川、セーヌがあなたの川であるように。でもあの川を時々にせよ思い出すのは父だけ。私の10歳までの思い出の品は何一つ残っていない。みすぼらしい人形一つも。 残っているのは昔聞いたあの歌の短いルフランだけ。ララララ・・ あの川の小鳥は私たちに自由を歌ってくれた。私にはほとんど分からなかったけれど。父はその歌の意味を知ることができた。 地平線が暗くなると、鳥たちは皆飛び立った、希望への道を。そして私たちは鳥の後を追った。パリへと。私の10歳までの思い出の品は何一つ残っていない。 でも目を閉じると、父が歌うのが聞こえる。あのルフランを。ラララ・・ 2.Sylvie
Vartan略歴 50年以上のキャリアで、1200曲以上を仏、英、西、伊、日本語で録音、56枚のアルバム(スタジオ録音42枚、ライヴアルバム14枚)、レコードの売り上げ4000万枚以上、2500回以上のコンサート、2000回以上雑誌の表紙を飾る。 ・1944年8月15日ブルガリア、Iskretz生まれ。父はフランス大使館のプレス担当。1950年女生徒役で映画に初出演、「このときからアーティストになる夢を持った」。 ・1951年12月家族でフランス、パリに ・1961年6月長兄でRCAレコード社の音楽プロデューサー、Eddy Vartanの要請により、Frankie Jordan(1938-ロック歌手)のEP『Frankie Jordan』に「Panne d’essence/恋のハプニング」ほか1曲をデュオで収録 ・1961年11月最初のEP『Sylvie Vartan』:「Quand
le film est triste/悲しきスクリーン」など4曲収録 ・1961年12月11、12日Olympiaに出演、Gilbert Bécaudの前座でJordanと「Panne d’essence」ほか1曲をデュオで ・1962年11月33回転LPファースト『Sylvie』40万枚、(それまでの7枚のEPからの14曲収録のコンピレーション) ・1962年「Le locomotion/ロコモーション」、「Tous mes copains/センチな17才」 ・1963年「Si je chante/恋のショック」 ・1964年1月16日―2月4日3週間、Trini Lopez、Les BeatlesとOlympiaに出演 ・1964年「La plus belle pour allerdanser/アイドルを探せ」。2月26日公開Michel Boisrond監督映画「Cherchez l’idole/アイドルを探せ」で歌われた曲 ・1965年4月Johnny Hallyday(1943-歌手、俳優)とLoconvilleで結婚、66年8月長男David誕生、80年11月離婚 ・1965年5月8日~20日初来日。その後2014年まで都合18回来日(うちコンサートで16回) ・1965年「ワンサカ娘」(作詞・作曲 小林亜星) ・1968年「Comme un garçon/男の子のように」、「Irrésistiblement/あなたのとりこ」、「La Maritza/想い出のマリッツア」 ・1970年2月2度目の自動車事故に遭う。6ヶ月間アメリカで治療、その間ダンスを習う ・1970年「Les hommes qui n'ont plus rien à perdre/悲しみの兵士」 ・1976年「Qu'est-ce
qui fait pleurer les blondes ?/そよ風のブロンド」 ・1979年「Nicolas/初恋のニコラ」 ・1981年「L'amour c'est
comme une cigarette/愛はジタンの香り」 ・1984年6月アメリカ人プロデューサー、Toni Scotti (1938-)とロサンゼルスで結婚 ・1990年10月ブルガリア・ソフィア初公演、翌年Eddyと「Sylvie Vartan pour la Bulgarie」基金設立 ・1994年最初の主演映画Jean-Claude Brisseau監督「L'Ange Noir/黒衣の天使」(邦題「甘い媚薬」)公開 ・2004年自叙伝「Entre
l'ombre et la lumière/影と光の間で」が30万部のベストセラー ・2007年カバー『Nouvelle
vague』:Jacques Dutronc、Françoise
Hardy、Les Beatles、などの過去のヒット曲をカバー ・2009年『Toutes peines confondues/恋の手紙』:Carla Bruni(「Je chante le blues/私はブルースを歌う」)、Marc Lavoine(「Il me semble/・・らしい」)らが協力。自身2曲(「Unelettre d’amour/恋文」ほか)を作曲 ・2010年5月25日Officier de la Légion d’Honneur受章 ・2010年11月『Soleil Bleu/ブルーの太陽』 Keren Ann(「Je me
détacherai/私は解放されるだろう」)のプロデュース、JulienDoré(「Solei Bleu」)、Benjamin Biolay(「La vanité/虚栄」)らが協力 ・2011年4月Paris Salle
Gaveauの「東日本地震被災者支援コンサート」に出演、「La plus belle・・・」、「Maritza」など ・2011年3月Paris
Marigny劇場で劇場劇初出演「L’amour,la mort,les fringues/わたしがあのとき着ていた服」 ・2011年11月23日Salle Pleyelでデビュー50周年コンサート、Orchestre Symphonique de Bulgarieの伴奏 ・2013年10月、初渡米から50周年記念Nashvilleで録音『Sylvie in Nashville』:カントリーの名曲にフランス語の歌詞を付け ・2014年4月16日~19日、最近の来日公演 ・2015年9月18日からThéâtre des Varietésで上演された劇場劇「Ne me regardez pas comme ça/そんな風に私を見ないで」に出演 ・2015年11月27日アルバム「Une vie en musique/音楽の人生」リリース。過去のヒット曲を歌い直した曲など16曲収録 ・2018年11月30日アルバム「Avec toi/あなたと共に」リリース。2017年12月に死去したVartanの最初の夫Johnny Hallyday(1964 3.「La Maritza」について Vartanは1968年12月3日から9日までvedetteとして初めてParis Olympiaに出演することになっていた。その年の9月初めアートディレクターの
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今月の顔 2018年11月 Novembre 2018 Patricia Kaas Patricia Kaasが「Mademoiselle chante le blues/マドモワゼルはブルースを歌う」、「Mon mec à moi/私の彼」などを収録したファーストアルバム「Mademoiselle
chante ・・・/マドモワゼルは歌う」をリリースしたのは1988年11月7日 Patricia Kaas略歴 世界各国で人気があり、アルバムは45カ国でリリース、1800万枚以上の売上げ、日本を含め海外公演も40カ国以上に及ぶ。 1.最初のレコードまで Patricia Kaasは1966年12月5日Lorraine地方、Moselle県、ドイツとの国境の町Forbach生まれの歌手、俳優。 母はドイツ人、父はドイツ人で炭坑夫。7人兄弟の末っ子。家庭ではplatte(低地ドイツ語)を話し、6歳まではフランス語が話せなかったと言われている。幼少の頃から歌うことに興味を持ち、8歳で最初のコンサートを行った。13歳から7年間、毎週土曜日(金、土、日の週末3日間との資料もある)にドイツSarrebruck(Saarbrucken)のキャバレ「Rumpelkammer Club」で3時間、仏・独・英語の3カ国語で歌う。1985年ローレヌ地方の建築家Bernard Schwartzの目にとまり、Schwartzはマネージャーに。母親、SchwartzとParisに出てPhonographe社のオーディションを受けた。Kaasの歌がdisco全盛期の当時の流行に合わないと、オーディションは成功しなかった。しかし、Phonogram社のディレクターJoël Catignyは、レコード会社を立ち上げていた映画俳優のGérard Depardieuに紹介。Kaasの声がを気に入ったDepardieu夫妻は、Elisabeth夫人が歌詞を書き、夫妻の友人である作詞・作曲家François Bernheim(1947-作曲家、プロデューサー)に曲を付けるよう依頼。85年Francfortのビール祭りでKaasを聞いたいたBernheimは早速作曲。できあがったのが「Jalouse/嫉妬深い女」。そして・・ 1985年Elisabethのプロデュースにより、「Jalouse」(Elisabeth作詞/Bernheim作曲)と「La musique
de la Foret Noire/Schwartwald(シュヴァルツヴァルト:黒い森)の音楽 」(dito)を収録した最初のSPをリリース。 このレコードは商業的には失敗作であったが「名刺代わりにはなった」 「Jalouse」https://www.youtube.com/watch?v=DaXrJjZLg9s 歌詞の大意: ・・私は嫉妬深い女、何にでも嫉妬する、何でも疑う。あなたのポケットを探り、あなたの手紙を読み、ドアで聞き耳を立てる、そうあなたを見張っている。あなたの言葉は信用できない、嘘ばかり付いているから。でもあなたから離れられない。それで、苦しむことなんて気にしない・・ 2.ファーストアルバム 1987年BernheimはKaasを友人Didier Barbelivienに紹介。Barbelivienは1954年Paris生まれのACI、Johnny Hallyday、Dalida、Celine Dionらに曲を提供していた。そして現在まで2000曲以上作詞・作曲していると言われている。Kaasの声を聞いたBarbelivienは「彼女にはブルースを歌わせるのがよい」。折良くBarbelivienの手元には自身が作詞(Bob Mehdiの協力を得ている)/作曲した「Madame chante le blues/マダムはブルースを歌う」があった。これは77年には出来上がっていて、Nicolleta(1944-歌手)に提供する予定の曲だったが、Nicolettaは歌うことに同意しなかった。またMichelle Torrも拒否した。Kaas はPolydor社と契約、タイトルを「Mademoiselle chante le
blues/マドモワゼルはブルースを歌う」に、また歌詞を少し修正、ParisのStudio CBEで録音。そして・・ 1987年4月A面「Mademoiselle chante le blues」、B面「Patricia voudrait bien/パトリシアは欲しい」を収録したSPをリリース。リリース直後ラジオ局 Francce Interの午後8時の歌謡番組「Pollen」の司会者をしていたJean-Louis Foulquierはこの曲が気に入り、頻繁に放送。そのうち各局も追随、瞬く間にヒット曲になり、レコードはフランスばかりでなくスイス、ベルギー、カナダでヒット。100万枚以上(フランス国内では30万枚以上)の売り上げに 「Mademoiselle chante le blues」https://www.youtube.com/watch?v=FSX8T54GIhY 歌詞の大意:・・公団住宅のすみで子供を育てている女がいる。ブラジルからウクライナまで駆けめぐる女がいる。アングレームの近くで結婚式を挙げる女がいる。街頭でビラを配り、旗を振って闘う女がいる。もうセックスシンボルを演じられない女がいる。車の中で愛を売る女がいる。 マドモワゼルはブルースを歌う、あまり嫉妬しないで、マドモワゼルは赤ワインを飲む、マドモワゼルはブルースを歌う。 1日8時間タイプを打っている女がいる。男を、女を口説いている女がいる。人にへつらう女がいる。映画に出演する女がいる、マリリーンと呼ばれて。でもマリリン・デュボワは決してノーマ・ジーン(マリリン・モンローの本名)にはなれない。自分の才能は自分が思いこんでいるほどのものではない。 マドモワゼルはブルースを歌う、あまり嫉妬しないで、マドモワゼルは赤ワインを飲む、マドモワゼルはブルースを歌う。 彼女は自分の声にゴスペルが備わっていると信じている。 修道女に、弁護士に、薬剤師になる女がいる。「Je t’aime」に全てを込めて言う女がいる。アングレームの近くでオールドミスになった女がいる。ジョイントやルミナールをやって解放された女を演じている女がいる。バラ色の人生とエピナール版画を混同している女がいる。苦労しないで財産を手に入れたいと願っている女がいる。 マドモワゼルはブルースを歌う、あまり嫉妬しないで、マドモワゼルは赤ワインを飲む、マドモワゼルはブルースを歌う。 彼女は自分の声にゴスペルが備わっていると信じている。 マドモワゼルはブルースを歌う・・ このヒットによりKaasは・・ 1987年ACC大賞受賞 1987年12月5日、21歳の誕生日にJulie Pietri(1955-AC)前座としてOlympiaに出演 1988年11月19日VdMで新人女性歌手賞受賞 そして 1988年11月7日ファーストアルバム『Mademoiselle chante ・・・』をリリース。アルバムには:「Mademoiselle
chante le blues」、「Mon mec à moi/私の彼」、「D'Allemagne/ダルマーニュ」、「Souvenirs de l’Est/東方の思い出」、「Un dernier blues/最後のブルース」、「Quand Jimmy dit/ジミーが話す時」、「Chanson d’amour pas finie/終わりのない恋物語」など10曲が収められていた。アルバムはフランス160万枚以上、フランス国外で150万枚、 計300万枚以上の売り上げという大ヒットに 「Mon mec à moi」https://www.youtube.com/watch?v=mQMi3ms8ujw 歌詞の大意: ・・彼は私の心をもてあそぶ。私の人生を踏みにじる。彼が語るのは嘘。でも私は彼の言うことをすべて信じる。彼が私に歌ってくれるシャンソン、彼が二人にために描く理想、それはミントキャンディーのように雨の日にはいいもの。彼の声を聞きながら、私は私の物語を作り出す。その物語は真実ではない。でも私はそれを真実だと思っている。 私の彼、私にアヴァンテュールを語る、目を輝かせて、私は一晩中聞いていてもいい。彼は愛を語る、車について話すように。私は彼の望むところについていく。彼の言うことを本当に信じているから。彼の言うことを本当に信じているから。そう、私の彼を。 彼は私のものだけど、彼独特の方式で、決して「Je t’aime」とは言わない。それはあの白黒映画そのもの。彼が私に200回も演じたのはジャン・ギャバンとミシェル・モルガンのあの映画の通りのこと。 私は私の物語を作り出す。ちんぷんかんぷんの筋書きの、その物語は真実ではない。でも私はそれを真実だと思っている。 私の彼、私にアヴァンテュールを語る、目を輝かせて、私は一晩中聞いていてもいい。彼は愛を語る、車について話すように。私は彼の望むところについていく。彼の言うことを本当に信じているから。彼の言うことを本当に信じているから。そう、私の彼を。 私の彼、私にアヴァンテュールを語る、目を輝かせて、私は一晩中聞いていてもいい。彼は愛を語る、車について話すように。私は彼の望むところについていく。彼の言うことを本当に信じているから。彼の言うことを本当に信じているから。そう、私の彼を・・ 1989年VdM 「最も外国で売り上げたアルバム」賞を受賞 1989年5月25日アルバム日本でリリース 1989年7月アルバムのプロモーションのため初来日。Showcase、 FM番組出演など 1990年2月vedetteとしてOlympiaに出演 3.その後 ・1990年4月セカンドアルバム『Scène de vie/人生のシーン』:「Kennedy Rose/ケネディー・ローズ」、「Les hommes qui passent/通り過ぎて行く男たち」、「Une dernière
semaine à New York/ラストウイークはNYで」など13曲 ・1990年12月17日~20日世界13ヵ国を回るツアーの一環で来日公演(1994年、2002年、2013年、2014年来日) ・1991年VdM女性歌手賞 ・1992年Les Enfoirésに初出演。 2011年まで15回出演 ・1993年4月アルバム『Je te dis vous/永遠に愛する人へ』:「Je te dis vous」、「Hôtel Normandy」、「Il me dit que je suis belle/はかない愛だとしても」、「La liberté/自由と踊れ」、「Y’avait tant d’étoiles/あなたのいない夜」など15曲 ・1999年5月アルバム『Le mot de passe/パスワード』:「Le mot de passe」、「Une fille de l’Est/東欧の娘」、「Ma liberté cotre la tienne/あなたの自由に対する私の自由」、「La
clé/鍵」など12曲 ・2002年5月公開Claude
Lelouch監督の映画「And now・・Ladies
and Gentlemen」で主役のキャバレ歌手Jene Lester役 ・2002年11月アルバム『Piano bar/ピアノバー』(chansons françaisesを英語で)「My Man」(「Mon homme/モノム」)、「If you go away」(「Ne me quitte pas/行かないで」、「What now my love」(「Et maintenant/そして今は」)、「Yesterday when I
was young」(「Hier encore/帰り来ぬ青春」)など14曲 ・2003年11月アルバム『Sexe fort/強い性』:「On pourrait/できるかも」(Stéphan Eicherとのデユオ)など15曲 ・2003年ドイツ連邦共和国政府から、Bundesverdienstkreuz erster Klasse共和国功労十字1等勲章を受章 ・2008年12月アルバム『Kabaret』(1930年代のCabaretの雰囲気の曲):「Addicte aux héroïnes/ヒロインたちへの熱い思い」、「La chance jamais ne dure/チャンスはけっして長く続かない」、「Le
jour se lève/日は昇る」など14曲 ・2008年11月から10年2月まで「Kabaret ツアー」を行い、20カ国以上で、150回以上の公演 ・2009年5月モスクワで開催された第54回「Eurovision/ユーロヴィジョン」にフランス代表として出場。「Et s’Il fallait le faire/もしそれをしなければならないのなら」を歌い8位 ・2011年3月自伝「L’ombre de ma voix/私の声の影」を出版 ・2012年1月「Ordre des Arts et des Lettres/芸術文化勲章」Officier章受章 ・2012年5月15日F3で放送されたTVドラマ「Assassinée/殺された女」で主役 ・2012年11月アルバム『Patricia Kaas chante Piaf/パトリシア・カース、ピアフを歌う』:「Hymne à l’amour/愛の讃歌」、「Mon dieu/モン デュ」、「Padam, padam/パダン、パダン」、「La vie en rose/バラ色の人世」など16曲 ・2012年10月27日から2014年5月までの間、40ヵ国、160日に及ぶ世界ツアー「Kaas chante Piaf」 ・2016年11月11日新しい10枚目のスタジオ録音アルバム『Patricia Kaas』リリース。「Cogne/乱闘」、「Madame tout le monde/普通のマダム」、「Sans tes mains/あなたの手がなければ」、「La maison au bord de la mer/海辺の家」、「Sans nous/我々なしで」、「Marre de mon amant/恋人にはうんざり」、「Le jour et l’heure/その日、その時間」など13曲 ・2017年1月から国内、オーストリア、フィンランド、オランダ、スイス、ドイツ、ベルギー、トルコなど国外ツアー。1月26~28日Paris Salle Pleyelに出演。2018年にかけて175回の公演 |
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今月の顔 2018年10月 octobre 2018 Bénabar
1.「Le
dîner」(2005年Bénabar作詞/作曲) 2007年(「Fête de la musique/音楽の祭典」で) https://www.youtube.com/watch?v=h4yYmxDsavY 歌詞の大意: ・・僕はこのディナーに行きたくない。疲れていて、元気がない。彼らが僕たちを悪く思うことはないだろう。行くのは止めよう。それに僕はダイエットの要がある。Yシャツがきつくなったし、このチポラタソーセージのような体型。こんな格好では外出したくない。面白いことは何もない。僕は君の友人たちが好きだ、だけど会いたくないんだ。 行くのはよそう。シーツの下に隠れていればいい。何かあるだろう、それでさっさと作ればいいし、宅配ピザをとってもいい。電話して、謝って、適当に言えばいい。君の友だちに言えばいい、行きたくない、あしからずって。 僕は気分次第で言っている訳じゃない。今夜いい映画をTVで見ることが出来るんだ。もう一度見てみたいと思っていた第7芸術の傑作を。Saint-Tropezの警察を舞台にしたコメディーで、社会風刺、Louis de Funesが主役の。それにETもある。 行くのはよそう。シーツの下に隠れていればいい。何かあるだろうそれでさっさと作ればいいし、宅配ピザをとってもいい。電話して、謝って、適当に言えばいい。君の友だちに言えばいい、行きたくない、あしからずって。 僕は震えがする、具合が悪いようだ、今出かけるのは良くないようだ。危険は犯したくない、伝染性の病気かもしれない。出かけない方が良い。君は僕をエゴイストだと思うだろうが、そんなことはない。僕は不幸で、寂しい。それにホームシアターを持っていないからTVで見なきゃならないんだ。 電話して、謝って、適当に言えばいい。君の友だちに言えばいい、行きたくない、あしからずって・・ 2.Bénabarの略歴 Bénabar、本名Bruno Nicolini、1969年Paris近郊生まれ、ACI。Paris 郊外Saintry-sur-Seineで育つ。Bac取得後6ヶ月英語習得のためアメリカへ。最初は映画に興味を持ち、3本の短編映画を制作。92年「Jose Jeannette」はPrix Special du jury a
Montréal/モントリオール映画祭審査員特別賞を受賞。TVドラマの脚本家としても活動後、25歳でより自由に活動できるシャンソンに。作詞、作曲は独学。芸名Bénabarは道化師の代名詞Bernabéのヴェルラン(逆さ言葉)。当初はデュオ、、96年グループを結成、その後ソロに。 ・2001年9月ファーストアルバム「Bénabar」をリリース。「Bon anniversaire/誕生日おめでとう」、「Y’a une fille qu’habite chez moi/僕の家に一人の少女が住んでいる」、「Vélo/自転車」など12曲、35万枚以上。VdMの新人賞にノミネート(受賞はNatasha St-Pier)、新人ステージ賞にノミネート(受賞はSanseverino) ・2001年末から2002年にかけてファーストアルバム収録曲を気に入ったHenri Salvador(Cayenne1917-Paris1917.7.18 AIC・ギタリスト、2000年「Jardin d’hiver」)に招かれ、その国内ツアー(140コンサート)の第1部で歌う。 ・2002年10月7日vedetteとしてOlympiaに出演 ・2003年5月セカンドアルバム「Les risques du métier/職業上のリスク」(「2作目がうまく行くか不明だったのでこのタイトルに」):「Dis-lui ou/彼にOKと言ってくれ」、「Paresseuse/怠け者の女」、「L’itinélaire/行程」、「La Station Mir/宇宙ステーション ミール」、「Le zoo de Vincennes/ヴァンセンヌ動物園」など12曲、51万枚、04年VdMアルバム賞 ・2005年10月3枚目のアルバム「Reprise des négociations/交渉再開」:「Le dîner」、「Quatre
murs et un toit/4つの壁と一つの屋根」、「La
berceuse/子守歌」、「Le fou rire/大笑い」など12曲、100万枚以上 ・・2007年3月VdM男性歌手賞受賞、「Le dîner」でシャンソン賞受賞 ・2007年1月Les Enfoirés公演に初参加。その後2018年まで11回出場。2017年以降はLorie(1982-歌手・俳優)、Michael Youn(1973-俳優・演出家・映画監督・TV、ラジオ司会者)と3人で共同アートディレクターを務める ・2008年10月アルバム『Infréquentable/付き合ってはいけない人』:「Infréquentable」、「L’effet papillon/蝶々効果」、「A la campagne/田舎で」、「Où t’étais passé/君はどこにいたの」、12曲、120万枚 2009年4月公開Eric Lavaine監督のコメディー映画「Incognito/身分を隠して」に他人の曲を盗作して成功した歌手Lucas役で出演、Anne Marivinらと共演。Benabarは脚本を監督と共作している。 ・2011年12月アルバム「Les bénéfices du doute/疑惑の利点」:「Politiquement correct/政治的には正しい」、「Les rateaux/熊手」、「L’agneaux/子羊」、「La phrase qu’on a pas dite/言わなかった言葉」、「Perdre la raison/理性を失う」、「Quelle histoire/何とひどい話」など13曲 「Politiquement correct/政治的には正しい」(Clip officiel )https://www.youtube.com/watch?v=X_I5YrBaUfw ・・僕は両親が、家族が好き。戦争や貧困を憎む。僕は人種差別をしない、財産は持っていない、死刑がなくなったことを残念には思わない、女性を蔑視することはない、ゴミはチャント分別する、モスクの建設にも反対しない、同性愛が異常だとは思わない、メディアや経済界にユダヤ人が多いとも思わない、若者にはドラッグを止めさせる。すべての人に敬意を払うべき、それを自分の子供に教える・・君はいう、それは政治的には正しいと、そう言う君にはうんざりだ・・ ・2014年の「La bande à Renaud/ルノー軍団」には「La pêche à la ligne/釣り」で参加 ・2014年8月3年ぶり、7枚目のアルバム「Inspiré
de faits réels/事実に触発されて」:「Paris
by night」、「Remember Paris」、「Titouan/ティトアン(男の子の名)」(離婚して妻に引き取られた子供に語りかける父親)、「Les deux chiens/2匹の犬」、「La
forêt/森」、「Coming in」(Coming outの逆。マレ地区で美容師をやっているゲイの男性が女性を好きになってしまったと打ち明ける)、「Gilles
César/ジル・セザール(人名)」(・・彼の名はGilles、それだけなら何の変哲もないが、姓がCesarとなると事態が変わってくる。ちょっとの違いであのローマ皇帝Jules Césarジュール・セザール/ジュリアス・シーザーになるのだから、学校の成績は悪い方、特にラテン語は。両親はもう2分も考えてBrunoなんていう平凡な名にしていけば良かったのに。Gillesの名前故の悩み知っているのは親友のHenri Potter/アンリ・ポテールだけ。こちらはちょっとの違いでHarry
Potterに・・)、「Belle journee/素晴らしい日」、「La grande vie/偉大なる人生」など12曲 「Paris by night」https://www.youtube.com/watch?v=5Zl4Om7mT8Q ・・僕は1週間仕事がきつくてくたくた、飲みに行こうという友達を断った。でも結局「それじゃあ5分だけ」。最初のBistrotを出たところで僕は言った「さあ、帰るよ!」。ところが何軒めかのレストランを出たのは4時間後。「このまま帰えれる訳ないじゃないか」と誰かが言った。僕が言ったのかな。有名なナイトクラブに入ろうとしたら用心棒に丁重に拒否された。それで「僕が誰だか知っているのか?」すると彼は答えた「もちろん、だから・・」。この屈辱を晴らすためもう1軒。 太陽が昇り始める、僕たちはヴァンパイヤーみたいで太陽をまともに見ることができない。そしてお互いに言う「もうこんなことをするのはよそう」。でも有り難いことにこの約束は守られたことがない・・ ・2018年3月最新7枚目『Le debut de la suite/続きの始まり』:「Le
debut de la suite」、「La petite vendeuse/女店員」、「Marathonien/マラソンランナー」、「Le destin/運命」、「Le complexe du sédentaire/出不精人のコンプレックス」、「Chevaliers
sans armure/甲冑のない騎士たち」、「Brève et approximative histoire
de France/フランスの簡潔な、大まかな歴史」、「Chauffard/無謀な運転手」、「Le jeune vigite/若い警備員」、「Ça ne sert à rien
une chanson/シャンソンは何の役にも立たない」など12曲。 ・2018年10月3日から12月15日までツアーの予定。11月7~10日Paris、Le Grand Rexに出演。 3.「Le
dîner」について 「magicien du quotidien/日常生活のマジシャン」と言われているBénabarは人々が、それも中産階級の人々が、日々の生活で経験すること、誰にでも起こる小さな出来事、心地よい、あるいは多少滑稽な出来事をテーマに、それを皮肉な、辛辣な眼差しではなく、多少羽根飾りを付け、尾ひれを付けてもユーモラスに語っている。 「Le dîner」でBénabarがテーマにしているのは、我々の多くがしたいと願っていても現実にはなかなか出来ないこと、すなわち、妻あるいは夫の友人からのディナーへの招待を断ること。「Le dîner」の主人公の男性はあらゆる、まことしやかな口実を使って、妻の友人からの招待をどうにかして断ろうとしているが、成功したかどうかは明らかにされてはいない。成功したことを祈るのみ。Bénabarはインタビューで「僕の連れ合いのStéphanieは僕がこの曲を出してから友人という友人をすべて失ってしまった」と(もちろん冗談で)語っている。「Le dîner」を収録したBénabarの4枚目のアルバム「Reprise des négociations」は2005年10月24日リリース、「Le
dîner」は2005年12月19日にシングルカットされた。アルバムは100万枚以上の売上げでdisque de diamantに。2007年3月10日の第22回VdMでBénabarは男性歌手賞を受賞、「Le dîner」はオリジナルシャンソン賞を受賞した。 「Le dîner」を歌うBénabarは「fringant Bébabar/跳ね回る(あるいは、颯爽とした)ベナバール」というニックネーム通りのパーフォーマンスを見せる。 |
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今月の顔 2018年9月 septembre 2018 アラン・シャンフォーAlain Chamfort Alain
Chamfortが最大のヒット曲「Manureva」をリリースしたのは1979年9月15日 1.「Manureva」(1979年 Serges Gainsbourg作詞/Alain Chamfort & Jean-Noël Chaléat作曲) 1979年11月4日TV「Rendez-vous du dimanche」出演時 https://www.youtube.com/watch?v=cyin4ehPHjQ&t=127s 2005年5月7日Luxembourg公演でのコンサート https://www.youtube.com/watch?v=hhDEeFIZ3-0 歌詞の大意: ・・Manu、Manureva、幽霊船のお前は夢の中で島々を見た、でもお前が着くことは決してない、あそこに。 Manu、Manureva、お前はどこにいるのか、行方不明のManureva、お前は何日も何日も流された。でもお前が着くことは決してない、あそこに。 英雄Manureva、お前はジャマイカの海岸に着いたのか、サンティアゴ・デ・キューバ(Santiago de Cuba)の暗礁に乗り上げたのか、Manureva、お前はどこにいる。アラスカの氷の中か。流れのままに漂うManureva、あそこで。 英雄Manureva、お前はヌメア(Mouméa・・Nouvelle-Calédonie最大の都市)の灯りを見たか、ボラ ボラ(Bora Bora・・仏領ポリネシアのソシエテ諸島にある島)沖に沈んでしまったのか、お前はどこにいる、アラスカの氷の中か。Manureva、お前はどこにいる、行方不明になったManureva、お前は決して、決して着かない、あそこには。 Manureva、なぜ?なぜ?・・ 2.Alain Chamfortの略歴 Alain Chamfort、本名Alain Le Govic、は1949年3月2日Paris生まれ、 歌手・作曲家・プロデューサー。Paris郊外Eaubonneで育つ。幼少の頃からピアノを習う。1962年友人と最初のグループを結成。1966年に結成したLes Modsの歌手として最初のレコード。その後Jacques Dutronc、Claude Francois(Cloclo)などの伴奏ピアニスト、作曲家として活動。 ・1971年Clocloが設立したFlèche社と契約。72年4月Alain Chamfortの名で最初のレコード「Dans les ruisseaux/小川で」ほか1曲収録のレコードリリース。76年の契約終了までに同社からレコード12枚リリース。歌詞をClocloに提供された曲も ・1973年12月Stone
&Chardenの前座でOlympiaに初出演 ・1974年日本で「Je pense à elle,
elle pense à moi/初恋にボンジュール」と「L’amour n’est pas une chanson/愛はシャンソンから生まれて」を収録したレコードリリース ・1975年7月第4回東京音楽祭に出場「La
musique du samedi/土曜日の音楽:(邦題)そよ風のセレナーデ」で銅賞 ・1975年日本で「Bonjour Omemesan/ボンジュール お目、目さん」(カネボウの化粧品のテーマソングに)リリース ・1976年Flèche社を離れ、CBS社と契約 ・1979年「Manureva/マニュレヴァ」、「Géant/偉人」、「Palais Royal/パレ ロヤイヤル」 ・1981年「Amour, année zéro/愛、ゼロ年」、「Chasseur d’ivoire/象牙狩り」、「Paradis/パラダイス」 ・1983年リオLio(ポルトガル 1962-歌手)のセカンドアルバム『Amour toujours/いつも愛』をリリースプロデュース ・1993年「L’ennemi dans la
glace/鏡の中に敵」 ・2003年9月アルバム『Le plaisir』:「Les beaux yeux de Laura/美しいローラの目」、「Le grand retour/偉大なるカムバック」、「Juste avant l’amour/愛の直前に」(Michel Houellebecq作詞)など13曲収録 ・2005年11月liveアルバム『Impromptu dans le jardin du Luxembourg/ルクサンブール公園での即席コンサート』(2005年5月7日のコンサート、CD2枚組24曲収録) ・2006年3月29日1日のみOlympiaでキャリア30年記念コンサート。入場料5€ ・2007年3月20日「Légion d’Honneur/レジオン・ドヌール勲章」 Chevalier章受章 ・2010年2月アルバム『Une vie Saint
Laurent/サン・ローランの一生』(Pierre-Dominique Burgaudの詩でYSLの生涯をたどる16曲):「AladroitedeDior/ディオールの右に」、「Le jeunehommeaubalcon/バルコニーに立つ若者」など16曲 ・2010年11月ACCの特別賞 ・2012年4月19日「Ordre du Mérite/国家功労勲章」 Officier章受章 ・2012年5月アルバム『Elles et lui/彼女たちと彼』(自身のヒット曲を女性歌手とのデュオで):「Manureva」(Audrey Marnay:1980-モデル・俳優)、「L’ennemidanslaglace」(ElodieFrégé:1982-歌手・俳優)、「Claraveutlalune/クララは月が欲しい」(Alizée:1984-歌手)、「LesbeauxyeuxdeLaure」(ClaireKeim:1975-俳優・歌手)など12曲 ・2015年4月アルバム『Alain
Chamfort』:「Ensemble/一緒に」、「Où
es-tu?/君はどこに」(Charlotte Rampling:1946-女優 とのデュオ)、「Le diable est une blonde/悪魔はブロンド娘」、「Joy/ジョイ」など11曲 ・2015年11月SACEMの「Grand
prix de la chanson française, créateur-interprète/クリエーター=歌手 大賞」 ・2016年1月2枚組compilation『Le meilleur d’Alain Chamfort/アラン・シャンフォーの傑作』32曲 ・2018年4月20日アルバム『Le désordre des choses/混乱』:「Les microsillons/レコード」、「Le desordre des choses」、「Tout est pop/全てがポップ」、「Les salamandres/火トカゲ」、「En regardant la mer/海を見ながら」など10曲 ・2018年10月から国内ツアー、11月15日Paris、Trianonに出演 3.「Manureva」について 「Manureva」はフランスの海洋冒険家Alain Colas(Nievre、Clamecy1943年9月16日-1978年11月16日)が遭難時に乗っていたVoilier trimaran/3胴帆船の名、タヒチ語で「Oiseau
de voyage/渡り鳥」の意。Colasは第1回大西洋横断レース(78年11月5日出航地Saint-Maloから到着地GuadeloupeのPointe- à -Pitre間の単独無寄航レース)に参加、航海中11月16日ポルトガルのアゾレス諸島沖で消息を絶った。 1976年Alain ChamfortはClaude Françoisが設立したレコード会社Flèche社との契約期限が終了することから同社を離れ、それまでの「chanteur à minette/軽薄な女の子御用達の歌手」からの脱皮を目指してCBS社と契約。76年にはアルバム『Mariage à l’essai/青春のページ』をリリース。77年には収録曲10曲の歌詞をすべてSerge Gainsbourgに提供されたアルバム『Rock’n’rose』をリリース。アルバムはいずれもそれなりの成功で、脱皮路線は順調に進んだが何かよりインパクトのあるものが欲しかった。 1979年春ChamfortはLos AngelesのSound
Recordersスタジオで3枚目のアルバム『Poses』に収録する曲を録音していた。それらの曲はChamfortとJean-Nöel Chaléatが共作で作曲したものにSerge Gainsbourg、Jay Alanski、Jean-Michel
Rivat、それにJane Birkinに詩を依頼した8曲だった。すべての曲の録音は終わった。しかしGainsbourgに提供された曲のうち「Adieu California」の詩が気に入らなかった。「歌詞の中にMarilyn Monroe(1926-1962)やSanta Monicaが出てくるが、ちょっと時代遅れの感じがした。それにNicolas Peyracの『So far away from LA』と似通った印象を受けた」。ChamfortはGainourgsに改作を依頼した。 改作の依頼を受けて数日後Gainsbourgは大西洋横断航海に参加した友人の航海士Eugène Riguidelと食事中、Colasの遭難が話題になった。その遭難事件に触発されたGainsbourgはそれをテーマにその夜のうちに作詞、翌朝4時電話でChamfortに出来上がったばかりの詩を伝えた。録音済みの「Adieu California」はお蔵入り。「Manureva」はアルバムのトップに収録された。 アルバムリリース1979年10月1日。「Manureva」はその前1979年9月15日にシングルで先行リリースされ、100万枚(フランスで72万枚以上の売上げでChamfort最大のヒット曲になり、Chamfortの新しいキャリアの出発点となった。 Chamfortは2012年5月、自身のヒット曲を女性歌手らとのデュオで歌ったアルバム『Elles et lui/彼女たちと彼』をリリース。そこでは「Manureva」をAudrey Marnay(1980-モデル・俳優)と歌っている。 |
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今月の顔 2018年8月 aout 2018 ユーグ・オーフレHugues Aufray 1966年8月のヒット曲の一つにHugues Aufrayの「Céline」があった。 1.「Céline/セリーヌ」(1966年 Vline Buggy & Hugues
Aufray作詞/Mort Shuman作曲) 1966年 https://www.youtube.com/watch?v=6JELJ4m65MI 2011年 https://www.youtube.com/watch?v=ccxX6U-fd1k 歌詞の大意: ・・ねえセリーヌ、もう何年も経ったけれど、何故あなたは結婚しようと考えなかったの?僕の姉妹の中で夫がいないのはあなただけ。 いえいえ恥ずかしがらないで。あなたの目は今でも綺麗。恥ずかしがらないで。あなたは男の人を幸せに出来るはず。 ねえセリーヌ、あなたは一番年長で僕たちの母親代わりをしてくれた。昔は僕たちのために生きていた。自分のことを考えたことはなかったの? いえいえ恥ずかしがらないで。あなたの目は今でも綺麗。恥ずかしがらないで。あなたは男の人を幸せに出来るはず。 ねえセリーヌ、彼はどうなったの、2度と僕たちが会うことはなかったあの優しい婚約者は?僕たちの面倒を見るために、彼と別れたの? いえいえ恥ずかしがらないで。あなたの目は今でも綺麗。恥ずかしがらないで。あなたは男の人を幸せに出来るはず。 そうセリーヌ、あなたは人生を失敗したわけではない。あなたが生んだわけではないけれど僕たちは皆あなたの子供。そのことは僕はずっと前から解っていた。そしてこれからも決して忘れない。(語り)泣かないで、泣かないで、あなたの目は昔のまま、泣かないで、泣かないで。僕たちはいつまでもあなたの側にいるから。いつまでもあなたの側にいるから・・ 2.Hugues Aufrayの略歴 Hugues Aufrayは1929年8月18日パリ郊外Neuilly-sur-Seine生まれのACI、ギタリスト、彫刻家。 南仏Tarn県、スペインMadridで育つ。1948年Parisに。兵役後52年からSaint-Germain-des-Présで歌う。 ・1959年当時無名のSerge Gainsbourgの「Le
poinçonneur des Lilas/リラ駅の切符切り」を歌いラジオ局Europe1のコンクールで優勝。Eddie Barclayに認められて、 ・1959年3月「Le poinçonneur des Lilas」、「Y’avait Fanny qui chantait/歌っているファニーがいた」など4曲収録の最初のレコードをリリース ・1959年Maurice Chevalierのアメリカ公演の前座で歌うように招かれ、渡米。Bob Dylan、PPMを知る ・1961年12月「Santiano/サンティアノ」が最初のヒット https://www.youtube.com/watch?v=Rp6P8jryf2g ・1964年3月21日コペンハーゲンで行われたEutovisionにルクセンブルグ代表として出場「Dès que le
printemps revient/春が巡ってきたら直ぐに」を歌い4位。 ・1965年Pierre Delanoë(1913-2006 作詞家)によるフランス語の歌詩でLP「Hugues Aufray chante Dylan/ユーグ・オーフレ ディランを歌う」をリリースしDylanをフランスに紹介。「La fille du nord」(「Girl from the North Country」)など11曲収録 ・1966年3月vedetteとしてOlympiaに出演 ・1966年「Céline」、「Stewball」(アイルランド民謡Joan Baezなども歌っている) ・1968年「Adieu Monsieur le professeur/さようなら先生」 70年代からはArdecheの農場で農耕、羊の飼育、乗馬などをして暮らしながら、Marly-le-Roi(Parisの西20km)の自宅を往来し、音楽活動を続け、パリのキャバレやホールに出演、アルバムをリリース。 ・1984年7月1日Parisの西南Sceaux公園でのBob
Dylan公演ではデュオで「The times they are achangin’」を歌う ・1985年Renaudの要請によりエチオピアを援助するコンサート「Chanteurs sans
frontière/国境なき歌手たち」に参加 ・1990年デビュー30周年過去のヒット16曲を再録音したアルバム『La terre est si belle/地球はこんなに美しい』 ・1995年12月『Aufray chante Dylan』リリース30周年記念『Aufray trans
Dylan』Dylanの26曲をカバー(前アルバムの13曲+自身のフランス語の歌詞による13曲) ・1999年3月『Chacun sa mer/人はそれぞれの海を持つ』:「Quel est ce
grand vacarme?/この騒音は何だ」、「Le siècle des enfants/子供たちの時代」など14曲 ・2006年10月10日「Ordre des Arts et Lettres/芸術・文学勲章」のcommandeur章受章 ・2009年10月『New Yorker』(Dylanの曲にAufray自身がフランス語の歌詞をつけたものをJohnny Hallyday、Carla Bruni、Eddy Mitchell、Francis Cabrelらとのデュオで歌った13曲収録):「La fille du nord/北国の少女」(「Girl from the North Country」Mitchellと)、「N’y pense plus, tout est bien/くよくよするな」(「Don't think twice,it's all right」Bruniと)、「Tout comme une vraie femme/女のごとく」(「Just like a woman」Jane Birkinと)、「Dans le souffle du vent/風に吹かれて」(「Blowin' in the wind」Cabrelと)、「Jeune pour toujours/いつまでも若く」(「Forever young」Hallydayと)など ・2010年ACCの特別賞 ・2011年3月VdM特別賞 ・2011年10月『Troubadour since 1948』(自身の過去のヒットを録音し直した17曲):「J’entends siffler le train/汽笛が聞こえる」(Françoise Hardyとのデュオ、原曲は「500 miles」)、「Y‘avait Fanny qui chantait」、「Dès que le printemps revient」、「Céline」、「L’hôtel du seleil levant/朝日の当たる館」(原曲は「House of the rising sun」)、「Stewball」、「Santiano」など ・2012年5月Cité de la MusiqueのDylan 展にブロンズの頭部像出展 ・2012年7月14日「Légion d’Honneur」のchevalier章受章 ・2016年11月から2017年2月17日第10回Age tendre、la tournée des idolesのツアーに参加 ・2018年9月から2019年5月まで国内、ベルギー、カナダツアー フランスでは小学校6校、2つのコンサートホールがAufrayの名を冠している 3.「Céline」について 1966年を代表するこの曲はフランスとアメリカの実りある協力から生まれた。女性作詞家Vline Buggy(1929-)はそれまで5年以上Claude Françoisに多くの詩を提供していた。この年楽譜出版社を通じてフランスに来たばかりの一人の若いアメリカ人作曲家で歌手でもあったMort Shuman(1936-1991)と知り合った。ShumanはアメリカですでにRay Charles、The Drrifters、Elvis Presleyなどに曲を提供していて、特にThe Drriftersの「Save the last dance for me」、Presleyの「Viva Las Vegas」、「Surrender」などは世界中で知られていた。BuggyとShumanは意気投合。Shumanは作曲したばかりの数曲をBuggyに示した。その中の一つが特に気に入ったBuggyは早速それに詩を付けた。母親のいない家庭で、幼い兄弟・姉妹のために自分を犠牲にしてその面倒を見る女の子をテーマにしたもので、「Céline」という名は母方の従姉妹の名を借りた。Buggyはそれを当然のことのようにClaude Françoisの許に持って行った。しかし、Françoisは歌うことを拒否。それはこの詩が当時の風潮に合わないという当時の恋人France GallとプロデューサーのPaul Ledermanの意向からだったと言われている。次に持って行ったRichard Anthonyにも拒否され、Hugues Aufrayの許へ。Aufrayはクープレの部分を一部修正して歌うことに同意した。 そして1966年7月「Céline」の他に「Stewball」などを収録したEPがリリースされた。すると「Céline」はその年の夏Michel
Polnareffの「L’amour avec toi/君との愛」、Johnny Hallydayの「Noir, c’est noir/黒は黒」、Jacques Dutroncの「Et moi, et moi, et moi/そして僕、僕、僕」、などと並んで大ヒット。その後この曲のヒットにより女の子にCélineと言う名を付けることが流行った。カナダ、Québec州に住むAdhémarとThélèseのDion夫妻は、二人の間の14人番目の子供で、1968年3月30日に生まれた女の子にこの名を付けた。 |
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今月の顔 2018年7月 juillet 2018 Léo Marjaneは1941年7月「Seule ce soir/今宵ただひとり」を録音 (他の歌手は、Je
suis seule ce soirのタイトルでカヴァーしている) 1.
「Seule ce soir/今宵ただひとり」(1941年Rose Noël&Jean Casanova作詞/Paul Durand作曲) https://www.youtube.com/watch?v=IjnqfBHEVqs 歌詞大意: ・・私は部屋の窓を閉めた、立ちこめる霧は凍てつくよう、それは私の部屋の中まで流れ込む、私たちの部屋に、過去が消えて行く私たちの部屋に。・・(ルフラン)今宵私はただ一人、夢を抱いて、今宵私はただ一人、あなたの愛がないまま。日は暮れて、喜びも消え、すべてが私の重い心の中で
くず折れる。私は今宵ただ一人、悲しみを抱いて。あなたが帰るという望みも失った。それでも、私はあなたを愛している、これからもずっと。私を一人にしないで、あなたの愛がないまま・・ 暖炉の中で風が泣いている、バラの花は音も立てずに散ってゆく、大時計は、15分ごとに時を告げ、その細く長い響きは憂いを慰めてくれる・・(ルフラン)今宵私はただ一人、夢を抱いて、今宵私はただ一人、あなたの愛がないまま。日は暮れて、喜びも消え、すべてが私の重い心の中で崩れ折れる。私は今宵ただ一人、悲しみを抱いて。あなたが帰るという望みも失った。それでも、私はあなたを愛している、これからもずっと。私を一人にしないで、あなたの愛がないまま・・ 2.Leo Marjaneの略歴 レオ・マルジャンヌLéo Marjane(Pas-de-Calais、Boulougne-sur-Mer 1912.8.26-Barbizon2016.12.18 歌手) 本名Thérèse Gendebien。幼少期を外交官の父親についてドイツ、オーストリアで過し、ウイーンのconservatoireで歌、ヴァイオリン、ピアノを習う。6歳で父親を亡くしMarseilleへ。 ・1927年MarseilleのキャバレAlcazarで行われた歌謡コンクールに出場し優勝 ・1928年Marseilleでステージに立ち、歌のほか、ダンスやアクロバットで人気に ・1931年歌手と結婚、パリに。Shéhérazare、Alhambraなどに出演 ・1932年Columbiaから最初のレコード「Les prisons/刑務所」、「Paris-Noël/パリ=クリスマス」 ・1937年最初のヒット「La
chapelle au clair de lune/月光のチャペル」(「In the chapel in the moon light」の翻案) 「録音の後、ブラジル公演中レコード会社のディレクターから電報が入った。『スターになったすぐ帰れ!』」 https://www.youtube.com/watch?v=bDYwpC1Qr44 その後は熱い、優しい、魅惑的な声、発声で好評、フランスのジャズ歌手第1号とも言われる。 ・1938年「Divine biguine/崇高なビギン」(「Begin the Biguine」の翻案)、「En septembre sous la pluie/雨の九月に」(「September
in the rain」の翻案)、「C’ était la barque du rêve/それは夢の小舟だった」(「When my dream boat comes true」の翻案) ・1938年「Bei mir bist du schön/素敵なあなた」(「Bei mir bist du schön」の部分を除きフランス語で) ・1940年「Mon ange/私の天使」、「Sérénade portugaise/ポルトガルのセレナーデ」、「Je te dois/あなたのお陰」 ドイツ軍によるParis占領(1940.6.14 Paris陥落―1944.8.29 解放)も彼女の活動に影響を与えなかった。この間Concert Pacra、L'écrin
(Marjaneがオペラ座の近くに開いた店)、Casino
Montparnasse、Folies-Bellevilleなどに出演。 ・1941年「L'arc en ciel/虹」(「Over
the rainbow」の翻案)」 ・1941年「Seule ce soir」 ・1941年「Attends-moi mon amour/恋人よ、待っていて」 ・1943年「C’ était une histoire d’amour/それは昔の恋の物語」 ・1943年公開Jacques
Houssin監督映画「Feu Nicolas/故ニコラ氏」にキャバレの歌手役で出演し、「L’âme au diable/悪魔に魂を」、と「Sainte Madeleine/聖マドレーヌ」を歌う Paris解放後Comités d’épuration/対独協力者追放委員会の査問を受ける。ドイツ人将校の出入りするキャバレやドイツ軍が管理していた放送局Radio-Parisに出演していたことが問題視される。「私は極端な近眼で誰が来ていたか解らなかった」と弁明。最終的には嫌疑は晴れたが、数ヶ月間ステージへの登場と録音とを禁じられた。また、Radio-Parisが所蔵していたレコードは51年まで放送禁止。名声とイメージは傷ついた。 その後、アメリカ、カナダ、イギリス、ベルギーを中心に活動、当時の東ドイツ、ソ連にも。 ・1948年Baron
Charles de Ladoucetteと結婚、Barbizonに居住 ・1949年Paris、「Théâtre de l’Etoile」に出演、昔日の人気はなかった その後、「Les
croix/十字架」、「Sur ma vie/命を懸けて」、「Monsieur
mon passé/私の過去」、「Mademoiselle Hotensia/あじさい娘」、「Vous qui passez sans me voir/去りゆく君」、「Je veux
te dire adieu/悲しい別れ」、「Tire, tire l’aiguille/針仕事に精をお出し」、「Mets deux thunes dans l'bastringue/一踊り10フラン」などを歌う。 ・1956年公開Jean Renoir監督の「Elena et les hommes/恋多き女」でIngrid Bergman、Jean Marais、Juliette Grécoらと共演、街角で歌う歌手を演じ、「Mefiez-vous deParis/パリにご用心」を歌う ・1961年11月最後のレコードをリリース。「Seule ce soir」、「Septembre sous la pluie」、「Begin the biguine」、「Mon ange」を歌い直して収録 ・1969年短期のcame-backを計ったが成功せず、完全に引退 ・2012年CD4枚組「Joyeux anniversaire Léo:100 ans-100 succès/Léo祝誕生日:100歳-ヒット100曲」 ・2016年12月18日Barbizonで心臓発作のため死去、享年104歳 生涯180曲以上を録音 3.「Seule
ce soir」について Paul Durand(Sete1907-Paris 1977 作曲家、オーケストラ指揮者)はMontpellierのConservatoire national de musiqueで作曲を学んだ後1938年Parisに出て、いくつかのキャバレでピアニストを務めていた。1941年、ドイツ占領下のParis、その日出演したキャバレには客が一人も来なかった。そこでDurandはぶりょうを慰めるためピアノを弾きだし、歌った「Je suis seul
ce soir・・/今宵僕はただ一人・・」。それを聞いたRose NoëlとJean Casanovaがそれに続く詩を付け、「Seule ce soir」が生まれた。Léo Marjaneは1941年春ラジオ局Radio-Parisでこの曲を創唱、その後キャバレABCなどで歌い、同年7月録音。Radio-Parisは当時占領軍の管理下にあり反ドイツ的な番組、anglo-saxon系の音楽を禁じていたが、この曲はあからさまな政治色はなかったため頻繁に放送された。フランスではすでに多数の戦死者や捕虜が出ており、また、当時の植民地でドイツ軍と戦闘を続けていた兵士、De Gaullle将軍の自由フランス軍に参加していた兵士、また抵抗運動に身を投じていた人々、あるいはSTO(対独協力強制労働)により徴用されていた男性は数百万人いたとされており、そして、父親、夫、恋人、兄弟の帰還を待っている女性も数百万人。この曲はそれらの女性の広い支持を受けた。 この曲は多くの歌手によってカバーされていて、Lucienne Delyle、André Claveau、Juliette Gréco、Mireille Mathieu、Chasrles Dumontらが歌っている。またDjango Reinhardtのバンド演奏なども知られている。 Lucienne
Delyle https://www.youtube.com/watch?v=CRbyGmwi05w André
Claveau https://www.youtube.com/watch?v=yzZ6eQmC5Ps |
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今月の顔 2018年6月 juin 2018 François Degueltは1965年6月、この年の「Tube de l’été/夏のヒット」になった「Le ciel, le solei et la mer/空と太陽と海」を収録したEPをリリース 1.「Le ciel, le solei
et la mer」 https://www.youtube.com/watch?v=VuVo29dCGtc&t=49s 歌詞の大意・・ここには空と太陽と海がある。砂浜寝ころんでいると髪の毛は目にかかり、顔は砂に埋まる。二人でいると楽しい気分、今は夏、今はヴァカンス、あー何て運のいいこと、空があり、太陽があり、海がある。 木造の小屋でベッドも大きくないけれど、毎日が日曜日、いつまで寝ていても構わない、昼には浜辺で同じ年代の友だちが集まって一緒に歌う、空と太陽と海を。 そして夜になるとみんなでダンス、そこでは君にぴったりの曲が君を待っている、ヴァカンスや愛を歌った曲が、空と太陽と海を歌った曲が。 9月になったらまたどこかで逢おう、そして夜になったら君の部屋で、また一緒に歌おう、秋の風が吹いていても、雨が降っていても、そうすれば、僕たちには、空が、太陽が、海があるだろう・・ 2.François Deguelt略歴 Degueltは1932年12月4日、スペインとの国境に近いMidi-Pyrenées地方Hautes-Pyrenées県Tarbes生まれのACI。パリで哲学を学んでいたが、51年Henri SalvadorやFélix Leclercの歌に感銘を受け、学業を放棄し幼少より興味があった音楽の道へ。 ・1951年からMontmartreのキャバレ「Le Tire-Bouchon」などに出演、Jacques Brel、Léo Ferré、Boris Vianらの曲を歌う。 ・1952年最初の自作「Coquette/おしゃれ娘」、「Vie quatidienne/毎日の生活」を歌ったがほとんど話題にならず。 ・1953年Francis Claudeのラジオ番組に出演、Jean Nohainのツアーに同道、またNohainがプロデュースしていたTV初の歌謡番組と言われる「36 chandelles/36本のローソク」に出演するなどして徐々に人気に。 ・1956年「Dimanche matin/日曜の朝」などを収録したEPレコードでACCのLe Grand prix de la chanson française受賞。 ・1959年「Je te tendrai les bras/愛を求めん」でPrix Coq d’Or
de la chanson française受賞。 ・1960年兵役除隊後Bobino、Olympia、A.B.C.にvedetteとして出演。 ・1960年Monaco代表としてEurovisionに出場、「Ce soir-là/その夕べ」を歌い3位に(1位はフランス代表Jacquline Boyerの「Tom Pillibi/トン ピリビ」)。 ・1962年再びMonaco代表としてEurovisionに出場、「Dis rien/何も言わないで」で2位(1位はフランス代表Isabelle Aubretの「Un permier amour/初恋」)。 ・1962年Jean Maley監督映画「L’assassin viendra ce soir/殺人者は今晩やって来る」に出演。 ・1965年Deguelt最大のヒット「Le ciel,le soleil et
la mer」。 その後も「Je te tendrai les bras/愛を求めん」、「Bal de la marine/岸辺の小さなダンスホール」、「Il te restra mon souvenir/君に残る僕の思いで」、「Paris,c’est
trop loin de la mer/パリは海から遠すぎる」、「En mélo mélancolique/哀愁のメロディー」などの佳作を出す。 ・1974年Paris、Montmartre、Tertre広場近くのキャバレ「Chez ma cousine」(12,rue Norvins 18区)の経営者となり、自らも出演して歌う。その後は地中海に浮かべた帆船で生活し、時々コンサートに出演するため陸に上がるだけの生活を続け、 ・1995年Prix de la SACEM受賞。SACEMにはDegueltの名で140曲が登録されている。 ・2006年「Age tendre et têtes de bois」の第1回ツアーに参加、司会を務めた。 ・2014年1月22日南フランスVar県Draguignatで死去、享年81歳。 3.「Le ciel,le
soleil et la mer」について 1965年ある雨の日、Degueltはその日欠けているもの3つを書き出した。le ciel、le solei、la mer。それをノートに書き留めて、Chevreuse(Parisから南西28km)にあった家から、女の子とのデートのため愛車のDS
CitroënでParis市内に向かった。車をセーヌ河畔に止め、車の後部座席で彼女と話始めた。雨がフロントガラスを強く叩いていた。Degueltはトランクから祖母に贈られたギターを取り出し、弾きながら、書き留めた3つの単語を使って即興で歌い出した。「Il y a le ciel, le solei et la mer・・」。曲を聞いた女の子は、良い曲だから完成させるべきだと進言。翌日にはDegueltはオーケストラ指揮者で編曲者Jacques Denjeanに出来上がったばかりの曲を見せた。「修正するとことはない」と言うことで、早速Pathé Marconi社のスタジオで録音。その際Denjeanはバックコーラスに、澄んで、官能的な声の持ち主Danielle Licari(1936-歌手、コーリスト)を推薦。A面に「Juasqu’à Venise/ベニスまで」他1曲、B面に「Le ciel,le soleil et la mer」他1曲を収録したEPが1965年6月にリリースされた。4つのコード、簡潔なメロディー、単純な歌詞、優美な心地よい声、女性の声がかぶる歌いやすいルフランで、この曲はヴァカンスを楽しむ若者たちに熱狂的に迎えられ、1965年の「Tube de l’été」(注)に。 (注)「Tube de l’été/夏のヒット曲」:1960年代以降、メディアを中心に使われるようになった言葉で、夏のヴァカンス期に、頻繁に、ラジオから流され、あるいはダンスなどのためにバー、ナイトクラブなどかけられる音楽。1965年の「Tube de l’été」には、「Le
ciel, le solei et la mer」の他に、Christopheの「Aline/アリーヌ」、Hervé Vilardの「Capri,c’est fini/カプリの恋の物語」、Guy Mardelの「N’avoue jamais/決して言わないで」(1965年Eurovisionフランス代表で3位に入賞)があった。 |
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今月の顔 2018年5月アモリー・ヴァッシリAmaury Vassili Amaur Vassili は2011年5月14日第56回Eurovisionに出場「Sognu/夢」を歌った。 1.「Sognu」2011年5月14日第56回Eurovisionで https://www.youtube.com/watch?v=OTiBNPT-x_Y 2.Amoury Vassili略歴 アモリー・ヴァッシリAmaury
Vassili(Yvelines県Le Chesnay 1989.6.8- 歌手) 幼少期をSeine-Maritime県Rouen郊外Montvilleで過ごす。9歳でRouenの「L’école de comédie musicale/ミュージカル学校」で学ぶ。その後各地のシャンソンコンクールに出場、14歳でJacques
Brelの「Amsterdam」を歌い初優勝。 2004年Florent Pagnyの「Savoir aimer/愛する術」を歌い「Coupe de France de la
chanson française/シャンソンフランセーズフランスカップ」を受賞 2004年France 2「Chanter la vie/人生を歌う」でTV初登場。Mike
Brantの「Tout donné,tout repris/すべてを与え、すべてを奪った」を歌う 2005年Richard Crosse(ヴォイストレーナー)のEcole de chant/歌謡学校に入る 2005年から6年にかけてミュージカル「Les amours de Mazart/モーツアルトの恋愛体験」に出演 2006年最初のシングル「Nos
instants de libérté/我々の自由の瞬間」(Liza Pastorとのデュオ)リリース 2009年3月ファーストアルバム『Vincero』:「Parla piu piano」(映画「Le Parrain/ゴッドファーザー」から)、「Who wants to live forever」(Queenのカバー)、「Hallelijah」(Leonard
Cohenのカバー)、「Vincero」、「Un Angelo」など12曲収録。アルバムは25万枚以上売上げ、一躍人気歌手に 「Parla piu piano」2009年 https://www.youtube.com/watch?v=yICKrs3qkwU 2010年11月セカンドアルバム『Cantero』:「Sognu」、「Caruso」、「Con te partiro」、「Amapola」、「Les moulins de mon cœur/わが心の風車:風のささやき」)、「I Would Dream About Her」など14曲収録。2011年11月リリースのコレクターエディションには「Noël
blanc/ホワイト・クリスマス」、「My Heart Will Go On」などを追加 2010年イギリス人歌手Katherine Jenkins(1980-歌手)のアルバム「Believe」(2010年)で「Endless love」をデュオで歌い国際的にも知られるように 2011年3月POPBで行われたユーロッパ室内陸上選手権の開会式で「La Marseillaise/ラ マルセイエーズ」を歌う 2011年5月第56回Eurovisionコンクールにフランス代表として出場 2011年Gérard
Lenormanのアルバム「Duos de mes chansons/僕のシャンソンをデュオで」に「Et moi je chante/そして僕は歌う」で参加 2012年10月23日3枚目のアルバム『Una Parte Di Me』クラッシクの名曲にVassiliがDaniel Moyne、Davide Espositoの協力を得てイタリア語の詩を付け、Quentin
Bacheletが編曲した13曲を収録:「Pensiero mio」(チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番より」、「I silenzi tra noi」(ブラームス「交響曲第3番第3楽章」より、Sofia Essaïdiとのデュオ)、「Con te」(ショパンの「ノクターン」より)、「Una parte di me」(モーツアルト「交響曲第40番第1楽章より」、「Siamo
il future noi」 (ボロディン「ダッタン人の踊り」より、Bonby少年少女合唱団と)、「Il
lago dei cigni」(チャイコフスキー「白鳥の湖」より、Dominique Magloireとデュオ)、「Chiaro di luna」(ドビッシー「月の光」より)、「Tous ensemble
pour demain/みんな一緒に明日のために」(「Siamo il future noi」のフランス語ヴァージョン、Bonby少年少女合唱団と)など 2013年5月、初来日。 Eurovusion出演時の映像を見てファンになったという葉加瀬太郎の協力を得て「Cantero」の日本語版「『Cantero Japan edition』をリリースして、日本デビュー。5月17日日テレの「スッキリ」に出演 2014年4月2度目の来日。4月25日NHK「あさイチ」に出演 『美しき愛の詩(うた)~Una parte di me、Japan edition』をリリース 2014年10月4枚目のアルバム『Amaury
Vassili chante Mike Brant/アモリー・ヴァッシリ、マイク・ブラントを歌う』Brant(1947年-Paris75年 歌手)のヒット曲など13曲収録:「Qui saura/誰が知ろう」(Brantとのヴァーチャルデュオ)、「Laisse moi t'aimer/君を愛させて」、「Rien qu'une larme/ただ一つの涙」、「C'est ma prière/それが僕の祈り」、「C’est comme ça que je t’aime/こんな風に君を愛している」、「Viens
ce soir/今夜来て」、「Qui pourra te dire/誰が君に言えるだろう」、「Où que tu sois/君がどこにいても」(Brantの未発表曲)、「Dis-lui/彼女に言って」(Brantの遺作で「Feeling」のカバー)など 2015年Pierre
Bacheletのオマージュルバム「Nous l’avons tant aime」に「Ecris-moi」で参加 2015年10月16日5枚目のアルバム『Chanson populaires/人気シャンソン』シャソンフランセーズの過去のヒット13曲のカバー):「Il est mort le soleil/太陽が消えた朝」(1968年Nicoletta)、「Une histoire d’amour/ある恋の詩」(1971年 Mireille
Mathieu)、「J’ai encore rêvé d’elle/まだ彼女の夢を見ていた」(1972年「Il était une fois」、Barbara Opsomer<ベルギー1990-ポップ歌手>とのデュオ)、「On l’appelait solitaire/それは孤独と呼ばれていた」(1976年Nana Mouskouri)、「Ce monde/この世界」(1964年 Richard Anthony)、「Lady Marlene」(1977年Daniel Balavoine)、「Les bleus au cœur/心の青」(1977年Patrick Juvet)、「Louise」(1982年 Gerard Berliner)、「Il a neigé sur Yesterday/Yestedayの上に雪が降っていた:雪の降る宵」(1977年 Marie Lafôret)、「17ans/17歳」(1975年Claude Francois)、「Faut pas pleurer comme ça/そんな風に泣いてはだめ」(1972年Daniel
Guichard)、「Le lac Majeur/マジュール湖」(1972年 Mort Shuman)、「Je n’aurai pas le temps/僕には時間がないだろう」(1867年 Michel Fugain) 「Il est mort le soleil」2018年https://www.youtube.com/watch?v=Vd2qob0DS-0 3.Eurovision出場及び「Sognu」について Vassiliは2011年5月ドイツのDusseldorfで行われた第56回Eurovisionコンクールにフランス代表として出場した。 この回のフランス代表にはShy’mも候補として報道されたこともあったが、最終的にはEmma Daumas(Avignon1983-ACI・作家)とAmaury Vassiliの2人に絞られた。2011年2月14日France Télévision(France2、France3などを傘下の持つ公共放送機関)及びSACEMによりAmaury Vassiliがフランス代表に選ばれた旨報道された。同時にVassiliが歌う曲は「langue régionale/地域語」(注)の一つであるコルシカ語によるオリジナル曲である旨も発表された。2008年修正されたフランス共和国憲法75条の1では「地域語はフランスの文化的財産である」と定められていて、コルシカ語で歌うことは「フランス文化の多様性を示すこと」であるとされた。さらに、コルシカ語はオペラ用語とも言うべきイタリア語に似ているで若いテノール歌手Vassiliが歌うのに適した言語であるとされた。 (注)「地域語」にはコルシカ語の他に、ブルターニュ語、バスク語、カタルーニャ語、アルザス語、オック語などがある。
Erovisionのフランス代表は過去に1993年Patrick Fioriが「Mama Corsica」をコルシカ語で、1996年ブルターニュ出身のグループが「Tiwanit bugale」をブルターニュ語で歌った例などがある。 参加曲は「Sognu」(Jean-Pierre Marcellesi &Julie Miller作詞、Daniel Moyne & Quentin Bachelet作曲)で、TVでは3月7日France3の番組「Chabada」で初めて披露された。 第56回Eurovisionの決勝は5月14日(土)予選を勝ち抜いた20ヵ国及び予選を免除されている5ヵ国(仏、独、伊、英、西のbig 5。他に通常開催国も予選を免除される)を加えた25ヵ国の代表で競われた。その結果Azerbaidjan代表Ell & Nikkiが英語で「Running Scared」を歌い221点を獲得して優勝。Vassiliは82点で15位だった。この順位はフランスにとっても、Vassiliにとっても満足すべきものではなかったが、「Eurovisionという大きな舞台で我が国の宝である地域語の価値を更に高めることが出来た」。「Sognu」はPrix Marcel-Bezencon/最優秀作曲賞を受賞した。作曲者のDaniel Moyne(生年不明-作詞・作曲家、アートディレクター)と Quentin
Bachelet(1977-作詞・作曲家、プロデューサー。父親はPierre Bachelet)はVassiliのデビュー当時から曲を提供し、あるいはプロデュースしている。 「Sognu」歌詞の大意(フランス語への訳詩の一つから。タイトルは「Le rêve/夢」) ・・僕が夢に見るのは君の唇、明るい、澄んだ君の声。そして思い出すのは君と一緒に過ごしたあの夜のこと。僕は夢見る。しかし僕の心の中には春はない、僕はそれを嘆く。僕の人生、僕は明日に期待する、海を見つめながら。僕は君と世界を共有したいのに、君は一緒に来ることを望んではいない。君から遠く離れて僕が思うには君のことだけ、君がいつも隣にいてくれたら。 僕は君に歌うだろう、君と僕のシャンソンを。僕は願う、もし君がこの世からいなくなるようなことになったら、僕も連れて行って・・ |
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今月の顔 2018年4月Avril ヴァンサン・ドレルムVincent Delerm
1.
「Fanny Ardant et moi」 2016.10.13 https://www.youtube.com/watch?v=mhnBf0qhg5U 2.
Vincent Delerm略歴 ヴァンサン・ドレルムVincent Delerm(Normandie、Evreux 1979-ACI、劇作家) 推敲を重ねた単純な言葉の詩を独特な声、無造作な歌い方で歌い人気のあるVincent Delerm、父は作家・詩人Philippe Delerm、母親は童話作家、挿絵画家Martine Delerm。幼少の頃からシャンソンに親しむ環境。Barbara、Yves Duteil、Alain Souchonらのレコードをよく聞き、シャンソンを歌う芸術的生活に憧れる。Rouen大学で現代文学を専攻するかたわらシャンソンを作り、ピアノを独習。 ・1998年Rouenの大学街の「Ronsard」ホールで自作を歌う ・1999年Parisに上り「Au Limonaire」(9区)、「Théâtre les Déchargeurs」(1区Halles地区)に出演。特に「Théâtre les Déchargeurs」には2000年末から2001年にかけて週1回出演 ・2001年6月Thomas Fersen(1963-ACI)のLa Cigale公演の前座で歌い、その推薦により「Tôt ou Tard」社と契約 ・2002年4月ファーストアルバム『Vincent Delerm』:「Fanny Ardant et moi/ファニー・アルダンと僕」、「La vipère du Gabon/ガボンのマムシ」、「Tes parents/君の両親」、「Cosmopolitan/コスモポリタン」(Irène Jacobとのデュオ)、「Deauville sans Trintignant/トランティニャンのいないドーヴィル」(映画Claude Lelouch監督「Un home et une femme/男と女」の中のJean-Louis Trintignantの台詞入り)、「L’heure du thé/お茶の時間」、「Le monologue shakespearien/シェークスピア的独白」など11曲収録 その後2002年5月「L’Européen」に4週間出演、6月Julien Clercのパリ公演の前座(Bataclan、Zénith)、7月Francofolie de la Rochelle出演、11月La Cigaleにvedetteとして出演など、2003年5月Bataclan出演まで70の都市で80回のコンサートを行い、広く知られるように。 ・2003年VdM新人アルバム賞受賞。 ・2003年SACEM「Francis-Lemarque賞」(新人賞)受賞 ・2004年セカンド 『Kensintgton Square』:「Kensintgton Square」、「Les filles de 1973 ont trente ans/1973年生まれの女性は30歳」、「Le baiser Modiano/モディアノのキス」、「Veruca Salt et
Frank Black/ヴェルーカ・ソルトとフランク・ブラック」(Keren Ann &
Dominique Aとのトリオ)、「Gare de Milan/ミラノ駅」、「Deutshe Grammophon」/ドイツ・グラモフォン」(Irène Jacobとのデュオ)など10曲 ・2006年3枚目『Les piqûres d’araignée/蜘蛛の刺し傷』:「Les piqûres d’araignée」、「Sous les avalanches/雪崩の下で」、「Je t‘ai même pas dit/君には言わなかった」、「A Naples il y a peu d’endroits
pour s’assoire/ナポリには座る場所がない」、「29 avril au 28 mai/4月29日から5月28日まで」、「Voici la ville/ここの町がある」「Les jambes de Steffi
Graf/シュテェフィ・グラフの脚」など13曲 ・2007年3月Olympia出演 ・2008年4枚目『Quinze chansons/シャンソン15曲』:「Tous les acteurs s’appellent Terence/すべての俳優の名はテレンティウス」、「Allan et Louise/アランとルイーズ」、「Je pense à toi/君を想っている」、「Dans tes bras/君の腕の中で」、「78543 habitants/人口78543人」、「La vie est la même/人生は同じ」など15曲 ・2011年12月Delermが脚本を書き、劇中歌8曲を作詞作曲し、主人公Simonを演じる登場人物一人の音楽スペクタクル「Memory」、Théâtre des Bouffes du Nordで上演。その後国内各地、13年4月にはParis Olympiaで上演 ・2012年「Ordre des Arts et des Lettres」勲章Chevalier章受章 ・2013年11月5枚目『Les
amants parallèles/平行線の恋人たち』:「L’avion/飛行機」、「Le film/映画」、「Bruits
des nuits d’été/夏の夜の騒音」、「Robes/ドレス」、「Les amants pararellèles」、「Ces deux-là/あの二人」、「Ils
avaient fait les valises dans la nuit/彼らは夜荷造りをした」、「Super
Bowl」など13曲 ・2016年10月7日最新アルバム『A present/今』:「La vie devant soi/自分の目前の人生」、「Danser sur la table/机の上で踊る」、「Les
chanteurs sont tous les memes/歌手は皆同じ」(Benjamin Biolayとのデュオ)など11曲。 3. 「Fanny Ardant et moi/ファニー・アルダンと僕」(2002年 Vincent Delerm 作詞/作曲) 3-1.歌詞の大意: ・・僕たちはグレゴリオ聖歌を聞く。彼女はほとんど口をきかず、僕は一言も話さない。二人の関係はこんな風、Fanny Ardantと僕は。僕は夜の時間をSylvainと過ごす、Fanny Ardantが壁紙とにらめっこしている間。僕たちはお互い自立している。Fanny
Ardantと僕は。 彼女は飾り戸棚に置かれている、Eric Holderの本、IKEAの白い蝋燭立て、Mariaからの絵葉書の間に。彼女は昔のままで白黒。彼女はもう「Vivement dimanche/日曜日が待ち遠しい」とは言わなくなった、僕が毎週末彼女を僕の両親の家に連れて行ってからは。 僕は彼女にはJussieuの女の子たちのことは話さない。彼女はDepardieuのことはあまり話さない。二人はこれらの話題は避ける、Fanny Ardantと僕は。彼女の眼差しには何かが宿る、僕が余りにも夜遅く帰るのを非難する彼女の眼差しには。彼女は僕がいつも側にいることを望んでいるようだ、明らかにFanny Ardantは。 彼女は飾り戸棚に置かれている、Eric Holderの本、IKEAの白い蝋燭立て、Mariaからの絵葉書の間に。彼女は昔のままで白黒。彼女はもう「Vivement dimanche/日曜日が待ち遠しい」とは言わなくなった、僕が毎週末彼女を僕の両親の家に連れて行ってからは。 僕たちはグレゴリオ聖歌を聞く。彼女はほとんど話さず、僕は一言も話さない。二人の関係はこんな風、Fanny Ardantと僕は・・ (説明) Fanny Ardant (1949-俳優、演出家。「La
femme d’a cote/隣の女」、「8 femmes/8人の女たち」などに出演、1996年「Pedale douce/弱音ペダル」の主人公Eva役でCesar主演女優賞受賞) Eric Holder (1960- 作家) IKEA (1943年 スウエーデン発祥の量販家具店) Jussieu (Paris 5区 Paris第6大学<物理、工学、医学部>の所在地) (Gérard)Depardieu (1948-俳優) 「Vivemen t dimanche」(1983年10月フランス公開、François
Truffaut監督の最後の作j品、コメディー要素のあるミステリー映画。Ardant、Depardieu、Jean-Louis Trintignantらが出演。1985年5月日本公開、邦題「日曜日が待ち遠しい」) 3-2.曲について 「この曲のは学生時代に作った。キャスティングに一人の女性が必要だった。神聖不可侵で、諍いがあっても常にその埒外にいる。もちろん持ち帰りピザを利用するような人ではない。直感的にFanny Ardantを選んだ。その後で理屈を考えた。彼女以外の人ではだめ、彼女はぴったり。神秘的で、大柄で、エレガントすぎるほどエレガント。だからこの曲の皮肉が生きてくる。字数もいい。Ingrid Bergmanにしてみてもうまく行かないだろう。この曲はどのコンサートでも好評で、客席から『Fanny Ardant!Fanny
Ardant!』と叫ぶ声が聞こえる」。 アルバムは好評で50万枚の売上げ。2003年VdM新人アルバム賞受賞。2003年SACEM「Francis-Lemarque賞」(新人賞)受賞している。 3-3.Vincent Delermの「lacher de noms」 |
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今月の顔 2018年3月marsダニエル・ギシャール Daniel
Guichard
1.「Mon vieu」Daniel Guichard 1974年6月27日 https://www.youtube.com/watch?v=QfX0WNjnmmk 2.Daniel Guichard略歴 ダニエル・ギシャールDaniel
Guichard(Paris 1948.11.21- ACI) ParisのLes Halles(かつてのParis中央市場)近くで育つ。15歳で父親を亡くして学業を放棄。Les Hallesやレコード会社Barclayの倉庫係として働く。夜はMontmartreやSaint-Germain des PrèsのキャバレでAristude Bruant(1854-1925 歌手・作家)の曲などを歌い、「parigot/下町のパリッ子」のアクセントで人気に。 ・1966年Barclayと契約、最初の数枚のレコードは話題にならず。 ・1969年「C’est parce que je
suis né à Paname/パナム(パリ)生まれだから」(Bruantのカバー)から知られるように。 ・1972年「La tendresse/優しさ」及び「Faut pas pleurer comme ça/そんな風に泣いてはいけない」が最初のヒット。 ・1972年前座でOlympia初出演。 ・1974年「Mon vieux/モン ヴィユー」 ・1974年『Daniel Guichard chante Edith Piaf/ダニエル・ギシャール、エディット・ピアフを歌う』:「La vie en rose/バラ色の人生」、「Mon dieux/モン ディウ」、「Mon manège à moi/私の回転木馬」、「Hymne à l’amour/愛の讃歌」など12曲。 ・1974年12月vedetteとしてOlympia出演。 ・1975年「Kuklos」レーベルを立ち上げる。 80年代前半までは人気歌手として数々のヒット。・・「Chanson pour
Anna/アンナのためのシャンソン」(74年)、「Je t’aime tu vois/君を愛している、解るだろう」(76年)、「Les chanson que j’aime/僕が好きなシャンソン」(76年)、「A quoi bon checher/探すなんて無駄なこと」(77年)、「Je
viens pas te parler d'amour/君に愛を語りに来たんじゃない」(78年)、「A la
santé de tous/全員の健康のために」(79年)、「C'est pas facile d'aimer/愛することは容易ではない」(81年)、「T'aimer pour la vie/生涯君を愛す」(81年)、「Pour plus
penser à toi/もう君のことを思わないように」(82年)、「Le Gitan/ジプシー」(82年)、「Cœur en voyage/旅する心」(86年)・・ ・1982年2月Paris郊外Nanterreの自宅の庭にFMラジオ局「Radio Bocal」を立ち上げ、ボランティアの協力を得て24時間Chansons
Françaisesを流す。1986年終了。 ・1983年『Daniel Guichard chante Maurice Chevalier/ダニエル・ギシャール、モーリス・シュヴァリエを歌う』:「Ma pomme/マ ポム」、「Marche de Menilmontant/メニルモンタンのマーチ」、「Prosper/プロスペール」など12曲。 ・1983年『Daniel Guichard chante Charles Trenet/ダニエル・ギシャール、シャルル・トレネを歌う』:「Boum/ブン」、「La mer/ラ メール」、「Je chante/僕は歌う」、「L’âme des poètes/詩人の魂」など13曲。 80年代後半以降あまりメディアに登場せず、showbizの世界から距離を置く。93年『D'amour et d'emotion/愛と感動』をリリース後、南仏に住み、キャンピングカーで国内を回るコンサート活動を。 ・2006年3月10日-12日15年振りにOlympiaに出演。 ・2012年『Notre histoire/僕たちの物語』 (20年振りのアルバム、いくつかの曲で次男のGabrielが作曲に参加):「Notre histoire」、「Dans le cœur/心の内で」、「Combien de fois/何回」、「Mes silences/僕の沈黙」、「Ni toi, ni moi/君でもなく、僕でもなく」、「Là où tu es/君がいる場所」、「Sans amour/愛なく」など14曲。 ・2015年国内ツアー(1月17、18日Paris Grand
Rexから3月29日Lilleまで) ・2015年live『Live Tournée 2015/2015年ツアーのライヴ』(2013年3月29日のLille、Théâtre Sebastopol公演の模様、CD2枚組25曲収録):「Le gitan」、「Mes silences」、「Notre histoire」、「La tendresse」、「Que serais je sans toi/もしもあなたに逢わずにいたら」、「Bravo pour le clown/道化師万歳」、「Les ballons
rouges/赤い風船」、「Chanson pour Anna」、「Mon vieux」、「Faut pas pleure comme ça」、「Je t’aime tu vois」など。 ・2017年9月compilation 『Best of 70』(CD2枚47曲収録)。 ・(予定)2018年11月21-25日、70歳記念コンサートOlympiaで。 3.「Mon vieux/モン ヴィユー」について 「Mon vieux/モン ヴィユー:親、おやじ、父親」はもとはMichelle Senlis作詞、Jean Ferrat作曲の1963年の曲。Michelle Senlis(1933-女性作詞家)はEdith Piaf(「C’est à Hambourg/ハンブルグで」、「Les
amants d’un jour/いつかの二人」)、Léo Ferré(「La belle amour/美しい愛」)、Dalida(「C’est un jour à Naples/ある日ナポリで」)、Juliette Gréco(「Rachel」など)、Mireile Mathieu、Hugues Aufraryなどに詩を提供していた。Senlisは1962年父親を歌った「Mon vieux」の詩を書き、Jean Ferrat(1930-2010 ACI)に作曲を依頼した。翌年楽曲「Mon vieux」が出来上がった。SenlisはそれをYves Montandに提供したいと考えていたが、契約上の問題でMontandはこれを録音することが出来できなかった。Ferrat自身も録音には難色を示した。なぜなら、ユダヤ人であった父はJeanが11歳のときAuschwitzで死去しており、「Mon vieux」に歌われている父とは全く違った存在だった。そこで旧知の楽譜出版業者Gérard Meysと相談し、ボルドーから上京したばかりのJacques Boyer(1936-歌手)、それにJean-Louis Stain(生年等不明)に録音を勧めた。二人は63年に録音したが、曲はそれほどの評判にはならなかった。そしてその年の11月7日Senlisの父親が死去、Senlisはその後この曲が歌われないようにと希望した。 「Mon viex」Jacques Boyer (1963年Michelle Senlis作詞/Jean Ferrat作曲) https://www.youtube.com/watch?v=tvu9-xgZ2mM 1974年「Mon vieux」に2度目のチャンスが訪れた。ParisのキャバレでAristude Bruantの曲などを「parigot」のアクセントで歌っていたDaniel Guichardは「La tendresse」で一躍人気歌手になった。ある日GuichardはBarclay社のスタジオでGérard Meysに会った。Guichardの声を聞いたMeysは自分が出版権を持っている10年前の「Mon vieux」をGuichardに歌わせてみたいと思いついた。Guichardはその曲を聞かせてくれと頼んだ。曲を聞いたGuichardはその歌詞が15歳の時になくなった父Henryを彷彿とさせるものであったことに感動した。Guichardは個人的な経験をもとに歌詞に手直しを加えて録音したいと申し出た。Senlisはその手直し同意した。A面に「Mon vieux」、B面に「Envoyez la musique/音楽を送れ」(Guichard作詞/作曲)が収録されたSPは1974年3月Barclayからリリースされた。Guichardが歌った「Mon vieux」は大ヒットした。なお、Senlisは歌詞の手直しに同意したが、Guichardがすでに1973年にはSenlisの同意の前に手直しした歌詞で、ステージで歌っていたことを知り立腹、非難した。しかしGichardの歌がヒットした事実は認めざるを得ず複雑な気持ちだったと回顧している由。 「Mon vieux」は今日でもNicolas Peyrac(1949-ACI)の「Et mon père/そして父は」(1975年 Peyrac作詞/作曲)と並んで父親をテーマにした曲の双璧をなし、毎年「父の日」の定番になっている。 「Mon vieux」(1974年 Michelle Senlis & Daniel Guichard作詞/Jean Ferrat作曲) Daniel
Guichard https://www.youtube.com/watch?v=4RFaQae1fqU 2015年 3月14日TVFranceの番組 歌詞の大意: ・・古いすり切れたコートを着て、冬も夏も朝早く寒いうちから仕事に出かける、モン ヴィウ。 休みは週に一日、日曜日だけ、それ以外の日には一生懸命生活の資を稼ぐ、モン ヴィウ。 夏には海に行った。それは惨めではなかったが天国というわけでもなかった、残念なことだけど仕方がないこと。 古いすり切れたコートを着て、長い年月郊外の同じバスに乗る、モン ヴィウ。 夕方帰宅すると何も言わずに椅子に座る。口数の少ない人だった、モン ヴィウ。 日曜日も毎週変わったことはなかった。来客はなかった。けれどそれを不幸なことだとは思っていなかった、と僕は思う、モン ヴィウは。 古いすり切れたコート、給料日には、帰ってくると少し文句を言っていた、モン ヴィウ。 僕たちは言いたいことが良く解っていた。ブルジョワも経営者も、左翼も、右翼も、神様までもがやり玉に挙がった、モン ヴィウ。 家にはテレビがなかった。そこで外に出て数時間の気晴らしをした。馬鹿げたことだけど。 僕は長い年月を過ごした、彼の側にいて、彼をまともに見ることなく。僕たちは二人ともほとんど目を開けていなかった。 彼と少しでも同じ道を歩いていたら、彼を幸せに出来ただろうに、モン ヴィウ。 だけど15歳になったばかりで、まだ心が成長していなかった頃には、そんなことを思いもしなかった、解るでしょう。 彼が遠くへ行ってしまった今、そんなことを色々考えると、僕は言いたくなる、「側にいてくれたら」パパ・・ 原曲との主な差異: ①
Guichard versionでは父親の職業は歌われていないが、原曲では鉄道員「Travaille aux chemins de fer」。 ②
海へ行く場面は原曲にはない。 ③
原曲ではTVは出てこないで、映画に行って「あくびをした」と歌っている。 ④
原曲では給料日の件はない。 ⑤
原曲では主人公は20歳だったと歌い、父親は存命中、「いま年を取って、遠く離れて思い出すとそんなに悪くはなかった」と結論している。 |
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今月の顔 2018年2月 février
Jack Lantierは1976年2月19日TV出演、メドレーで「La
chanson des blés d’or/金色の麦の穂の歌」などを歌った。 1.
Jack
Lantierは1976年2月19日TVTF1の歌謡番組「Midi
Première」に出演、Monte Carloの港から、ピアノ伴奏で、視聴者 のリクエストに答えて次の4曲をメドレーで歌った。 http://www.ina.fr/video/I07109181/jack-lantier-pot-pourri-video.html 「Séduction/誘惑」→「La petite église/小さな教会」→「La
chanson des blés d’or/金色の麦の穂の歌」→「Femmes,
que vous êtes jolies/ご婦人方、あなた方は何と美しい」 2.ジャック・ランティエJack Lantierの略歴 Jack Lantier、本名André de Meyer、Paris 20区Menilmomtant地区で生まれ、育つ。過去のヒット曲、かつてのミュージックホールのスターたちの曲260曲以上を録音、27枚のLPをリリース。1000万枚以上のレコードを売り上げている。30年以上にわたって年配者のvedetteとして人気。人々がそれらを歌えるようにした。80年代はTV歌謡に頻繁に出演、90年代引退。 ・1952年12月19日から4年間Théâtre de l’ABCで上演されたオペレッタ「La route fleurie/花咲ける道」に端役で出演。 Georges
Guetary、Annie
Cordy、Boulvilらと共演。 その後ラジオ局France Interの「Dimanche dans un feuteuil」に出演、ディレクターの目にとまりVogue社と契約。 ・1969年9月Vogue社からファーストLP『Tendres
rengaines/優しい流行歌』:「Billets doux/恋文」、「L’âme des roses/バラの魂」)、「Quand on aime on a
toujours vingt ans/愛していればいつでも二十歳」、「Séduction/誘惑」12曲収録。 その後TV局の歌謡番組に頻繁に出演、人気に。 ・1970年セカンド『Charmes d’amour/愛の魅力』:「Ramona/ラモーナ」、「Vous êtes si jolie/あなたはとてもきれい」、「Charme d’amour/愛の魅力」、「Ton rire/あなたの笑い」など12曲収録 。 Jean Nohain(1900-1981 司会者、作詞家)の評「かつての美しいシャンソンを理想的にカバーしている」。 ・1972年『Jack Lantier chante Paul Delmet/ジャック・ランティエ、ポール・デルメを歌う』(Paul Delmet1862-1904 歌手・作曲家):「La petite
église/小さな教会」、「Envoi de fleurs/花を贈る」、「Petite brunette aux yeux doux/優しい目のブルネットの少女」、「Petit chagrin/小さな心配」、「Fermons nos rideaux/カーテンを閉めよう」、「L’étoile d’amour/愛の星」など12曲収録 ・1973年『Les valses de la belle époque/ベルエポックのワルツ』:「Fascination/魅惑のワルツ」、「J’ai tant pleuré/私は沢山泣いた」、「Frou, frou/フル・フル」、「Ah! C’qu’on s’aimait/愛し合った二人」など12曲収録。 ・1973年『Femmes, que vous êtes jolies/ご婦人方、あなた方は何と美しい』:「Femmes, que vous êtes jolies」、「La
paloma/ラ パロマ」、「La chanson des blés d’or/金色の麦の穂の歌」、「Fleur de Seine/セーヌの花」、「La petite Tonkinoise/可愛いトンキン娘」、「L’hirondelle du faubourg/場末のツバメ」など12曲収録。 ・1974年『Les roses blanches/白いバラ』:「Les roses blanches
」、「Le doux caboulot/かわいいレストラン」、「Mon cœur est un violon/私の心はヴァイオリン」、「C’est une petite étoile/それは小さな星」、「On n’a pas tous les jours vint ans/はかない青春」など12曲収録。 ・1975年『La chapelle au clair de lune/月光のチャペル』:「La
chapelle au clair de lune」、「Quand refleuriront les
lillas blancs/白いリラの花が再び咲く頃」、「Fumée aux yeux/煙が目にしみる」、「Charmaine/シャルメーヌ」、「Roses de Picardie/ピカルディーのバラ」など12曲収録。 ・1978年『Parlez-moi d’amour/聞かせてよ愛の言葉を』:「Parlez-moi d’amour」、「Le chaland qui passe/過ぎゆく艀」、「Si petite/こんなに小さい」、「Un amour comme le nôtre/二つとない恋」、「La
guingette a fermé ses volets/真夜中の居酒屋」、「J’attendrai」/待ちましょう」など12曲収録。 ・1980年『Jack Lantier chante Vincent Scotto/ジャック・ランティエ、ヴァンサン・スコットを歌う』(Vincent Scotyo1874-1952 ACI、プロデューサー):「Sous les ponts de Paris/パリの橋の下」、「Où est-il
donc?/モンマルトルの挽歌」、「La java bleue/青色のジャヴァ」、「J’ai deux amours/二つの愛」、「Mon Paris/モン パリ」など12曲収録.。 ・1982年『Jack Lantier chante Théodore Botrel/ジャック・ランティエ、テオドル・ボトレルを歌う』(Théodore Botrel 1868-1925 ACI):「Quand nous serons vieux/我々が老いたら」、「Lilas
blancs/白いリラの花」、「Les mamans/母親たち」など12曲収録。 ・2008年『Chansons de toujours/永遠のシャンソン』CD10枚組み、リマスターした200曲収録。 3.「La chanson des blés d’or」について 「La
chanson des blés d’or」は Camille
Soubise & L..Lemaitre作詞、Frédéric
Doria作曲によるもので、1882年 Doriaが
Concert parisienで創唱した。 この「romance/18~19世紀に流行した恋愛詩」の作詞者の一人Camille Soubise(1833-1901)はベルギー出身の詩人・ジャーナリスト。歌詞は20世紀を目前にした人々のおおらかなを恋模様を詩情豊かに語っている。なお、詩の共作者であるL.Lemaitreについては経歴など不詳。 創唱したのはこの曲の作曲者Frédéric Doria(1841-1900)。Doriaは作曲家で「Café-concert/飲み物付きで歌やショーを見せる店」の歌手。Concert parisienは1867年から10,rue de l‘Echiquie(Paris10区)にあったCafé-concertで、1910年 Félix Mayolに買収されConcert Mayolになった。当時ParisではThérésa(1837-1913 歌手)は「Ambassadeurs」で、Paulus(1845-1908 歌手)は「Eldorado」で、Aristide Bruant(1851-1925 文筆家・chansonnier/Café-concertなどで自作の風刺的な歌や小話を聞かせる芸人)は「Chat noir」で人気を集めていた。Doriaはこの曲のヒットによってこれらの歌手に伍す人気を得ることが出来た。 なおこの曲について「1882年Marius RichardがParisのScalaで創唱」とする資料、あるいは「Doriaは1867年に歌っていた」とする資料もある。 この曲はその後多くの歌手によって歌われていて、「Le temps des cerises/桜んぼの実る頃」に匹敵するシャンソンフランセーズの代表曲との評価もある。この曲を歌っている主な歌手は:1896年Maréchal(不明)、1929年Fred Gouin(1988-1959 歌手)、31年Réda Caire(1905-1963 歌手)、57年Armand Mestral(1917-2000
歌手・俳優)、58年Jean Lumière(1985-1979 歌手)、68年André Dassary(1912-1987 歌手)・・ そして、Jack LantierはMichel Villardのアレンジでこの曲を歌い、1973年リリースのLP「Femmes, que vous êtes jolies」に収録した。 歌詞の大意: ・・可愛い人よ、美しい調べが聞こえてくる平原を月が明るく照らすとき、神秘な星が巡り来て恋人たちに微笑むとき、あなたは丘の上で、優しいそよ風の中、あの神々しい歌を耳にしたことがあるだろうか、波打つ麦の穂が奏でるあの歌を? 可愛い人よ、夕暮れが地上を包み、小夜鳴き鳥がやってきてさえずるとき、風が緑のヒースの上に吹くとき、聞きに行こう、金色の麦の穂の歌を。聞きに行こう、金色の麦も穂の歌を。 あなたは木立の下で、麦の穂が歌を奏でる頃、喜びに満たされた麦の穂のささやきを聞いたことがあるだろうか、静かにまどろんでいる谷間を渡るあのささやきを?あなたは知っているか、あの奥深い声を。それは日の暮れる頃戻ってきて、刈り入れられた金色の麦に包まれて歌われる、胸打つ愛の調べ。 可愛い人よ、夕暮れが地上を包み、小夜鳴き鳥がやってきてさえずるとき、風が緑のヒースの上に吹くとき、聞きに行こう、金色の麦の穂の歌を。聞きに行こう、金色の麦も穂の歌を。 可愛い人よ、夜が深まる頃、春のシャンソンを夢みよう。バラの香りは、僕たちの青春を香しい香りで満たすだろう。きっと自然はこれからもずっと与えてくれるだろう。麦束を金色に染めるために太陽の光を、僕たちの愛のためにバラの花を。 可愛い人よ、夕暮れが地上を包み、小夜鳴き鳥がやってきてさえずるとき、風が緑のヒースの上に吹くとき、聞きに行こう、金色の麦の穂の歌を。聞きに行こう、金色の麦も穂の歌を・・ 「La chanson des blés d’or」Jack Lantier https://www.youtube.com/watch?v=Fo3qC_fq7FA |
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今月の顔 2018年1月 janvier 2018
Jean-Jacques Goldmanが作詞作曲し、Goldman自身、Coluche、Yves Montand、Nathalie Bayeらが参加して歌った「Les restos du cœur/心のレストラン」のテーマ曲「La chanson des Resros du cœur」が録音されたのは1986年1月 「La chanson des
Resros du cœur」 https://www.youtube.com/watch?v=twFTi4_-N0U 1.「La chanson des Restos du cœur」制作の経緯など Les restos(restaurants) du cœurは主に冬季の間、恵まれない人々に食事を無料で提供して援助する団体。 1985年9月26日当時の人気喜劇俳優Coluche(本名Michel Colucci 1944-1986 俳優・ユーモリスト)はパーソナリティーを務めていたラジオ局Europe 1を通じて呼びかけ、団体を設立。 Colucheは団体のテーマ曲の制作をJean-Jacques
Goldmanに依頼することにした。 Goldmanは1951年10月11日Paris生まれのACI、音楽プロデューサー。1975年からグループで活動、1979年からソロ。1981年の「Il suffira d’un signe/一つの兆候で十分」から、1982年の「Quand la musique est bonne/音楽が素晴らしければ」、1984年の「Envole-moi/僕を飛び立たせて」などヒットを持つ、1985年当時人気上昇中の新進気鋭のACI。その後もACI、プロデューサーとして活躍。VdMを6回受賞(1986年男性歌手賞、1988年Viédo-Clip賞「Là-bas/あちらで」で、1996年シャンソン賞受賞曲Céin Dion「Pour que tu m’aimes encore/あなたがまだ私を愛してくれるように」の作詞/作曲者、1997年シャンソン賞受賞曲Khaledの「Aicha/アイシャ」の作詞/作曲者、2003年Viédo-Clip賞「Tounent les violons/ここでバイオリンが出る」で、2005年過去20年最優秀男性歌手賞受賞)。 プロデュースしたCéine Dionの1995年アルバム「D’eux/彼らについて」は、フランス語で歌われたアルバムの歴代最多売上げ。2001年11月アルバム「Chansons pour les pieds/足(ダンス)のためのシャンソン」をリリース。2004年無期限のステージ活動休止を宣言。「フランス人の好きな人物」アンケート2017年12月実施分で1位。2016年10月から家族と共にロンドン郊外に住んでいる。 Colucheは1985年12月3日(火)Paris Zénithに出演中のGoldmanを楽屋に訪ねた。「『Les restos du cœur』のためにテーマ曲が必要なんだ。この運動を成功させるための曲が。我々に大金をもたらしてくれるような曲が。君なら出来る」。「いつまでに」。「来週までに」。Goldmanは3日で曲を仕上げた。Colucheは感謝を込めてGoldmanにGretschのギターを贈った。 ColucheとGoldmanはこの曲に参加してくれるよう当時人気のスターに依頼。 歌手・俳優のYves Montand(1921.10.13-1991.11.9)、女優のNathalie Baye(1948.7.6-)、TV・ラジオ司会者のMichel Drucker(1942.9.12-)、サッカー選手の Michel Platini(1955.6.21-)の4人が同意。録音は1968年1月Paris、5区のGangスタジオで行われた。バックコーラスを務めたのはGoldmanとJean-Pierre Jannaiaud、Francine Chatereau、Catherine Bonnevay。MontandとPlatiniを除きこの録音に参加した。MontandについてはPlace Dauphine(Paris 1区Cité島内)のMontand宅で、Nagraのオープンリルに録音。Platiniは当時イタリア、トリノのJuventusに所属していたためトリノまで赴いてNagraで録音。 この運動に大きな関心を示して、協力を約束していたDaniel
Balavoine(1952-1986 ACI)は1月14日Paris-Dakarラリーを応援中にヘリコプター事故で亡くなっしまった。また、女優のCatherine Deneuve(1943.10.22-)は参加することに同意していたが外国での映画撮影のため録音に参加することが出来なかった。A面に「La chanson des Restos du cœur」、B面にそのinstrumentalを収録したレコードは100万枚以上の売上げだと言われている。最初にリリースされたレコードのジャケットには修正が間に合わず歌手としてDeneuveの名が載っている。 Colucheは1986年1月26日TVTF1の特別番組に出演。多くのゲストを招いて「Les restos du cœur」の紹介と資金集めへの協力を要請。放送終了後2000万Fの寄付金が集まったこともあり、この冬Les restos du cœurは5000人のヴォランティアの協力を得て、850万食を提供することができた。 2.「La chanson des Restos
du cœur」の歌詞 ・(Coluche):何も持っていない人々に、秘密にしている計画を話そう。主義主張を語るのではない、口先だけの話ではない。あなたがたにいつも豪華な夕食を提供すると約束できない。でも冬の間だけでも、食べものと飲み物を約束しよう・・ ・(Montand):高齢者、失業者、利益にありつけない人、疎外された人、私たちはあなた方のことを気に掛けている。それは自分だけの思いだった。でも明日には私たち協力者の名ますます増えるだろう・・ ・(Chœurs・・左から Chatereau、Goldman、Bonnevay、Janniaud):今日、人が飢えたり、寒さに震えたりすることがあってはならない。「各人は己のため(神は万人のために)」という考えは止めよう。他人のことを考えるのは自分のことを考えること。豪華な夕食ではないが食べ物と飲み物を提供しよう。心のレストランにパンと暖かいものを用意しよう。今日、人が飢えたり、寒さに震えたりすることがあってはならない・・ ・(Baye):かつて人々はいつも食卓に一つ余分な席と椅子とスープを用意したものだった。今では我々は目を閉じ、戸も閉ざしている。いつも、いつも飽食な人がいるのに・・ ・(Drucker):私は後ろめたい気持ちを持たなかった、それで眠れなくなることはなかった。でも実を言うと私には楽しいという気持ちはなかった・・ ・(Platini):飢えた人がいるのは僕の責任ではない。しかし何も変えようとしなかったらそれは僕の責任だ・・ ・(Chœrs):今日、人が飢えたり、寒さに震えたりすることがあってはならない。「各人は己のため」という考えは止めよう。他人のことを考えるのは自分のことを考えること。豪華な夕食ではないが食べ物と飲み物を提供しよう。心のレストランにパンと暖かいものを用意しよう。今日、人が飢えたり、寒さに震えたりすることがあってはならない・・ ・(Goldman):僕にはあなた方の生活を変えるような解決策はない。でも僕が数時間でもあなた方を援助することができれはそうしよう。他にも悲惨な状況を数え上げたら沢山あるだろう、でもそれらは終わる、ここで、今日・・ ・(Chœrs):今日、人が飢えたり、寒さに震えたりすることがあってはならない。「各人は己のため」という考えは止めよう。他人のことを考えるのは自分のことを考えること。豪華な夕食ではないが食べ物と飲み物を提供しよう。心のレストランにパンと暖かいものを用意しよう。今日、人が飢えたり、寒さに震えたりすることがあってはならない・・ |
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今月の顔 2017年12月 décembre2017 Nolwenn Leroy ノルウェン・ルロワ
1. Nolwenn Leroy (Saint-Renan 1982.9.28-ACI)の略歴 Nolwenn Leroy、本名Nolwenn Le MagueresseはBretagne地方Finistere県Brestに近接したSaint-Renan生まれ。父親はプロサッカー選手Jean-Luc Magueresse。母親はMiriel Leroy。11歳で両親の離婚。母親、妹とVichy近郊Saint-Yorreの祖父母宅に住み、ヴァイオリン、ソルフェージュを習い、コーラスで歌う。1995年13歳で絵画コンクールに優勝しアフリカのMaliで10日間過ごす。1998年11月から1年間Rotary Clubの交換留学生としてアメリカのオハイオ州Hamiltonに。この間にアメリカでBac取得。Clermon-FerrandのFaculté de droitで外交官を目指して勉強。同時にClermont-FerrandのConservatoireでクラシックを学ぶ。たまたまTV局TF1のスター誕生番組「Star
Academy」で歌唱のコーチ役をやっていたArmande Altai(1944-)に憧れ、その指導を受けるために週末パリに。6ヶ月指導を受けた後・・ ・2002年「Star Academy」の第2シーズンに出場。12月21日の決勝で優勝 ・2003年3月ファーストアルバム『Nolwenn Leroy』をリリース」。作詞、作曲、プロデュースでLionel
Florence、Pascal Obispo、Lara
Fabian、Laurent Vouzyらの協力を得て。「Cassé/壊れた」(2003年3月シングル、40万枚の売上げ)、「Suivre une étoile/星に従う」、「Inévitablement/必然的に」、「Une femme cachée/隠れた女」など12曲収録、アルバムは65万枚以上売上げ ・2004年1月音楽専門のFM局NRJの音楽賞で「フランス語圏新人歌手賞」を受賞 ・2005年12月セカンドアルバム『Histoires naturelles/博物学』をリリース。Voulzy、Kentの協力を得、Leroy自身の作詞による曲も。11曲、40万枚以上の売り上げるヒットで、Leroyの人気歌手としての地位を決定的なものに ・2006年2月Les Enfoirésに初出演、その後2015年を除き毎年2017年まで11回出演 ・2006年9月から国内、ベルギーツアー、12月Paris Olympiaに出演 ・2009年12月3枚目のアルバム『Le Cheshire Cat et moi/チェシャ猫と私』(収められている11曲のうち、10曲の詩はLeroy自身)リリース ・2010年12月4枚目のアルバム『Bretonne/ブルターニュ女性』をリリース ・2011年2月TGVの車内コンサート(Paris-Rennes間のTGV車中でギターとフルートの伴奏で歌った) ・2012年1月ラジオ局RTL及びLe Parisien紙の共同アンケートによる「La personnalité de l’année 2011/2011年を代表する人物」に ・2012年6月「Bro Gozh Ma Zadou」賞受賞。ブルターニュ地方の「国歌」とも言うべき「Bro Gozh Ma Zadou」を広めるのに貢献したことにより ・2012年10月Musée
Grévin/グレヴァン美術館(10、Bd.Montmartre 9区)に蝋人形が展示される ・2012年11月5枚目のアルバム『O filles de l’eau/オー、水の少女たち』リリース。すべてオリジナル、13曲中9曲は自身が作詞、または作曲。 ・2013年7月「L’Ordre des Arts et des Letrres/芸術・文芸勲章」のChevalier章受章 ・2014年アニメ「The song of the sea」のフランス語版で「La chanson de la mer/海のシャンソン」を歌い、母親役の吹き替え ・2014年Renaudのヒット曲のカバー『Bande à Renaud 1』には「La ballade nord-irlandaise/北アイルランドのバラード」で、『Bande à
Renaud 2』には「J’ai la vie qui m’pique les yeux/私の目がちくちくするような人生」で参加 ・2016年6月21日「Fête de
la musique/音楽の祭典」でHôtel de Matignon(首相公邸)コンサートに出演 ・2017年7月12日、2008年1月からのパートナーでテニスプレーヤーArnaud Clement(1977-)の間に男児Marin誕生 ・2017年9月1日6枚目のアルバム『Gemme』をリリース(№1494) 2. アルバム『Bretonne』について 2010年12月6日にリリースされた『Bretonne』はLeroyの4枚目のスタジオ録音アルバム。収められているのは13曲、うち1曲を除き他はカバー。Leroyはブルターニュ地方(ブルターニュ公国は1532年フランスに併合された)の伝統的な曲、スタンダード曲あるいはケルト文化(スコットランド、アイルランド、ウエールズ、ブルターニュ、マン島、コーヌオールの伝統文化)が生んだ名曲をフランス語の他、ブルトン語(ブルターニュ地方の言語)、英語、ゲール語(スコットランド、アイルランド、マン島で話されている)で歌っている。「ブルトン語は、パリで先生について習った。これからも続ける。ゲール語はとても難しい、このアルバムのためにちょっと習った」。ジャケットにはブルターニュの伝統衣裳を着た3歳のLeroyの写真が用いられている。収められている曲(特記していないものはフランス語で歌われている)は: ・「Tri Martolod:Trois marins/3人の水夫」(ブルターニュ民謡、ブルトン語で) ・「La jument de Michao/ミチャオの雌馬」(ブルターニュ民謡、編曲John Kelly& Leroy) 元はグレゴリー聖歌のパロディーで、中世ブルゴーニュ地方、あるいはフランス各地にあった民謡「J’entends le loup,le renard,le lièvre/狼が、狐が、野ウサギが泣く声が聞こえる」のブルターニュ版。1976年ブルターニュ出身のグループTri Yann(trois Jean/3人のジャン)が取り上げて知られるように。一人歌手が歌い、他の歌手、あるいは歌手たち、あるいは観衆が答えて歌い、丸くなって踊る。 「La jument de Michao」 https://www.youtube.com/watch?v=5AfMOX_XMQ0 2011年1月7日Fête de la chanson française ・・10年経ったら私は出て行くだろう。狼や狐が泣く声が聞こえる。10年経ったら私は出て行くだろう。狼や狐が泣く声が聞こえる。狼や狐やイタチが泣く声が聞こえる。狼や狐が泣く声が聞こえる。狼や狐やイタチが泣く声が聞こえる。 9年経ったら私は出て行くだろう。ミチャオの雌馬は草原で過ごした。ミチャオの雌馬と子馬は草原で過ごしたそして干し草をすべて食べてしまった。冬が来るだろう。ミチャオの雌馬は後悔するだろう。4年経ったら・・、3年経ったら・・、2年経ったら・・、1年経ったら・・ ・「Suite Sudarmoricaine/南アルモリカの組曲」(ブルターニュ民謡、ブルトン語で) ・「Greensleeves」(中世イギリス民謡、英語で) 「Greensleeves」 https://www.youtube.com/watch?v=qQ2SfCPJHcA 2011年3月20日TV「Chabada」 ・「Brest/ブレスト」&「Je ne serai jamais ta Parisienne/私は決してあなたのパリジェンヌにはなれない」(Miossec作詞/作曲) 「私はクリストフ・ミオセックChistophe Miossec(1964-ACI)の曲はほとんど暗記している、私は彼のやっていることが好き、言葉の選び方、声の出し方が好き。彼に連絡を取りこのアルバムの企画について話し『Brest』をカバーしたいと申し出たら、大いに賛成してくれて新曲『Je ne serai・・』を提供してくれた。本当に嬉しかった。これは正にブルターニュに帰った時の私の気持ちそのものだから」。 「Je ne serai jamais ta Parisienne」 https://www.youtube.com/watch?v=lV--_oO-P38 2011年3月Brestのコンサートで ・・海が重なる地、地が果てるところ、空がどこまでも続く地、海が闘っている地、私があなたにとってミステリアスな存在である地、あなたの街の光の元であなたは私を綺麗だと言ってくれる。でも解って欲しい、私はセーヌの岸辺にいて大海を夢みている。私はセーヌの岸辺で、地の果てを感じている。私は決してあなたのパリジェンヌにはなれない。ここには私の場所はない・・ ・「Dans les prisons de Nantes/ナントの牢獄で」(17世紀Basse-Loire地方で生まれた曲) ・「Mna Na H-Eireann:Femmes
d’Irlande/アイルランドの女性」(アイルランドの新民謡、ゲール語で)、 ・「Ma bretagne quand elle
pleut/雨が降ると私のブルターニュは」(Jean-Michel Caradec作詞/作曲) 「ブルターニュ出身の先輩シンガーソングライターであるJean-Michel Caradec(1946-81)のこの曲を入れた。私若い世代がCaderacを知らないのは残念なこと」 ・「Bro gozh ma zadou:Vieux
pays de mes pères/我が祖先の古き国」(1800年代半ばに生まれたブルターニュ地方讃歌 、ブルトン語で) 「Bro gozh ma zadou」 https://www.youtube.com/watch?v=DzckoZ3v_gQ 2014年 5月3日Stade de France でのサッカーフランス選手権決勝finale「Rennes対Guinguamp」 (いずれもブルターニュのチーム) ・・我々は我々の国を愛する、戦いの中で我々の祖先は我々の国のためにその血を流した。・・(ルフラン)オー!ブルターニュ、私の国、私はこの国を愛する。海もあり、城壁もある、私の国を・・ ・「La Bagad de Lann-Bihoue/Lann-Bihoueの軍楽隊」(Alain Souchon作詞/作曲)、 ・「Rentrer en Bretagne/ブルターニュに戻る」(Alan Stivell作詞/作曲) ・「Karantez Vro:L’amour du
pays/故郷への愛」(ブルターニュ出身の女性詩人Anjela Duvalの詩にVeronique Autretが曲を付けた曲。ブルトン語で) アルバムはフランス以外にも、スイス(10年12月6日)、ベルギー(同)、Quebec(2011年3月)、ドイツ(2012.1.20)、日本(12.7.31)、韓国(同)、アメリカ(13.1.8)でリリースされ、2012年5月都合100万枚以上の売上げでDouble disque de diamant を受けた。現在まで130万枚以上の売上げ。 アルバム『Bretonne』は2011年11月28日「Moonlight Shadow」(イギリスの1983年のヒット、Mike
Oldfield作詞作曲歌)、「Scarborough Fair」(イギリス中世民謡)、「Whiskey in the jar」(アイルランド民謡)、「Amazing Grace」など7曲を追加したEdition Deluxe/デラックス版でリリースされている |
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今月の顔 11月 Novembre 2017 「Le temps du
muguet」 https://www.youtube.com/watch?v=-QXIFJQGqao 1.「Le temps
du muguet」 歌詞の大意: ・・スズランの季節が再び巡ってきた、旧友に再会したよう。スズランの季節は河岸に沿ってぶらぶらやって来た、私があなたを待っているベンチまで。そして今までになく晴れた今日あなたの笑顔がはじけた。 スズランの季節は長くはない、5月が終わる前に終わってしまう。花は枯れても、私たち二人の間では何も変わらない。私たちの愛の歌は前と同じように美しく、初めての日のように歌われる。 スズランの季節は行ってしまった。疲れた旧友のように。1年の間、忘れられてしまう。去るときに、春の雰囲気と、二十歳の雰囲気を少しばかり残して行く、永遠に愛し合っていられるようにと・・ 2.Danielle Darrieuxの略歴(「今日のシャンソンユース」№1495を加筆修正) Danielles Darrieux、本名Danielle Yvonne Marie Antoinette Darrieux、は80年以上に及ぶ俳優としてのキャリア150本以上の映画、TVドラマ、劇場劇に出演。また歌手としても活躍。1917年5月1日Bordeaux生まれ、幼少の頃からParisに住む。母は音楽教師、自身はピアノとチェロを習う。 演劇の勉強はしていなったが、10代前半のヒロインを求めていたオーディションに合格し・・ ・1931年公開Wilhelm Thiele監督映画「Le bal/舞踏会」にAntoinette役で初出演。映画の中で「Le beau dimanche/素晴らしい日曜日」と「La chanson de la poupée/人形の歌」とを歌い、美しい高音が評判に。この2曲は1931年6月リリースされたDarrieuxの最初のレコードに収録されている。 ・1934年Billy Wilder監督の第1作映画「Mauvaise Graine/悪い種子」に出演。 ・1936年Anatole Litvak監督「Mayerling/うたかたの恋」にMarie Vetsera役で出演、皇太子Rodolphe役のCharles Boyer(1988-1978、フランス出身、ハリウッドで活躍していた)と共演、国際的なスターに。 ・1941年Henri Decoin監督「Premier rendez-vous/最初のランデヴー」に孤児Micheline役で出演。映画及び映画の中で歌った同名の主題歌は大ヒット。 ・1950年Max Ophüls 監督「La ronde/輪舞」でGérard Philippe、Simone Signoret、Serge Reggianiらと共演。 ・1951年Carlo Rim監督「La Maison Bonnadieu/ボナデュー家」に出演。「La complainte des infidèles/不実女の嘆き」を歌う。ストリートミュージシャン役でMarcel Mouldjiも出演、Mouloudjiは「La complainte des infidèles」を56年レコードに収録。 ・1952年「Va, mon ami, va/行けよ我が友」を収録したレコードをリリース。 ・1954年Claude Autant-Lara監督「Le Rouge et le Noirr/赤と黒」でMadame de Rénal役、Gérard Philippeと共演。 ・1956年9月日本公開Yves Ciampi監督日仏合作映画「Typhon sur Nagasaki/忘れ得ぬ慕情」でJean Marais、岸恵子と共演。撮影のため1956年3月30日から3ヶ月間日本に滞在。 ・1959年LP『Danielle Darrieux』:「Le
temps du muguet/スズランの季節」、「Ballade irlandaise/アイルランドのバラード」、「Petite fleur/小さな花」など10曲収録。LPは1960年ACC大賞受賞。 ・1961年「Garde-moi la
dernière danse/ラストダンスは私に」を収録したレコードをリリース。 ・1963年11月16日フジテレビ「スター千一夜」に出演。 ・1963年LP『Danielle Darrieux』:「Pour une amourette/浮いた恋のために」、「La chanson」など10曲収録。 ・1964年LP『Hier
c’est toujours aujourd’hui/昨日はいつも今日』:「Fascination/魅惑のワルツ」、「Quand l’amour meurt/色恋も色あせれば」、「Frou, frou/フル フル」、「La valse bleue/青色のワルツ」など12曲収録。 ・1967年Jacques
Demy監督の「Les Demoiselles de Rochefort/ロッシュフォールの恋人たち」ではYvonne役で出演し、「Chanson d’Yvonne/イヴォンヌの歌」などを歌う。出演した女優では歌う場面で唯一吹き換えをしなかった。 ・1968年La Tête de l‘Art 劇場(5, av.de l’Opéra )でコンサート。 ・1968年LP『Danielle
Darrieux』:「Comme au théâtre/お芝居のように」、「Une chanson」など12曲収録。 ・1970年NYブロードウェイのMark Hellinger Theatreで上演されたミュージカル「Coco」にCoco Chanel役で出演。 Katharine Hepburnの代役で7月から2ヶ月間出演、「フランス訛が良かったのかしら」。 ・1985年「Césard’honneur/セザール特別賞」(映画賞)受賞。 ・1997年「Molière d’honneur/モリエール特別賞」(戯曲・演劇賞)受賞。 ・2002年François Ozon監督「Huit femmes/8人の女たち」にMamy役で出演、Catherine Deneuve、Fanny Ardantらと共演。映画の中で「Il n’y a pas d’amour heureux/幸せな愛はない」を歌う。 ・2002年Patrick Bruelのアルバム『Entre-deux/二つの間で』で、「A Paris dans chaque faubourg/パリ祭」をBruelとのデュオで歌う。 ・2004年4月「Légion d’Honneur」のcommandeur勲章受章。 ・2010年「Globe de
cristal d’honneur/クリスタル・グローブ特別賞」受賞。 ・2010年93歳、遺作Denys
Granier-Deferr監督映画「Pièce montée /デコレーションケーキ」に出演。 ・2017年Clara Laurent著 「Danielle Darrieux, une femme
moderne/ダニエル・ダリュー、現代の女性」刊行。 ・2017年5月1日100歳の誕生日。 ・2017年10月17日死去 ・2017年10月20日compilation『Premier rendez-vous・・』(2枚組CD、52曲収録):「Le premier rendez-vous」、「Va mon ami va」、「La complaintes des infidèles」、「Ballade
irlandaise」、「Petite fleur」、「Le
temps du muguet」、「Le beau dimanche」、「Chanson de la poupée」など。 3.「Le
temps du muguet」について 原曲はロシアの曲「Rodimoskovnyie
Vetchera」(1955年 Mikhail
Matoussovki作詞/Vassilli
Soloviov-Sedoi 作曲)で、英語では「Moscow
Nights」、フランス語では「Les nuits de Moscou/モスクワの夜」、日本語では「モスクワ郊外の夕べ」のタイトルで呼ばれている。フランスでは1959年Francis
Lemarque(1917-2002 ACI)が「Le temps du muguet」のタイトルでフランス語の詩を付けた。これは「libre interprétation/自由解釈」あるいは「libre adaptation/自由翻案」と言われているもので原詩のtraduction/翻訳ではなく、原曲から想を得て自由に詩を付けたもの。 Darrieuxの誕生日5月1日はフランスでは「Jour du muguet/スズランの日」と呼ばれている。「私はフランス中どこでもスズランが売られている日に生まれた」ことでこの曲には殊の外思い入れがあるよう。Darrieuxは1959年11月21日TVに出演して「Le
temps du muguet」を歌った。 「Le temps du muguet」はDarrieux の他にLemarque、Mireille
Mathieu、Dorotheeなども歌っている。 「Le temps du muguet」 Lemarque https://www.youtube.com/watch?v=0vAW_b2K39k |
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今月の顔 2017年10月 octobre 2017 Alain Souchon Alain
Souchon が最大のヒット曲「Foule sentimentale/センチメンタルな大衆」をリリースしたのは1993年10月。 「Foule
sentimentale」 1994年 La RochelleのFrancofolieで https://www.youtube.com/watch?v=gyr9_iX7rbs 1.「Foule
sentimentale」(1993年Alain Souchon/Alain Souchon)歌詞の大意: ・・オー、ラ、ラ。バラ色の人生。人が我々に勧めるバラ色の人生とは、沢山ものを持つこと、それによってさらにものを欲しがるように。いやはや、僕らは信じさせられている、ものを持つことが幸福なんだと、タンス一杯にものを持つことが。取るに足らない僕たちが取るに足らないものを。なぜなら僕たちは・・センチメンタルな大衆、理想に飢え、星や帆船など儲け主義でないものに引きつけられる、センチメンタルな大衆、人がどんな風に僕たちに話をもってくるかよく見よう・・荷造り用の箱から現れるのは、考えを持たない、役立たずの、悲しげで、何一つ取り柄のない人々。人は僕たちに押しつける、僕たちに苦しみを与える欲望を。僕たちは馬鹿者だと思われている、冗談じゃない、僕たちは・・センチメンタルな大衆、理想に飢え、星や帆船など儲け主義でないものに引きつけられる、センチメンタルな大衆、人がどんな風に僕たちに話をもってくるかよく見よう・・僕たちはClaudia SchiefferやPaul-Loup Sulitzerにされてしまう。おおそれは人が僕たちにするかも知れない悪、かつて女性たちをやつれさせた悪だ。空から僕たちを興奮させる欲望が駆け下りてくる。僕たちの蒼白な子供たちのためにより良い生活を、夢を、1匹の馬をという欲望が。僕たちは・・センチメンタルな大衆、理想に飢え、星や帆船など儲け主義でないものに引きつけられる、センチメンタルな大衆、人がどんな風に僕たちに話をもってくるかよく見よう・・ Claudia
Schiefferクロディア・シフェーフ(1970.8.25?- ドイツ出身のスーパーモデル) Paul-Loup
Sulitzerポールールー・シュリゼール(1946.7.22-小説家・実業家 国際的なビジネスにおける金融戦争などをテーマにしたベストセラー作家) 2.Alain Souchonの略歴 (Casablanca 1944.5.27- ACI、俳優) 13枚のスタジオ録音アルバムをリリース。5000万枚以上のレコード売上げ、VdMでは9個のvictoiresを受けているシャンソンフランセーズを代表する歌手。 生後6ヶ月でParisに。15歳で素行不良にためLycéeから放逐され、61年イギリスのLycée
françaisに送られる。登録が無効であったがロンドンに残り、18ヶ月アルバイトをしながら滞在。この間pubで働きシャンソン フランセーズ及びアングロサクソンの音楽に興味を持つ。bacに3回失敗。フランスに戻りアルバイトをしながら60年代後半からキャバレやバーで歌う。1971年及び72年3枚のレコードを出すが評判にならず・・ ・1973年Frédéric François(シシリー島1950-ACI)の為に作った「L’amour 1830/愛、1830年」をレコード会社のディレクターに勧められ自分で歌う。Rose d’or d’Antibesに出場この曲を歌い、審査員特別賞を受賞。 ・1974年レコード会社のディレクターを通じてLaurent Voulzy(Paris 1948-ACI)と知り合い、Souchon作詞/Voulzy作曲で数々のヒット曲を。 ・1974年ファーストアルバム『Alain Souchon』:「J’ai dix ans/僕は10歳」(Souchon/Voulzyコンビの最初の曲)など11曲収録。 ・1977年12月アルバム『Jamais content/決して満足しない』:「Allô maman bobo/お母さん、辛いよう」、「Y’a d’la rumba dans l’air/空気に中にルンバがある」など10曲集録、アルバムチャート1位。 ・1980年1月vedetteとしてOlympia出演。Voulzyがゲスト出演。 ・1980年12月公開Claude Berri監督「Je
vous aime/君を愛す」で映画初出演。映画には都合12作に出演。 ・1988年10月アルバム『Ultra moderne solitude/超現代的孤独』:「Quand j’serai
KO/僕がKOされたら」(90年VdMシャンソン賞)、「Comédie/喜劇」(Jane Birkinとのデュオ、Jacques Doillonの同名映画」のテーマ音楽、この映画にはSouchonとBirkinが出演している)など10曲。 ・1990年liveアルバム『Nickel/ニッケル』 (1989年Casino de Paris公演を録音):22曲収録。91年VdMアルバム賞受賞。 ・1993年10月『C’est déjà ça/それはすでにそう』:「Foule sentimentale/センチメンタルな大衆」、「Sous les jupes des filles/女の子のスカートの下」(96年SACEMのVincent Scotto賞)など11曲、100万枚以上。 ・1995年10月liveアルバム『Défoule
sentimentale/センチメンタルな憂さ晴らし』:29曲収録。96年VdMアルバム賞受賞。 ・1999年11月10枚目のアルバム『Au ras des paquerettes/雛菊に高さで』:「Le baiser/キス」など10曲、100万枚以上。 ・2002年Académie françaiseのGrande médaille de la
chanson française 受賞。 ・2005年アルバム『La vie Théodore/テオドールの人生』:「La vie Théodore」(冒険家Théodore Monodへのオマージュ)、「Bonjour tristesse/悲しみよ今日は」、「Et si en plus y’a personne/そして、もしその上、誰もいないなら」(06年SACEMのVincent Scotto賞)など11曲、50万枚。 ・2006年3月13日Globe de Cristal 男性歌手賞受賞。 ・2011年11月13枚目のアルバム『A cause d’elles/それらによって』:「Le jouret la nuit/昼と夜」、「Ensortant de l’école/学校の帰りに」、「La mort de l’ours/狼の死」、「L’hirondelle/ツバメ」、「Simone/シモヌ」 など14曲。 ・2012年9月24日「Ordre des Arts et des Lettres/芸術・文芸勲章」の commandeur勲章受章。 ・2014年11月40年コンビを組んでいるSouchon/Voulzy最初のデュオアルバム『Alain Souchon & Laurent Voulzy』:「Derrière les mots/言葉の後ろに」、「Oiseau malin/有害な鳥」、「Idylle
anglo-normande/イギリス=ノルマンディーの良い関係」、「En Ile-de-France/イル=ド=フランスで」、「Qui mais/しかし誰が」など12曲。2015年VdMシャンソンアルバム賞受賞 ・2015年4月13日Globe de CristalでAlain Souchon et Laurent
Voulzy男性歌手賞受賞。 ・2017年6月16日SouchonへのHommage 『Souchon
dans l’air/歌の中のスーション』(Souchonのヒット曲を、Souchonからさまざまな影響を受けている14人の歌手がカバーしたもの):「Foule sentimentale」(歌っているのは:Chilly Gonzales(Canada,、Montreal 1972- 歌手、作曲家、ピアニスト)、「Quand je serai KO/ぼくがKOされたら」(歌っているのは:Mathieu Boogaerts(970- ACI)、「Le baiser/キス」(歌っているのは:Vanessa Paradis1972-歌手、俳優)、「J’ai dix ans/僕は10歳」(歌っているのは:Arthur H、本名Arthur Higelin 、1966-ACI)、「La vie ne vaut
rien/人生は何の価値もない」(歌っているのは:Benjamin Bilray1973-ACI、プロデューサー)、「Sous les jupes des filles/女の子たちのスカートの下」(歌っているのは:M、本名Mattieu Chedid、 1971-ACI)、「Allô maman bobo/もしもしお母さん辛いよー」(歌っているのは:Sylvie HoarauとAurélie Saadeが2008年に結成した女性デュオBrigitte) など Souchonは他の歌手に曲を提供し、また、他の歌手のアルバム、オマージュアルバムにも参加している。主なものは: 1982年Françoise Hardyのアルバム『Quelqu’un
qui s’en va』に「C’est bien moi」を作詞/作曲し提供 1998年Jane Birkinのアルバム『A la
légère』に「A la légère」を作詞し(作曲はVoulzy)提供 2002年Patrick Bruelのアルバム『Entre
deux』に「Celui qui s’en va」をduoで歌っている 2005年Nolwenn Leroyのアルバム『Histoires
naturelles』に「J’aimais tant l’aimer」など2曲を作詞し(作曲はVoulzy)提供 2006年Francoise Hardyアルバム『Parenthèses』に「Soleil」をduoで歌っている 2006年Michel Delpechのアルバム『Michel
Delpech &』に「Quand j’étais chanteur」をduoで歌っている 2008年Adamoのアルバム『Le bal des gens bien』に「Les
filles du bord de mer」をduoで歌っている 2011年Gilbert
Bécaudへのオマージュアルバム『Bécaud, et maintenant』に「Alors raconte」を歌い参加 3.「Foule
sentimentale」(1993年 Alain Souchon作詞/作曲Alain
Souchon)について Souchon:「僕は結びつきそうにない二つの言葉を結びつけてみることが好き。『Ultra moderne
solitude/超近代的孤独』のように。『sentimental/①取り組み方が甘い、軟弱な ②センチメンタルな、感傷的な、多感な』と『foule/大衆』の組み合わせは面白い、 これで何かを表現できると思った。この消費社会にあって、バーゲンで駆け出しちょっとした幸せを得ようとする大衆を見ることは楽しいことではない。何か他のものもあるはず。この曲は車の中でハンドルを握りながら作ったが、僕は散歩が好き。パリでは帽子を被り、サングラスを掛けて。部屋の中で詩を書いていると眠くなってしまう。歩きながらインスピレーションを得て、何か言葉を見つけることができたらそんな嬉しいことはない」。Radio France StrasbourgのディレクターであったBernard Chereze:「最初に聞いたとき、ヒット曲になるようなマジックがあると感じた。時代を象徴している。都会人の厭世感とマーケティング至上主義への嫌悪感との間の現代の哀歌。直ちにこの曲を流した。1日に少なくとも3回は。歌詞に話し言葉が氾濫していると言う点で新鮮だった、直接的に話しかけてきた。テーマは誰もが感じていることだった。 この曲を収めたアルバム『C’est déjà ça/それはそういうこと』は2週間で大ヒットになった。Souchonのコンサートで今でも最も人気にある曲、この曲が送るメッセジは今でも古くなってはいない、一種の公の財産のようなもの。Souchonには尊大な態度はない。恥じらいを持って、紋切り型を排して、真実を語る。最近のラップ歌手たちもこの曲が大好き、それ以上に崇めている」。 この曲を収めたLP「C’est déjà ça」は1993年10月10日にリリースされ、100万枚以上売上げdisque de diamant/ダイアモンドディスクになった。「Foule sentimentale」 はB面「Les filles électliques」とのカップリングで同月シングルカットされ22万枚の売上げ。93年10月30日の週チャートインの32位でランクイン、94年2月12日の週チャート1位、そして94年4月30日44位まで半年に渡って、50位以内に留まった。 「Foule
sentimentale」は・・ 1994年の第9回VdMではシャンソン賞を受賞。他の候補曲は:Patricia Kaasの「Entere dans la lumière」、Laurent Voulzyの「Le rêve
du pécheur」(Souchon/Voulzy)、Julien Clercの「Utile」。このVdMでSouchonは男性歌手賞も受賞。 2005年の第20回VdMでは過去20年の最優秀シャンソン賞Victoire des Victoiresを受賞している。(他の候補曲は:Voulzyの「Belle-Ile-en-Mer」(86年)、Maxime Le Forestierの「Né quelque part」(88年)、Souchonの「Quand je serai OK」(90年)、William Shellerの「Un homme heureux」(92年)、Celine Dionの「Pour que tu m’aimes encore」、ミュージカル「Notre dame de Paris」からGarouほか「Belle」(99年)、Renau&Axelle
Redの「Manhattan-Kaboul」(03年)など 2013年に実施されたアンケート「276人の歌手が選ぶベスト100曲」では9位になっている。 このアンケートで上位は: 1位「Avec le temps」(Léo Ferré 1970年)、2位「La nuit je mens」(Alain Basdhung 1998年)、3位「Mistral ganant」(Renaud1985年)となっている。 |
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今月の顔 2017年9月 septembre 2017 ・レナン・リュス Renan
Luceが「Repenti/改心した男」、「Les voisines/女性の隣人」、「La lettre/手紙」、「Monsieur Marcel/マルセル氏」などを収録したファーストアルバム『Repenti』をリリースしたのは2006年9月25日 「Repenti」 http://www.dailymotion.com/video/x428gt 1.「Repenti」(2006年 Renan Luce/Renan Luce)歌詞に大意: ・・俺はデイジョンの北の郊外に住み、トマトソーススパゲッテイを食べる。当局との司法取引により、ムショ行きを免れた。20年も隠れて暮らしている。もっと悪い生活だと思っていたが、FBIは証人を保護するという使命をちゃんと果たしてくれている。俺は改心した男、俺は裏切った。 テキサスのムショに入っていたかもしれないのに、しけた場外馬券売り場でビールを飲んでいる。 毎夜酒を注いでもらい、冗談を言いあっている。 爪の先までマフィアだった俺が、ただのアル中になっちまった。 伯父きの手下が「二つ拳のトニー」と呼ばれていた俺を探し回っている時に。 安全な場所での最初の数ヶ月の生活は、アメリカでのシシリア人としての生活で欠けていたものを再建することだった。知り合いが隣近所ともめていれば、助太刀をした。でも今は年老いた。あじさいの手入れに夢中になっている。 茂みで何かが動いた、俺の胸を狙っているスナイパーが見えた。俺は待っていた、怖くはない。ベッドに横たえられた俺の心臓の上にあじさいの花が置かれるだろう。俺はStromboli(シシリー島の火山)を見るだろう。マフィアのことは忘れるだろう。俺は改心した男、俺は裏切った・・ 2.Renan
Luceの略歴 ルナン・リュスRenan Luce(1980.3.5- Paris 生まれACI) 幼年期と青春期をBretagneのFinistère県で過ごす。BrestのConservatoireでクラシックピアノとサクソフォンを学び、独学でギターと作曲を学ぶ。Toulouseの高等商科学校Ecolesupérieure de commerce で勉学の傍らバーなどでギターの弾き語りをしていた。 2002年高等商科学校卒業後Parisに出て、音楽で身を立てようと決心。Clichy広場の小劇場「Théâtre le Mery」に3ヶ月出演、口コミで徐々に人気が出て、Renaud、Bénabarなどに注目される 2006年5月フェスティヴァル「Alors chante à Montaubanさあ歌え、モントーバンで」で「Repenti」を歌い、「Bravos du public/大衆のブラヴォー」賞受賞 2006年6月Bénabarの前座でParis
Zénithに出演。同劇場には2008年5月vedetteで出演 2006年9月ファーストアルバム『Repenti』をリリース 2006年11月から18ヶ月のフランス、ベルギー、ケベックツアー、20万人以上集めた。12月8日 Olympiaに出演 2006年Georges Brassensへのオマージュアルバム『Putain de toi/忌々しいお前』には「L'orage/嵐」で参加 2008年のVdMで新人アルバム賞と新人ステージ賞を受賞 2008年Adamoのアルバム『Le bal des
gens bien/紳士淑女のダンスパーティー』では「J'avais oubliéque les roses sont roses/バラよ再び」をAdamoとデュオで 2009年Les Enfoiresに初出演(その後10、11、12、13年出演) 2009年7月Lolita Séchan(Renaudの娘)と結婚。11年長女誕生。2016年離婚 2009年10月12日セカンドアルバム『Le Clan des Mirosミロ 一族』をリリース。「Le Clan des Miros」、「La fille de la bande/一味の娘」、「Nantes/ナント」、「On n'est pas une bétise près/悪戯なんて気にしない」など収録 2011年Gilbert Bécaudへのオマージュアルバム『Bécaud、et maintenant/ベコー、そして今は』には「Dimanche à Orly/日曜日にオルリーで」で参加 2013年ミュージカル「Soldat rose 2/ピンクの兵士 2」ではJoseph少年役を演じる 2014年3枚目のアルバム『D’une tone à un tout petit/1tの重いものから極く軽いものまで』リリース。「Appellequand tu teréveilles/目覚めたら電話して下さい」、「Voyager/旅行する」、「J’habitais là-bas/僕はあそこに住んでいた」など収録) 2014年Renaudへのオマージュアルバム『Bande à Renaud 1、2/ルノー軍団1、2』に、「Je suis une bande de jeunes/僕は若者の一味に付いて行く」(Alexis HK、Benoit Doremusとトリオで)及び「Ou c’est que j’ai mis mon flingue/僕は武器をどこへ」で参加 2016年Renaudのアルバム『Renaud』に収録された「Les mots/言葉たち」、「La nuit en taule/留置所の夜」、「Petite fille slave/スラヴの少女」を作曲(作詞はいずれもRenaud) 3.アルバム『Repenti』について Renan Luceは2006年5月23日から28日までMidi-Pyrenees地方、Tann-et Garonne県、Montaubanで行われた音楽フェスティヴァル「Alors chante à Montauban/さあ歌え、モントーバンで」の新人発掘コンクールに出場した。Luceは最初に登場「Repenti」を歌い、「Bravos du public/観客のブラヴォー」賞を受賞した。Luceは2006年9月25日Barclay社からファーストアルバム『Repenti』をリリース。現在まで85万枚以上の売上げと言われている。アルバムは2007年にはACC大賞受賞。2008年のVdMで新人アルバム賞、新人ステージ賞を受賞している。(新人歌手賞にもノミネートされたが、受賞はChristophe Maéだった)。このような好評にもかかわらず『Repenti』のアルバムチャート最高位は2位。それはHélène Segara「Quand l’éternité」、Renaud「Rouge sang」などと競合したため。 『Repenti』には「Repenti」、「Les voisines/女性の隣人」、「Je suis une feuille/僕は1枚の葉っぱ」、「La lettre/手紙」、「Monsieur Marcel/マルセル氏」、「Mes racines/僕のルーツ」、「Nuit blanche/不眠の夜」など14曲が収録されている。このうち「Repenit」、「Les voisines」、「La lettre」、「Monsieu Marcel」は2006年から08年にかけてシングルカットされ、いずれも好評だった。 「Les
voisines/女性の隣人」(Clipは1954年公開のAlfred Hitchcock映画「Rear Window/フランス語のタイトル:Fenetre sur cour/邦題:裏窓」から)https://www.youtube.com/watch?v=Z-L4jPVoNAE 歌詞の大意・・僕は男の隣人より、女の隣人の方が好きだった。その影が窓にゆらゆらと映ると、僕は空想の恋物語を作り出す、僕は呪う、ヴェネティアンブラインドを開発した技術者を、衣服を脱いだ婦人警官(pervenche:ツルニチニチソウ;駐車違反を取り締まるパリの補助婦警、制服の色から)を細切りにてしまうから。僕は男の隣人より、女の隣人の方が好きだった。バルコニーに干してある君の下着が舞うダンスパーティーに誘われて、君のモスリンの衣装も踊るとき君が踊っているようだ。僕は乾燥機という意地の悪にものを開発した技術者を恨む、窓から干してある下着を眺めることとはおさらばだ。君は洋服ダンスを空にして1時間かけて着て行くジーンズを選ぶ、そして僕の視野の中でそれを着る。しかし僕の敵は君の部屋の暖房、湯気と水滴、それに厚いカーテン、それらは僕の恍惚状態に水を差す。僕の窓の前に老人ホームが建てられ、君が見えなくなった。古い型のオールインワンの下着が沢山紐に引っかけられて干される。それでも僕は男の隣人より、女の隣人の方が好きだった・・ 「La letter」 https://www.youtube.com/watch?v=boec586KpI0 歌詞の大意・・僕は誤って配達された1通の手紙を受け取った。香水が振りかけてあり、赤い口紅まで付いた手紙を。開いてはいけなかったのかも知れないが、僕は遊び心の旺盛な男。開けてみたら彼女のiの字の上の・にはヒナギクの絵が描いてあった。いくつかの綴り誤りも。それに署名の代わりに「あなたのセクシーなブロンド娘より」。僕はこの子に恋をしてしまった。手紙には書いてあった。日曜日には断崖にいると。そこは昔僕が彼女の腰に手を回したところらしい。僕にデリカシーがなければ彼女は30m下に飛び降りるらしい。そこで僕は消印を便りにManche(英仏海峡)に面した町に行った。日曜日の朝、人気はない。それは当然、自殺をしようなんてブロンド娘が100人もいるわけない。Mancheを見下ろしている彼女を見つけ、僕はそのうぶな娘のmanche/袖を掴み、ニュートンの法則に勝った。ところが彼女はうぶと言うわけではなかった。彼女のお腹には小さな住人が住んでいた。ところで僕は遊び心の旺盛な男、その子が僕をパパと呼んでくれたらいい、その子が望めば僕は・・ 「Monsieur Marcel」 https://www.youtube.com/watch?v=A_i6gdCcRxc 歌詞の大意・・マルセル氏は何処にでもいるような墓堀人、しかし、睡眠発作症、土塊の中で立ったまま、靴を履いたまま眠ってしまうこともある。でもそれで困るのは生きている人間だけ、翌日また来なきゃならなくて。 ある日将軍の奥さんが、ご主人を埋葬中に、ご主人のうめき声を聞いたというので、掘り返してみた。実はマルセル氏にいびきだった。手の長い将軍夫人は、手を回してマルセル氏を首にさせた。 でも皆さんよく考えて下さい。自分が埋められるとき、機械で掘られる方が良いですか、それとも人に掘ってもらう方が良いですか?・・ |
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今月の顔 8月 août 2017年8月
「Formidable」(2013年 Stromae/Stromae)歌詞の大意: ・・素晴らしい(formidable)、君は素晴らしかった、僕は最低だった(fort minable)、僕たちは素晴らしかった、素晴らしかった。 ヘイベビー、失礼、お嬢さん、ナンパしようなんてつもりはない、誓うよ、僕は独身、昨日から、くそ!。僕は子供を作れない、でもまあそれはそれ。戻ってきてよ、5分だけ、君を侮辱してはいない、僕は礼儀正しい、ただ酔っているだけ、君は僕みたいな男に関わっている代わりに、他にすることがあるだろう。昨日僕に出会っていれば、僕は素晴らしかった。 素晴らしい、君は素晴らしかった、僕は最低だった。 お前は自分の姿を見て、自分が美男だと思うだろう、結婚できたんだから、だけどそれは指輪だけのこと、彼女はお前を厄介払いするだろう、女の子がいつもやるように。他の女の子はどうだ、お前が望むなら、話してみようか、そうすれば解決する、そしてお前たちは子供を持つだろう、3年か、7年後には。 素晴らしい、君は素晴らしかった、僕は最低だった。 やあお姉ちゃん、失礼、お兄ちゃん、解るかい、世の中には意地悪な人も、いい人もいない。もしお母さんにうんざりさせられたら、それはお母さんがおばあさんになるのを恐れているから。お父さんがお母さんを裏切ったら、それはお母さんが年取ったから。そんなの赤くなることはないよ。君たちは一体どうしたんだ、僕を猿みたいに見るね。君たちは皆聖人君子、猿属の。 僕に赤ん坊の猿をくれ、それは素晴らしくなるだろう、素晴らしく。 君は素晴らしかった、僕は最低だった、僕たちは素晴らしかった、素晴らしかった・・ Stromaeの略歴 ストロマエStromae(本名Paul Van Haver)は1985年3月12日ベルギー Bruxelles生まれのACI。ステージ名のStromaeはmaestro/巨匠の「verlan/逆さ言葉」。父親はルワンダ出身、母親はベルギー人。ルワンダに帰った父親は1994年のルワンダ虐殺で落命。母親は5人の子供を育てた。 ・1996年11歳でBruxellesのAcadémie musicale de Jette/ジェット音楽アカデミーでソルフェージュとドラムスを習う ・2000年からラップ歌手として音楽活動を始め、友人とデュオを結成、また、いくつかのグループに所属、その後ソロに ・2007年にはINRACI(L’Institu
National de Radioélectricite et de Cinématographie/国立ラジオ・映画学院)の映画部門で音響技術を学ぶ ・2008年Kery
James(1977Guadeloupe-ラップ歌手)、Anggun(1974Jakarta-歌手)など何人かの歌手に曲を提供 ・2009年自らのプロダクションMosaert(Stromaeのアナグラム)を設立 ・2009年9月21日シングル「Alors on danse/だから踊ろう」をベルギーでリリース。シングルはベルギー、フランス、ドイツ、スイス、ロシア、ポーランドなど多くのヨーロッパ諸国(18カ国との報道もある)でチャートのトップになり、50万枚以上売り上げ、Stromae現象と呼ばれる ・2010年6月14日「Alors on danse」を収めた『Cheese/チーズ』をリリース、(他に「Tequiero/君を愛している」、「Bienvenue chez moi/我が家へようこそ」、「Summertime」、「Silence/静寂」、「Je cours/僕は駆ける」などを収録) ・2011年VdMで『Cheese』は「エレクトロ/ダンス音楽アルバム賞」を受賞 ・2011年3月2日から12月2日までベルギー、フランス、スイス、ドイツを回る45回公演に及ぶツアー「Stromae tour」、 7月16日にはFrancofolies
de la Rochelle、11月3日にはParis Olympiaに出演 「Le nouvelBrel/(ジャック・)ブレル2世」、「Le Brel de l‘électro/エレクトロ・ポップのブレル」と呼ばれるように ・2013年8月16日セカンド『Racine Carrée/平方根』をリリース。 ・2014年VdMでは4つの賞にノミネートされ、3つの賞(「男性歌手賞」、『Racine Carrée』で「シャンソンアルバム賞」及び「Formidable」で「ヴィデオクリップ賞」)を受賞 ・2013年11月13日から2015年10月1日まで20カ国で200回以上の公演を行う「Racine Carrée tour」 14年9月17日から10月5日アメリカ、カナダツアーを行い、アメリカ人に「électrochoc」を与え、アメリカを征服したと表現されるほど好評だった。 ・2014年10月12日蝋人形がMusée
Grévin(10, bd.Montmartre 9区)に展示される ・2015年4月から再度アメリカ公演、カナダ、ブラジル公演、最終日の2015年10月1日はNY Madison Square Gardenで ・2016年12月1日音楽活動の一時休止を発表 アルバム『Racine
Carrée』について アルバム『Racine Carrée』は2013年8月16日リリースされたStromaeの2枚目のアルバム。「Racine Carrée」は「√:ルート:平方根」の他に、「はっきりとした根」、「きちんとしたルーツ」などと訳すこともでき、アルバムに収められている13曲を通してStromaeは自分の「Racine Carrée」を探しているのか。収録されているのは:「Formidable/フォルミダーブル」、「Ta fête/君の祭典」(2014年サッカーワールドカップベルギー代表の公式応援歌、「Alors on danse」同様、明日を忘れて「母親たちも、判事さんも」踊り出したくなるようなリズム、dance-floorに最適)、「Papaoutai(Papa où t’es?)/お父さん、どこにいるの?」(「父は僕の生後直ぐに家を出た。物心付いてから20回ほどしかあっていない。そして父は[1994年の]ルワンダ大虐殺で亡くなった。今、28歳になり、父親になっても良い年齢になり、父親がいないことを歌えるようになった」)、「Batar/バタール:混血児、私生児、雑種」(自身のアイデンティティをテーマにして、「お前は右なのか左なのか、男尊女卑の男なのかパリの女々しい男なのか、マッチョなのかホモなのか、フツ族なのかツチ族なのか、フランドル人なのかワロン人なのか。 こっちでもなく、あっちでもないBatarの僕、過去もそうだったし、現在もそう、これからもそうだろう」。)、「Avec Cesaria/セザリアとともに」(2011年12月に死去したカーボ・ヴェルデ出身の女性歌手Cesaria Evoraに捧げられている。「僕はこの『La diva aux pieds
nus/裸足のディヴァ』のファンで一度会ったことがある。この曲に彼女の伴奏をやっていたギタリストの参加を得ることができた」)、「Moules frites/フライドポテト付きムール貝」(ベルギーの国民食讃歌)、「Carmen/カルメン」(Bizet「カルメン」の「ハバネラ」をベースに、歌い出しの部分を原曲では「L’amour est un oiseau rebelle・・.Que nul ne peut apprivoser・・/恋は思い通りにいかない鳥、誰も調教できない・・」を「L’mour est comme l’oiseau deTwitter. On est bleu de lui, seulement
pour 48h・・/恋はツイッターの鳥のようなもの、それが怖いのは48時間・・」としている)、「Quand c’est?/それはいつ?」(癌をテーマにした曲で、癌に「tu/君、お前」で話しかけている。「お前と僕は知り合いだ、お前はまず僕の母の乳房に付いた、その後で父の肺に付いた。癌よ、次は誰に付くんだ。お前が歩みを止めるのはいつだ、いつヴァカンスに出掛けるんだ・・」)、「AVF[Allez vous faire f...]/消え失せろ」(ラップ歌手Orelsa、ラップグループSexiond’AssautのメンバーMaître Gimsと)など。 Stromaeは8月21日マラソンサイン会を行った。すなわち午前10時Bruxelles、午後2時Lille、そして夕方6時からParis MontparnasseのFnacで。 アルバムはリリースの週8月25日にチャートの1位になってから、2014年2月23日の週まで2週を除き24週1位。VdM効果はなどもあり14年7月13日の週に1位になり都合25週1位 。2013年及び2014年フランスでの年間売上げトップで、国内では200万枚以上の売上げ((SNEPは、2015年9月30日リリースから2年2ヶ月で4 X diamant disqueを獲得したと証明)、フランス以外でもベルギー(24万枚)、カナダ、オランダ、スイスなどでもヒット150万枚以上売上げ、都合350万枚売り上げたと言われている。 Stromaeは2014年VdMで4つの賞にノミネートされ、3つの賞(「男性歌手賞」、『Racine Carrée』で「シャンソンアルバム賞」及び「Formjdable」で「ヴィデオクリップ賞」)を受賞。 また、アルバム『Racine Carrée』は2014年第15回NRJアルバム賞を受賞している。 楽曲「Formodable」について 「Formidable/素晴らしい」には「Ceci n’est pas une lecon/これは教訓ではない」の副題が付いている。アルバムのリリースに先行して2013年5月27日シングルリリースされた。この曲は恋人、あるいは妻と別れて深酒をした男の告白の趣がある、そのためTV出演などで歌うときには酔った風を装う。シングルのリリース前の2013年5月24日TV France2の「Ce soir ou jamais」に出演した際にこの曲を披露したときもそうで、酔って、千鳥足で歌ったStromaeに他の出演者などの顔に困惑の表情が浮び、また洗練された物腰で知られていたStromaeのその姿に多くの視聴者がショックを受けたとの報道があった(上掲の映像)。 そして極めつけは5月27日から視聴可能になったオフィシャルクリップ。クリップは5月21日(火)午前8時30分、ベルギー、ブリュッセルの中心部Louise交差点、路面電車の停留所付近で、酔っぱらった、千鳥足で、ろれつの回らなくなったStromaeの様子(演技・・とは思えない)を隠しカメラで撮影したもの。「原案を考えたのは僕。通りで酔った姿を見せるなんてイメージダウンになるのではと心配していたら、兄弟が『お前のイメージなんて誰も気にしないよ』というのでやってみた」。翌22日にはクリップの撮影とは知らない一般人が撮影した映像が多数インターネット上に公開された。そして3人の一般人と警察官を除いては誰もスターに「Ça va」と声をかけたりを手を貸すことをせず映像に収めることの方を優先したとの皮肉な報道も。警察官は「Stromae、大丈夫かい。少し疲れているのかい。私はあなたの大ファン。荒れた夜を過ごしたのかな。酔っている?家まで送ろうか?」Storomae「大丈夫、大丈夫!」警察官「それじゃあ、元気を出して、しっかりして」。このクリップは現在まで17000万回以上の閲覧。 「Formidable」は次の賞を受けた: ・2013年SACEMの「Prix Rolf Marbot de la chanson
de l’année/ロルフ・マルボ 今年のシャンソン賞」 ・2014年NRJ Music Awards 「Chanson francophone de l’année/フランス語圏今年のシャンソン」賞 ・2014年VdMヴィデオ・クリップ賞 |
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バルバラBarbaraが「Göttingen/ゲッティンゲン」を創唱したのは1964年7月、ドイツ、ニーダーザクセン州のGöttingenで。 「Göttingen」 https://www.youtube.com/watch?v=s9b6E4MnCWk(1967年司会者はGilbert Bécaud) 1.「Göttingen」(1964年Barbara作詞/作曲)歌詞の大要: ・・もちろんそこのあるのはセーヌ川ではなく、ヴァンセンヌの森でもないけど、とても美しい、ゲッティンゲンは、ゲッティンゲンは。 河岸も、嘆きを歌う古いはやり歌もないけれど、愛の花は咲くゲッティンゲンで、ゲッティンゲンで。 彼らの方が我々よりよく知っているようだ、フランスの王様たちの歴史を。ヘルマン、ピーター、ヘルガやハンスが、ゲッティンゲンで。 誰も自尊心を傷つけられないといいんだけれど、我々が子供の頃に聞いた「昔あるところに・・」で始まる童話は、ゲッティンゲン生まれ。 もちろん我々にはセーヌ川があり、ヴァンセンヌの森がある、でもバラは美しい、ゲッティンゲンで、ゲッティンゲンで。 我々の朝は青白く、我々にはヴェルレーヌの灰色の魂がある、彼らにはメランコリーがある、ゲッティンゲンでは、ゲッティンゲンでは。 子供たちは我々に話しかける術を知らず、ただ我々に微笑みかける、それでも我々には解る、ゲッティンゲンの金髪の子供たちの言いたいことが。 いぶかしく思う人たちがいても仕方がない、でも他の人たちは私を理解してくれるだろう、私が子供たちはどこでも同じだと言っても、パリでも、ゲッティンゲンでも。 おお、再び来ることがないようにしなくては、流血と憎悪の時代が、私の愛する人たちがいるから、ゲッティンゲンには。 また警報が鳴り、再び武器を取るようなことになったら、私は心の底からから涙を流すでしょう、ゲッティンゲンのために、ゲッティンゲンのために。 それにしても美しい、ゲッティンゲンは、ゲッティンゲンは。 また警報が鳴り、再び武器を取るようなことになったら、私は心の底から涙を流すでしょう、ゲッティンゲンのために、ゲッティンゲンのために・・ 2.Barbara略歴 ・1930年 6 ,rue Brochant Paris 17区で誕生 本名Monique Andrée Serf ・1940年-44年ドイツ軍による占領中逃亡生活。1945年10月一家はParisに戻る ・1947年Conservatoire national
supérieur de musique/国立高等音楽院に聴講生として入る ・1948年2月Théâtre Mogadorのオーディションを受け、コーリストに ・1950年2月ベルギー、ブリュッセルへ、小さなキャバレで歌う ・1951年Parisに戻りほぼ1年間キャバレLa Fontaine des Quatre
Saisons で皿洗い ・1952年9月ブリュッセルに戻り、Claude Sluysと知り合う。Sluysの友人とキャバレLe cheval blancを経営、毎夜歌う。53年倒産 Claude Sluysとは1953年10月結婚、56年から別居、62年離婚 ・1955年2月ベルギーDeccaから最初のレコード。「Mon pote le gitan/我が友ジプシー」と「L’œillet rouge/赤いカーネーション」を収録 ・1955年パリに戻り、12月Théâtre de Trois Baudetsに出演 ・1958年1月「L'Ecluse」と数ヶ月の契約。最終的には1964年まで継続、2月11日最後の出演 ・1958年Pathé Marconiと契約 2月5、6日EP『La chanteuse de minuit/真夜中の女性歌手』を収録 ・1959年最初のLP『Barbara à l'Ecluse/エクリューズのバルバラ』9曲収録 ・1959年TV初出演 Denise GalserのDiscorama ・1959年黒い小型グランドピアノを「location-vente/買い取り権付き賃貸借」で購入 ・1960年アルバム『Barbara chante Brassens/バルバラ、ブラッサンスを歌う』でACC大賞 「Pauvre Martin/貧乏人マルタン」、「Il n'y a pas d'amour heureux/幸せな愛はない」など8曲収録 ・1961年外交官Hubert某と出会い、Abidjanに。別て、9月パリに戻り「Dis quand reviendras-tu ?/いつ帰ってくるの」を作詞・作曲 ・1964年7月Göttingen公演、最終日「Göttingen/ゲッティンゲン」創唱 ・1964年10月23日~11月10日Brassensの前座でBobinoに出演 ・1965年3月LP『Barbara chante Barbara/バルバラ、バルバラを歌う』でACC大賞、「Pierre/ピエール」、「Nantes/ナントに雨が降る」、「Au bois de Saint-Amand/サン・タマンの森で」、「Gare de Lyon/リヨン駅」など12曲収録 ・1966年12月13日Bobinoにvedette/スターとして出演、「Ma plus belle histoire
d'amour/我が麗しき恋物語」創唱 ・1970年11月ヤマハ主催の第一回国際歌謡音楽祭にゲストとして来日 ・1971年Jacques Brel監督映画「Franz/フランツ」撮影、 Jacques Brelと共演 ・1973年夏Précy-sur-Marneに転居 ・1981年10月28日~11月21日Pantinコンサート ・1982年12月22日文化大臣Jacques LangからGrand prix national de la
chansonを授与される ・1986年1月21日~2月19日ミュージカル「Lily
Passion/リリー・パッション」パリZénith上演、Gérard Depardieuと共演 ・1986年7月8日ソ連からの亡命ダンサーMikhail Baryshnikovに招かれNY公演 ・1988年9月15日Légion d'honneurのChevalier勲章をMitterrand大統領から授与される ・1990年最後の日本公演、9月27、28、29日の東京人見講堂ほか ・1992年3月、1957年から1990年の間に録音した260曲を13枚のCDにした全集『Ma plus belle histoire
d'amour, c'est vous/ 我が麗しき恋物語、それはあなた方』リリース ・1994年1月29日国内ツアーに。3月26日(土)ToursのLe Vinci劇場が最後のコンサート ・1994年3月VdMで最優秀女性歌手賞受賞 ・1996年11月アルバム『Il me revient/思い出される』12曲収録リリース ・1997年2月VdMで最優秀女性歌手賞受賞 ・1997年11月13日CD2枚組コンピレーション『Femme piano/女性 ピアノ』40曲収録 ・1997年11月24日Hôpital américain de
Neuillyで死去 享年67歳。27日パリの南Montrouge、Bagneuxの家族墓地に埋葬 ・1998年自叙伝「Il était un piano noir/黒いピアノがあった」出版 3「Göttingen」について ・BarbaraのGöttingen公演 1964年の初め、L’Ecluseに通っていた熱心なファンが、Barbaraを楽屋に訪れた。そして、彼の故郷ドイツGöttingenで歌ってくれないかと懇願した。彼の名はHans-Gunther Klein、内気な学生と言った雰囲気の大柄な、ひげを生やした男だった。GöttingenにはJungensTheaterがあり彼は関係者の一人だと。Barbaraの第一声は「Non」。KleinはBarbaraにGöttingenへ行って歌わない理由があるのかと尋ねた。Barbaraは肩をすぼめて「Göttingenで誰が私を知っているの?」 Kleinは「ドイツでシャンソンフランセーズが高い評価を受けていることは想像できないでしょう。あなたやBécaudやAznavour、そればかりでない、今ドイツで大スターと言えば皆フランス人です」。 「ドイツでは誰も私のことを知らないでしょう」というのは口実に過ぎなかった。実のところドイツは彼女にとって敵意の対象だった。Barbara、本名Monique Serfは1930年6月9日東ヨーロッパ出身の母とアルザス出身の父との間に生まれたユダヤ人。ドイツ占領下では強制収容所送りを免れるため、隠れ、逃げ回り、名前を変える生活を強いられていた。辛抱強く説得したこの賛美者はBarbaraを汽車に乗せることに成功した。しかしBarbaraの方はGöttingen 行きに同意したことを後悔し、自分自身に怒っていた。4月に交わされた契約では、7月に3晩歌うことになっていた。Barbaraはただ一つの条件を出した。黒のグランドピアノがあること。1964年7月4日(土曜日)到着した、駅のホームにはKleinが出迎えた。BarbaraがGöttingenに来るのは2度目だった、数年前この町に駐留していたベルギー軍の慰問のため来たことがあった。到着後リハーサルのためJunges Theater(19、Giesmarlandstrasse)へ。しかし、会場にあったのは劇場備え付きの重い、古びたアップライトピアノ。Barbaraは不満を口にした。そのピアノでは観客を見ることが出来ない。一人の学生がGöttingenに住む老婦人宅にSteinwayがあることを思い出した。婦人はそれを貸すことに快く同意。折悪しく引っ越し業者がスト中だったため、10人の若者に動員がかけられた、彼らはピアノを窓から出し、会場まで運んだ。20時15分から始まることになっていたコンサート2時間遅れで22時30分に始まった。リハはなくぶっつけ本番で。こんな大騒動にもかかわらずキャパ140人ほど会場は満員だった。そして盛大な拍手。契約は延長され、Barbaraは1週間Göttingenに留まった。 ・楽曲「Göttingen」 空襲を受けなかったGöttingenは美しい町。Barbaraは日中市内を散策。どこへ行っても人々の心からの歓迎を受けた。Grimm兄弟の生家を見物し、「昔あるところに・・で始まる童話はここGöttingenで始まったんだ」。また子供たちとも仲良くなった。そしてGöttingenの子供たちがユーモアのセンス、繊細な感覚の持ち主であると感じた。最終日の公演前、Barbaraは劇場に付属している庭園で過ごした、バラの香りに包まれて。そこでシャンソンができた。感謝の印だった。最後のステージで、Barbaraはできあがったばかりのこの曲を歌った。眼鏡をかけて、紙片の書かれた歌詞を。「これは小さな愛のシャンソンです。Göttingenのブロンドの子供たちに捧げる」。 確かにGöttingenにはSeineはない、しかし Leinekanal/ライネ運河がある。Vincennesの森の代わりにはブナの森がある。この曲を聞いた観客は直ちにそう感じたことだろう。 Parisの戻った後歌詞と曲を完成した。曲を聞いたレコード会社のディレクターClaude Dejacquesは録音することを主張、1965年7月12日Blanquiスタジオで録音された。そして1965年9月10日リリースされたLP「Barbara №2」のB面に最初の曲として収録された。当初この曲のフランスでは評判は芳しくなかった。フランス人の間ではまだドイツと「Boche」と呼ばれていたドイツ人に対する悪い感情は消えてはいなかったからか。 1967年5月Barbaraはハンブルグで、レパートリーのうち10曲をWalter Brandin訳のドイツ語で録音した。録音は5月6日から10日にかけてStudio
Philipsで行われた。ピアノはBarbara自身。歌手Anne
Sylvestreの妹で、L’EcluseでBarbaraの歌を聞き、Barbraの秘書になったMarie Chaixはドイツ語ができた。MarieはBarbaraのハンブルグ行きに同道、映画「Le discourse d’un roi/英国王のスピーチ」さながら「langue de Goethe/ゲーテの言葉:ドイツ語」を特訓し、録音は無事終わった。しかしGöttingenの発音はフランス語の発音が消えず「ゲッティンゲンヌ」と発音しているとの指摘も。LP「Barbara singt Barbara」は6月にリリースされた。このLP収録されているのは「Göttingen」の他:「Eine winzige Kantate」(「Une petite cantate/小さなカンタータ」)、「Sag, wann bist du bei mir?」(「Dis,quand
reviendras-tu?/いつ帰ってくるの」)、「Nantes」、「Die Einsamkeit」(「La solitude/孤独」)、「Mein Kompliment」(「Chapeau bas/脱帽」)など。 「Göttingen」(ドイツ語で)https://www.youtube.com/watch?v=hz5hNyPPD2Q 1967年10月4日Barbaraは一晩だけのコンサートのため、Göttingenを訪れた。午後のリハーサルはJunges Theaterで行われ、本番は完成したばかりの、市内で最も大きな劇場Stadthalleで行われた。1500人の観客を前に「Göttingen」をフランス語とドイツ語で歌った。これはBarbaraが観客の前でこの曲をドイツ語で歌った唯一のものとなった。MCのドイツ語訳はDieter Blanckが行った。Blanckは3年前のピアノを運んだ10人の学生の中の一人だった。 2003年、1963年に締結されたの仏独友好条約締結40周年を記念した演説で当時のドイツのHelmut Kohl首相はこの曲の「Oh, faites que jamais ne revienne
le temps du sang et de la haine/おお、流血と憎悪の時代が二度と再び来ることがないようにしなくては」の部分を引用したこともあり、今日このシャンソンは仏独の和解の象徴であるとする向きがある。しかし出来た当時この曲に政治的な意味はなく、Klein、10人の学生、ピアノを貸してくれた婦人、金髪の子供たちに対する単なる感謝の気持ちと、彼らに対する愛の歌であった。この曲は2002年からフランスの小学校の教科書に採用されている。 BarbaraとGöttingen との関係はその後も続き、 1988年Göttingen市はBarbaraに「La Médaille d’honneur de la ville/市の名誉メダル」を贈った。 2002年没後5年同市のGeismar地区にある通りが「Barbarastrasse /バルバラ通り」と命名された 2007年6月にはBarbaraの名を冠したバラが、Barbaraが40年前に「Göttingen」の詩を書いた庭に植えられた 「Göttingen」はTV番組などでは多くの歌手によって歌われている。たとえば・・ Carla Bruni (2007年1月12日)https://www.youtube.com/watch?v=d6pHzeOMd2U Calogero (2005年) https://www.youtube.com/watch?v=3XpY2Oh4Pis また、次の歌手はこの曲をカバーしてアルバムに収録している。 2009年Lara Fabianアルバム「Toutes les femmes en moi/私の中の全ての女性」(2013年) https://www.youtube.com/watch?v=8dt-4a3goNI 2015年Patrick Bruelアルバム「Très souvent, je pense à
vous・・/頻繁にあなたのことを思っています」 |
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今月の顔 6月 juin Jean Sablonは1936年6月19日「Vous qui passez
sans me voir/去りゆく君」をColumbiaのスタジオで録音した。 「Vous qui passez sans me
voir」 https://www.youtube.com/watch?v=e37gDUi4a7A 「Vous qui passez sans me
voir」(1936年Charles Trenet作詞/Johhny Hess作曲) 歌詞の大意:・・思い出は僕を苦しめるためにある。涙、花束、口づけの思い出は。そう、僕は4月の麗しい朝を思い出す。僕たちは町の高台で同じ屋根の下に住んでいた。 僕に目もくれないで、「今晩は!」とも言わずに通り過ぎるあなた。今宵こそ少しは望みを叶えて下さい、とても苦しんでいるんだから。あなたの眼差しを逃すまいとしている僕なのに、あなたはどうにて僕に目もくれないで通り過ぎて行くのか。僕はたった一言言いたいだけなのに、「愛している」と。そんなことは馬鹿げていて、勝手すぎるし、若気のいたり、悲しくもあるけれど。僕に目もくれないで通り過ぎるあなた、今宵こそ少しは望みを叶えてくれるのでしょうか?・・・・僕に目もくれず通り過ぎるあなた。僕に望みを与えることなく。 さようなら・・、おやすみ・・ Jean Sablonの略歴 Jean Sablonは1906年3月25日パリ近郊Nogent-sur-Marne生まれのACI。父はオーケストラの指揮者で、作曲家。姉は歌手のGermaine Sablon。Lycée Charlemagne卒業後・・ ・1923年(17歳)12月24日ParisのThéâtre Bouffes-Parisiensでデビュー、ミュージカル「La dame en décolletée/デコルテの貴婦人」でLucien Boyer(1901-1983 歌手)、若き日のJean Gabin(1904-1976 俳優)と共演。 ・1924年Léonce Perret監督映画「Madame Sans-Géne」で、映画初出演。クレジットされていない。その後3本の映画に出演。 その後Revues、Operettes、Comédies musicalesで活躍、特に ・・1931年Casino de Parisで上演されたrevue「Paris qui brille/輝くパリ」ではMistinguetteと共演、「La chanson de l’escalier/階段の歌」をデュオで歌う。 ・1931年最初のレコードをリリース。 ・1931年楽譜出版者Raoul BretonがMireille(1906-1996 歌手・作曲家・ピアニスト)とJean Nohain(1900-1981 作詞家・作家)をSablonに紹介。 ・1932年Mireilleと最初のデュオ「Quand on est
au volant/ドライヴしているときには」SPでリリース ・1933年ギタリストDjango Reinhardt、ピアニストAlec Siniavineらジャズミュージシャンを伴奏者に迎える新しい試み。しかし先端過ぎてか受け入れられなかった。 ・1936年Mirelleとのデュオ「Puisque vous partez en voyage/君が旅に出るから」リリース ・1936年新しい技術マイクに興味を持ち初めて使用したが「Le chanteur sans voix/声量のない歌手」と批判された。 ・1936年「Vous qui passez sans me voir/去り行く君」リリース ・1937年「Vous qui passez sans me voir」がPrix Candide(Grand prix du disque)受賞 ・1937年ラジオ局NBCに招かれ渡米。2週間の予定が2年間滞在。「French Troubadour」あるいは「Bing Crosby français」と呼ばれ、人気に。George Gershwin(「Love Walked In」)やCole
Porter(「In The Still Of The Night」)に曲を提供される。 ・1939年帰国A.B.Cに出演「Le Pont d'Avignon/アヴィニョンの橋の上で」、「Je tire ma
révérence/ご挨拶します」、「J'attendrai/待ちましょう」をジャズ調で歌ったが、今度は好評。 ・1940年には北南米ツアー、 被占領下のパリ(1940.6-1944.8.25)には帰らず、北南米で活躍。 ・1946年帰国時には小さな口ひげを。A.B.C.に1ヶ月出演。 ・1950年Etoile座、Olympiaに出演。 ・1966年5月来日(日比谷公会堂で公演)。 60年に及ぶキャリアの後、 ・1981年75歳の誕生日をNY Lincolin
Center公演で祝う(最後のアメリカ公演)。 ・1982年ParisのPavillon Gabriel(5,av.Gabriel パリ8区)でさよなら公演、 ・1983年リオデジャネイロRio de Janero(Copacabana Palace)で引退公演。 ・1994年2月24日Cannesで死去、87歳。PasrisのMontparnasse墓地に埋葬。 ・2004年4月30日パリ16区には遊歩道Allée Jean Sablonが設けられた。 ・2008年2月11日compilation 4枚組CD「100 chansons」リリース。収録されているのは: 「C’est si bon/セ シ ボン」、「Ce petit chemin/この小道」、「Je tire ma révérence」、「Fermé jusqu’à lundi/月曜日まで閉店」、「Presque oui/ほとんどウイ」、「C’est un jardinier qui
boite/片足を引きずる庭師」、「Rendez-vous sous la pluie/雨のランデヴー」、「Puisque vous partez en voyage」、「Un amour
comme le nôtre/たぐいなき恋」、「Vous qui passez sans me voir」、「Le Pont d’Avignon」、「La partie de bridge/ブリッジの試合」、「Les pieds dans l’eau/水につけた足」、「Rhum et Coca
Cola/ラムとコカコーラ」、「Couché dans le foin/枯れ草の中で寝て」、「La chanson
des rues/巷の歌」、「Clopin-Clopant/クロパン・クロパン」、「Le fiacre/辻馬車」(蹄の音を口の効果音を使った)、「Il ne faut pas briser un rêve/夢を壊さないで」、「Syracuse/シラキューズ」、「Les feuilles mortes/枯葉」、「Sur les quais du vieux Paris/古きパリの岸辺で」、「Paris,
tu n’as pas changé/変わらぬパリ」、「These foolish things」、「Plus rien,je n’ai plus rien qu’un chien/僕に残されたのは1匹の犬だけ」 、「J'attendrai」など。 「Vous
qui passez sans me voir」について 1936年Charles Trenet(Narbonne 1913―2001ACI)とJonny Hess(Suisse, Engelberg 1915-83 ACI、ピアニスト)は、彼らが作った「Vous
qui passez sans me voir」を携えて「Le bœf sur toit/屋根の上の牡牛」(34,rue du Colisée 8区)に出演していた人気上昇中のJean Sablonを楽屋に訪ねた。そして「この曲はあなたのために作った曲です」と、その曲を歌ってくれるように依頼した。TrenetとHessは1933年デュオ「Charles &Johnny」を結成し、Trenetが作曲し、Hessが作詞した曲をデュオで歌っていた。そして「Maman, ne vends pas la maison/母さん、家を売らないで」などで人気になったいた。しかし、自分たちのキャリアをもう一段向上させたいと当時人気上昇中のSablonに曲を提供したもの。翌日渡英しBBCに出演することになっていたSablonはその曲を持ってロンドンへ。そしてBBCの放送で早速その曲を披露。するとParisの音楽出版社2社から電報で曲名の問い合わせがあるなどの反響。Sablonは帰国後6月19日にColombiaのスタジオで録音した。その際Trenetの原詩にはRaoul Bretonが手を加え、Hessの原曲にはPaul
MisrakiとAlec Siniavineが手を加えた。Siniavine(1906-1996)は当時Sablonの伴奏ピアニスト、録音でもピアノ伴奏をしている。A面に「Ces petites choses/思い出のたね」(ジャズのスタンダード「These
foolish things」のJacque Larueによる翻案)、B面に「Vous qui passez sans me voir」を収録したSPは同年リリースされた。「Vous qui passez sans me voir」は1937年Prix Candide/カンディッド賞(Grand prix du disque/ディスク大賞)を受賞した。 この曲は多くの歌手によってカバーされている:Ray Ventura(1937年)、Stéphane Grappelli(1949年)、Charles Trenet(Sablonに遠慮して1954年になって録音)、Line Renaud(1956年)、Jacqueline François(1960年)、Petula Clark(1964年)、Isabelle Aubret(1970年)、Patrick Bruel(2002年、アルバム「Entre deux/二つの間で」に収録)、Charles Dumont(2010年)など。 「Vous qui passez sans me
voir」の映像をいくつか http://www.ina.fr/video/I05355350/jean-sablon-chante-vous-qui-passez-sans-me-voir-video.html 1972年11月25日Sablon自身 TV Samedi Soir出演時 https://www.youtube.com/watch?v=vg9Hd_Up-4g 1978年6月3日Sacha Distel, Zizi Jeanmaireと TV Numéro un 出演時 https://www.youtube.com/watch?v=exT2FSloSmY1979年9月1日Georges
Brassensと TV Numéro un 出演時 |
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今月の顔 5月 mai 2017 Zazは2010年5月10日「Je veux/私が欲しいもの」などを収録したファーストアルバム「Zaz」をリリースした。 「Je veux」 「Je
veux」(2007年Kerredine Soltani作詞/Tristan Solanilla & Kerredine Soltani作曲) 歌詞の大意: ・・Ritzリッツのスイートの部屋を私にくれるって、そんなものいらない。Chanelシャネルの宝石もいらない。リムジンをくれるって、もらっても、私にそれをどうしろっていうの。パ パラ パ パラ。
スタッフを付けてくれてもそれをどうするの。Neuchatelヌーシャテルの館なんて私向きではない。Eiffelエッフェル塔をもらってもそれをどうするの。 私が欲しいのは愛、喜び、幸せな気分。 私を幸せにしてくれるもの、それはあなたのお金じゃない。私は誠実のままで死にたいの。
一緒に見つけて、私の自由を。型にはまった言い方は忘れて、私の真の生活に入ってきて。 あなたのマナーのよさには飽き飽き、私には度を過ぎたと思える。私は手づかみでものを食べるような、そんな人間。 私は激しい言い方をし、何でも率直に話す。そんな私を大目に見て。 偽善は止めて、私はそんなものから逃げ出したい。私は政治家の言うような紋切り型にうんざり。 私を見て、私はあなたを悪く思っていない。でも私はこうなの、こうなの。 私が欲しいのは愛、喜び、幸せな気分。 私を幸せにしてくれるもの、それはあなたのお金じゃない。私は誠実のままで死にたいの。 一緒に見つけて、私の自由を。型にはまった言い方は忘れて、私の真の生活に入ってきて。私が欲しいのは愛、喜び、幸せな気分。 私を幸せにしてくれるもの、それはあなたのお金じゃない。私は誠実のままで死にたいの。
一緒に見つけて、私の自由を。型にはまった言い方は忘れて、私の真の生活に入ってきて・・ Zazの略歴 本名Isabelle Geffroy、1980年5月1日Indre-et-Loire県、Tours近郊生まれのACI。1985年から地元の音楽学校でsolfège、ヴァイオリン、ギター、ピアノ、合唱を学ぶ。両親の離婚により94年から母とBordeauに住み、95年から音楽学校CIAM(Centre d'information et d'activités
musicales)で学ぶ。その後ブルースのグループ、ラテン・ロックグループ(「Don Diego」)などで活躍。 2006年パリに上りpiano-barなどで歌う。特にSaint-Michelの「Aux trois Mailletz」(56, rue Galande 5区)では1年半、マイクなしで毎夜11時から朝4時まで歌っていた。同時にMontmartreの通りでもギターやベースの伴奏で歌う。 2007年作詞・作曲家Kerredine
Soltaniと出会う。 2009年1月26日)パリOlympiaで行われた第3回新人発掘コンサート「Le Tremplin Génération France Bleu/Réservoir」で優勝。 2009年7月Fuji
Rock Festivalに出演。 2010年5月10日ファーストアルバム『Zaz/ザーズ:(邦題)モンマルトルからのラヴレター』リリース。 2011年1月「Les
Enfoirés」初出演。その後2016年まで連続して出演。 2011年4月5、6日Olympiaに出演。 2011年5月19日NHK BSプレミアム「アメージング・ボイス~驚異の歌声~」放送。 2012年2月日本初単独公演。 2012年4月liveアルバム『Sans Tsu Tsou/(邦題)聞かせてよ愛の歌を』リリース。 2013年5月13日セカンドアルバム『Recto Verso/表・裏:(邦題)Zaz~私の歌』:「On ira/行こう!」、「Comme ci, comme ça/コム・シ、コム・サ」、「Si/もし」(Jean-Jacques Goldman作詞/作曲)、「Gamine/小娘」、「Si je perds/もし私が失っても」、「Laissez-moi/私をそっとしておいて」、「La lune/月」、「Cette journée/あの日」、「T’attends quoi/何を待つ」など17曲収録。チャート最高位2位、70万枚(フランス国内で55万枚)の売り上げ。 2014年11月10日3枚目のアルバム、Quincy Jonesのプロデュースによる『Paris/(邦題)私のパリ』(アルバムにはパリを歌った過去のヒット曲のカバーを中心に13曲が収められていて、そのうちの3曲はデュオ):「Paris sera toujours Paris/変わらぬパリ:いつものパリ」(Maurice
Chevalier)、「Paris canaille/パリ野郎」(Catherine Sauvage)、「A Paris/パリで」(Francis Lemarque)、「Champs-Elysées/オー、シャンゼリゼ」(Joe Dassin)、「Sous le ciel de Paris/パリの空の下」(Edith Piaf)、「I Love Paris」(Cole Porter、Niki Yanofskyとのデュオ)、「La romance de Paris/パリのロマンス」(Charles Trenet、Thomas Dutroncとのデュオ)、「La complainte de la
Butte/モンマルトルの丘」(Cora Vaucaire)、「J’aime Paris au mois de mai/5月のパリが好き」(Charles
Aznavour、Aznavourとのデュオ)、「J’ai deux
amours/二人の恋人」(Joséphine Baker)、「La Parisienne/パリジェンヌ」(Marie-Paule Belle)、「Paris、après-midi/パリの午後」(新曲)など。 2015年1月来日、13日 日テレ「スッキリ!」に出演。 2015年10月30日liveアルバム『Sur la route/(邦題)オン・ザ・ロード』:新曲「Si jamai j’oublie/もし私が忘れるようなことがあったら」を含め11曲収録。 2015年11月来日16、17日東京・オーチャードホール、19、20日大阪Zepp Namba。 2017年来日予定。5月8、9、10日東京、オーチャードホール 5月12日大阪NHKホール、14日大阪松下IMPホール。 「Je veux」について 2006年Parisに上り、「Aux trois Mailletz」などで歌っていたZazは、2007年Kerredine Soltaniと知り合い、その知遇を得た。 Soltaniは1976年9月8日Paris郊外Argenteuil生まれのACI、音楽プロデューサー。ACIとして14歳で最初の曲を作曲、95年最初のシングルをリリースしている。1999年文化省に入り、大統領府のイベントの企画などの当たった後、作詞・作曲家、音楽プロデューサーに。作詞・作曲家としてはZazの他、Judith(1990-歌手)、Julie Zenatti(1981-歌手)、Natasha St.Pier(Canada 1981-歌手)、Elsa Tovati(1976-歌手、作曲も・俳優)、Sofia Essaïdi(Casaclanca1984-ACI・俳優)らにも曲を提供している。 Soltaniが「Je veux」を作詞したのには、次のような逸話がある。(「Le petit
Lecœvre illustré」より) 2000年代の初め、Soltaniは伯爵家出の令嬢と恋に落ちた。Paris郊外に住む移民の子供とフランス貴族末裔の令嬢とは「uncoup de foudre/雷の一撃:一目惚れ」であった。社会的格差の溝は恋人どうしの間では問題にはならなかったが、伯爵家の方では大きな問題。SantoniがParis、Opéra通りにある邸宅に招かれた際、Santoniが銀の食器を盗んだと令嬢の祖父が疑った。数日後犯人は15歳の孫であることが明らかになったが、裕福な人々のこの謂われなき嫌疑に怒ったSantoniはその気持ちを抑えるため一気に詩を書いた。「Ce n’est pas
votre argent qui f’ra mon bonheur/僕を幸せにしてくれるもの、それはあなたのお金じゃない」。そして友人のTryssことTristan Solanillaと曲を付けた。「jazz manouche/ジプシージャズ」のメロディーは歌詞にぴったり。数日後Soltaniはインターネットを通して募集広告を出した。「嗄れた、少しつぶれた声の新人歌手募集」。300人以上の応募者があった。その中の一人がSoltaniの興味を引いた。Piafがジャズを歌っているような声だった。それがIsabelle Geffroyだった。 Zazは09年1月26日パリOlympiaで行われた第3回新人発掘コンクール「Le Tremplin Génération France
Bleu/Réservoir」で「Je veux」を歌い優勝。 そして2010年5月10日Soltaniなどのプロデュースでファーストアルバム『Zaz/ザーズ:(邦題)モンマルトルからのラヴレター』をリリース。これには11曲収録、うち6曲はZaz作詞(うち1曲は作曲も)、3曲はRaphaël(1975- ACI)に提供された。Raphaëlは09年6月ZazのSentier des Halles(50,rue d‘Aboukir 2区)公演を聴いてファンになったという。11曲は:「Je veux」、「Les passants/通行人」、「Le
long de la route/人生の旅路」、「Trop sensible/過敏なあなた」、「La fée/妖精」、「Port coton/ポール・コットン」(ブツターニュの海岸、画家モネが岩にぶつかる荒波を描いている)、「Ebloiie par la nuit/眩しい夜」、「Dans ma rue/私の街で」(1946年Edith Piafのヒットのカバー)など。アルバムは、54カ国でリリースされ、160万枚(フランス国内で100万枚)売り上げ、フランスのアルバムチャートで9週間1位に。「Je veux」はアルバムリリースと同時にシングルカットされた。 アルバム「Zaz」および楽曲「Je veux」は歌手Zazに多くの賞をもたらした。即ち: 2010年11月25日アルバム「Zaz」はACCの「Chanson Révélant e/シャンソン新人賞」 2011年1月12日Zazは「European
Border Breakers Awards」(EU内でデビューし、出身国以外の加盟国内で、これまでの売上や過去1年間の総売上、更には本拠地内外でのライブツアーの集客力に優れたアーティストに贈られる賞) 2011年1月7日「Je veux」はTV局TF1の「2010年シャンソン」賞 2011年1月ZazはTV局F2「Féte
de la chanson/シャンソンの祭典」でParisMatch誌新人歌手賞 2011年3月1日「Je veux」はVdMでオリジナルシャンソン賞 2011年11月14日「Je veux」はSACEMの「Prix Rolf Marboy」(年間最優秀シャンソン賞) またSNEP(全国レコード出版社連合)の番付によると、「Je veux」のclipは2010年にTVで8055回流され、それを都合114百万人が視聴。同年TVで流されたclipで最も視聴者が多かった。 Zazは2012年10月ミュージシャンと共にMont-Blanc/モン・ブランに登頂、地上4,810mの頂上で「Je veux」などを歌うパーフォーマンスを行った。 「Je veux」clip https://www.youtube.com/watch?v=Tm88QAI8I5A 「Je veux」2011年VdMで https://www.youtube.com/watch?v=_Q3cF6ai--w 「Je veux」Mont-Blancで https://www.youtube.com/watch?v=mbl1hx8pkhI |
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今月の顔 4月 avril 2017 ジャック・デュトロンJacques Dutroncは、1968年4月18日TVに出演して「Il est cinq heures, Paris s’éveille/5時、パリは目覚める」を歌った。 「Il est cinq heures, Paris s’éveille」1968年4月18日TV出演時 https://www.youtube.com/watch?v=3WcCg6rm3uM 「Il est cinq heures, Paris s’ éveille」(1968年 Jacques Lanzmann作詞/Jacques
Dutronc作曲) 歌詞の大意: ・・僕はPlace
Dauphine(ドフィーヌ広場・・Paris1区 シテ島にある広場)のイルカ、Place Blanche(ブランシュ広場・・Paris9区にある広場、Moulin Rougeは近く)は顔色が悪い、トラックは牛乳を満載、道路清掃人は清掃の真っ最中。5時、Parisは目覚める、Parisは目覚める。 オカマは髭を剃るところ、ストリッパーは衣服を付けている、長枕はつぶれ、恋人たちは疲労困憊。5時、Parisは目覚める、Parisは目覚める。 コーヒーはカップに注がれ、カフェーでは鏡が磨かれ、モンパルナス通りでは、駅はもう骸骨ではなくなる。5時、Parisは目覚める、Parisは目覚める。 エッフェル塔は足下が冷え、凱旋門は再び活気を取り戻し、オベリスクはシャンとする、夜と昼の間に。5時、Parisは目覚める、Parisは目覚める。 郊外の人々は駅に着き、La Villette(ラ ヴィレット・・Paris19区の東側にある地域。1974年まで、ナポレオンⅢによって造られた食肉処理場があった。その後再開発より音楽都市、科学産業都市を擁した公園に)ではラードが薄切りにされ、パリバイナイトの客たちはバスに戻り、パン屋はバタールを焼く。5時、Parisは目覚める、Parisは目覚める。 新聞は印刷され、工員たちはぐったりし、人々は起きあがる。それは僕が床につく時間。 5時、Parisは起きあがる、5時 僕は眠くない・・ Dutroncは1943年4月28日パリ9区生まれのACI、俳優。父親の影響で幼少の頃からピアノ、ギターを習う。1959年からロックのバーGolf-Drouot、Henri Leprouxなどに入り浸り、Jean-Philippe Smet(後のJohnny Hallyday)、Eddy Mitchellらと知り合う。1960年代初め9区Trinité地区で友人とロックバンドを結成しギタリストとして活動。兵役終了後一時Eddy Mitchellのギタリストに。その後Vogue社のアートディレクターになりFrançoise Hardyを担当、Hardyのいくつかの曲を作曲、「Le temps de l’amour/愛の時」(Lucien Morris & André
Salvet作詞/Dutronc作曲)など。1965年ジャーナリストで作詞家のJacques Lanzmannと知り合いLanzmann作詞、Dutronc作曲のコンビが生まれ、歌うように。年間200回のコンサートを行ったことも。 ・1966年6月ファーストEP「Et moi, et moi, et moi/そして僕、僕、僕」などLanzmann/Dutroncの4曲収録。このヒットにより、Michel Polnareff、Nino Ferrer、Antoineと並ぶ人気者に。 ・1966年10月にファーストアルバム『Jacques
Dutronc』:「Et moi, et moi, et moi」、「Les play-boys」、「La fille du Père Noël/サンタクロースの娘」、「Les cactus/サボテン」など12曲収録。 ・1967年4月EP「J'aime les filles/僕は女の子が好き」(Laqnzmann/Dutronc)。 ・1968年アルバム『Jacques
Dutronc』:「Il est cinq heures, Paris s'éveille/5時、パリは目覚める」、「Comment elles dorment/彼女たちの寝方」、「Fais pas ci, fais pas ça/これをするな、あれをするな」、「La publicité/広告」など12曲。 ・1968年アルバム『Jacques Dutronc』:「L’opportuniste /日和見主義者」、「La Seine/ラ セーヌ」、「Proverbes/ことわざ」、「Je suis content/僕は満足」、「La solitude/孤独」など12曲。 ・1972年アルバム『Jacques Dutronc』:「Le petit jardin/小さな庭」、「L’éléphant aveugle/盲目の象」など11曲。 ・1973年長男Thomas誕生。母親は1967年からのパートナーFrançoise Hardy。Hardyとは81年に結婚。 ・1975年7枚目のアルバム『Jacques Dutronc』:「Gentleman cambrioleur/泥棒紳士」など11曲。 70年代半ば映画俳優に転身。70年代は映画出演が主たる活動に ・1974年公開Jean-Marie Perier(写真家)監督の映画「Antoine et Sébastien/アントワーヌとセバステイアン」にSébastien役で映画初出演、音楽も担当。その後Claude Lelouch作品、Jean-Luc Godart作品を含め40本以上の映画に出演。 ・1980年12月5年振りのアルバム『Guerres et pets/戦争とおなら』(petはpaix/平和と同じ発音)をリリースし、シャンソンに復帰。(収録された9曲うち6曲はSerge
Gainsbourgの詩による):「L’hymne à l’amour (moi l’nœud)/愛の讃歌(僕は結び目)」、「Ballade comestible/食用バラード」、「Mes idées sales/僕の汚れた考え」など。 ・1991年10月公開Maurice Pialat監督映画「Van Gogh」でGoghを演じ、92年「César du meilleur acteur/セザール 主演男優賞」を受賞。 ・1992年11月3日から4週間Casino de Paris出演。1993年2月VdMスペクタクル賞受賞。 ・1995年10月アルバム『Brèves Rencontres』/短い逢瀬」:「Brèves Rencontres」、「A part ça/それを除いて」(Thomasの詩)、「Tous les gouts sont dans ma nature/全ての好みは僕の本性から」(Etienne Dahoとのデュオ)など10曲収録。 ・2000年Hardyのアルバムで「Puisque vous partez en voyage/あなたが旅に出るから」をデュオで歌う。 ・2003年5月12枚目で最新のアルバム『Madame l'existence/実存夫人』:「Madame l'existence」、「La vie en live/ライヴの人生」、「Face à la merde/やっかいに直面して」、「L’ère de rien/なんでもない時代」、「Transat en solitaire/孤独な大西洋横断レース」、「C’est
peut-être ça/多分そうだろう」、「Un jour tu verras/いつの日にか」(Mouloudjiのカバー)、「L’homme et l’enfant/男と子供」(Eddie Constantineのカバー)など10曲収録。 ・2005年俳優としての長年の活動に対して「César d’honneur/セザール栄誉賞」を授与される。 ・2009年compilation 『Best of Jacques Dutronc』:CD3枚組60曲収録。 ・2010年1月8日~9月12日17年振りのコンサート、ParisのZénith、Palais des
Sports、各地のフェスティヴァルなどに出演。ゲストにVanessa Paradis、Etienne Dahoらを招く。100日近くステージに立ち、コンサートには30万人以上の観客。 ・2010年11月ライヴアルバム『Jacques Dutronc: Et vous, et vous, et vous/あなた方、あなた方、あなた方』、18曲収録。 ・2014年11月5~10日Paris BercyでEddy
Mitchell(1942-)、Jacques Dutronc、Johnny Hallyday(1943-)のジョイントによる「Concert des Vieilles Canailles/年老いた悪戯っ子コンサート」。9日(日)の公演の模様はParisの15館などフランス国内の40都市の映画館で2015年1月15日に上映された。 ・2017年6、7月「Les Vieilles Canailles」のツアー。フランス、ベルギー、スイスで15回程度のコンサートを予定。 「Il est cinq heures, Paris s’éveille」について 1968年レコード会社VogueのアートディレクターJacques Wolfsohnは、Léo FerréなどがParisを歌った曲に不満を持っていた。この町をより魅力的に、よりロマンティックに表現する詩的な曲を求めていた。そしてそんな詩を作るようJacqes Lanzmannに依頼した。WolfsohnはLanzmannと夫人のAnne Segalenを自宅の招き、2人を一室に閉じこめ、Château-Mragaux1本とLandesのfoie grasを供して、詩を作るように要求。2人は母親たちが口ずさんでいた昔の歌を思い出した。それは、1802年Marc-Antoine Madeleine
Desaugiersの「Tableaux de Paris à cinq heures du matin/朝5時、Paris点描」で、「街灯は消され、家々は白くなり、市場には品物が集まり、労働者は働きだし、詩人は下手な詩を作り出し、ぐうたらはあくびをし、学者はベッドに入る・・」などと歌われていた。2人はこの詩の表現は時代遅れで古くさく、韻も貧弱だと感じたが、朝5時のParisをテーマにすることは良いアイディアだと思った。そしてかつて夜明けに旅から帰りParisに着いた時を思い出し、詩を書いた。それをWolfsohnに見せたところ、Wolfsohnは「Ça va, vous pouvez foutre le camp!/OK、帰っていいよ!」。この皮肉と詩情に溢れた詩を気に入ったDutroncは直ちに曲を付けた。録音が始まったとき、伴奏が単純に過ぎると感じたDutroncは何かを加えたいと考えた。トロンボーンを含め種々試した。満足できるものはなかった。そのとき隣のスタジオで録音していたRoger Bourdinのフルートが聞こえてきた。Roger Bourdin(1923-76、フルート奏者)は当時クラッシックを中心とした著名な奏者であったが、映画音楽なども演奏していた。BourdinはDutroncの要請に答え数分で曲を作り上げた。そして自分のパートはTake oneで録音を了した。この伴奏が加わったことによりこの曲は思いも掛けない魅力的なものになった。1968年3月リリースされた6枚目のEPに「Fais pas ci, fais pas ça」などともに収録され、68年3月23日の週チャートのトップに。また、同年リリースの2枚目のLP「Jacques Dutronc」にも収録された。Dutroncは4月18日TVの「Palmarès des chansons/シャンソンヒットパレード」に出演Raymond Lefèvreのオーケストラをバックにこの曲を歌った。このEPは1991年Le Nouvel Observateur誌とラジオ局France Interが行ったアンケートの結果、「過去40年の最も優れた45回転レコード」に選ばれた。そしてDutroncのステージでは必ずと言ってよいほど歌われる曲になり、「不眠症に悩んでいる人や早起きの人たち」の讃歌になった。 |
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今月の顔 3月 Mars 2017
「Tom Pillibi」1960.3.29 Eurovisionで https://www.youtube.com/watch?v=RYxRIujyKgg 「Tom Pillibi」(1960年 Pierre Cour作詞/André Popp作曲) 歌詞の大意・・トム・ピリビはお城を二つ持っている、一つはスコットランドに。トム・ピリビはお城を二つ持っている、一つはモンテネグロに。 彼は大きな船を2隻持っている。それで黄金や珊瑚など素晴らしい宝石を求めて世界の果てまで行く。 トム・ピリビは幸運に恵まれている。私は彼の恋人。彼は私が羨むほど裕福。彼はとても裕福。すごい人、トム・ピリビは。 トム・ピリビには秘密が二つある。誰にも打ち明けていないけど、私だけが知っている秘密が二つ。 王女様が彼に微笑みかけ、寝室で彼を待っている。羊飼いの娘も同じ。 彼は幸運に恵まれている。トム・ピリビは。私は彼の恋人。彼をどんな幸運の星が守っているんだろう。本当にすごい人、トム・ピリビは。 トム・ピリビにはたった一つ欠点がある。大して重要ではないけれど。彼にはたった一つ欠点がある。
彼は魅力的で、心優しい、雄々しい、でも彼はとても嘘つき。彼以上の嘘つきはいないほど。でも私は気にしない。私が彼の腕の中にいるとき私は女王様なのだから、彼が連れて行ってくれる国の。 本当にすごい人、トム・ピリビは・・ Jacqueline Boyerの略歴 ジャクリーヌ・ボワイエ Jacqueline Boyer (Paris 1941.4.23- 歌手) Jacqueline Boyer (本名Etiane Ducos)はParis生まれ、母はルシエンヌ・ボワイエLucienne Boyer(1901.8.16-1983.12.6 歌手)、父はジャック・ピルスJacques Pills(本名René Ducos 1906.1.7-1970.9.12 ACI、俳優)。両親は1939年結婚、49年に離婚。 Jacqulineは最初舞台女優を志したが、1956年母のハンガリー公演の際初めて歌うなど、母親の巡業先で歌って好評。 1958年母がMontmartreで開いていたキャバレ「Chez Lucienne」に出演。 1959年Marlene Dietrichの前座でThéâtre Etoile出演。これが大きなホール初出演。 1959年最初のレコードをリリース「Tu es le soleil de mon cœur/あなたは私の心の太陽」など収録。 1960年3月Eurovisionで「Tom Pilibi/トム・ピリビ」を歌って優勝。 1960年4月10日EP「Tom Pillibi」など4曲収録をリリース。 1960年5月「Comme au premier jour/初めての日のように」(Olympiaのコンクールで2位)。 1960年11月渡米、Pat Boone、Pery ComoらとTV出演。Ed Sullivanshowにも出演している。 1960年11月歌手のFrançois Lubianaと結婚。62年1女、その後(自動車事故の後)離婚。 1963年アルバム「Lacqueline Boyer et François Lubina」を出している。 その後Charles Aznavour、Gilbert Bécaud、Jacques Brel、Georges Brassens、Tino Rossiなどの前座で歌う。 ドイツでも活躍、ドイツ語で歌ったレコードを都合20枚以上リリースしている。 特に1963年「Mitsou/ミツ」はドイツでチャート1位になった。 1966年自動車事故により大怪我。記憶障害が残り、3年間活動中止。 1969年から活動再開。 1971年Charles TrenetのOlympiaに公演にTrenetに次ぐスタートして出演。 1976年母のデビュー50周年記念にOlympiaに出演、デュオで歌う。 1979年渡米しNYに滞在、Barbara
Bentonaの芸名で活動。 1984年英語のアルバム「Time and Time Again」をリリース。 1988年Jacqueline Boyerに戻りアルバム「Plus」をリリース。 1999年アルバム「Nuances」をリリース。 2004年42曲を収めたCD2枚組みのコンピレーションアルバムをリリース。 2005年から西部フランスHaute-Garonne県、Saint-Gaudensに住み、地元やスイス、ドイツなどを中心に活動。 2010年1月アルバム「Chagrin d'amitié/友情の悩み」をリリース。「Chagrin d’amitié」、「Tour Eiffel/エッフェル塔」、「Un jour je partirai/いつか私は旅立つでしょう」、「Je ne t’aime
plus/もうあなたを愛していない」など16曲収録。 2010年12月14日デビュー50周年記念のコンサート。 2016年3月著作「Histoire de trois vies extraordinaire/特異な3つの人生の物語」を刊行。母Lucienne Boyer、父Jacques Pills及び継母Edith Pafとの思い出を語っている。 2016年10月アルバム「Chansons de ma vie」(3カ国語で歌う14曲収録):「Doch ich
habe dich geliebt/そう、私はあなたを愛した」(ドイツ語)、「L’espérance/希望」、「Still in love」(Brendan Keeleyとのデュオ、英語とドイツ語で)、「Les amants de Paris/パリの恋人たち」、「Mitsou」(ドイツ語、新しいヴァージョン)、「Tom Pillibi」(2016年、ドイツ語ヴァージョン)、「Tom Pillibi」(2016年、フランス語ヴァージョン)、「Sous le ciel de Paris/パリの空の下」、「Parlez-moi d’amour/聞かせてよ愛の言葉を」(2016年、ヴァージョン)など。 2017年2月21日FMラジオ局「Vivre fm」に出演し、近況、著作などにつき語る。 なお、Jacqueline Boyerのサイト「The
Career」欄によると、1977年、98年及び 2000年に来日公演を行っている。 Jacqueline BoyerとEdith Piaf: 父親のJacques PillsはLucienne Boyerと離婚後、1952年Edith Piafと再婚。従ってPiafはJacqulineの継母。LucienneとEdithは仲が良く互いに「Lulute」、「Didite」と呼び合っていて、EdithがPillsと結婚した後も変わらなかった。1952年PiafとPillsの結婚後、11歳のJacquelineが初めてPiafに会ったとき、二人ともぎこちなかったが、37歳のPiafの第一声は「私をMammyと呼んで」。56年PiafがPillsと離婚した後もPiafはJacquelineを自分の娘のように可愛がった。JacquelineがEurovisionに出演することになったときPiafはJacquelineに言った。「Mon poussin/私のひよこちゃん(彼女はいつもJacquelineをそう呼んでいた)、あなたをとても誇りに思う。でもあなたにとって厳しい試練になるわね。お父さんとお母さんが有名な歌手であるだけでなく、義理の母にまで有名な歌手なんだから」。Jacquelineに初めての子供が出来たとき、Piafは自分が名付け親になりたいと望んだ。「彼女は私の大きなお腹を優しく撫でてくれた。彼女の手がとても柔らかだったことを覚えている」。 第5回Eurovision 第5回1960年のEurovisionは3月29日イギリスのロンドンのRoyal Festival Hallで開催された。 前年1959年フランスCannesで行われた第4回ではオランダ代表Teddy Scoltenが優勝した。ルールによればオランダで開催されるはずであったが、オランダは58年にも開催していることなどから辞退、2位であったPeart Carr & Teddy Johnson の出身国イギリスで行われた。なお第4回にはJacques PillsがMonaco代表で出場したが、参加11ヵ国で最下位であった。 第5回大会には13ヵ国が出場。フランス代表Jacqueline Boyerは出演者の最後、13番目に登場。Franck Pourcelの楽団をバックに「 Tom Pillibi」を歌った。32ポイントを獲得して優勝。2位はLooking High,High」を歌い25ポイント獲得のイギリス代表のBryan
Johnson。第3位はMonaco代表で出演、「Ce
soir-là/あの夕べ」を歌い15ポイントのフランス人歌手François Deguelt。Jacqueline Boyerの優勝は58年のAndré Claveauに続く、フランス代表で2人目。優勝のトロフィーは前回の優勝者オランダ代表Teddy Scoltenから手渡された。フランスに帰国したJacquelineは「戦場で敵を破ったヒーローのように歓迎された」。 「Tom Pillibi」について 第5回Eurovisinのフランス代表を決める国内のコンテストには38曲の応募があった。審査員はMarcel Amontが歌ったPierre Cour作詞/André Popp作曲の「Tom Pillibi」を代表にふさわしい曲と考えた。しかし、審査員はこの曲を若い女性歌手に歌わせた方が良いとして、関係者と調整。当時18歳で両親とも歌手であったJacqueline Boyerに白羽の矢を立て、Amontが辞退し、Jacquelineをフランス代表とした。 Jacqueline が歌う「Tom Pillibi」は1960年4月にはEPでフランス国内リリース、同年中にはJacquelineが歌うドイツ語版、英語版EPもリリースされた。そしてフランス語圏の国々ばかりでなくドイツ、オランダ、イギリス、スウェーデン、デンマークなどでもヒットした。「私はこの1曲で世界ツアーも出来たし、歌手としてのキャリアを送ることが出来た」。 |
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今月の顔2月 fevrier 2017 イザベル・オーブレ Isabelle Aubret
「C’est beau la vie」 1966年2月17日TVで https://www.youtube.com/watch?v=VnCX59gOb8w 「C’est beau la vie」(1963年 Claude Delécuse & Michelle Senlis/Jean Ferrat)歌詞の大意: ・・私のブロンドの髪を吹き抜ける風、地平線にかかる太陽、シャンソンの中のいくつかの言葉、何と美しいのだろう、人生は。早くも紅葉した木の上で羽を広げる鳥、
空高く響くその鳴き声、何と美しいのだろう、人生は。 身を震わせ、胸を痛めた全てのこと、戦い、もがき苦しんだ全てのこと、あまりにも速く信じてしまった全てのこと、これら全て、私の許からなくなった。 まだ見ることが出来る、まだ聞くことが出来る。、そして何よりも歌うことが出来る、何と美しいのだろう、人生は。夜空に響くジャズ、トランペットの音色が、パリの町の通りで、二人の後を付いてくる、何と美しいのだろう、人生は。 花が咲いたような赤いネオンの光が、二人の影を驚かす、何と美しいのだろう、人生は。 私が危うく失いかけた全てもの、再び取りもどした全てのものが今日私の口許にわき上がってくる、この一日の終わりに。 また分かち合うことが出来ること、私の若さを、私の考えを、再び見出した愛と共に、何と美しいのだろう、人生は。 またあなたと話すことが出来る、またあなたとキスすることが出来る。そのことをあなたに言葉で伝え、それを歌うことが出来る、そう、人生は美しい、そう、人生は美しい。 Isabelle Aubretの略歴 Isabelle
Aubre、本名Thérèse Coquerelle、は1938年7月27日北フランスLille生まれの歌手。11人兄弟の5番目に生まれた。父は製糸工場の職工長、「快適にはほど遠い住環境。もちろん下水設備なんてない。トイレに行くには庭に出なければならなかった」(自伝)。14歳学業を放棄し父親と同じ工場の巻糸工として働き出す。「そのことで母は泣いていた。でも4歳で両親と一緒に映画『Blanche-Neige/白雪姫』を見てからライトを浴びる世界を夢見ていた私は、これは一つのステップだと考えていた。」工員として働いている間に「何事にも一人で対処することを学んだ。泣いたり、他人を頼りにしたりしていてはだめ」(自伝)。工場勤めの傍ら、音楽と演劇の学校に通った。地方ののど自慢大会に出場。Lille放送局のディレクターの目に止まり、ステージに立ったことも。58年から2年間Le
Havreのナイトクラブのバンドの歌手に。60年ParisのOlympia劇場が主宰したコンクールで優勝。Olympiaの支配人Bruno Coquatrixの紹介でPigalleのキャバレFifty-Fiftyに出演するなど本格的に歌手の道に。 ・1961年Philips社のディレクターJacques
Canettiのオーデュションに合格し、3月、同社からA面「Le
gars de n’importe où/美少年」、B面「Nous
les amoureux/二人は恋人」を収録した最初のEPレコードを出す。 ・1961年Parisの北郊外Enghien-les―Bainsのフェスティヴァルで「Rêve mon rêve/私と同じ夢を見て」(Pierre Cour/Alec Siniavine)を歌いGrand Prix。 ・1962年3月18日フランス代表としてLuxembourgで行われたEurovisionに出場「Un premier amour/初恋」(Rolland Valade/Claude-Henri Vic)を歌い優勝。 ・1962年Ferratと出会い「Deux
enfants au soleil/太陽の子供たち」を提供され、62年2月にはEPリリース。 ・1963年3月1日―9日Jacques Brelの前座としてOlympiaに出演。 ・1963年4月28日―29日の夜Arnay-le-Duc近郊での自動車事故により活動休止。 ・1963年12月Philips社から「C’est
beau la vie」を収録EPリリース。 ・1965年Adamoの前座でOlympia出演。 ・1968年再びフランス代表でEurovisionに出場、「La source/泉」(Guy Bonnet/Daniel Faure)を歌い3位。 ・1976年第5回東京音楽祭に出場、「Aimer/愛に生きるだけ」を歌い、最優秀歌唱賞を受賞。 その後も77年、92年来日していて日本にもファンが多い。 ・1981年末「Union des Artistes/芸術家組合」コンサートのリハーサル中にブランコから転落して両脚を骨折。2年間活動を休む。 ・1987年VedetteとしてOlympia出演。 ・1987年にはアルバム「Vague à l'homme/男性に対する漠然とした気持ち」でACC大賞受賞。 ・1990年Légion d’Honneurのchevalier勲章、受章。 ・1999年アルバム「Parisabelle/パリザベル」、パリを歌った19曲を収録 ・2000年「Ordre national du
Merite/国家功労章」Officier章、受章。 ・2001年アルバム「Le Paradis des
Musiciens/ミュージシャンたちのパラダイス」11曲収録。 ・2006年アルバム「2006」11曲収録。 ・2009年―10年(第4シーズン)及び10年―11年(第5シーズン)ユニット「Age tendre et têtes de bois」に参加し、 ・2009年代表曲80曲を収録したコンピレーションアルバム「Ses plus belles chansons/彼女の最も美しいシャンソン」 ・2011年3月3枚組CD「IsalelleAubretchanteJeanFerrat/イザベル・オーブレ、ジャン・フェラを歌う」Aubretが歌ったFerratの曲すべて71曲収録。 ・2011年5月11、12日デビュー50周年を記念するPalais des Sportsで60人編成のオーケストラバックのコンサート。 ・2011年5月Novrl Observateurの編集長Richard Cannavoとの共著で自伝を刊行。 ・2016年9月アルバム「Allons Enfants/さあ 子供たち」、「L’Olympia/オリンピア劇場」、「Allons Enfants」、「La belle endormie/眠れる美女」、「Des mots démodés/時代遅れの言葉」など新曲18曲収録。 ・2016年10月3日Paris Olympiaに出演、さよなら公演の開始。 ・2016年11月4日「Age tendre et têtes
de bois」の公演に参加、2017.2.17まで。 その後国内を回るさよならツアー。 「C’est beau la vie」について Isabelle Aubretは1962年Gérard Meys(1936-Jean Ferratの友人でプロデューサー、後にAubertのマネージャーに、Aubretと結婚?)の紹介でJean Ferratと出会う。Ferratに「Deux enfants au soleil/太陽の子供たち」(Claude Delécluse/Ferrat)を提供され、62年2月にはこの曲を含む4曲を収録したEPリリース。FerratのBruxelles、Ancienne Belgiqueにおけるコンサートなどの第一部で歌う。3月18日フランス代表としてLuxembourgで行われたEurovisionに出場「Un premier amour/初恋」(Rolland Valade/Claude-Henri Vic)を歌い優勝。翌63年には3月1日―9日Jacques Brelの前座としてOlympiaに出演、映画監督のJacques Demyは「Les Parapluies de Cherbourg/シェルブールの雨傘」の主役にAubretを予定するなど、歌手としてのキャリアは順調に推移し、全てがAubretni微笑みかけているように見えた。 ところが、63年4月28日から29日にかけての夜、不運が。Arnay-le-Duc(Bourgogne-Franche-Comté地方圏Côte-d‘Or県)近郊で自動車事故。同乗者の1人は死亡、Aubretはバックミラーで顔面を負傷、両脚など18カ所の骨折、Autunの病院に搬送され、2日間人事不省、14回の手術が必要であった。数ヶ月の安静と、数年に及ぶリハビリのため活動の休止を余儀なくされた。また、この事故は「Les Parapluies de Cherbourg」の撮影開始の2週間前だったため、急遽主役はAubretからCatherine Deneuveに変更された。「当時23歳、この事故は私の人生にとって本当に大きな災難であり、試練だった」。 事故により経済的にも、精神的にも苦境にあったAubretにJacques Brelは「La Fanette/ファネット」の生涯にわたる権利を提供した。Ferratは彼女のために「C'est beau la vie/人生は美しい」を作曲(作詞はClaude Delécluse
& Michelle Senlis)して提供。 Aubretは63年12月Philips社から A面「C’est beau la vie」、「La faim de vivre/生きるという渇望」、B面「Jezebel/ジェジェベル」、「Nuit et brouillard/夜と霧」を収録したEPをリリース。Aubretは1965年9月15日、17日にはリハビル中であったがAdamoの前座でOlympia出演。1966年2月17日にはTV「Palmarès des chansons/シャンソンヒットパレード」に出演「C’est beau
la vie」を歌った。 「C’est beau la vie」はAubretの最大のヒット曲で、多くのコンサートで歌われるばかりでなく、彼女の代名詞的存在で: ・・1970年にリリースされた「Deux enfants au soleil」、「C’est beau la vie」、「1789/1789年」、「Ma plus
belle histoire d’amour/我が麗しき恋物語」など15曲を収録したアルバムのタイトルは「C’est
beau la vie」。 ・・2011年5月Nouvell Observateur誌の編集長 Richard Cannavoとの共著で刊行した自伝のタイトルは「C’est beau la vie」。 ・・2011年5月18、19日3回にわたりパリPalais des Sportsで行ったデビュー50周年を記念する、60人編成のオーケストラをバックにしたコンサートのタイトルは「C’est beau la vie」。 |
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今月の顔 1月 janvier 2017
Adamoがヒット曲「Inch’Allah/インシャラー」を収録したSPをリリースしたのは1967年1月。 「Inch’Allah」1967年10月5日 http://www.ina.fr/video/I07073050/salvatore-adamo-inch-allah-video.html 「Inch’Allah」(1967年Adamo作詞/作曲) 歌詞の大意: ・・僕は宝石箱の中のオリエントを見た、旗になっている月を見た、そして4行詩でその光を歌おうと思った。 けれどエルサレムで、岩山の上のひなげしを見て、それに身をかがめたとき、レクイエムが聞こえてきた。 「地に平和を」と語るみすぼらしい礼拝堂、お前は見ないのか、鳥たちの羽根で隠れている「国境、危険」の火の文字が。 その道は泉へと通じている、水をくみに行きたいと思っているマリー・マドレーヌ、止まれ、彼らにとってお前の命は、水よりの軽い。 インシャラー、インシャラー、インシャラー、インシャラー。 オリーブの樹は影を願い、敵地に捕らわれ瓦礫の上に眠っている優しい妻を、愛しい人をこい求めている。 有刺鉄線の上で蝶がバラを見つめている、僕がそうやろうとしても、良識を失っている人々はそうさせないだろう。 地獄の神、天国の神、あなたは自分にとって良いと思われる所にいる、このイスラエルの地には震えている子供たちがいる。 インシャラー、インシャラー、インシャラー、インシャラー。 女たちは嵐で倒れ、その血は明日には洗い流されるだろう。その道は勇気で作られている、一人の女が一つの敷石の代わりになって。 けれどエルサレムで、岩山の上のひなげしを見て、それに身をかがめたとき、レクイエムが聞こえてきた。 600万人の魂のためのレクイエム、大理石の霊廟など持たないが、劣悪な砂地に600万本の樹を芽生えさせた600万人の魂のための。 インシャラー 、インシャラー、インシャラー、インシャラー・・ (原詩はAdamoの歌詞集「Aceux qui rêvent encore。Les plus belles chansons d’une vie/まだ夢を見ている人々のために。一つの人生の最も美しいシャンソン」(2003年刊)から Salvatore Adamoの略歴(1970年まで) Salvatore Adamo、50年以上のキャリア、500曲以上録音し、1億枚以上のレコード売り上げている。その1970年までの略歴は次の通り・・ ・1943年11月1日Sicileシシリー島、Comisoコミゾ生まれのACI、父Antoninoはmineur炭坑夫。 ・1947年家族でベルギーへ、当初はGhlinへ、次いでフランス国境に近い炭坑町Jemappesに。 ・1950年代自分の独特の声に気付き歌うことに興味、12歳から地元の各種の歌のコンクールで優勝。 ・1960年ラジオ局Radio-Luxembpurgの歌謡コンクールで自作の「Si j'osais/もし打ち明けたら」で優勝。 ・1962年10月「En bleu jeans et blouson
d'cuirブルー・ジーンと皮ジャンパー」 ・1962年11月「Sans toi ma mie/サン トワ マ ミ」 ・1963年5月14日イギリス歌手Cliff Richardクリフ・リチャード(1940-イギリスのロック歌手)の前座でOlympiaに初出演。 ・1963年11月1日20歳の誕生日にブリュセッルのAncienne
Belgiqueに出演。 ・1963年「Tombe la neige/雪が降る」 ・1964年「La nuit/夜のメロディー」、「Mauvais garcon /ろくでなし」、「Les filles du bord de mer/浜辺の娘たち」 ・1965年9月16日vedette真打ちとしてオランピア初登場(3週間)。 「Mes mains sur tes hanches/夢の中に君がいる」 ・1966年イスラエル公演。 ・1967年「Inch
'Allah」 ・1967年6月初の日本公演。都合38回来日。その主なものは: ・・1968年2回目の日本公演、各地にファンクラブ。 ・・79年と94年徹子の部屋に出演。 ・・1980年越路吹雪追悼式に出席。 ・・1984年5月心臓病で倒れ、パイパス手術。11月 初仕事を日本で。 ・・1995年デビュー30周年をJemappes、Olympia、カーネギーホール、日本で。 ・・2010年8月NHK第42回「思い出のメロディー」に出演。 ・・2010年10月ジャパンツアー10月16-24日(37回目、直近のもの)16、17日Bunkamura、 24日NHK大阪ホール。 また、2011年4月11日Théâtre du
Rond-Point(Paris 8区)で行われた日本支援コンサート(Tsunami et Demain)に出演。 ・1968年「Le ruisseau de mon enfance/思い出の小川」、 「Valse
d'ete/愛(過ぎし夏、夏)のワルツ」 ・1969年「A
demain sur la lune/明日月の上で」、「Les
Gratte-ciel/摩天楼」 ・1969年子供の頃からの知り合いNicole Durantと結婚。 69年長男Anthony、80年次男Benjamin。 ・1970年公開ベルギー映画「L'ile aux coquelicots/ひなげしの島」監督、脚本、主演(Emmanuel役)、主題歌を作詞作曲。 「Inch’Allah」について 「Inch’Allah」は、アラブの表現「In shaa Allah」のフランス語表示で、「Si dieu le veut/神がそれを望むなら」の意。この曲については次のような逸話が。 (1)1966年10月イスラエル公演の際、「エルサレムの街を歩きながら一つの詩が出来た」。67年1月A面「Inch’Allah」、B面「Sont-ce vos bijoux?/これはあなたの宝石?」、「Je vous offre/君にあげる」を収録したSPをリリース。この曲はリリースされると同時にフランスは大ヒット。1月28日の週から2月25日の週までチャートの1位。そして8ヶ月間トップ10以内を維持した。しかし、アラブ諸国、特にレバノンは、タイトルはアラブ・ミュズルマンであるのに、内容はProイスラエル的だと放送を禁止し、Adamoをボイコット。ボイコットは結局10年続いた。そして、イスラエルとエジプトの6日戦争(第3次中東戦争1967年6月5日~6月10日)が勃発したとき、この曲はイスラエル軍兵士の間で歌われた。「私はこの曲を、平和を祈って書いた。書いたとき誇りを持っていた。『このイスラエルの地』が一方を歌っていると非難された。しかし、私はここでは聖書に現れる地域全体を表現した。すなわちイスラエルとパレスティナをともに含む地域を。しかしイスラエル兵がこの曲を歌っていると知ったとき恐れを感じた。私は難しい問題に手を突っ込んでしまったのだと感じた」。 (2)Adamoは1993年8月のオスロ合意(ラビン首相とアラファト議長)、ホワイトハウス(クリントン大統領)での和解を受けて、同年歌詞を訂正した。 .「Inch’Allah」・・僕は宝石箱の中のオリエントを見た、旗になっている月を見た、そして4行詩でその光を歌おうと思った。 けれどエルサレムで、岩山の上のひなげしを見て、それに身をかがめたとき、レクイエムが聞こえてきた。 「地に平和を」と語るみすぼらしい礼拝堂、お前は見ないのか、鳥たちの羽根で隠れている「国境、危険」の火の文字が 。しかし、今、イスマエルの息子たちとイスラエルの子供たちは無垢な手で、平和の白い鳩を空に放っている。 インシャラー。 そしてオリーブの樹は再びその影を見つけ、敵地に捕らわれ瓦礫の上で眠っていた優しい妻を、愛しい人を再び見つけた。 有刺鉄線を越えて蝶がバラの方へ飛んでいく、昨日は止められたかも知れないが、今日は思いきってそうしている。 数百万人の魂のためのレクイエム、悲劇の両方の側で倒れた子供たちの、女たちの、男たちの魂のための、血はもう沢山だ。Salam(アラビア語で平和)、Shalom(ヘブライ語で平和)。 インシャラー、インシャラー・・(原詩は同前) (3)さらに、Adamoはステージでは原曲と訂正版を混合して歌うなど再三歌詞を変えている。例えば: ・・2010年のOlympiaに出演時には、1993年の訂正後の歌詞を更に修正して次のように歌っている。 MCで「これは平和の歌です。しかし最近は和平が後退したよう」と語り、「しかし、今、イスマエルの息子たちとイスラエルの子供たちは無垢な手で、平和の白い鳩を空に放っている」を「いつかそんな日が来るように。イスマエルの息子たちとイスラエルの子供たちは無垢な手で、平和の白い鳩を空に放つという日が」。また 「数百万の魂」を「全ての魂」に。 https://www.youtube.com/watch?v=CWPxF5NA29k ・・2016年4月Olympiaに出演時には、67年の歌詞を基本に少し変更を加え、また最後の部分は訂正後の歌詞。 https://www.youtube.com/watch?v=ObI2AEgmlm0 |
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今月の顔 2016年12月 アニー・コルディ Annie
Cordy
「La bonne du curé」1978年4月6日 TVAntenne 2の番組 Système 2出演時(司会はGuy Lux) https://www.youtube.com/watch?v=mQ-EBbjmkLk ・・私は願っていてもできない、流行を追いかけるなんて。司祭のお手伝いさんでは好きなように行動することは容易じゃない。司祭と聖水盤の中の蛙のように信心に凝り固まった人たちの中では、面白いことが好きな私にとって生活は辛いもの。 (ルフラン)でも気の良い悪魔が誘惑してくれたらと考えたらむずむずするし、ある考えが浮かんでくる。教会の裏で馬鹿なことをしようという。私はそれを我慢できない。神様は許してくれるでしょう。私は司祭様のお手伝いなんだから。 ミニスカートをはきたいし、裂け目の付いたブラウスを着たい。でもできない。そんなことは募金集めをするにはふさわしくない。土地の若者とちょっと話がしたいと思うときは、聖具室に隠れる。 (ルフラン)でも気の良い悪魔が誘惑してくれたらと考えたらむずむずするし、ある考えが浮かんでくる。教会の裏で馬鹿なことをしようという。私はそれを我慢できない。神様は許してくれるでしょう。私は司祭様のお手伝いなんだから。 休日になると私は理性を失ってしまう。踊りに行きたいし、オートバイで野原を駆け回りたい。格好良い若者がヒットしている曲のレコードを持って言い寄ってきたらどうしよう。賛美歌はClaude Francoue(注)ほど面白くない。 (ルフラン)気の良い悪魔が誘惑してくれたらと考えたらむずむずするし、ある考えが浮かんでくる。教会の裏で馬鹿なことをしようという。私はそれを我慢できない。神様は許してくれるでしょう。私は司祭様のお手伝いなんだから。ラ ラ ラ ラ・・・ (注)Claude Françoue :Claude
François(Egypte、Ismailia 1939 -Paris 1978 ACI)。「Comme d’habitude/いつものように」(「My Way」の原曲)などのヒット曲を持つ。 Annie Cordyの略歴 (1928.6.16― ベルギー、Bruxelles生まれ、歌手、俳優) A nnie
Cordyは70年のキャリア、2000曲以上を歌い、700曲以上を録音し、1000回以上のコンサートを行い、10本以上のミュージカルの出演、50本以上の映画、TVドラマに出演、2004年ベルギー国王AlbertⅡからbaronneの称号を授与されている。A本名Léonie Cooreman、8歳で音楽とダンスを習い始め、各地の歌謡コンクールに出場、44年16歳で優勝している。Bruxellesの「Bœuf sur le toit」に出演中、パリのキャバレ「Le Lido」のオーナーPierre-Louis Guerinの目に止まり、パリに来るように勧められ、 1950年5月1日パリに 1950年5月Le Lidoのレヴュー「Enchantement/魅惑」のmeneuse/リーダーに抜擢される 1952年Deauvilleのシャンソンコンクールで「Maurice Chevalier」賞を受賞 1952年 ABCで上演されたオペレッタ「Route Fleurie/花咲ける道」でGeorges Guétary、Bourvilと共演 1953年25cmLP『Annie Cordy』:「Les trois bandits de Napoli/ナポリの3人の山賊」、「Je n’peux pas/私にはできない」、「Moi j’aime les hommes/私は男性が好き」、「La petite sonnette/小さなベル」など8曲収録 1954年Eddie Constantineの前座としてOlympiaに出演 1955年アメリカの歌手Bessie Smith(1894-1937)の運命を歌った「Oh Bessie/オー ベッシー」でACC大賞受賞 1955年11月vedetteとしてOlympiaに出演。 1956年アメリカNYのPlazza出演、中南米巡業 1958年「Hello le soleil brille/ハロー、太陽は輝く」(25週間チャート1位):映画「Le pont de la rivière Kwai/戦場に架ける橋」の主題歌 1959年「Petite
fleur/可愛い花」 そして60年代のイェイェも「私には影響を与えなかった。完全に消えてしまった歌手が多かったのに」 1968年劇場劇に初出演、Théâtre
des Nouveuatés で上演されたRobert Thomas演出「Pic et Pioche/ピックとつるはし」 1970年公開René
Clément監督の「Le
Passager de la pluie/雨の訪問者」でMarlene
Jobert、Charles
Bronsonと共演 1971年公開Pierre Granier=Deferre監督の「Le chat/猫」でSimone
Signoret、Jean
Gabinと共演。 1972年9月Théâtre Mogadorで上演されたミュージカル「Hello Dolly」に主役で出演 1974年「La b Théâtre
Marignyで上演されたミュージカル「Nini la chance/幸福を呼ぶニニ」に主役で出演 1981年Chiracパリ市長からMédaille de la Ville de Parisを授与される 1990年代はTVドラマで活躍 1998年9月1日~13日70歳の誕生日とデビュー50周年を2週間の13年振りのOlympia出演で祝う 2004年10月11日ベルギー国王AlbertⅡから「Baronne」の称号を受ける 2008年「Age tendre et têtes de bois」に参加 2010年9月Théâtre
Daunouで上演の一人芝居の劇場劇「Laissez-moi sortir/私を外に出して」に出演 2012年10月22日アルバム『Ça me plaît・・Pourvu que ça vous plaise/私はそれが好き・・もしあなた方が、それが好きなら』をリリース 2014年ベルギーの勲章Commandeur
de l’Ordre de la Couronneを受章 2014年11月17日アルバム『Annie Cordy chante Noël』/アニー・コルディ、クリスマスを歌う』をリリース 2015年1月10日TV France 2で「C’est votre vie、Annie Cordy/それがあなたの人生、アニー・コルディ」を放送 2015年1月14日公開Jean-Paul
Rouve監督映画「Les souvenirs/思い出」に出演 2015年1月50曲収録のコンピレーションアルバム『Ma vie en musique,best of 50
titres』をリリース 「La
bonne du curé」について 「La
bonne du curé」はCharles
Level(Cherbourg 1934-2015.10.26 ACI、作詞・作曲家)の作詞、 Tony Roval &Tony Montoya作曲 、1974年12月「Viens prendre un verre/一杯やりにお出でよ」とのカップリングでCBSからSPレコードでリリースされた。 当時Cordieはすでに20年のキャリアを誇り数々のヒット曲を持っていた。「La bonne du
curé」は比較的安易なそして心を浮き立たせるようなメロディーとちょっと刺激的なきわどい歌詞、それにCordieの田舎の神父のお手伝いさんを彷彿とされる歌い方で、「思っても見なかったことだけど、raz-de-maree/津波のように浸透して、高校生などに大受けだった」。そして翌年75年の春には、74年11月にリリースされたDaveの「Vanina/ヴァニナ」及びMichel
Sardouの「Une filles aux yeux clairs/澄んだ瞳の少女」に伍して2週間チャートのトップになるなど大ヒット。フランスとベルギーで180万枚の売上げ。世界中では300万枚以上との資料もある(2015年10月28日付けのCharles Level 訃報記事など)。 Cordyはこの曲をステージやTV番組で歌うときにはよく小さなエプロンを付ける。また歌う際、しばしばアドリブで歌詞を変えているようで、上掲の映像及び下掲の映像では上記の「歌詞の大意」と異なる歌詞で歌っている。「歌詞の大意」のもとになった歌詞は、Cordyの公式サイトから。 1974年リリースSPのジャケット
「La bonne du curé」2015年1月10日TV France 2の「C’est votre vie、Annie Cordy/それがあなたの人生、アニー・コルディ」 出演時 |
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今月の顔 2016年11月 ミレイユ・マチューMireille Mathieu Mireille Mathieu 略歴 ・1965年11月21日「Télé
Dimanche」の「Le jeu de la chance」でTV初出演。 ・1965年12月にはDionne
Warwick、Sacha
Distelの前座でParis Olympiaに出演。 ・1966年9月 vedetteとしてOlympiaに出演。 ・1966年最初のレコードSP、A面 「Mon Crédo/私の信条」、 B面 「Ils s’embrassent/彼らは抱き合う」をリリース。 ・1966年3月アメリカへ、「Ed
Sullivan show」に出演。 ・1966年「Paris en colère/パリは怒っている:パリは燃えているか」がヒット。 ・1967年「La dernière
valse/最後のワルツ」がヒット。 ・1971年「Acropolis
Adieu/アクロポリス アデュー」がヒット。初来日し NHKTV「世界の音楽」に出演。 ・1971年「Une
histoire d'amour/ある愛の詩」がヒット。この曲はArthur Hiller 監督映画 1970年アメリカ、71年5月フランス公開映画「Love
Story/ある愛の詩」の主題歌でCatherine Desage作詞 Francis Lai作曲 アカデミー作曲賞受賞。 ・1974年11月26日 初の来日公演中野サンプラザ公演。その後1976年1月~2月 、1978年5~6月 来日公演。 ・1975年4月7、8日 NYのCarnegie Hall コンサート。 ・1976年「Ma mélodie
d'amour/私の愛のメロディー」がヒット。 ・1977年「Mille
Colombes/千匹の鳩」がヒット。 ・1978-85年マリアンヌ像のモデルに。 ・1980年「Une femme
amoureuse/恋する女」がヒット(原曲はBarbra
Streisandの「A Woman in love」)。 ・1986年デビュー25周年をPalais
des Congrès出演で祝う。1ヶ月11万人の観客を集める。 ・1999年12月9日Légion
d’Honneurの Chvalier勲章受章。 ・2000年3月11、12日にモスクワ、Kremlin でコンサート。 ・2004年パリ解放60周年記念日にParisのBertrand
Delanoë市長の要請により Bastille広場で5万人を前に「Paris en
colère」う歌う。 ・2005年5月9日Vladimir Poutine大統領の招きで、戦勝60周年記念で赤の広場で 世界の要人を前に歌う。 ・2005年11月18~27日Olympiaでデビュー40周年記念コンサート。その際 SACEMから「Disque de rubis」を贈られる。 ・2011年1月26日Légion d'Honneur のOfficier
勲賞受賞 ・2012年9月Piaf 没後50年記念アルバムリリース「Mireille Mathieu chante Edith Piaf」(1993年リリースのアルバムに3曲追加、16曲) ・2014年10月6日3枚組 best
of 「Une vie d’amour/愛の人生」 60曲収録 新曲「Ce n’est rien/それは何でもない」、自身の作詞作曲による2曲「Prends
le temps/時間をとれ」及び「C’est l’amour/それが愛」、他に日本の曲「Sakura/さくら」など。 ・2016年7月22日70歳の誕生日
Mathieuは1964年6月28日AvignonのLa Croix-des-Oiseuax 地区で行われた市主催の歌謡コンクール「On
chantre dans mon quartier」に出場.。「La vie en rose/バラ色の人生」を歌って優勝した。当時の副市長Raoul
ColombeがMathieuを応援し、様々歌う機会を与えた。1965年7月Avignonで行われたEnrico Maciasのコンサートには前座で出演している。副市長はまたTV番組の歌謡コンテスト番組「Le Jeu de la chance」にも応募させた。 「Le
Jeu de la chance」は、1959年1月18日から1972年7月2日までORTFの第1チャンネルで日曜日の午後、ディレクターRaymond Maecillac、司会Roger Lanzacで放送された「Télé-Dimanche」の中の1つのコーナー。コンテストには毎週5人の出場。優勝者は次週、新しい4人の出場者を迎えて、5人でその週の優勝を競う。Mathieuは1965年3月には番組のオーディションを受けていて、TV局から出演の連絡を待っていた。 1965年11月21日Mathieuは、それまで3週連続して優勝していた Georgette Lemaire(Paris 1943-歌手)に挑戦する4人の新しい出場者の一人として登場し、「Jezebel」を歌った。「Jezebal」の原曲はアメリカのヒット曲で作詞/作曲 Wayne Shanklin。1951年人気歌手Frankie Laineらが歌っている。これにフランス語の歌詞を付けたのはCharles
Aznavourで、Edith Piaf に提供。Piaf は1951年に録音。Aznavour自身も52年に録音している。この曲は他に:Jacqueline François、Dario Moreno、Les Chaussettes Noires、Michèle Torriらが歌っている。Jezebelは旧約聖書にあるイスラエル王Ahabの邪悪な妻で、悪女の代名詞。 この回のコンテストの結果、MathieuはLemaireと同点の1位であった。 「私は父がAvignonの 『Muguet de Paris』で買ってくれた短い衣装で歌った。素晴らしい思い出。当時はTV局の数も少なく、多くの人が番組を見てくれた」。 1965年11月21日「Le jeu de la chance」出演時。左からGeorgette Lemaire、Roger
Lanzac、Mireille Mathieu 翌週11月28日の放送には LemaireとMireilleは前週の優勝者としてそろって登場。Lemaireは1曲歌った後棄権、Mathieuが優勝。この日の放送をTVで見ていたJohnny Starkは会場のThéâtre 102 にタクシーを飛ばし、是非自分をマネージャーにするように直談判。Stark(1922-1989)はJohnny Hallyday、Sylvie Vartan、Yves Montandらの敏腕マネージャーとしてつとに知られていた。65年7月にMathieuがMaciasの前座として歌った際会場にいたStarkはすでにMathieuの力強い、澄んだ声に注目してMathieuの許に名刺を置いてきている。その後Starkは没するまでMathieuのマネージャーとして活動した。 Mathieuはその後、12月5、12、26日にも優勝し、このコンテストで5週間連続して優勝した。当時 Oympiaの支配人であったBruno Coquatrixは「Mathieuの出現によりイェイェは終わりを告げた」。 Mathieuはその後1966年4月24日及び6月26日にTélé-Dimancheに、番組から生まれたスタートしてゲストで出演して、4月には「Hymne à
l’amour/愛の讃歌」、6月には「La vie en rose/バラ色の人生」などを歌っている。 65年12月26日「Le Noël de la rue」 http://www.dailymotion.com/video/x3fl6ul |
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今月の顔 2016年10月 クリストフChristophe
は1965年7月最初のヒット「Aline/アリーヌ」を収録したEPをリリース、10月14日にはTVに出演して歌った。 「Aline」(1965年 Christophe 作詞/作曲) 1965年10月14日TVORTF「Palmarès des chansons」で http://www.ina.fr/video/I06256911/christophe-video.html 歌詞の大意: ・・僕は砂浜に描いた、僕に微笑みかける彼女の優しい顔を、すると浜辺に雨が降り、嵐の中彼女は消えてしまった。 僕は叫んだ、叫んだ、「アリーヌ!」、彼女が戻ってくれるようにと。僕は泣いた、泣いた、辛くて、辛くて。 僕は彼女の気持ちに寄り添って座っていた。しかしあの美しい人は僕の許を去っていった。それが信じられず僕は彼女を探した、望みなく。 僕は叫んだ、叫んだ、「アリーヌ!」、彼女が戻ってくれるようにと。僕は泣いた、泣いた、辛くて、辛くて。 僕は彼女の優しい面影だけを持ち続けた。濡れた砂の上の漂着物のように。 僕は叫んだ、叫んだ、「アリーヌ!」、彼女が戻ってくれるようにと。僕は泣いた、泣いた、辛くて、辛くて。 僕は叫んだ、叫んだ、「アリーヌ!」、彼女が戻ってくれるようにと。僕は泣いた、泣いた、辛くて、辛くて・・ Christophe略歴 Christophe、本名Daniel Bevilacqua、1945年10月13日パリ郊外Essonne県Juvisy-sur-Orge生まれACI。父親はセントラルヒーティング設備工場の工場主。50年代にアマチュアグループでヴォーカルとギターを担当、63年、兵役後本格的な歌手活動を開始。 ・1964年最初のEPレコードリリース。「Reviens Sophie/ソフィー、戻って」など4曲収録 ・1965年2枚目のEP。「Aline/アリーヌ」、「Je l’ai retrouvée/彼女を見つけた」など4曲収録。「Aline」のヒットでスターに、 その後「Les marionettes/マリオネット」(65年)、「Les paradis perdus/失われた楽園」(74年)、「Les mots
bleus/青い言葉」(Christopheの最大のヒット曲)、「Succès fous/大変な成功」(83年)などのヒット ・1979年「Aline」をSPでリヴァイヴァルリリース その後2000年代に入ってからも ・2001年6月5日アルバム「Comme si la
terre penchait/あたかも地球が傾くように」リリース ・2002年3月11日27年振りにOlympiaに出演。この公演は2003年VdM ツアー・コンサート賞受賞 ・2008年アルバム「Aimer ce que nous sommes/あるがままの我々を愛する」をリリース。アルバムはACC大賞受賞 ・2009年7月15日ヴェルサイユ宮殿ネプテューンの噴水に設けられた特設ステージでコンサート ・2010年SACEMのGrand Prix de la chanson française受賞 ・2010年11月Adamoのアルバム「De toi à moi/君から僕へ」では「Jours de lumières/光の日々」をデュオ歌う ・2013年3月アルバム「Paradis retrouvé/再び見つけた楽園」リリース、10月5日パリSalle Playeに出演 ・2014年3月アルバム「Intime/親密な」リリース。これはDavoutスタジオ(73,bd.Davout 20区)で13年12月、2日間にわたって制限された数の観客と友人たちの前でlive録音した14曲が収められている ・2014年12月31日Légion
d’Honneur勲章 Chevalier章受章 ・2016年4月13枚目のスタジオ録音アルバム「Les vestiges du chaos/カオスの痕跡」をリリース。4つ☆の評価を受け、リリースの週アルバムチャートではRenaudの「Renaud」に続き2位 Christopheはextra-terrestreの声で、ナーイーヴな、時にはシュールな曲を歌う、chanson françaiseアイドルの一人。毎日起床が午後6時という完全な夜型で、ミステリアスなダンディー。パリの日本茶喫茶「Jugetsudo/寿月堂」(110,rue de Seine 6区)の「le Genmaicha/玄米茶」がお気に入りの由。 「Aline」について Christipheはこの曲をJuvisy-sur-Orgeの父親の工場の道具箱に座り、ギターで、1時間で作った。当時ChristopheはParis13区Porte
d’Italie地区に住んでいた、ポーランド出身のAlineという金髪の少女と。2年間恋人同士であったがChristopheの兵役の間2人は疎遠になった。兵役から戻ったChristopheはAlineの親友であったDanieleと親しくなった。しかしAlineを忘れられなかったChristopheはAlineに捧げる曲を作った。それはDanieleの気分を害した。Christopheはこの曲をJacques Canettiに示した。そしてそのアドバイスによりbd.BlanquiのPhilips社のスタジオで録音した。録音の際、同社のアートディレクターで伴奏オーケストラの指揮者を努めたJacques Denjeanがアレンジを行った。DenjeanはCount BasieやQuincy Jonesなどとも演奏したことのあるジャズマンで、そのアレンジにより、音的には当初のアメリカンブルース調よりも、よりポップス調、ヴァリエテ調に仕上がった。 なお、他の資料によれば:この曲は1964年祖母の家で昼食を取っているときに生まれた、ギターで12時から15分間で作った。
また、AlineについてChristopheが2016年2月月刊誌に語ったところにいると:Aline
Natanovitchポーランド出身、昼はbd.Montparnasseの歯科医師の助手として、夜はOrpheon Clubのクロークとして働いていた。 「Aline」は1965年7月、「Je t’ai retrouvée」、「Je ne t’aime plus/もう君を愛していない」及び「La fille aux yeux bleus/青い目の少女」と共に収録され、AZ社からEPでリリースされた。レコードのジャケットにはDanieleをなだめるためにかその写真が用いられた。この曲はHervé Vilardの「Capri, c’est fini」(「今月の顔」2016年6月)と共にこの年の「tube d'été/夏のヴァカンス期のヒット」になった。9月には2週間チャートのトップになり、レコードは100万枚以上売り上げに。 (1965年7月リリース時のジャケット) (1979年リリース時のジャケット) リリース後この曲はイェイェ歌手Jacky Mouliere(1944-)により、自分がRigolo社から1963年に出された「La Romance」(Henri Salvador製作)の盗作であると訴えられた。1審ではMouliereの訴えが認められた。しかし1970年の第2審ではChristopheの主張が認められ、無罪となった。 また、ディスコ全盛期の1979年Christophe夫人Veronique(1990年代に活躍した歌手Alain Kanの異母妹、1971年に結婚)は「Aline」を歌い直しもせず、リミックスもせずオリジナルヴァージョンのまま再度リリースすることを提案。そして、ジャケットもほぼ同じでDisques Motors社から「Je ne t’aime plus」とのカップリングで9月にSPレコードでリリースされた。この提案はグッドアイディア、10月から11月にかけて5週間チャートのトップ。このヴァージョンも100万枚以上の売り上げで、「Aline」は都合350万枚以上の売り上げだと言われている。 Christopheは自分のレパートリーから好きな曲を1曲選べと言われれば、「Aline」だと語っている由。 |
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今月の顔 2016年9月 ヴィリアム・シェレールWilliam Sheller
「Un homme
heureux/幸せな男」(1991年 William Sheller作詞/作曲) http://www.ina.fr/video/I07249777/william-sheller-un-homme-heureux-video.html 歌詞の大意: ・・何故愛し合っている人たちはいつも皆同じなのだろう。彼らの眼差しには二人のための一つの願いが込められている。彼らは幸せな人たち。 何故愛し合っている人たちはいつも皆同じなのだろう。彼らに何か問題があっても、彼らに声を掛けることも、何かをして上げることもできない。彼らは幸せな人たち。 僕は君のことをほとんど知らない。でも二人で彼らと同じようになれるとしたら、それは幸運なことなのだろう。僕たちは妨げられることなく、僕たちで二人だけの居場所を作ることができるだろう。 しかし僕にそこの戻る価値がないなら、目の奥でそう言って欲しい。 どんなに時間が掛かっても、確率が低くても、僕は幸せな男になりたい。 何故愛し合っている人たちはいつも扱いにくいのだろう。彼らは自分たちの世界を持っていて、それは我々にモデルとして与えられる世界とは似ていない。 何故愛し合う人たちはいつも残酷なのだろう。彼らが自分たちについて話すときには、それは人間的な事柄だから、何か人を遠ざけるものがある。 僕は君のことをほとんど知らない。でも二人が彼らと同じようになれるとしたら、それは幸運なことなのだろう。僕たちは妨げられることなく、僕たちで二人だけの居場所を作ることができるだろう。 しかし僕にそこの戻る価値がないなら、目の奥でそう言って欲しい。 どんなに時間が掛かっても、確率が低くても、僕は幸せな男になりたい。幸せな男になりたい・・ William Sheller の略歴 ・1946年パリ17区生まれACI、作曲家、ピアニスト。本名William Hand。父はアメリカ人の軍人、ジャズのベーシストでもあり、パリにいたアメリカのジャズメンとPigalleのジャズクラブでジャムセッションを行っていた、母はフランス人。Williamは幼少期を1949年から5年間アメリカのOhio、Clevelandで過ごす。7歳でフランスに戻る。劇場関係者であった祖父母のつて幼少の頃からいくつかの出し物を見ることができた。ピアノとクラシック音楽を勉強中ビートルズの音楽に出会い方向転換。天賦の才を持つ作曲家で、ロック、クラシック、映画音楽、シャンソンから交響曲まで作曲、詩人で語り部、天才的なピアニスト、感動的な、魅惑的な声で歌う歌手に。 ・1968年「My year is a day」(Tom Arena作詞/Sheller作曲)をLes Irresistibles(Paris 在住のアメリカ人ロックグループ)と Dalida が取り上げヒットして知られるように。ShellerはCBSから「My
year is a day」のほか「Couleurs」(Gérard
Manset/Sheller)など数枚の45回転レコードを出したが成功せず。 その後は歌手よりもアレンジャー、作曲家として活動。 ・1972年Gérard Pires監督映画「Erotissimo」などのために作曲した映画音楽を収録したアルバムLP「Lux aeterna」をリリース。当時の売上げは2000枚、今や伝説的な逸品。 ・1973年LP「Lux aeterna」を気に入ったBarbaraはアルバム「La Louve/雌狼」収録曲のアレンジを依頼。また歌うように勧める。 ・1975年4月15日に出した歌手としての最初のアルバム「Rock’n‘Dollars」は50万枚の売上げという大ヒットに。これには自身の作詞/作曲による11曲を収録。 その後定期的にアルバムをリリース。 ・1982年4月26日~5月2日Paris Olympiaに初出演。 ・1982年「ベルギーの放送局でライヴをやったとき、楽器が税関で止められ会場に着かないことがあった。そこで仕方なくピアノの弾き語りをした。これが意外に好評であったことから以降はピアノの弾き語りによることが多くなった」。 ・1988年には来日、管弦楽団と共演。89年に出したアルバム「Ailleurs/他の場所で」に収録された「La Sumidagawa」などは滞在中に受けた日本の音楽が影響している。 ・1991年5月6日アルバム「Sheller en
solitaire/孤独なシェレール」をリリース。 ・1992年2月1日のVdMでアルバム「Sheller en solitaire」はアルバム賞、そこの収められた「Un homme
heureux/幸福な男」でシャンソン賞を受賞。 ・1994年Jean-François Amiguet監督映画「L’Ecrivain public/代書人」(93年公開)の音楽でVdM映画音楽アルバム賞受賞 2000年代に入ってからも: ・2000年1月18日アルバム「Les machines
absurdes/愚かな機械」をリリース。このタイトルは、このアルバム収録中にコンピュータの2000年問題あったことによる。 ・2000年11月11日Théâtre des
Champs-Elyséesで「Double jeu/表裏ある態度」のタイトルで4時間に及ぶコンサート、レパートリーのほとんど全曲を歌う。 ・2005年11月14日デビュー30周年記念コンサートをThéâtre
des Champs-Elyséesで。 ・2014年その活動全般に対してAcadémie FrançaiseのGrande Médaille de la chanson françaiseを授与される。 ・2015年には、1975年の「Rock’n‘Dollars」から2000年の「Les Machines absurdes」まで8枚のアルバム(都合89曲)を箱入りにした「L’essentiels des albums originaux」をリリース。 ・2015年10月23日リリースした最新アルバムは「Stylus/スタイラス」。 ・2016年2月12日VdM特別賞受賞 「Un homme
heureux」VdM特別賞受賞の際 https://www.youtube.com/watch?v=DJkcn5S2tpg 聞いている女性歌手は左からJeanne
Cherhal、Louane、Véronique Sanson。特別賞を授与したのはCherhal.。 「Un homme heureux」について この曲は1989年Normandieの高速道路で生まれた。ガールフレンドとDeauville海岸で昼食に牡蛎を食べた帰り、午後高速道を走りながらこの曲の出だしの部分が浮かんだ。出だしの部分に続くフレーズは、このドライヴの間出て来なかったし、1年思いつかなかった。ある時「Je veux êrtre un homme heureux」が浮かんだ。ShellerとミュージシャンはPerigueuxのホテルで新しいツアーのリハーサルをしていた。1週間にも及んだため皆退屈していた。ミュージシャンは何か新曲が欲しかった。新曲は完成していなかったが、ミュージシャンはShellerをホテルの一室に押し込んで新曲を作るように半ば強要した。そこでShellerは「Un homme heureux」を完成させた。その夜PerigueuxのPalais des Fêtesで行われたコンサートでこの曲を歌った。観客は「Bis !
bis !/アンコール!アンコール!」と叫んだ。翌日も好評裏に迎えられ、曲はこのツアーの主要なレパートリーになった。「Un homme heureux」を収録したアルバム「Sheller en
solitaire/孤独なシェレール」は1991年3月19日Parisの有名な録音スタジオDavout(73、bd.Davout、20区)で録音された。Shellerは、前代未聞のことであり、またレコード会社Philipsは反対したが、この録音に200人の観客を招き、liveの雰囲気で録音した。5月6日にリリースされたアルバム「Sheller en
solitaire」は80万枚以上の売上げ。Vincent Delermや Benjamin Biolayはこのアルバムから大いに影響を受けたと語っている。 92年2月1日のVdMでは「Sheller en solitaire」はアルバム賞を、「Un homme heureux」はシャンソン賞を受賞。 この曲にはRichard Cocciante(1946-歌手・作曲家)がイタリア語の歌詞(「Un Uomo felice」)を付け、1994年のShellerのOlympia公演のゲスト出演し歌った。また、Ray Charlesは「Happy Man」のタイトルで、英語で歌うことを予定していたが録音の前に亡くなってしまった。 Shellerは「Un homme heureux」を父親の伴奏で歌ったことがある。2000年11月11日のThéâtre des Champs-Elysées公演でのこと、ジャズベーシストであった父はステージに登場、息子の伴奏をつとめた。そしてその後の地方公演にも同道した。 現在でもこの曲はShellerのコンサートの際「歌わなければならない曲」。「私はこの曲をメドレーで歌うようなことはしない。観客が待っているように歌う。それが観客に対する義務で礼儀」。 |
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今月の顔 2016年8月 août 2016
フランスのSousan
Boyleと言われるLisa Angellは2011年8月6日TV5MondeJapanの「Les années bonheur/懐かしきよき時代」出演「J’ai besoin de parler/私には話すことが必要」を歌った。 「J’ai besoin de parler」(1984年Luc Plamondon作詞/Diane Juster作曲)
歌詞の大意: ・・あなたは仕事から帰ると自分でウイスキーをつぐ、人生の闘いを背中一杯に背負っているから。私を腕の中に抱くけれど「Comment ça va?/調子はどう?」とも聞かない。私には何も言わずいつもの場所に座り、仕事のことを考えている。それがあなたの唯一の世界。だから私は思う。もし私が家にいなくても、あなたは気づかないだろうと・・(ルフラン)私には話すことが必要なの、誰かに、ただただ私の話を聞いてくれる人に。私には話すことが必要なの、私の生活について。もしあなたが聞いてくれないなら、私は誰に話せばいいの。私には話すことが必要なの、あなたと話すことが、あなたとの暮らしの中で、私がどこのいるのかを。私はとうとう思うようになってしまったの、あなたは以前と同じように私を愛してくれているのかしらと・・ あなたは朝早く起き、新聞を広げる。私たちの間に起きたことにあなたは興味がない、それより、イランやアフガニスタンで起こっていることに熱心になる。あなたが昼間電話してくるのは、夕食は何か聞くときだけ。でもあなたは何と言うでしょう、夕方帰ってきて家に誰もいないことを発見したら、家に誰もいないことを・・(ルフラン)・・ https://www.youtube.com/watch?v=ZZpJbAtX4Ms ・Lisa Angellの略歴 Lisa Angell、本名Virginie Vetrano、1968年9月21日Paris生まれの歌手。芸名をAngellと、最後のLエルを2つにしているのは「deux Lドウーゼル/二つのL=deux ailes ドウーゼル/2枚の翼」でより高く飛ぶことが出来るようにと。父親はイタリー出身。幼少のことからNiceに住み、11歳からカーニヴァルの際行われたNiceののど自慢大会で4年連続して優勝。15歳でNiceのconservatoireでクラシックを学んだが、クラシックに飽きたらず退校し、Côte
d’Azurのpianobarで歌う道を選ぶ。特に友人が経営していたgaybarで歌い、徐々に人気に。 2009年フランスでは有名なマジシャンDani Lavyに誘われて、全国を回るLaviのショー「Le Château des secrets/秘密の城」のバックで歌う。そしてLaviがTVFrance 2の人気ヴァライティ番組「Le plus grand cabaret
du monde/世界最大のキャバレ」に出演の際、同道して歌う。その歌を気に入った番組の司会者Patrick
Sebastienが、Sebastien自身が司会を行っているもう一つの人気番組「Les années bonheur」への出演を勧め、2011年6月同番組に出演。TV5Monde Japonでの放送は8月6日。 その後SebastienはAngellのアルバムのプロデュースを申し出、2011年10月10日ファーストアルバム「Les divines/神々しい女性たち」がリリースされた。アルバム「Les
divines」には「J’ai besoin de parler」のほか作詞/作曲でSebasitienの協力を得た「Dinines」、「Maman le sait/ママにはそれが解っている」(gayの男性をテーマにした曲シングルカットされ、Angellの周囲のgayから感動を持って受け入れられた)、「Une dernière nuit/最後の一夜」、「Plus forte/より強く」、過去のヒット曲のカバー「Non,je ne regretted rien/水に流して」(Edith Piaf)、「Sauver l’amour/愛を救う」(Daniel Balavoine)、「Mourir d’aimer/愛のために死す:炎の恋」(Charles Aznavour)、など13曲を収録。 2013年4月にはセカンドアルバム「Des mots/言葉たち」をリリース。 2013年10月からはTVFrance3のNatasha St.Pierの司会による歌謡番組「Les chansons d’abord/何はさておきシャンソンを」のレギュラーとして出演。週1回放送されたこの番組は2014年6月まで続いた。 2014年4月にはアルバム「Frou, frou/フル、フル」をリリース。これアルバムではかつてのヒット曲14曲、「Vous
qui passez sans me voir/去る行く君」、「Frou, frou」、「J’ai deux amours/二つの愛」、「Trois petites notes
de musique/三つの小さな音符」などをカバーして収録いる。 同年にはまた、ポルトガル出身でフランスでも活躍している歌手Tony Carreira(1963-)のアルバム「Nos fiançailles、France/Portugal/僕たちの婚約、フランス/ポルトガル」に「L’oiseau et l’enfant/小鳥と子供」をデュオで歌って参加。その後のCarreiraのPalais des Sports公演などにゲストとして出演。 2015年には、5月にオーストリア、ウイーンで開催された第60回Eurovisionコンクールにフランス代表として出場。「N’oubliez pas/忘れないで」(Robert Goldman作詞/作曲)を歌った。決勝に出場した27ヵ国中25位という不本意な成績であった。 「本当に残念。私のために素晴らしい仕事をしてくれたスタッフに申し訳ない。私自分自身この成績にいらだっている、他に言いようがない」。 「N’oubliez pas」Lisa
Angell https://www.youtube.com/watch?v=sLQMRDNs-Fs 2015年5月には4枚目で最新のアルバム「Lisa Angell」をリリース。これには「N’oubliez pas」のほか、作詞、あるいは作曲でJacques Veneruso(「Promets-moi/私に誓って下さい」)、Serge Lama(「Si tu savais/もしあなたが知っていたら」)、Patrick Fiori(「Sans ta jalousie/あなたに嫉妬心がなければ)などの協力を得た13曲が収録されている。 Angellは2016年10月に新しいアルバムのリリースを予定しており、また2017年5月にはファンとともにMarselleから出発する1週間のクルーズを計画している。 ・「Les années bonheur」出演および「J’ai besoin de
parler」について Angellは8月6日TV5MONDEJaponで放送された「Les
annes bonheur/なつかしき良き時代に」に出演。この番組にはHervert Léonard(自身のヒット曲をメドレーで)、Frédéric
François(ゴッドファーザー「愛のテーマ」をイタリア語で)、M.Pokora(「A nos actes manqués/僕たちがしなかった行為に対して」)、Charles Dumont(「Je ne regrette rien」をピアノ弾き語りで)らが出演した。しかし、観客に最も大きな感動を与えたのは最後に登場したLisa Angellが歌った「J’ai
besoin de parler/私には話す必要がある」であった。司会のPatrick SebastienはAngellを「スター誕生番組の出身者ではない。毎日ピアノバーで歌っている歌手。私は彼女を初めて聞いたとき感激のあまり涙が出た。」と紹介、続けて「今日伴奏しているこのバックミュージシャンの中にもキャバレなどで朝の5時まで働いている人たちが大勢いる。彼女のような歌手やそれらのミュージシャンが今のシャンソンフランセーズを支えていることを忘れてはならない」。この番組でAngellは蝶々柄のTシャツで歌っている。それはこれを機会に変身を願ったからか。Angellはこの出演によって一躍注目を浴びるようになった。そして天使の声を持つフランスのSusan Boyleとも言われるように。 「J’ai
besoin de parler」は1984年カナダでGinette Réno(Québec 1945- ACI、俳優)が歌った曲、Luc Plamondon(Québec 1942-作詞家、プロデューサー)作詞、 Diane Juster(Québec 1946-ACI、作曲家、ピアニスト)作曲によるもの。Angell はこの曲を2011年6月27日シングルでリリースしていて、その週にチャート9位。最高位は8月19日の週の7位。この曲はAngellのほかにLara Fabianなどがカバーして歌っている。 ところで、この曲の中で、帰宅した男性がウイスキーを飲むと歌われている。意外なことではあるがフランスではウイスキーもよく飲まれている。ウイスキーの個人消費量ではフランスは世界一。2014年には人口1人当たり2.15リットル。2位のウルグアイは1.77リットル、3位はアメリカで1.41リットル、カナダは1.19リットルで10位、日本は0.78リットルで16位。
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今月の顔 2016年7月
「Nos doigts se sont crois
és」1964年Antibesのコンクールでhttps://www.youtube.com/watch?v=jg3srR76TXo 「Nos
doigts se sont croisés」(1964年 Jean-Jacques Debout作詞/作曲):歌詞の大意 ・・僕たちの指は絡み合った、初めて、君が僕と踊ったとき。僕たちの瞳は愛し合った、最後に、君が僕から遠くに離れて踊ったとき。僕には解る、僕の後に他の男が、君に語るだろう、彼らには解る愛があると。彼らは出会った君に語るだろう、勇気がなくて僕が君に語ることができなかった言葉を。そして君が彼らの言うことを信じる頃になると、彼らは君から去って行く。僕たちの指は絡み合った、初めて、君が僕と踊ったとき。僕たちの瞳は愛し合った、最後に、君が僕から遠くに離れて踊ったとき。僕から遠くに離れ、離れて・・ Jean-Jacques
Deboutの略歴 Deboutは1940年3月9日パリ12区生まれのACI。楽譜出版者Raoul Bretonの甥。幼少の頃から音楽に興味を持ち、寄宿学校ではコーラスに所属、15歳で友人たちとジャズバンドを結成。René Simon(1989-1971 俳優)の演劇教室にも通う。祖母が応募したMontmartreのPlace du Tertreで行われたシャンソンコンクールに出場、Charles
Trenetの曲を歌い、コンクールを訪れていたTrenetに激励されたという逸話もある。Raoul Breton社のメッセンジャーボーイを努めていた時期もあり、多くの作詞家作曲家の知己を得た。57年Théâtre des Capucinesで上演された「Cocktail sexy ou
folie furieuse/セクシーなカクテル、あるいは、狂気の沙汰」出演、Micheline Dax、Nicole Croisilleと共演、注目された。59年Maurice Vidalin作詞、Jacques Datin作曲のコンビにより提供された「Les boutons
dorés/金色のボタン」を歌い、これが最初のヒット。「Les
boutons dorés」を収録したEPにはCharles
Aznavourから提供された「Le muée de l’armée/軍事博物館」も収録されている。 兵役後、62年Marlene DietrichのOlympia出演の際には前座を務め、その後Dietrichに「Cette nuit là/その夕べ」を提供している。64年Antiebesの「Rose d’Or/金のバラ」コンクールで優勝。「Les cloches d’Ecosse/スコットランドの鐘」(65年)、「Redeviens
Virginie/ヴィルジニー、元に戻ってよ」(75年)、「Un pour tous, tous pour un/一人はみんなのために、みんなは一人のために」(83年)などヒットを持つ。70年にはRoland Petitのレヴユー「La Revue」の音楽を担当、Zizi Jeanmaireなどによって歌われた。60年代からは映画音楽(Jean
Luc Godard監督「Mascukin féminin/男性・女性」、Jean Claude Brialy監督の「Eglantine/野バラ」など)、TV番組のテーマ音楽の作曲を担当。70年代からは1966年に結婚したChantal
Goyaが主役をつとめる子供のためのミュージカルの作曲も行っている。それには:「La fôret magique/魔法の森」(79年)、「Le soulier qui vole/空飛ぶ靴」(81年)、「Le mysterieux voyage de Marie-Rose/マリ=ローズの不思議な旅」(84年)、「Le grenier aux trésors/屋根裏部屋の宝物」(97年)などがある。最近では「Les aventures fantastiques de Marie-Rose/マリ=ローズの素晴らしい冒険」(2015年10月からThéâtre de Parisで上演、その後2017年まで国内公演)がある。 Debout自身は1992年Bernardin de Sain-Pierreの原作に自ら作詞・脚本・作曲したミュージカル「Paul et Virginie/ポールとヴィル時ニー」でBernardin de
Saint-Pierreを演じ、Claire Keim、Emmanuel
Curtilらと共演している。2006年からはAge tendre et têtes de boisに参加。 Deboutは他の歌手に優れた曲を提供している。それらは:Yves Montand(「Madrid」68年)、Sylvie Vartan(「Tous mes copains/友だちは皆」、「Comme un garçon/男の子のように」)、Johnny Hallyday(「Pour moi la vie va
commencer/僕にとって人生はこれから始まる」)、Dick Rivers(「Elena/エレナ」)、Richard Anthony(「Petite anglaise/イギリスの少女」)、Michel Delpech(「Poupée cassée/壊れた人形」)など。 Deboutの最近の活動は次のよう: ・2013年2月、15年振りのアルバム「Bourlingueur
des étoiles/星々を巡る人」を出した。そこには自作の新曲の他Barbaraの詩にDeboutが曲を付けBarbaraも歌っている「C’est trop tard/遅すぎる」、ライヴでのTrenetとのデュオ「La mer/ラ メール」(1996年Palais
des Congrèsコンサートの際、特別出演したTrenetとデュオ)などが収められている。 ・2013年7月15日にリリースされたアルバム「Sous
le soleil des guinguettes:Les
20 plus belles chansons pour danser/ガンゲット(郊外の森などにあり自然にかこまれた、食べて踊れる酒場、ダンスホール)の太陽の下で:
踊るための美しいシャンソン20曲」にはワルツ、タンゴ、ジャヴァ、サンバを踊るのに適した過去のヒット曲のカバー、Deboutの新作、都合20曲が収められていて好評だった。収められているのは:「Sous
le soleil des guinguettes」(Debout作詞作曲の新曲)、「Ça s’est passé un dimanche/それはある日曜日に起きたこと」、「Ah le petit
vin blanc/ああ、白い葡萄酒」、「La
java bleue/青色のジャヴァ」、「Rue
de Lappe/ラップ通り」、「Le
marchand de bonheur/幸福を売る男」、「Quand
on s’promène au bord de l’eau/水の畔を歩いてみると」など。 ・2014年7月15日には22曲収録アルバム「Sur le chemin du bonheur/幸せへの道」をリリース。これには副題に示すように「De Maurice Chevalier à Charles Trenet, 22 chansons joyeuses et
populasires/モーリス・シュヴァリエからシャルル・トレネまで、楽しい、みんなのシャンソン22曲」がカバー収録されている。それらは:「Boum/ブン」、「Qu’est-ce qu’on attend pour être
heureux?/幸せになるのに何を待つ?」、「Y’a d’la joie/喜びあり」、「Douce France/優しきフランス」、「Prosper/プロスペール」、「Ah ! si vous connaissez ma poule/ああ、君が僕のあの娘を知っていたら」など。 「Les boutons dorés」2006年「Age tendre et têtes
de bois」 https://www.youtube.com/watch?v=pXEWrSjE0jM Antibesのコンクールについて 「La Rose d’or d’Antibes/アンティーブの金のバラ」は、Provence-Alpes-Côte d’Azur地方圏Alpes-Maritimes県のAntibes(Nice近く)で1962年から1979年(1968年を除く)まで毎年開催された優れた若手歌手発掘のためのシャンソンコンクール。1962年に企画されTino Rossiらの後援を得て64年からコンクールとして開催された。第1回には、Jean-Jacques
Debout、Patricia Carli、Jacqueline
Boyer、Frida Boccara、Jacqueline Dannoなど30人ほど出場。Grand Prixの「La Rose d’or d’Antibes」を獲得したのはDebout。その後このコンサートには登竜門として多くの若手歌手が出場している。その中には:Alice
Dona(65年、66年)、Francis Lemarque(65年)、Jean-Claud
Pascal(65年)、Michel Polnareff(66年)、Michel
Sardou(66年)、Théo Sarapo(66年)、Michel
Delpech(66年)、Serge Lama(69年)、Nicole
Croiselle(69年)、Nicoletta(70年)、Gérard Lenorman(71年「)、Alain Barrière(71年)、Pascal Danel(72年)、Michel Jonasz(72年)、Alain Souchon(73年)などがいる。特にPolnareffは66年「Love me please love me」で審査員賞を受賞、Lamaは69年「Une île/孤独な島」でGrand Prix、Croisilleは69年「Quand nous n’aurons que la tendresse/私たちが優しさだけを持っていれば」で入賞、Lenormanは71年「Il/彼」及び「Rien n’est plus beau/より美しいものは何もない」でGrand Prix、Danelは72年「Ton âme/君の魂」で入賞。 「Nos doigts se sont croisés」について Jean-Jacques Deboutの作詞・作曲によるこの曲はChantal
Goyaに捧げられている。Goyaは1942年 ヴトナムの旧サイゴン市生まれの女性歌手、俳優。父はフランス人、母はカンボジァ人。46年家族はフランスに。60年代ソルボンヌ大学在学中にファッションモデルに。63年公開Stanley Donen監督アメリカ映画「Charade/シャレード」には端役で出演している。DeboutとGoyaは1964年Eddie
Barclayが主催した夜会で知り合った。Goyaは男性客全員がタキシードを着用している中ただ一人マリンセーターでピアノを巧みに弾いていたDeboutに注目。DeboutはGoyaを一目見て魅惑された。DeboutはGoyaに「C'est
bien Bernard /ベルナールは人気者」、「Une écharpe, une rose/スカーフとバラ」(邦題「乙女の涙」で日本でもヒットした)を提供、それによりGoyaはアイドル歌手としてデビュー。その後「A la sortie de ma classe/邦題「恋する放課後」」、「Si tu
gagnes au Flipper /邦題「恋のピンボール」などもヒットし、France GallやSylvie Vartanと並ぶ人気に。Goyaはまた66年3月22日公開Jean-Luc Godard監督の映画「Masculin, féminin/男性・女性」の主人公Madeleine Zimmer役で出演、映画の音楽担当はDeboutで、Goyaは劇中「 D'abord dis-moi ton nom/名前を教えて」などを歌っている。DeboutとGoyaは66年2月25日結婚。 「Une écharpe, une rose」Chanral Goya https://www.youtube.com/watch?v=VTFUrnLhOpY |
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今月の顔 2016年6月
「Capri, c’est fini」 1966年5月12日 http://www.ina.fr/video/I07054622/herve-vilard-video.html 「Capri, c’est fini」 2013年Age tendre et tête de boisで https://www.youtube.com/watch?v=eOb448KOYKc 「Capri, c’est fini」(1966年 Hervé Vilard作詞/作曲)歌詞の大意: ・・僕たちはもう2度と行くことはないだろう、君が僕に「Je t’aime」と言った地に。僕たちはもう2度と行くことはないだろう、君は決心したところ。僕たちはもう2度と行くことはないだろう。今夜でもうおしまい。僕たちはもう2度と行くことはないだろう。去年までのように。 (ルフラン)・・カプリはもう終わった。僕の初恋が生まれた町だったけれど。カプリはもう終わった。僕がいつか再びそこに行くことはないだろう・・。 僕たちはもう2度と行くことはないだろう、君が僕に「Je t’aime」と言った地に。僕たちはもう2度と行くことはないだろう、去年までのように。僕は君に言いたくなる、「もう一度始めよう」と。でも僕にはその勇気がない。君が「Non」と言うことが分かっているから。 (ルフラン)・・カプリはもう終わった。僕の初恋が生まれた町だったけれど。カプリはもう終わった。僕がいつか再びそこに行くことはないだろう・・。 僕たちはもう2度と行くことはないだろう。でも僕は思い出す、君が僕を誘ってくれた最初のデートを。僕たちはもう2度と行くことはないだろう、去年までのように。僕たちはもう2度と行くことはないだろう。 決して、決して。 (ルフラン)・・カプリはもう終わった。僕の初恋が生まれた町だったけれど。カプリはもう終わった。僕がいつか再びそこに行くことはないだろう・・(ルフラン)・・カプリはもう終わった。僕の初恋が生まれた町だったけれど。カプリはもう終わった。僕がいつか再びそこに行くことはないだろう。・・ Hervé Vilardの略歴 Hervé Vilardは1946年パリ生まれのシンガーソングライター。 7月24日母親がSaint-Antoine病院に向かうタクシーの中で生まれたと言われている。父親は不明。母親は、アルコール依存症だという隣人たちの訴えによりHervéの親権を奪われ、Hervéは6歳で孤児院に。その後数人の里親の許で育ち、57年11歳で、学校教育を受けさせてくれたAbbé Denise Angrandの許へ。62年15歳でパリに出て、Daniel Cordier(美術品商Jean Moulinの秘書で、かつてのRésistanceの闘士)の庇護を受け、後に養子に。シャンゼリゼのレコード店の店員をしながら、Christiane Neretの歌謡教室に1年間通い歌手になるチャンスをうかがう。 ・1963年Neretの推薦もあり、Mercuryレコードと5年契約 ・1965年Marcury社から最初のレコード『Une voix qui t’appelle』:「Une voix qui t’appelle/君を呼ぶ声」(イタリアのヒット「Da
molto lantano」にフランス語の詩)、「Je veux chanter ce soir/今宵歌いたい」(オリジナルはこの1曲)など4曲収録 ・1965年6月 A面に「Capri, c’est fini」、B面に「Un monde fait pour nous/僕たちのために作られた世界」(Jimmy Fontanaの「Il Mondo」にフランス語の詩)を収録したレコードをリリース その後65年「Fais-la
rire/愛してあげて」、66年「Mourir
ou vivre/恋に命を賭けて」、66年「Pedro/ペドロ」、67年「Jolie ou pas jolie/きれいであろうがなかろうが」、69年「Sayonara/さよなら」(独、伊、西語でも歌っている。日本でもリリースA面「Sayonara」B面「Sayonara Paul Mauriat/オーケストラの演奏」)、70年「Les anges du
matin/朝の天使たち」などそこそこのヒットはあったが大ヒットには恵まれず 1970年代は中南米を活動の場とした。(1967年から69年まで2年間の、Martinique、アメリカ、南米ツアーが大成功。また Mexicoで10年間毎年1ヶ月公演する契約を締結したこともあり) ・1978年新曲「Nous/僕たち」を出しフランスに戻り、以降はフランスに止まる ・1979年12月31日~80年1月6日vedetteとしてオランピアに初出演 ・1980年の「Reviens/帰っておいで」、「Pas pleurer/泣かないで」 ・1983年「Méditerranéenne/地中海の女性」 ・1984年「T'es pas Dietrich/あなたはディートリッヒではない」 ・1984年アルバム『Les chansons que j’aime/僕が好きなシャンソン』:「Je n’aurai
pas le temps/僕には時間がない」(Michel Fugainのヒット)、「Chez Laurette/ロレットの店で」(Michel Delpechのヒット)など収録 ・2004年アルバム『Cri du cœur/心の叫び』(詩人の詩を歌う):「Cri du cœur」
(Jacques .Prevert/Henri Crolla)、「India Song」(Marguerite Duras/D.Carlos)、「L'écharpe/スカーフ」(Maurice Fanon/M.Fanon)、「Condamne à mort/死刑囚](Jean Genet/Hélène Martin)など ・2006年1月11日自伝的小説「L’Ame seule/孤独な魂」 ・2010年ユニット「Age tendre et tête de bois」に特別ゲストとして参加。その後11年、12年(途中でMichel Delpechの代役として)、13年にも参加 ・2010年12月13日195曲を収めた9枚組みCDの全集「Le dernier romantique/最後のロマンティスト」、 ・2016年3月11日France Dimanche 紙とのインタビューで「2016年に予定されているコンサートン終了後、70歳になる2017年にはさよならコンサートを行い引退、今までとは異なる人生を送るつもりだ」 Vilardは現在までレコード、CDを4500万枚以上売り上げている。 「Capri, c’est fini」について 1965年の春、Vilardは鬱々としていた。年初にリリースした最初のレコード、4曲収録されていたが、うち3曲は、当時の流行とはいえ、外国のヒット曲にフランス語を付けたもので、オリジナル曲は1曲だけと言うのにも不満だった。それにレコードは、少なくとも彼が世に知られるのには役立ったとはいえ、ヒットにはほど遠いものだった。そしていつも Charles Aznavourの「C’est fini/セ フィニ:もう終わった」を口ずさんでいた。Aznavourのこのヒット曲では恋人に別れを告げられ、「C’est fini、fini、fini、fini・・/もう終わった、終わった、終わった、終わった・・」と歌っている。ある日、例によって「C’est fini, fini・・」と口ずさみながらメトロに乗ったVilardにCapri島でのヴァカンスを勧める旅行案内のポスターが目に止まった。そして突然「Capri、c’est fini」がひらめいた。当時住んでいたParis 8区、Jean-Mermoz通りのアパートに戻り、中古のキーボードを用いて10分間で曲が仕上がった。出来上がった曲に満足したVilardは早速レコード会社に持って行った。会社はこの曲をVilardほどには高く評価しなかった。しかし、本人の希望をむげに断ることもできず、次のレコードに収録することに同意した。Vilardはこの曲でAntibesのシャンソンコンクール出場を目指したが、審査員は予選を通さなかった。 1965年6月A面に、「Capri, c’est fini」、B面に「Un monde fait pour nous」)を収録したレコードがリリースされた。 Vilardは「Capri, c’est fini」をフランス語以外にドイツ語(タイトルは「Capri,
c’est fini」)、イタリア語(「Capri, mon Capri」)、スペイン語(「Capri, se termino」)でも録音、リリースしている。また。日本でも「Capri,
c’est fini」は「カプリの恋の物語」の邦題で「Une
voix qui t’appelle/君を呼ぶ声」とのカップリングでリリースされた。 レコードは世界中で330万枚の売上げという大ヒットになった。 Vilardは66年5月12日ORTFTV番組「Palmères des chansons/シャンソンヒットパレード」に出演、Raymond Lefèvreのグランドオーケストラをバックにこの曲を歌った。 女流作家Marguerite
Duras(1914-1996)がVilardのファンであったこと、そして「Capri, c’est fini」を高く評価していたことはよく知られている。Vilardの2005年自伝「L’Ame seule」によれば:
アルバムがリリースされる都度、彼女(Marguerite Duras)は私に手紙をくれた。その中で、この曲とこの曲が好きだと書いてきた。そしてRhodesから送られた手紙には「あなたのことをいつも思っています。ずっと今のままのあなたでいて下さい」と書いてあった・・。 Durasの最後の恋人(1980年からDuransの死去まで)であったYann Andréa(1952-2014 作家)の自伝的小説「Cet amour-là/この愛」(1999年刊)には次のような記述がある: 僕たちはHervé Vilardのレコードを買った。「Capri, c’est fini」だった。彼女は言う「これは世界で一番美しいシャンソン」。それから僕たちは歌った、何時間も。突然歌を止めて彼女は言った「Yann、Honfleurを散歩しましょう。そしてLe Havreの灯りを見ましょう」・・ 小説「Cet amour-là」を原作にした2001年Josée Dayan監督の映画「Cet amour-là/(邦題)デュラス 愛の最終章」ではJeanne
Moreau演じるDurasが、Yann役のAymeric Demarignyとこの曲を聞いているシーンがある。 「Capri, c’est
fini」は多くの歌手がカバーしている。Serge Lamaは1995年のアルバム「Serge Lama chante les autres/セルジュ・ラマ、他の歌手を歌う」に収録している。Udo Jurgensはイタリア語でカバー。また「Kiss tomorrow
goodbye」のタイトルで英語の歌詞が付けられLainie Kazan(1940-)らが歌っている(同タイトルの別の曲もある)。 |
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今月の顔 2016年5月 Nicole CroisilleとPierre Barouhが主題歌「Un homme et une femme/男と女」を歌ったClaude Lelouch監督の同名の映画がフランスで公開されたのは50年前、1966年5月27日。 「Un homme et une femme」1966年10月20日ORTFの番組「Palmarès des chansons/シャンソンヒットパレード」で https://www.youtube.com/watch?v=IWNrfDS2Lns 「Un homme et
une femme」 ・・私たちの声が(ダバダバダ)、囁くように歌うとき(ダバダバダ)、二人の心には見える、一つの幸運が、一つの希望が。私たちの声が(ダバダバダ)歌うとき、二人の心は信じる、全てが再び始まり、人生が再出発するのだと。どれほどの喜びが、どれほどのドラマがあっただろうか。そしてこれは一人の男と一人の女が偶然に紡いだ長い物語。私たちの声が(ダバダバダ)歌うとき、二人の心には再び見える、一つの幸運が、一つの希望が。二人が声を合わせて(ダバダバダ)歌うとき、心は喜びに溢れ、二人は目の前に現れた恋の道を選らんだ。目の前に現れた幸運を選んだ。二人のとっての幸運を・・ 3人の略歴 (映画「Un homme et une femme」公開時頃まで)
幼少の頃クラシックのバレリーナになりたかったCroisille、アーティストになることに反対していた両親を安心させるためにタイピスト学校に入る。同時にComédie Françaiseでバレーを習う。1950年代Marcel
Marceauについてパントマイムマイムを学び、Marceau一座のヨーロッパ、南アメリカ公演に参加。帰国後Joséphine Baker主演のレヴューにレビューガールの一人として出演。57年Théâtre
de la Porte-Saint-Martinで上演されたJean Marais演出のミュージカル「L’apprenti fakir/大道芸人見習い」(詩はCharles Aznavour、曲はJeff Davis)に端役で出演。同時にSaint-Germain –des-
Présのキャバレのアマテュア歌手として活躍、力強い声で評判に。60年Marceau一座のアメリカ公演でChicagoのジャズに魅了され、英語も得意であったCroisilleは時々ステージに立ち、黒人ミュージシャンと共演。61年5月Fontana社から最初のレコードをリリース。これには「Dieu Mercie, il
m’aime aussi/神様ありがとう、彼はまだ私を愛している」(Ray Charlesの「Hallelujah,I love her so」の翻案)ほか1曲が収録されていた。61年10月12日―29日Jacques Brelの前座で1ヶ月Olympiaに出演。(これはBrelにとってはvedetteとしてのOlympia初出演で、Dietrichの直前のキャンセルによる代役)。その後は、当時はイェイェ全盛で歌手としての立ち位置に苦労。64年渡米し、1年間NYのFolies-Bergèreのレヴューのリーダーに。帰国後Claude Leloucheの知己を得て、66年5月27日公開Lelouch監督映画「Un homme et une femme/男と女」の主題歌「Un homme et
une femme」をBarouhと歌う。
Paris郊外Lavallois-Perretで育つ。ユダヤ系のためドイツ占領下では南フランスのVendeé県に疎開、この当時の経験が後に「La bicyclette/自転車」(1969年Barouh作詞/Lai作曲/Yves Montand歌)などになったと言われている。戦後Parisに戻り、自宅アパートの階下にあった映画館「L’Eden」でMarcel Carme監督映画「Les visiteurs du soir/悪魔が夜来る」を見てJacques Prévertのシナリオに感動、「自分を取り巻く世界の証言者になり、感動を映像と音で伝えたい」と考えるようになり、詩を書く。スポーツジャーナリストとしてポルトガルに滞在した際聞いたブラジル音楽に傾倒、59年ブラジルに渡る。帰国後、1961年公開Georges Lautener監督映画「Arretez les tambours/太鼓を止めろ」に端役のレジスタンスの詩人役で出演。劇中 作詞/作曲した「Les filles du dimanche/日曜の娘たち」を歌う。映画ではその後特に63年Noël Howard監督「D’où viens-tu Johnny ?/ジョニー、君はどこから」でJohnny Hallyday、Sylvie Vartanらと共演、65年Claude Lelouch監督「Une filles et des fusils/女と拳銃」には準主役で出演。歌手としては62年9月ベルギーのPalette レコード社から「Le tour du monde/世界一周」、「Le petit ciné/小さな映画館」を収録した最初のレコードをリリース。その後フランスのAZ社からLucien Morisse(ラジオ局Europe1のディレクター)のプロデュースで数枚のレコードを。 63年Bibinoに2番手の歌手として出演(その際ディレクターの指示に従わず、自由奔放のステージだったことからその後20年ステージから干されたという話もある)。65年独立系音楽プロダクションSaravahを設立。「巷間、『Un homme et une femme』のヒットによる収入で設立したと言われている。しかし、真実はその逆でこれが失敗に終わると考えたから、挽回するために設立した」。65年5月映画「Un homme et une femme」公開。
フランス語での正しい発音はフランシス・レ。若くして音楽に興味を持ち、ニースのオーケストラの一員として活躍の後マルセイユに。そこでジャズに触れ、50年代にキャバレの歌手として活躍した女性歌手Claude Goaty(「Mon 14 juillet/私のパリ祭」などを歌う)と知り合う。Goatyの招きに応じてParisに上り、Montmatreの質素なstudio/ワンルームマンションに住む。Place du Tertreの近くにあったレストラン「Pichet」で知り合った詩人のBernard Dimey(1931-81)と組んでシャンソンを作曲。Dimeyの詩にLaiが曲を付けGoatyが歌った「Le guilledou/女漁り」がLai作曲の最初の曲。このコンビの作品では「La Tavern d’Attilo/アッティロ食堂」、「Mais si je n’ai
rien/もし僕が何も持っていなければ」、「Et tournent les années/そして年は過ぎて行く」、「Nos chères maisons/僕たちの懐かしい家」などが知られている。また、1962年にJuliette GrécoとPierre Brasseurが朗読しているDimeyの詩「Le bestiaire de Paris/パリの動物誌」では詩に合わせてLaiが作曲したバックミュージックを Lai自身がアコーデオンで演奏している。Lai はその後一時Henri Salvasdorのバックなどを務めたMichel Magneのオーケストラで活動した。その後Edith Piafの伴奏者になり、Piafのために作曲している。Laiの作曲によるものとして:「Emporte-moi/私を連れて行って」(1962年 J..Pante作詞)、「L’homme de Berlin/ベルリンの男」(1963年M.Vendome作詞)、「C’était
pas moi/それは私ではなかった」(63年 R.Gall作詞)、「Les mains/両手」(63年 Piaf作詞)などがある。Piafの1962年オランダNimegueのコンサートでは歌った曲の過半はLaiの作曲によるものだった。1983年LaiはClaude Lelouch監督「Edith et Marcel」で音楽を担当している。その後共通の友人を通じてPierre Barouhと知り合い、BarouhにClaude Lelouchを紹介された。映画音楽の作曲者としての第一作が「Un homme
et une femme」。
シャンソン「Un homme
et une femme/男と女」について シャンソン「Un homme et une femme」は1966年5月27日フランス公開Claude Lelouche監督、Anouk Aimée、Jean-LouisTrintignant、Pierre
Barouh主演映画「Un homme et une femme/一人の男と一人の女:(邦題)男と女」の主題歌で映画の中で頻繁に流れている。映画の日本公開は1966年10月15日。 映画は:スタントマンの夫Pierre Gauthier(Pierre Barouh)を事故で亡くしたスクリプト・ガールのAnne(Anouk Aimée)と、妻を自殺で亡くした自動車レーサーJean-Louis Duroc(Jean-Louis Trintignant)の物語。Anneは娘FrançoiseをDeauvilleにある寄宿学校に預け、パリで一人暮らしをしている。Durocも同じ寄宿学校に息子Antoineを預けている。二人の出会いは、ある日曜日、娘に会いに行き、パリ帰りの列車を逃してしまったAnneを息子に会うために来ていたDurocが車で送ることになったことから。 Leloucheは1965年9月のある朝Deauvilleの海岸にいた。天気は悪かった。Lelouche監督の公開されたばかりの映画「Les grands moments/偉大な時」の評価が芳しくなかった。夜Parisを逃れて、車を走らせて来ていた。Leloucheは車のバックシートで目を覚ました。遠くに娘とおぼしき少女と散策している女性が目に止まった。美しい光景だった。Leloucheは早速この女性の人生を想像した。そして一つの物語を描いた。夫を失った寡婦と妻を失った寡夫とが情熱的に愛するようになると言う物語を。「この瞬間に救われたと思った。『Les grands moments』の不評から立ち直れると思った」。近くのカフェに飛び込み、Leloucheはシナリオの原形を書いた。 映画における音楽の重要性を認識していたLelouchは友人のBarouhに、このようなシナリオに合う楽曲を作ってくれるように依頼した。そこでBarouhは早速Laiに作曲を頼んだ。ニース出身のアコーデオニストで映画音楽の作曲を手がけたことがなかったLaiに。その後Laiが映画音楽の作曲家として華々しい成果を上げていることを考えるとBarouhには「avoir le nez creux/先見の明」があったわけ。Laiは10曲余りを作曲、それらを聞いてもらうためBarouhと共にLelocheを自宅に招いた。Laiのピアノで数曲聞いたがLeloucheの気に入ったものはなく、失望してLai宅を辞去しようとした。その時Laiがもう1曲あるといって弾き出した。まだ完成していなかったjazzとbossa-novaと融合させたようなメロディーを。それに合わせてBarouhが「ダ バ ダ バ ダ・・」と口ずさんだ。聞いた途端にそのメロディーの独創性が気に入ったLeloucheは翌日デモテープを録音しようと提案。翌日の録音の際、Laiにインスピレーションが湧いた。Barouhの声に女性の声を加えたらという。そしてジャジーな声の持ち主Croisilleに白羽の矢が立った。 映画ではこの曲の他に、Barouh/Laiのコンビによる次の曲が使われている:「Samba Saravah」(Barouのソロで)、「A l’ombre de nous/僕たちの影で」(Barouhのソロで)、「Plus faort
que nous/僕たちにはどうにもならない」(BarouhとCroisilleのデュオで)、「Aujourd’hui c’est toi/今日はあなたの番」(Croisilleのソロで)。またLai作曲の「A 200 à l’heure/時速200kmで」(Maurice Vanderオーケストラの演奏)も。 この映画は1966年カンヌ映画祭(5月5日~20日)でグランプリのPalme d’or、1967年Oscarで最優秀外国映画賞・最優秀シナリオ賞、Golden Globeで最優秀外国映画賞・優秀女優賞(Anouk Aimée)・最優秀映画音楽賞(Francis Lai)などを受賞している。 Barouh、Croisille、Laiの3人は2011年4月11日Paris8区のThéâtre du Rond-Pointで行われた東日本大震災の被災者を支援するためのチャリティーコンサート「Tsunami et Demain/津波と明日」に出演。BarouhとCroisilleはLaiのアコーデオン伴奏で「Un
homme et une femme」を歌った。 「Un homme et une femme」映画の最後の場面 https://www.youtube.com/watch?v=ph_ehpxZMWU 「Un homme et une femme」コンサート「Tsunami et Demain」で |
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今月の顔 2016年 4月
avril 2016 グレゴリー・ルマルシャル Grégory Lemarchalの「Ecris l’histoire/君の思いを文にして」は2005年4月2日の週から5週間にわたってシングルチャート2位を占めるヒットに。 「Ecris l’histoire」2006年Olympia https://www.youtube.com/watch?v=4u03tbay4qI 「Ecris l’histoire」 (2005年 原曲は「Io so che tu」 David Espositoなど作詞/David Espositoなど作曲、フランス語の詩はLandreas Katia) 歌詞の大意: ・・君は僕に会いたいのか、それとも僕を忘れたいのか、近づきたいのか、僕を信じたいのか、僕を招きたいのか。君はいつ終わりが来るか知りたくはない。 留まることを選んだのは君、僕を半信半疑のままにして。君は僕がどうすることを望んでいるのか、消えてしまうことなのか、それとも君の印象に残るようなことをすることなのか、君に全てを話すことなのか、それとも黙っていることなのか。・・(ルフラン) 君の思いを文にして、君が望む全てのことを。君の思いを文にして、僕の記憶の中に。でも結論は書かないで・・君は跪いている僕の方が好きなのか、去っていった僕の方が好きなのか、僕は何でもない風をしている方が良いのか。僕は話すことを止めるべきなのか、言葉は頭の中だけにしておくべきなのか。君が僕を引き留めてくれなければ、僕は身を隠し、住む星を変える。 君は僕をどうしようというのか。君がそれを言ってくれるのを待っている。愛があるのだろうか、ないのだろうか。君は僕をどうしようとしているのか。・・(ルフラン) 君の思いを文にして、君が望む全てのことを。君の思いを文にして、僕の記憶の中に。でも結論は書かないで・・ Grégory Lemarchalの略歴 Grégory Lemarchalは1983年5月13日Isère県Grenoble近くのLa
Tronche生まれの歌手。2007年4月30日Paris郊外Suresnesで病没。 1998年16歳でTVM6の「Graines de
Star/スターの卵」に出場、Daniel Balavoineの「Le chanteur/歌手」を歌った。本戦には進めなかったが、地元Glonobleでは人気になりHervé Vilard、Gilbert Montagnéの同地でのコンサートにでは前座で歌っている。 2004年にはTVTF1のスター誕生番組「Star Academy」(StaAca)の第4シーズンに出場。コンクールは18人が出場して9月3日から始まった。4ヶ月間続いたコンクールでLemarchalはソロで「SOS d’un terrien en détresse/遭難した一地球人のSOS」、「Je sais pas/僕は知らない」などを、ゲスト歌手とのデュオで「Donne-moi le temps/時間を下さい」(Jeniferと)、「Sous le vent/風に吹かれて」(Céline Dionと)、「En chantant/歌いながら」(Michel Sardouと)、「Casser la voix/声をつぶす」(Patrick Bruelと)などを歌い、12月22日の決勝に進出。決勝を争ったのは、その後ACI、俳優として活躍しているLucie Bernardoni(1987-)であった。決勝ではLemarchalはLucieとデュオで「Vivre pour le meilleur/最高なもののために生きる」などを、ゲストのPatricia
Kaasとはデュオで「Toute la musique que j’aime/僕が好きな全ての音楽」を、ゲストのMichel Sardouとはデュオで「La rivière de notre
enfance/僕たちの子供時代の小川」などを、ソロで「Et maitenant/そして今は」などを歌った。そして審査員及び視聴者の圧倒的な支持(80:20)を受け優勝。StaAcaで優勝した初めての男性歌手となった。(第1回Jenifer、第2回Nolwenn Leroy、第3回Elodie Frégé)。 「La rivière de notre enfance」SardouとStaAca決勝で https://www.youtube.com/watch?v=pAPe1W71XKs 2005年4月18日ファーストアルバム「Je deviens moi/僕は僕になる」をリリース。Yvan Cassarのプロデュースによるこのアルバムにはシングルで先行リリースされた「Ecris
l’histoire」、「Je deveins moi」(原曲は04年Rosenstolzの「Liebe ist alles」でフランス語の詩はKatia Landreas)、「Je suis en vie/僕は生きている」、「Je t’écris/君に手紙を書く」、「Pardonne-moi/僕を許して」、「Il n’y a qu’un pas/ほとんど差はない」など12曲収録。生前リリースされた唯一のアルバムで20万枚以上の売上げ。 2006年1月NRJ音楽賞ではフランス語圏新人賞 2006年5月9日から6月26日まで国内、ベルギー、スイスツアー その間06年5月29日から4日間Paris Olympiaに出演。その模様はCD及びDVD「Olympia 06」に 2007年1月5日TVTF1で放送された「StaAca」特別番組に出演、Patrick Bruelとデュオで「The Show Must Go On」を歌う。これが最後のTV出演。https://www.youtube.com/watch?v=ettxVs_pDHk 2007年2月次のアルバム製作のためステージ活動の休止を宣言 2007年3月、同年秋にリリース予定の2枚目のアルバムに収録する曲を録音。「De temps en
temps/時々」(Lemarchal作詞)を3月26日Paris郊外のRueil-Malmaisonの自宅で録音、これが最後の録音 2007年3月30日Hélène Ségaraのツアー初日に「Vivo per lei/君のために生きる」をデュオで歌う。最後のステージ 2007年4月30日、2歳の時に診断されたmucoviscidose/嚢胞性線維症のためSuresnesのFoch病院で急逝。享年23歳、遺体はSavoie地方、Chambéryの北方、Sonnaz墓地に埋葬 2007年6月18日2枚目のアルバム「La voix d’un ange/天使の声」(StaAca出演時から「天使の声」の持ち主と言われていた)リリース。アルバムには「De temps en temps」、「Le lien/絆」、「Restons amis/友だちでいよう」などの新曲及びLemarchalがStaAcaで歌ったカバー曲「Et maintenant」、「Là-bas/あちらで」、「Con te partiro/君と共に旅立つ」など12曲が収められている。 2009年11月16日追悼アルバム「Rêves/夢」リリース。これには未発表曲2曲(「Tu prends/君は取る」と「Je rêve/僕は夢みる」)、「Ecris l’histoire」、「De temps en temps」など過去のアルバムからの曲、及び「Quand on n’a que l’amour/愛しかないとき」(Jacques Brelのカバー)など全16曲が収められる。そして「Je rêve」のオフィシャルヴィデオクリップは、Lemarchalと同じ疾患を持ちながら移植手術により健康を回復し、それぞれの「夢」を実現した6人の男女が登場することで話題になった。 「Je rêve」クリップ https://www.youtube.com/watch?v=52HHh6Zy4dE 2012年6月19日没後5年オマージュコンサートは、両親がLemarchalと同じ疾患の患者を支援するために設立した「Association Gregory Lemarchal/グレゴリー・ルマルシャル協会」の主催で行われ、Amel Bent、M.Pokora、Jenifer、Julie Zenatti、Hélène Ségara、Patrick Fiori、Sofia Essaïdi、Quentin Mosimannらが出演 「Ecris l’histoire」について 2004年12月StaAcaで優勝した後、LemarchalはプロデューサーYvan Cassar(1966-ピアニスト、作曲家、アレンジャー、プロデューサー)の協力を得てファーストアルバムの製作に取りかかった。多くの曲がこの若い歌手の許に届いた。Lemarchalはそのうち12曲を選んだ。その中に愛を歌ったイタリアの曲「Io so
che tu/僕は君が・・だと知っている」があった。ナポリ出身のDavide Espositoらが作詞作曲し、Esposito自身が歌っている曲だった。早速フランス語への翻案をKatia
Landreasに依頼、「Io so che tu」が「Ecris
l’histoire」になった。Katia Landreas(生年不明)はJeniferの「Ma révolution/私の革命」(原曲「Black coffee and a Stranger」にフランス語の歌詞)などのフランス語の歌詞を書いている。Lemarchalのファーストアルバム「Je deviens moi」のリリースの3週間前、2005年3月29日、A面に「Ecris l’histoire」、B面に「SOS d’un terrien en détresse」を収録したシングルCDが先行してリリースされた。それと同時にXavier Gensの演出によるクリップが全てのTVチャンネルから流された。 「Ecris l’histoire」は4月2日の週から連続して5週間 シングルチャートの2位に。そして9月7日には30万枚以上の売上げとなり、SNEPによりdisque de platine/プラティナ・ディスクに認定された。「Ecris l’histoire」はベルギー、スイスでも好評で、ベルギーではシングルチャート2位になった。これほどの人気にもかかわらず「Ecris l’histoire」がチャートの1位になれなかったのは、「Un monde
parfait/完璧な世界」という強力なライヴァルがあったから。「Un monde parfait」は1993年生まれで当時12歳の少女歌手Ilona Mitreceyが2005年2月28日にリリースしたシングル。これが3月12日の週から6月18日の週まで連続15週間にわたりチャート1位を占めるというお化けヒットになった。 「Ecris l’histoire」を収めたLemarchalのファーストアルバム「Je deviens moi」は4月18日にリリースされた。こちらはリリースの週アルバムチャートの1位になった。そして20万枚以上の売上げを記録している。 「Ecris l’histoire」はTV番組やLes Enfoirésでは再三歌われている。また、2014年Les Prêtresはアルバム「Amen」でこの曲をカバーしている。 2011年のLes
Enfoireで https://www.youtube.com/watch?v=0XJOW2E3Jvg 照明技師として登場するのはPatrick
Bruel→Jean-Louis Aubert 歌うのは Maurane→Yannick Noah→Claire
Keim |
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今月の顔2016年 3月 Michèle Torr ミシェル・トール
「Emmène-moi danser ce soir」 1990年 https://www.youtube.com/watch?v=KqBCzbg3iUQ 「Emmène-moi danser ce soir」 2015年 https://www.youtube.com/watch?v=iMbq4S7j2qw 「Emmène-moi danser ce soir」(1978年François Valéry &Jean Albertini作詞/François Valéry作曲)歌詞の大意: ・・今日は私たちの6回目の結婚記念日。あなたのおかげで可愛い子供たちもできた。二人が出会ったあの小さなダンスパーティーから、私はずっとあなたを愛している。今夜私はエプロンを外したい、昔と同じようにあなたのために綺麗になりたい。今夜あなたは肘掛け椅子も、新聞も、タバコも、テレビも忘れて頂戴。(ルフラン)・・今夜は私をダンスに連れて行って。頬と頬をよせて、暗闇で抱き合って、最初の頃のように愛の言葉を囁いて、あの夜、17歳の私を射止めたように。今夜私をダンスに連れて行って。暗闇で、恥ずかしそうに、愛を込めて私に言って「Michèle je t’aime」って。私は昔のまま。・・(語り)・・今あなたにとって大事なのは友達とサッカー。私には、あなたが私を子供たちの母親としか見ていないように思える。毎日花を贈ってとは言わないけれど、時には愛情を示して欲しい。・・今夜はもう一度昔のあなたに会いたい、明け方に帰って、キッスしたい。今夜は肘掛け椅子も、新聞も、タバコも、テレビも忘れて頂戴。(ルフラン)・・今夜は私をダンスに連れて行って。頬と頬をよせて、暗闇で抱き合って、最初の頃のように愛の言葉を囁いて、あの夜、17歳の私を射止めたように。今夜私をダンスに連れて行って。暗闇で、恥ずかしそうに、愛を込めて私に言って「Michèle je t’aime」って。私は昔のまま。・・ ・Michèle Torr 略歴 本名Michelle Odette Kleberte Tort、1947年4月7日南仏Vaucluse県Pertuis生まれの歌手、作詞も行う。50年以上のキャリア、約450曲を録音し、アルバム、シングル7130枚以上のレコードをリリース、レコードを3000万枚以上売り上げ、世界10ヵ国で5000回以上のコンサートを行っている。幼少の頃から歌うことが好きで、6歳でステージに立ち歌っていた。14歳Avignonで行われたラジオ局主催ののコンクールで優勝。その賞としてPalais
des Papes/教皇庁で行われたJacques Brelの公演の第1部で歌った。63年母と妹とパリに。直ちにMercury社と契約ができ、64年1月13日には最初の45回転レコードをリリース。当時の人気ラジオ番組「Salut les copains/やあ仲間たち」の常連歌手に。64年9月にはClaude
Françoisの前座としてOlympiaに初出演。66年5月にはLuxembourg代表としてEurovisionに出場17人中10位。(Eurovisionには77年Monaco代表で再度出場18人中4位)。71年11月ヤマハ主催の世界歌謡祭に出演のため来日、「Enfants d'aujourd'hui,hommes de demain/今日の子供と明日の大人」を歌い「歌唱グランプリ・入賞」。 78年3月「Emmène-moi danser ce soir/今夜ダンスに連れて行って」をリリース。80年2月vedetteとして1ヶ月間Olympiaに。 その後、多額の負債を抱えていることが判明、年間250回以上のコンサートで返済。 最近では: ・2006年ユニット「Age
tendre et têtes de bois」に主要なメンバーとして参加 ・2011年にはCD3枚組、60曲収録のcompilation「Best of Michele Torr」をリリース ・2012年アルバム「Chanter,c’est prier/歌うこと、それは祈ること」をリリース。「Ave Maria」(Charles Aznavourのヒット曲)、「L’envie d’aimer/愛するという願い」(ミュージカル「Dix
commendements/十戒」の主題歌など)、「Chante/歌え」(「Din’t it rain」の翻案)、「Quand vient la grace/恩寵が届くとき」(「Amazing Grace」の翻案)など12曲収録 ・2015年55枚目との報道もある最新アルバム「Diva」をリリース。「Je ne veux chanter que l’amour/私が歌いたいのは愛だけ」(Guy
Matteori作詞/作曲)、「Tout amour du monde/世界中の愛」(Torr作詞/Matteori作曲)、「Quand
tu m’aimes/あなたが私を愛するとき」(Charles Aznavour作詞・作曲)、「Il se peut que je t’aime encore/私はあなたをまだ愛しているのだろうか」(Sophie Makhno作詞、Charles Dumond作曲)、「Qu’est-ce qu’ils disent/彼らは何と言っている」(Torr作詞、Daniel Mecca作曲)、「Diva」(Georges Chelon作詞、Alice Dona作曲)など11曲収録 ・2015年1月11日デビュー50周年をOlympia出演で祝う ・「Emmène-moi
danser ce soir」について 当時23歳のFrançois
Valéry(本名Jean-Louis Mougeot、1954年アルジェリア生まれのACI。ステージ名は1974年大統領選の2人の候補者 François
Mitterrandと Valéry Giscard d‘Estaingから)は7歳年長のフィアンセMaryseとParisのMonceau通りに住んでいた。ある夜Valéryがテレビでサッカーの試合を観戦していると、それに苛々していたMaryseが言った「サッカーなんか見ていないで、ダンスに行きましょう」。それの言葉を聞いて、インスピレーションが湧いたValéryはその提案に賛成する代わりにピアノに向った。数年経ったカップルの日常を思い描きながら10分で「Emmène-moi danser ce soir」を作った。ValéryはMarie Laforêt(1939-歌手、俳優)のマネージャーに新曲を依頼されていたこともあり、翌日この新曲を聞かせた。しかしLaforêtはこの曲を歌うことに難色を示した。そこでValéryは旧知のTorrのプロデューサーJean-Paul Barkoffの許へ持って行った。Barkoffは直ちにこの曲はTorrに「va comme un gant/手袋のようにぴったり合っている」との印象を持ち、ヒットを確信した。歌詞の手直しをJean Albertiniに要請。Albertini(1947-1996 作詞家、歌手、プロデューサー)は1966年にはPascal Danelのヒット曲「La plage aux romantiques/ロマンティックな人たちの浜辺」(作曲はDanel)、72年にはC.Jéromeのヒット曲「Kiss me」(作曲S.Garcia)などの作詞を行っていて、Torrの「Cette fille c’était moi/この少女、それは私」(75年)、「J’aime」(77年)などもAlbertiniの詩による。 そして1978年3月、Yvon
Riolland指揮のオーケストラをバックに、A面に「Emmène-moi
danser ce soir」、B面に「Chanteuse/女歌手」(Albertini/Didier Barbelivien)を収録したSPがリリースされた。Barkoffの確信に誤りはなく、「Emmène-moi danser ce soir」はTorrの最大のヒット曲になり、レコードは300万枚以上売り上げたと言われている。 「Emmène-moi
danser ce soir」はいくつかの映画で挿入歌として用いられている。特に2010年11月フランス公開François
Ozon監督映画「Potiche/飾り物の壺」(邦題「しあわせの雨傘」、日本公開は2011年1月)の中で、Suzanne Pujol役のCatherine DeneuveがキッチンでTorrのこの曲を聞き、口ずさみながら片付けをしている場面がよく知られている。 Chatrine
Deneuve「Poticheで」https://www.youtube.com/watch?v=waf1Wz7cS7s |
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今月の顔 2016年2月 Sheila シェイラ
「L’école est finie」 https://www.youtube.com/watch?v=DWku0Y5W7g0 「L’école est finie」(1963年 Claude Carrère
& André Salvet作詞/Jacques Hourdeaux作曲) 歌詞の大意: ・・私の手を取って、鐘が鳴ったわ、それは、通りは私たちのものになり、そこで楽しいことが始まるということ、そうなの、学校が終わったの。 今夜はダンスに行きましょうか、それとも、友達みんなで大騒ぎをしましょうか、考えただけでも気持ちが浮き浮き、そうなの学校が終わったの。 私の手を取って、鐘が鳴ったわ、それは、通りは私たちのものになり、そこで楽しいことが始まるということ、そうなの、学校が終わったの。 私はもうすぐ17歳で、心は初々しいく、瞳は天使の瞳。あなたは18歳、でも19歳に見える、それは都合が良いこと。 私の手を取って、鐘が鳴ったわ、それは、通りは私たちのものになり、そこで楽しいことが始まるということ、そうなの、学校が終わったの。 私の手を取って、私たちには一晩中時間があるわ、どんなことがあっても楽しみましょう、そうなの、学校が終わったの。 夜明けになったらカフェクレームを前に、私たちの人生について語り合うの、問題は全部リストに書いて、そうなの、学校は終わったの・・ ・Sheila 略歴 シェイラSheila、本名Annie Chancelは1946年8月16日パリ郊外 Créteil 生まれの歌手・女優。幼少期をParis 13区で過ごす。 1960、70年代を代表する人気歌手。最初はイェイェ歌手として、70年代後半にはディスコ歌手として、600曲以上を録音。世界中で8500万枚以上のアルバムを売上げている。1962年ロックバンド「Les Guitars Brothers」で歌っていた16歳のChancelleはClaude Carrère(1930-2014、作詞家、作曲家、歌手、プロデューサー)にスカウトされた。当時の全米ヒット曲のタイトルから芸名をSheilaとし、62年「Avec toi/あなたと一緒に」などを収録した最初のEP 「Sheila」をリリース。63年の2枚目のレコードは「L’école est finie/学校は終わった」を収録し大ヒット、Sheilaは一躍若者たちのアイドルに。64年にはClaude Françoisと共に歌手としてACC大賞を受賞。60年代及び70年代前半には「Ma première surprise partie/最初のサプライズパーティー」(63年)、「Ecoute ce disque/このレコードを聞いて下さい」(64年)、「Vous les
copains/仲間たち」(64年)、「Le folklore américain/アメリカのフォークロール」(65年)、「L'heure de la sortie/外出の時間」(66年)、「La famille/家族」(67年)、「Petite fille de Français moyen/平均的なフランスの少女」(68年、70年代後半からSheilaが世界的に活躍するようになった際にはこれが彼女の代名詞になった)、「Arlequin/アルルカン」(69年)、「Les Rois Mages/東方の三博士」(71年、100万枚弱の売上げ)、「Samson
et Dalila/サムソンとデリラ」(72年)、「Laisse les gondoles à Venise/ゴンドラはヴェニスに」(73年、同年に結婚し77年に離婚したRingoとのデュオで70年代を代表するデュオ曲)、「Mélancolie/メランコリー」(74年)などがヒット。 77年英語のアルバム「Love me baby」を出し、Sheilaのディスコ時代に入る。黒人ダンサー3人をバックにディスコメロディーで歌い、世界的にヒット。この成功によりアメリカのスタンダード「Singin'in ther ain」(77年)を英語で、ディスコ調に歌ったEPは500万枚以上売上げ、日本を含め世界中でヒット。Barbieに対抗するフィギャーもできた。その後も「You light my fire」(78年)、「Seven lonely days」(79年)、「Kennedy Airport」(78年)。80年の「Spacer」は日本を含む50カ国以上で販売され日本でもヒット。しかし、82年にリリースした「Gloria Gloria」以降人気に陰りが出た。85年2月22日から3月24日までParisのZenith(キャパ7000人)に出演して20年振りにステージに立った。マスコミの評判は良かったが期待した集客は得られなかった。87年には腹膜炎により数ヶ月間の休養を余儀なくされたこともあり、89年10月3日から15日までOlympiaに出演した際最終日のステージで「Je suis venue te dire que je m’en vais/私はあなたに行ってしまうと言いに来た」(Serge Gainsbourgのヒット曲から)と語って歌手活動からの引退を宣言し、ラジオ・TVの司会者、彫刻、執筆などの活動を。その後ファンに押され、98年9月28日から10月4日までOlympiaに出演、さらに国内ツアーを行い、99年2月26日から28日まで再度 Olympiaに登場、99年末には新しいアルバム「Dense/ダンス」をリリースして完全にカムバック。2002年9月にはアルバム「Seulement pour toi/あなただけのために」をリリース、また、11月1日から9日まで、デビュー40周年をOlympia出演で祝った。Olympiaには07年、08年にも出演。09年、10年はAge tender et tête de boisの主要メンバー。12年9月21日から23日まではデビュー50周年 (Sheila自身は「5x10年」と言っている)記念コンサートをOlympiaで。例によって3世代のファンが集まった。6人のミュージシャン、6人のダンサーをバックに登場したSheila、登場と同時に「On t’aime/みんなあなたが好き」の大合唱。12年12月7日には最新アルバム「Solide/堅い」をリリース。13年のVdMでは50年のキャリアを記念してEnrico Maciasとともに特別賞を受賞している。 ・「L’école est finie」について 1962年11月にリリースした最初のレコードが好評で10万枚以上の売上げであったことから、そのリリースの直後から、Claude Csrrèreは「鉄は熱いうちに」と2枚目のレコードを計画した。後日やり手のプロデューサーとして名をはせるCarrèreも駆け出し時代のことで資金不足。金策に走り回り出版業者 Rinieri某の協力を取り付けた。作曲も行っていたCarrèreには曲の構想はあった。それに付ける良い歌詞はないかと思案しながら車を走らせていたCarrère、Paris Caulaincour通り(18区)を通ったとき、学校の鐘が鳴るのが聞こえた。それを聞いたとき、ルフランを思いついた。そして詩を共作したAndré Salvet(1918-2006 詩人、作家、作詞家)と曲を完成させたJacques
Hourdeaux(1921-2010、作曲家)には17歳という歌手の年齢を考えてその世代にあった言葉とメロディーを探すように注文。フランスにおける義務教育が1959年De Gaulle大統領の下でそれまでの14歳までから16歳までとなり、当時collège/中学校を卒業後lycée/高校へ進学する者は今日ほど多くなかったことから、この曲は16歳でcollègeを卒業する若者をテーマにした。そして「L’école est finie/学校は終わった」は、数年前の先輩より2年間長く学校に通わなければならなかった生徒の、解放されたという気持ちを表したものだったのだろう。下掲のクリップではノートを破り、最後には燃している。なお、今日ではcollège卒業者の90%はLycéeに進学するよう。 レコードのリリースの日は63年2月13日とされた。Carrèreが、Sheilaにとって13と言う数字が縁起がよいとして験を担いだためと言われている。それはCarrèreによれば、 Claude
Csrrèreが13文字であること、自分の自動車のナンバープレートの末尾が13であること、SheilaがParis13区で幼少時代を過ごしたこと、最初のレコードが11月13日にリリースされ好評だったことなどによる。この曲の大ヒットを見るとCarrèreの験担ぎも意味のないものではなかったよう。 因みにSheilaとRingo(1946- 歌手)の結婚式は1973年2月13日13時から、Paris13区の区役所で行われた。レコードの裏面にはファンに対するSheillaの次のような自筆のメッセージが印刷されている。「私の最初のレコードは11月13日にリリースされました。最新レコードのリリースは2月13日です。私はこの3ヶ月間懸命に勉強しました。進歩したでしょうか・・」。 レコードは発売と同時に若者たちに熱狂的に迎えられた。そして、1日に15000枚以上売上げことも、また、ジャケットの印刷が間に合わず、簡易な印刷で店頭に並べられたこともあったよう。レコードはフランス語圏のほか、63年中にスペイン、ドイツ、オランダでも発売された。フランスとベルギーではチャートのトップに。1963年上半期のフランスではこの曲とFrançoise Hardyの「Tous les garçons et les filles/男の子、女の子」に人気があった。「L’école est finie」は4月20日の週から5月11日の週まで、及び6月22日、29日の週、都合6週間チャートのトップになっている。一方「Tous les garçons et les filles」の方は1~4月の間に11週間トップ。 「L’école est finie」を収めたレコードの売上げ枚数については種々の資料があるが、売上げ枚数を最も多くしているものによれば、フランス国内で70万枚、国外も含めて150万枚。Sheilaはステージでもこの曲をよく歌っていて、ラィヴァルバム「Zénith 85」(85年)、「Olympia 89」(89年)などに収録されている。 「L’école est finie」クリップ https://www.youtube.com/watch?v=SslRD-TsrwI |
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今月の顔 2016年 1月 Renaud ルノー 今でも愛され続けているRenaudのシャンソン「Mistral gagnant/ミストラル ガニャン」を収録したアルバム「Mistral
gagnant」は30年前の86年1月アルバムチャートの1位。 「Mistral
gagnant」 Renaud 1986年 Paris Zénithで https://www.youtube.com/watch?v=gAjzHp5jzjg ・「Mistral
gagnant」(1985年 Renaud作詞/Renaud作曲)歌詞の大意: ・・お前と5分間ベンチに座って、通り過ぎる人たちを見ながら、昔の話や将来に話をしよう。私の手の中にお前の小さな手を握りしめて。鳩にえさをやったり、ふざけて脚で蹴る真似をしたりして。お前の壁にひびを入れそうな笑い声は私の傷を癒してくれる。私がどんな子供だったか話そう。お菓子屋でよくくすねたものだった。ボンボン、ミント、キャラメル、それにミストラル ガニャンを。 雨の中を5分間一緒に歩いて、人生にはいろいろあることを見てみよう。お前の目を開かせるために地球の話をしよう。お母さんのことも少し話そう、お母さんに叱られるだろうけど、水たまりに入って靴を汚しちゃおう、お前の笑い声は海に波のよう。お前に話そうカランバー、ココボエール、唇を切り、歯を悪くした本物のルードウドウ(貝殻に流し込んだキャラメル)、それにミストラル ガニャンのことを。 お前と5分間ベンチに座って、沈む太陽を見て、お前に去ってしまった良き時代を語ろう。意地悪なのは私たちではない。もし私がのう天気者だとしてもそれはお前の目から見てだけのこと。お前の小鳥よりももっと高くまで飛ぶ笑い声を聞こう。お前に言おう、人生を愛さなくてはいけないと。人生を愛さなくてはいけない、例え時間は殺し屋で運び去ってしまうとしても。子供たちの笑い声を、ミストラル ガニャンを・・ ・Renaud略歴 Renaud、本名Renaud Séchan、1952年パリ14区生まれのACI。16歳の誕生日を68年のいわゆる「5月革命」のバリケードの中で迎えた頃から曲を作り始め、75年最初のアルバム「Amoureux de Paname/パナム(パリ)の恋人」は30万枚の売上げ。Renaudは都合23枚(スタジオ録音15枚、ライヴ8枚)のアルバムをリリース、2000万枚以上の売上げと言われている。 77年「Laisse béton/ほっとけ:laisse tomberの逆さ言葉」などを収めた同タイトルのアルバムを、83年「Morgane de
toi/モルガン ド トワ」(75年に知り合い、80年に結婚したDominiqueとの間に、80年に生まれた長女のLolitaに捧げられている。)などを収めた同タイトルのアルバム(150万枚)を、85年「Mistral Gagnant/ミストラル ガニャン」などを収めた同タイトルのアルバムをリリース。この頃からトレードマークの赤いバンダナを首の周りに巻いた反逆歌手と言われるように。91年のアルバム「Marchand de cailloux/砂売り」でACC大賞。Georges Brassensを尊敬し、師と仰ぎ96年には「Renaud chante
Brassens/ルノー、ブラッサンスを歌う」を出している。しかし、50歳になる前から、Dominiqueと99年に離婚したことなどが原因か、数年間パリのビストロでアニス酒浸りになりながら孤独な生活を送っていた。アル中から回復し、シャンソンに戻り、2002年8年振りのアルバム「Boucan d'enfer/地獄の大騒音」をリリース、220万枚の売上げ。これによって翌年03年のVdMでアルバム賞、男性歌手賞及びアルバムの中に収められていたAxelle Redとのデユオ「Manhattan-Kaboul/マンハッタン=カブール」でオリジナルシャンソン賞の3賞を受賞した。04年にはAcadémie FrançaiseのGrande Médaille受賞。05年女性歌手Romane Serdaと再婚、06年男児Malone誕生。06年アルバム「Rouge sang/赤い血」(「Les Bobos/ボボたち:bourgeoisでbohèmeの人たち」、「Malone」などを収録)。09年15枚目のスタジオ録音アルバム「Molly
Malone-Balade irlandaise/モリー・マロン=アイルランドのバラード」(「バラード」はフランス語では「ballade」と綴るが、「balade」としたのは「balader/散歩する、ぶらつく」を掛けたよう)をリリース。その後11年にSerdaと離婚したことなどもあり、「インスピレーションが枯渇した」と活動を休止。その後Renan Luce(1980-ACI)と結婚しているLolitaが女児を出産し祖父になったこと、新しいパートナーに恵まれたことなどもあり、精神的な落ち着きを取り戻し、南仏Vaucluse県の山地Luberonで、穏やかな生活を送っているよう。 12年CD18枚組の「Intégrale/全集」がリリースされ、13年には「Arts et Lettres/芸術・文学」勲章のCommandeur章を受けている。14年には現在活躍中の14人の歌手がRenaudのヒット曲をカバーしたアルバム「La bande à Renaud/ルノー軍団」が6月9日にリリースされた。アルバムはその週のアルバムチャート1位なるなど好評で、すでに20万枚以上売り上げたと言われている。10月27日にはその第2弾で15人の歌手によるカバーアルバム「La bande à Renaud volume2」がリリースされ、これも好評でリリースの週チャートのトップ。そして、2015年Grand Cprps
Maladeが10月23日リリースしたアルバム「Il nous restera ça/我々にはそれが残るだろう」にはRenaudが、特徴であるかすれ声で歌う「Ta batterie/お前のドラムス」が収められている。この曲は息子Maloneに捧げられたものでRenaudが詩を書き、作曲はGrand Corps Maladeのピアニスト Leslie
Boudin。このアルバムリリースの際Grand Corps Maladeは「Renaudは活動を再開したようだ。その後も曲作りをして新しいアルバムのためブリュッセルで録音を始めたらしい。長年のファンである私にとってはこの上なく嬉しいこと」と語っているが・・・。 Renaudは06年にはPetit Larousse辞典人名欄には記載があり、フランスでは人気が高く、Ifop(フランス世論研究所)が毎年2回行うアンケート「フランス人の好きな人物」では、活動休止後でも候補者50人に必ずノミネートされ、比較的上位で15年7月実施分では4位。 また、2015年4月BVA-Bomeoが行った「あなたが好きな男性歌手」のアンケートではでは5位であったが、現役歌手では1位のJean-Jacques Goldmanに次いでいる(2位にはJacques Brel、3位Georges Brassens、4位Jean Ferrat)。 ・「Mistral gagnant」について アルバム「Mistral gagnant」はRenaudの7枚目のスタジオ録音アルバム、33回転LPで1985年12月にリリースされた。アルバムの録音はLos Angelasで行われた。アルバムには「Mistral gagnant」の他、「Miss Maggie」(Margaret Thatcharをテーマにした)、「La pêche à la ligne/釣り」、「Si t’es mon pote/君が僕のマブダチなら」、「Trois matelots/3人の水夫」、「Tu vas pas au bal ?/ダンスパーティーに行かないの?」、「Baby-siting
blues」、「Le retour de la Pepette/ペペットの帰還」、「Fatigué/疲れて」など11曲収録。歌詞は全てRenaud、作曲はRenaud自身によるものの他Jean-Pierre Bucolo、Franck Langolffらが協力している。アルバムは好評で200万枚以上売り上げたと言われている。 シャンソン「Mistral gagnant」はRenaud 最大のヒットで、最近でも人気が高い。すなわち: ・・2007年、TV France 2が「Fête de la chanson française/シャンソンフランセーズの祭典」の中で行った「過去40年のあなたが好きなシャンソン」のアンケートでは1位のMichel Polnareffの「Lettre à France/フランスへの手紙: 哀しみのエトランジェ」に次いで2位。3位はLéo Ferréの「Avec le temps/時の流れに」。 ・・2013年、現役のACI、作詞家、作曲家、歌手276人を対象におこなった「あなたが好きなシャンソン トップ10」のアンケートでは1位の「Avec le temps」、2位の「La nuit je mens/夜僕は嘘を付く」(Alain Bashung)に次いで3位。 ・・2015年4月BVA-Bomeoが行った「あなたが好きなシャンソン」のアンケートでは1位。2位は「Ne
me quitte pas/行かないで」(Jacques Brel)、3位は「L’aigle noir/黒いワシ」(Barbara)。 また、2015年9月のアンケート「あなたが好きなデュオ曲」では、1998年のLes EnfoirésでMaxime Le ForestierとVanessa Paradisが歌ったこの曲のデュオは6位に。 Mistral
gagnantは菓子屋で売っていた当たりくじ付きのボンボンで、包装紙の内側に「perdant/外れ」あるいは「gagnant/当たり」と書いてあり、「gagnant」だともう一つ無料でもらえたよう。「Miatral」は南仏ローヌ渓谷から地中海沿岸に吹く冬の強い風、ボンボンをなめると少し酸っぱくMistralのようなひんやりとした感じがすることから付けられた由。この曲が録音された当時すでに販売されていなかった(Renaudの子供の頃にはすでに販売されていなかったとの資料もある)。 曲はRenaudの80年生まれの長女Lolita(母親はRenaudの最初の夫人Dominique)に捧げられている。 この曲が出来た経緯は:「アルバムに収める全曲の収録が終わり、ミュージシャンとは別れ、スタジオから出て、カフェテリアに座った。鉛筆、ノート、韻を調べるための辞書を持って。そこでギターを弾きながらこれを口ずさんだ。アレンジャーのJean-Philippe Goudeがいい曲だと言ってくれた。これは自分自身の子供時代のノスタルジーであり、娘が小さかった頃のノスタルジー」。 この曲が出来上がったときRenaudは「歌詞が余りの個人的で、大衆受けはしないだろう」と、録音をためらった。そこで録音スタジオから電話で夫人の感想を求めた。電話口でこの曲を聞いた夫人は「もしあなたがこれを今度のアルバムに入れないなら、私はあなたの許を去ります」。そこでRenaudはDominiqueを失望させないようにとこの曲を収録することにし、Goudeは一晩でアレンジを行い、翌日1時間で録音、アルバムに入れた。 この曲が発表されてから30年、この曲に関しては、「時間」はこの曲の中で歌われているような「殺し屋」ではなかったようだ。 この曲は多くの歌手がカバーしている。その主なものは: ・・アルバムに収録:Cœur de
Pirate(「La bande à Renaud」に収録)、Lara
Fabian(ライヴアルバム「En toute intimité」に収録)、Le Forestier & Paradisの上記デュオ(アルバム「Enfoirés
en Cœur」に収録) ・・TV番組など:Jean-Louis Aubert &Carla Bruni、Yves Duteil、Louane & Calogero、Amel Bent、Caméiia Jordana、Nolwenn Leroy &Laurent Gerra、Lynda Lemayなどが歌っている。 また、「Mistral gagnant」は1991年Renaudの後援で設立された協会の名称に使われている。Association Mistral gagnantは「彼らの希望を実現させよう、病気をやっつけよう」を合い言葉に、病床にある子供たちの希望を叶えるという活動を行っており、設立以来700件の希望を実現させた由。 |
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今月の顔 décembre 2015年12月
エディット・ピアフEdith Piaf、本名Edith
Giovanna GassionがParis20区で生まれたのは1915年12月19日。今年、2015年はそれから100年に当たる。父親はLouis Alphonse Gassion、母親はAnnetta Giovanna Maillard。 1.Piafの両親 1-1.父親Louis
Alphonse Gassionルイ・アルフォンス・ガシオン(1881.5.10-1944.3.3 曲芸師) Louis
Alphonse GassionはCalvados県Falaise生まれ。母親Louise Leontine Deschampsはサーカスのアーティスト、後にNormandie地方Bernayで売春宿の経営者に。父親Victor Alphonse Gassionはサーカスの曲馬師、後にワイン店を開く。Louisには13人の姉妹がいたがそのうち5人を除き夭逝。Louisと姉妹は親と同じ職に就き、身長1m54cm、体重40kgのLouisはCiottiサーカス団の「contorsionniste(手足の関節を自由に外す曲芸師)/antipodist(逆立ちの曲芸師)」になり、「逆立ちをして片手で歩く男」と評判に。1913年ParisのBelleville地区で当時18歳のAnnetta Giovanna Maillardと知り合い、翌1914年9月4日Yonne県のSensで結婚。1915年第1子Edith誕生。1918年8月31日第2子の男児Herbert Gassion誕生。1929年6月4日Annettaと離婚。(Louisは正式な離婚以前に、Annettaとは疎遠になっていて、AnettaがHerbertを出産していることを知ったのは後年、Herbertが20歳になってからのよう)。 Louisは1922年サーカス団から独立、単独で活動する大道芸人に。1931年3月8日Jeanne Georgette L’Hoteと間にDenise-Louise(Edithの異母妹)誕生。Jeanneとは1932年結婚。 Deniseは1977年Piafの伝記「Piaf
Ma Sœur/我が姉ピアフ」(副題 「La vrai sœur de Piaf raconte・・/ピアフの実の妹は語る・・」)を刊行。(永田文夫訳、邦題「我が姉エディット・ピアフ」1955年刊) Louis は1944年3月3日肺ガンのためParisで死去、享年62歳。葬儀は8日Belleville地区のSaint-Jean Baptiste教会で行われた。葬儀の案内状はEdith、Herbert、Denise及びLouisの姉妹の家族の名で。 遺体はPère LachaiseのGassion家(97区)の墓地に埋葬された。 Père LachaiseのGassion家の墓地には、Louisの他、Edith Piaf自身、Piafの2人目の夫Théo Sarapo (本名Theophanis Lamboukas 1936-1970、歌手、Piafとの結婚は1962年10月9日) およびPiafが出産したMarcelle Dupont(1933年2月11日-35年7月7日脳膜炎)も埋葬されている。Marcelleの父親はEdithが17歳で知り合い、Marce;lle出産後短期間で別れた運送屋の配達人Louis Dupont(1915-1965?) 1-2.母親Annetta
Giovanna Maillardアネッタ・ジョヴァナ・マイヤール (1895.8.4-1945.2.6 歌手 芸名Line
Marsaリーヌ・マルサ) Annetta
Giovanna Maillardの母親Emma Said Ben Mohamed(愛称Aïcha)は1876年フランス、Soissons生まれ、Aïchaの父親Said
Ben MohamedはモロッコのMogador(現 Essaouira)生まれのベルベル人。 Annettaの父親はAuguste Maillard。Annettaの両親は巡回サーカス団の経営者で、Aïchaは蚤に芸をさせる調教師。 Annettaは両親のイタリア巡業中にToscane地方Livourne生まれた。Annetaはサーカスの綱渡り芸人、曲馬師からLine Marsa(チュニジアの港町La
Marsaから取ったよう)の芸名で歌手に。1914年9月4日Louis Alphonse Gassionと結婚。1915年にEdithを出産(Edithの曾祖父はモロッコ出身のベルベル人と言うことになる)。その後Anettaは1918年マルセイユで第2子、Edithの弟Herbert Gassion(1918-1997)を出産している。歌手の卵であったAnettaは、生後2ヶ月でEdithの育児を母親に任せ、1918年には活躍の場を求めてConstantinopleにまで行っている。歌手Line Marsaは、「Chat noir」、「Mikado」「Monocle」などに出演したと言われている。そして1927年11月25日から12月1日までのOlympiaのプログラムにその名が見える。また、当時販売されていたシャンソンの楽譜の表紙にその曲を歌っている歌手の一人としてその名を見ることが出来る(例えば「La java du milieu/暗黒街のジャヴァ」)。その後Marsaは主として流しの歌手として活動していた。Marsaの歌を聞いたことのあるMichel Simon(1895-1975 俳優)やArletty(1898-1992 俳優・歌手、Piafが最初に出演した映画「La garçonne/男のような女」で主役を演じている)によればMarsaは重々しい、綺麗な声の持ち主だった。後年Arlettyは語っている「母親が娘と同じような声をしていたのはない。娘が母親と同じ声をしていたの」。Annettaは1929年6月4日Gassionと離婚。1945年2月6日恐らく麻薬の過剰摂取によりParisで死去。享年49歳。Thiais (Parisの南南東7km)のParis市営墓地43区に埋葬された。Annettaをよく知る人々は、Annettaの実力からすればもっと華々しいキャリアを送っても良かったのではないかと語っている。 Louis
Alphonse Gassion Annetta Giovanna Maillard(Line Marsa) 2.Edith
Giovanna Gassionの誕生 Edith Giovanna Gassionは1915年12月19日に誕生。その誕生に関しては次のような逸話がある。 ・・19日早朝寒い中 Parisの下町20区、72,rue Belleville(ベルヴィル通り72番)の自宅のアパートに帰ってきた両親、母は陣痛が始まり、救急車を呼んだが間に合わずアパートの入り口の階段で女の子が生まれた。その子は通りかかった2人の警官(hirondelleツバメと呼ばれていた警官で、自転車に乗ってパトロールしていた)のうちの一人のケープに包まれて、そこから直線距離で2kmのところに[現在も]あるTenon病院に運ばれた・・ あるいは ・・19日早朝陣痛が始まったとき母親は一人だった。彼女はアパートの階段を下りてタクシーを探そうとした。しかし間に合わなかった。付近にいた二人の警官が歩道で出産を手伝った・・。 Piaf自身自伝(「Au bal de la chance/チャンスの舞踏会にて」1958年刊)で「Je suis née le 19 décembre 1915,5 heures du matin, à Paris, au 72 de la rue de Belleville.Ou, plus exactement, devant le 72../私は1915年12月19日午前5時、パリ、ベルヴィル通り72番地で生まれた。より正確には、72番地の前で」。「母は、救急車を呼ぼうと降りてきて、歩道で私をを生んだ」。 このような逸話を元に1966年、72,rue Bellevilleのアパートの階段の上には、次のような銘板が掛けられた。銘板の除幕はMaurice
Chevalierが行ったとの資料がある。「Sur les marches de cette maison naquit le 19 Décembre
1915 dans le plus grand denuement
EDITH PIAF dont la voix, plus tard, devait boulverser le monde/この家の階段で1915年12月19日赤貧の中、エディット・ピアフは生まれた。その歌声は後に世界を驚かせることになる」 しかし、実際には1915年12月19日午前5時Tenon病院(4,rue de la Chine 20区 1878年―)で出生した。すなわち: ① 永田文夫訳「我が姉エディット・ピアフ」(Denise Gassion著「Piaf Ma Soeur」)によると: ・・大道歌手だった彼女の母親ルーヌ・マルザ[原文]は、夜中に陣痛が始まりました。・・・兵隊に行っていた彼[ルイ・ガッシオン]は、お産を控えた妻に付き添うため休暇を取っていたのです。いよいよその時が来たのを知って、彼は助けを求めるため一番近くの警察署へとんで行きました。けれど、未来の母も彼に続いて外へ出ました。そして、女丈夫のように、たった一人で病院に向かったのです。・・・午前5時にエディットが生まれた時・・産婆さんはジャンヌ・グロワズといいました。お医者さんはジュール・デフルール、そしてインターはジャック・ゴヴィエです」。 また同書にある出生証明書によると: 1915年12月19日午前5時、ラ・シーヌ通り4番地にて「エディット・ジョヴァンナ」出生。性別 女。 父、ルイ・アルフォンス・ガッシオン、34歳、曲芸師。 母、その妻アニタ・ジョヴァンナ・マイヤール、20歳、歌手。 両親の居住地、ベルヴィル通り72番地。 1915年12月20日12時半、ラ・シーヌ通り4番地に勤務する証人ジュール・デフルール、ジャック・ゴヴィエの立ち会いのもと、分娩を助けしジャンヌ・クロワズ ―28歳、看護婦、ラ・シーヌ通り4番地― を父の代理人として、出生児の提示と申告を受け、レジオン・ドヌール5等勲章佩用者、区長助役ポール・ビュルグ作成。 証人はいずれも、読み聞かせし後、これに署名。 ②
2003年に刊行されたPiafの伝記「Piaf,
un mythe français/ピアフ、フランスの神話」(Robert Bolleret著)によると: ・・Edith Giovanna GassionはTenon病院の産科で生まれた、登録番号は13238。 彼女の母親は患者№728で、Tarnier病室の35番ベッドに入院していた。 prenom/ファーストネームの Edithはイギリス人Edith Cavell(1865-1915)からとったとされている。Edith Cavellはイギリス生まれの看護婦で、第1次世界大戦中、ドイツ帝国軍に占領されていたベルギーで勤務。連合軍及びドイツ軍の負傷兵の看護に当たっていた。そしてイギリスの諜報機関のメンバーでもあった(?)Cavellはドイツ軍の捕虜になっていた英、仏、ベルギーの兵士を中立国であったオランダなどに逃がした。それが露見して1915年8月5日ドイツ軍に逮捕され、10月20日銃殺された。その際Cavellは目隠しを拒否し、ブラウスにはイギリス国旗を縫いつけていたといわれている。このニュースは世界中で報道され、フランスでは特に「Le Temps」紙が10月23日の紙面で大々的に取り扱った。 |
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今月の顔 novembre 2015年 リオネル・フロランスLionel Florence&パスカル・オビスポPascal Obispo 「Sidaction/エイズに対して行動を」協会の活動を支援するためLionel Florence作詞、Pascal Obispo作曲、Florent
Pagnyらが歌う「Sa raison d’être/彼女の存在理由」がリリースされたのは1998年11月。 ・「Sa raison d’être/彼女の存在理由」(Lionel Florence作詞、Pascal Obispo作曲)歌詞の大意: ・・彼女はあらゆる苦しみを味わった、多くの戦いをした、他の人々は降参しても。 彼女は言う、言葉は無意味、人はやるべきことをやらなければいけない。何故かと問いかけずに。・・それは海に注がれた一滴の水、砂漠に注がれた一滴の水かも知れない。しかしそれが彼女の存在理由。・・人はいつも何もしないことの理由を見つけるもの。しかし彼女は黙々と、しなければいけないことをした。そして彼女は沈黙を破った、叫び声に後押されて、無関心に対抗して。なぜなら今日ここに存在していると言うことは、生き残ったと言うことなのだから。蝶々の1枚の羽根でもすべてを良い方向に変えることが出来るもの。・・それは海に注がれた一滴の水、砂漠に注がれた一滴の水かも知れない、しかしそれが彼女の存在理由・・ ・作詞者及び作曲者の略歴: ・・作詞者Lionel Florence(1958年4月29日Nancy- 作詞家、画家、写真家) 18歳でParisに出て彫刻を学ぶ。修了後Paris郊外の各地でデッサンを教え同時にシャンソンの作詞作曲を行う。 1995年、3月31日にリリースされた慈善アルバム「Entre sourires et larmes/微笑みと涙の間に」に参加したJane Birkin(「D’un geste ordinaire/いつもの動作で」 Guy Delacroix作曲)、Alain Chamfort(「Vu du ciel/空から眺めて」 Chamfort作曲)、Kent(「Fais-moi l’amour/僕を愛して」 Kent作曲)らに詩を提供した。これにより当時の人気歌手たちに作詞家として知られるようになった。その後200曲以上を作詞している。 1995年上記慈善アルバムに参加したPascal Obispo(1958-ACI)と知り合い、コンビを組みその後数々のヒットを。 Florence作詞、Obispo作曲による代表曲: 「Lucie/ルシー」(1997年、歌Obispo)、「Savoir aimer/愛する術」(97年、歌Florent Pagny)、「Sa raison d’être/彼女の存在理由」(98年、歌42人の歌手)、「Tu
trouveras/あなたには分かるだろう」(2002年、歌Natasha St.Piere)、「Ma liberté de penser/僕の考える自由」(03年、歌Pagny)、「Blonde/ブロンドの女性」(2014年、歌Alizée)など Florenceが歌詞を提供している歌手には他に: Johnny
Hallyday、Michel Delpech、Calogero、David Hallyday、Patricia Kaas、Patrick Fiori、Jenifer、Nolwenn Leroy、Hélène Ségara、Chimène Badi、Isabelle Boulay、Line Renaud、Anggun、Christophe
Maé、Julio Iglesiasなど。 Florenceは次のミュージカルの作詩も、単独で、あるいは共同で、担当している。 2000年「Les dix commandements/十戒」(作曲Obispo)その中で歌われた「L’envie d’aimer/愛するという欲望」は01年VdMでシャンソン賞受賞。 2005年「Le Roi Solei/太陽王」(Patrice Guiaroと共同で、作曲Dove Attia、Cyril Paulus他)。 2008年「Cléopatre、la dernière reine d’Egypte/クレオパトラ、エジプト最後の女王」(Patrice Guiaroと共同で、作曲Fabien Dubos、Davide Esposito、Souad Massi他)。 2013年「Robin des bois/ロビンフッド」(Patrice Guiraoと共同で、作曲David Hallyday、Corneille、M.Pokora他)。 Florenceは2009年SACEMのGrand
prix(作詞家部門)受賞。 ・・作曲者Pascal Obispo(1965.1.8- 西フランスAquitaine地方Dordogne県、Bergerac生まれ、ACI) 13歳から離婚した母親とBretagne地方のRennesに住む。当時Rennesは音楽活動が盛んで、バスケットボールの選手を目指していたObispoも音楽に進み、1983年高校の友人たちとグループを結成。兵役の後88年にはグループSensoを結成、その後単独Parisに上り、90年最初のアルバム『Le long du fleuve/川に沿って』をリリースしたが話題にならず。 1992年セカンドアルバム『Plus que tout au mond』:「Plus que tout au monde/世界で何よりも」、「La moitié de moi/僕の半分」などが好評でヒット、最終的には25万枚以上の売り上げに。 1994年アルバム『Un jour comme aujourd’hui/今日のようなある日』が37万以上の売り上げで、人気が確実なものに。 1995年に作詞家Lionel Florence(1958-)と知り合い、コンビを組み、その後数々のヒットを。 1996年アルバム『Superflu』:「Superflu/余分なもの」(自身の作詞作曲)、「Les meilleurs
ennemis/最良の敵」(Zazieに提供され、デュオで歌っている)、「Lucie」(Florence/Obispo)など。150万枚以上売り上げObispoの最大のヒットに。 1998年シングル「Sa
raison d’être/彼女の存在理由」。 2000年ミュージカル「Les dix commandements/十戒」(詩Florence、曲Obispo)10月4日からParisのPalais
de Congrèsで上演。その中で歌われた「L’envie d’aimer/愛するという欲望」は01年VdMでシャンソン賞。 2004年liveアルバム『Fan』:Michel PornareffのファンであるObispoがツアーでカバーしたPornareffのヒット「Lettre à France/哀しみのエトランジェ」、「Tout pour ma
chérie/シェリーに口づけ」など、他の「Fan/ファン」(Florence/Obispo)など。 2006年アルバム『Les fleurs du bien』:「Les fleurs du bien/善の花」、「Rosa」など。 2009年アルバム『Welcome to the Magic World of Captain Samouraï Flower』。評判は芳しくなかった。 2012年ミュージカル「Adame et
Eve:La seconde chance/アダムとイヴ:第2のチャンス」(詩Jean-Marie Dupre、曲Obispo)1月31日からPalais des Sportsで上演。 2013年コンピレーション『Millésimes/千年紀』(デビュー20周年を記念して過去のヒット35曲を収録)。 2013年12月最新アルバム『Le
grand amour』:「Arigatô/ありがとう」、「Le
grand amour/大いなる愛」など。 黄金の指を持つと言われているObispoが他の歌手に提供し、ヒットした曲には次のようなものがある。 「Zen/禅」(1995年歌・作詩Zazie、作曲Obispo)、「Savoir aimer/愛する術」(97年歌Florent Pagny、作詞Florence、作曲Obispo)、「Ma liberté de penser/僕の考える自由」(2003年dito)、「Allumer le feu/火を付けろ」(97年歌Johnny Halyday、作詞Zazie、作曲Obispo)、「Le mot de passeパスワード」(99年歌Patricia Kaas、作詞Didier Golemanas、作曲Obispo)、「Tu trouveras/ あなたには分かるだろう」(2002年歌Natasha St.Piere 作詞Florence、作曲Obispo)、「Blonde/ブロンドの女性」(2014年歌Alizée、作詞 Florence、作曲Obispo)など。 ・「Sa raison d’être」について: Florenceは1997年9月5日Mère
Teresaマザー・テレサ(1910-1997)の死去の日、その生涯を紹介したTVのドキュメント番組を見てMère Teresaをテーマにした曲を作ろうとした。このどんな恐怖にも、どんな困難にも、どんな貧困にも降参することのなかった女性の献身的態度に心を打たれたFlorence、「Une femme à Calcutta/カルカッタの一人の女性」のタイトルで詩を書き始めた。詩の最後は「C’est la
raison d’être d’une femme à Calcutts/これがカルカッタの一人の女性の存在理由」で終わることにした。詩は短時間で出来上がった。Florenceは直ちに詩をObispoの許に送り曲を付けるように依頼した。数日後Obispoから電話があり、曲が出来上がったが、最後の件を「C’est sa raison d’être/これが彼女の存在理由」だけにしたらという提案があった。しかしFlorenceはこの詩はMère Teresaに捧げたものだからそれは出来ないと反論した。そこでObispoはこの曲を、計画していたアルバムに収めることは止め、曲はお蔵入りとなった。 1998年になってObispoにSidactionの副会長を務めるLine RenaudからSidactionの資金集めのために曲を作るように依頼があった。Sidaction(Association de lutte contre le sida/エイズと闘う協会)はエイズ撲滅のための広報活動、治療法の開発の資金援助などを目的に1994年に創設されたもので、Line Renaudは設立当初から副会長。Line Renaudからの依頼を引き受けたObispoは多くの歌手が参加できるような曲にしようと考えた。そして棚にしまってあったMère
Teresaをテーマにした曲を思い出した。曲の詩はエイズに対する闘いを直接的には歌ってはいないが、エイズに対する闘いを暗示させるものでもあった。FlorenceにLine Renaudが行っている活動も貴重であり、この曲を使ったらどうかと相談した。Florenceは詩に付けられた曲はリズムが速めであることから、Mère Teresaの生涯を物語る曲よりもむしろエイズに対する闘いを歌う曲にふさわしいと考え同意した。デモテープが録音され、50人余りの歌手に送られた。42人の歌手が参加に同意した。Obispoは歌詞を細分し1人の歌手が1フレーズを歌うようにした。参加する歌手の日程調整に苦労し、録音には数日が当てられた。各歌手には自身のパートの録音に1時間が割り振られた。参加する歌手は全員無償でスタジオに集まった。出来上がった曲はラジオで頻繁に流された。またTristan et Gilles Partizanの製作になるクリップでは、参加した歌手の多くが当時使われ出したばかりの、そして時代を象徴する、携帯電話を手にしていることもあり、曲は大ヒット、70万枚以上の売上げ、ObispoとFloreceがSidactionに寄付した著作権収入の額は4300万Fに上ったと言われている。 Florence/Obispoのコンビは、その後Sidactionの資金集めのために同様の企画で、2000年「Noël ensemble/共にクリスマスを」(100人のアーチストが参加)、2014年「Kiss & Love」(Sidaction20周年記念、120人参加)を作っている。 ・参加歌手: 参加している歌手42人は次の順で登場している・・ Florent Pagny→Stephan Eicher→Patrick Bruel→Native→Maurane→Marc Lavoine→Dominique Dalcan→Michel Delpech →Ophelie
Winter→Gérard De Palmas→Tri
Moise→De Palmas & Winter→Anggun→Tribal Jam→Francis Cabrel→Elsa→Lavoine→Zazie→ Johnny
Hallyday→Patricia Kaas→Jean Jacques Goldman→Lara Fabian→Eddy Mitchell→Princess Erica→Julien
Clerc→Hélène Ségara→ Hallyday→Mitchell→Cathrine Ringer→Hallyday→Native→Hallyday→Mitchell→Pascal Obispo→Kaas→Eicher→(Violon:Cathrine Lara)→Zazie→Faudel→Pagny→Lara→ Maxime Le Forestier→Axelle Red→Alain Chamfort→Alain
Souchon→Jane Birkin→Axelle Renoir→Kent→Enzo Enzo→ Clerc & Renoir→Elsa→Dalcan→Michel Fugain & Erika→Delpech→Anggun→Françoise
Hardy & Le Forestier→Laurent Voulzy→Obispo→Chamfort→Fabian→Winter→Clerc→Moise→Renoir→Fugain→Souchon→Etienne Daho→Ringer→Pagny→Bruel→Ellie Medeiros→Maurane→Birkin→Goldman→Anggun→Faudel→「Sa raison d’être」Line
Renaud 「Sa raison d’être」https://www.youtube.com/watch?v=2KRvvRN8hMc |
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今月の顔 10月 ミシェル・デルペシュMichel Delpech ミシェル・デルペシュMichel
Delpechは1965年10月3日TVに出演「 Chez Laurette/ロレットの店で」を歌った。 「Chez
Laurette」(1965年Michel Delpech作詞/Roland Vincent 作曲)歌詞の大意: ・・彼女は僕たちを「私の息子たち」と呼んでいたので、彼女が僕たちをとても愛してくれていたことが分かる。彼女の店で僕たちの小遣いはジュークボックスやコインゲーム機に消えていった。 授業が終わるとよく行ったもの。僕たちが店に入るとロレットは微笑んでくれた。そして彼女がキスしてくれると僕たちの勉強の苦労や問題事はたちまち消えていった。 心地良かったロレットの店は。僕たちがどんちゃん騒ぎをしていると彼女も仲間に入ってきた。 心地良かった、素敵だった。文無しの時にはロレットは奢ってくれた。 それに僕たちが大人しくしているようにと、店の隅には僕たち専用の席があった。そこに座って僕たちは女の子が通り過ぎるのを眺めていた。そして僕はお気に入りの子と知り合いになった。 何かのかげんで僕たちが心痛を抱えているときには、ロレットは僕たちを慰める術を知っていた。彼女が話しかけてくれると、僕たちは笑顔になった。ウインク一つで彼女は全てを変えることが出来た。そこは心地良かった、ロレットの店は。もう一度行こう、あの店へ。ロレットを忘れないように。 それは心地良いことだろう、素敵だろう、昔話をすることは、ロレットの店で・・ Michel Delpech(1946- ACI)の略歴: パリ近郊Courbevoie生まれ。高校生の頃からバンドを作り歌っていたDelpechは、Vogue社のオーデュションに合格。 1963年Vogue社からEP『Michel
Delpech』をリリース。これには自身で作詞作曲した「Anatole/アナトール」、「On fait semblant/振りをする」など4曲収録。ほとんど注目されず。 1964年独学で作曲を勉強していたRoland Vincent(Paris 1938- 作曲家・アレンジャー)と出会う。 1964年Festival社からEP 『Michel
Delpech』をリリース。これには「Elle se moque de toi/彼女は君をからかっているんだ」(Delpech作詞/Vincent作曲)、「Que c’est triste/なんて悲しいんだ」(dito)など4曲収録。ほとんど注目されず。 1965年音楽スペクタクルは「Copains-Clopant/コパン・クロパン」に出演。 1965年5月EP 『Chez Laurette』リリース。 1966年LP 『Inventaire66/66年の総決算』:「Chez Laurette」、「Inventaire 66」、「Je me sens tout petit」、「L’entrée des artistes」など10曲収録 1966年10月Jacques Brelのオランピアにおけるさよなら公演の際その第1部で歌う。 1968年LP 『I y a des jours où on fait mieux de rester au lit/ベッドに止まっていた方がいい日もある:灰色の日々』でACC大賞。 1969年「Wight is Wight/ワイト イズ ワイト」(同年イギリスのワイト島での第2回ワイト島フェステイヴァルの強烈な印象から) 1970年代にはヒットに次ぐヒットを出しフランス国内でのレコードの売り上げトップに。その主なものは: 「Pour un flirt/青春に乾杯」(71年)、「La vie
,la
vie/美しい人生」(71年)、「Que Marianne était
belle/美しきマリアンヌ」(72年)、「Les divorcés/離婚した人たち:(邦題)悲しみの別離」(73年、離婚は当時タブー視されていた。また、この曲が離婚を必ずしも否定的には捉えていないことからスキャンダルになった)、「Les aveux/告白」(73年)、「La maison est en ruine/哀しみの終わりに」(74年)、「Ce fou de Nicola/パリのロシア人」(74年)、「Le chasseur/狩り」(74年)、「Je l'attendais/愛の出会い」(74年)、「Quand j'étais chnteur/歌手だった頃」(75年)、「Le Loir-et-Cher/ロワール=エ=シェール」(77年、この地方に住む人々を優しく、皮肉っぽく歌ったもので、エコロジーの先駆け)など 1972年1月には3週間のオランピア公演。 1980年代に入りDelpechは、鬱状態になり苦悩の時期を過ごす。この時期については1999年10月刊行自伝「L'homme qui avait bati sa maison sur le sable/砂の上に家を作った男」に書いている。 1984年シングル「Loin d'ici/ここから遠く離れて」で復活。 1985年、83年に知り合った画家 Geneviève Garnier-Fabreと再婚。 1986年アルバム『Oubliez tout ce que je vous ai dit/君に言ったことは全て忘れて欲しい』 1990年それまでのヒット曲を集めたコンピレーションアルバム『J’étais un ange/僕は天使だった』、80万枚以上売上げ。 1991年アルバム『Les Voix du Brésil/ブラジルからの声』、 1997年アルバム『Le Roi de rien/何もない王』 2000年夫人との共著で小説「De cendres de de braises/灰と炭火」を刊行。 2004年7年振りのアルバム『Comme vous/あなた方同様』 2006年12月デユオアルバム『Michel Delpeche &.』:Delpechが過去の自身のヒット曲をFrancis Cabrel、Alain Souchon、Cali、Laurent Voulzy、Julien Clerc、Clarika、Bénabarらとデュオで歌っている。 2009年1月から8月まで長期ツアー。 2009年6月15日アルバム『Sexa』(アルバムのタイトルは「Sexagenaire/60歳代」を意味するのか?) 2009年Boris Vian トリビュートアルバム『On n’est pas là pour se faire engueuler』には「J’suis
snob/僕はスノッブ」で参加 2011年3月ユニット「Age tendre et tête de bois」の公演に参加。 2011年8月公開 Christophe Honoré
監督「Les bien-aimés/愛された人々」に出演、Catherine
Denouveと共演。 2012年11月公開映画 Grégory Magne監督 「L’air de rien/何でもない風」に自身の役で出演 2015年3月19日自伝「Vivre !/生きる」刊行 2015年10月CD13枚組箱入り全集 『L’Essentiel des albums studio1964-2009』リリースの予定 2015年9月現在、03年に明らかになった喉頭ガンを加療中 「Chez
Laurette」について 1964年Michel Delpechは隣人の紹介によりRoland Vincentと知り合った。Vincentは1938年Paris生まれ、独学で作曲を勉強していた。 「Chez Laurette」が出来た経緯については: ・シャンソンの解説書「Le Petit Lecœuvre」(シャンソンジャーナリストFabian Lecœuvre他 編)によると・・出会ってから数日後DelpechはParisの西郊外Saint-Cloudに住むVincent宅を訪ねた。そしてParisのSaint-Lazzare駅からSaint-Cloud駅までの列車の中で、Honfleur町の中心部にあったカフェ「Chez Laurette」を思い出し、詩が浮び、紙に書き留めた。Delpechが高校生時代によく仲間と通った店だった。Vincent宅に着くとDelpechは直ちに出来たばかりの詩を示した。ピアノの前に座ったVincentはいとも簡単に曲を付けた・・ ・HonfleurにあるRestaurant Chez Laurette (Normandie地方、Calvados県 Honfleur 2,rue des Logettes)のコピーによると・・このレストランは1966年(原文のまま)に出されたMichel Delpechの有名なシャンソン「Chez Laurette」のインスピレーションを与えたレストラン。Delpechは1960年代にこの店を経営していて、Delpechとその仲間を「à bras ouverts/もろ手をあげて」で歓迎していた女性店主に敬意を表してこの曲を作った・・ ・ところで、Delpech自身はTVFrance3で2011年11月7日に放送された「Discographie Michel Delpech」で次のように語っているよう・・このシャンソンは私が寄宿生として通学していたPontoise (Val-d’Oise県)の「lycée/高校」近くにあったcaféを思い出して書いた。毎週土曜日の午前中には我々はこの店に集まって、自宅に帰えるため列車を待つ間の3~4時間を過ごした。誰でも高校生時代に仲間同士で集まった場所があったはず。そしてそこでの思い出は我々一人一人に話しかけてくると思う・・ 「Chez Laurette」は、1965年1月13日からParisのThéâtre Charles-de
Rochefortで上演された音楽スペクタクル「Copains-Clopant/コパン・クロパン」の劇中歌として歌われた。「Copains-Clopant」は 演出Francis Jeffo、脚本Christian Kursner、劇中歌われる曲の作詞はDelpechとClaude Daubisy、作曲はRoland Vincentが行った。「Copains-Clopant」は好評で、その後ParisのThéâtre du Gymnase、LyonのThéâtre Des
Clestinsなどで66年2月まで上演された。Tony役で出演したDelpechは劇中「Chez Laurette」などを歌った。他にChristine役で共演したChantal Simonと「Tout arrive/すべてが起こる」(Delpech/Vincent)、「Ce n’est pas grand chose/それは大したことじゃない」(Daubisy/Vincent)などをデュオで歌っている。 Delpechは Simonと66年結婚、75年に離婚。 「Chez
Laurette」は65年5月Festival社からリリースされたEP 『Chez Laurette』に、「Dis-nous pourquoi/我々に何故か話して」(Daubisy/Vincent)、「T’en fais pas/心配しないで」(Delpech/Vincent)、「Et te voilà, toi/君は着いたね」(Daubisy/Vincent)と共にVincent指揮のオーケストラ伴奏で収録されている。 Delpechは1965年10月3日ORTFのTV歌謡番組でDenise
Glaserがプロデューサーを務めた「Discorama」に出演して「Chez Laurette」を歌った。 http://www.ina.fr/video/I05050555 当時はイェイェ全盛期ではあったが、イェイェの対極にあるようなこの曲はラジオで頻繁に流された。この年には「Poupée de cire, poupée de son/夢みるシャンソン人形」(France
Gall)、「La montagne/ふるさとの山」(Jean
Ferrat)、「Caori, c’est fini/カプリの恋の物語」(Hérve
Vilard)、「Aline/アリーヌ」(Christophe)、「Le ciel, le seleil et la mer/空と太陽と海」(François
Deguelt)、「Mes mains sur tes hanches/夢の中に君がいる」(Adamo)、あるいは「Yesterday」(The
Beatles)、「Satisfaction」(The Rolling
Stones)などが人気で、「Chez Laurette」は65年のHit Paradeでは上位ではなかった。しかし、小さなカフェ、初恋、あるいはjuke-boxなど60年代の良き青春時代を思わせるこの曲は、時間が経過しても人気が衰えることはなく、60年代の代表作になった。78年にはEP『Chez Laurette』が再版リリースされた。2006年12月4日にリリースされたデユオアルバム『Michel Delpeche
&.』では「Chez Laurette」はBénabar(1960- ACI)とのデュオで収録されている。そしてDelpechのコンサートではほとんど毎回歌われる。 「Chez Laurette」 (2001年Star Academyで優勝したJeniferと) https://www.youtube.com/watch?v=730erCGI9TI 「Chez Laurette」(2007年4月) https://www.youtube.com/watch?v=v4kdehcAYnw 「Chez Laurette」(2012年1月Age tendre et tête de bois の第6シーズンで) https://www.youtube.com/watch?v=hgMgbLSuKqA |
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今月の顔 9月 セルジュ・ゲンズブール Serges
Gainsbourg セルジュ・ゲンズブールSerge
Gainsbourgが「Le poinçonneur des Lilas/リラ駅の切符切り」を収録したLPをリリースしたのは1958年9月3日 「Le
poinçonneur des Lilas」(1957年 Serge Gainsbourg 作詞・作曲)歌詞の大意: ・・僕は地下鉄「リラの門」駅の切符切り、人と交差するが気にもとめられない男、地下には太陽はない、退屈しのぎのため制服のポケットに「リーダーズ・ダイジェスト」のダイジェスト版を入れている。 そこにはマイアミでは人々は優雅に暮らしていると書いてある、ところが僕と言ったら穴蔵の中で切符に穴を開けるという生活、つまらない仕事なんてないとはいうものの、僕は切符に穴を開けている。 僕は開ける、小さな穴を、また開ける小さな穴を、いつも開けている小さな穴、2等車の穴、1等車の穴。僕は開ける、小さい穴を。 僕は「リラの門」の切符切り、「アンヴァリッド」には「オペラ」で乗り換え、僕は地球の心臓部で生きている、僕は紙吹雪の舞うカーニバルの夢を見る、それをベッドまで持って行く。 僕の陶器の空の下では「コレスポンダンス/乗り換え」の表示だけが輝いて見える、時には夢を見てうわごとを言う、僕には波が見える、霧の中から僕を探しに来る船が見える、僕が穴を開けているこの穴蔵から僕を救い出すためにやってくる船が。 しかし船は行ってしまい、僕は脱線したことが解る。僕はこの穴の中にとどまる、小さな穴を開けながら。 僕は「リラの門」の切符切り、「アール・ゼ・メティエ」には「ル ヴァロワ」方面で直通、僕はこの豚小屋にはもううんざり、逃げ出したい、制帽をロッカーの中に置いて。 いつかそんな日が来るだろう、大自然へ逃げ出すことができる日が。僕はどんなことがあっても大通りを通って出発する。でももし僕にとってもうそんな時ではないとしたら、僕は死ぬことになるだろう。僕は開ける、小さな穴、いつも開けている小さな穴・・頭がいかれてもそれなりに理由があること、ピストルを手にしてもそれなりに理由があること、自分自身に穴を開ける、小さな穴を、最後の穴を。そして人は僕を埋めるだろう、大きな穴に。その穴の中では僕はもう穴の話は聞かないだろう、小さな穴の話は・・ Serge Gainsbourg(1928-1991 ACI、詩人、俳優、映画監督)の略歴・・1960年まで 本名Lucien Ginsburg。1928年Paris 4区(Cité島のHôtel-Dieu
de Paris/パリ市立病院)で誕生、1991年Paris の自宅(5 bis rue de
Verneuil 、パリ7区)で死去、享年62歳。 両親はユダヤ系で1919年ロシアから亡命、Istanbulなどを経由し、1921年フランスに着く。父はピアニストでバーやキャバで演奏。Lucienが4歳の頃からクラシックピアノをレッスン。 ・1932年一家はフランス国籍取得。 ・1938年5月通りでFréhel(1891-51歌手、「La java bleue/青色のジャヴァ」などのヒットを持つ)に会う。Lucienが上着に付けていた学校で受けたcroix d’honneur優等賞に気づいたFréhelはビストロでイチゴタルトをご馳走してくれる。 ・ドイツの占領下(1940年6月-44年8月)、一家はLimogesなどに避難。Lucien Guimbardの偽名を使う。 ・戦後1944年1月Parisにもどる。建築(「Beaux Arts」で)と絵画(「Académie de Montmartre」 で)を学ぶ。 ・1945年3月学業を放棄.。bacを受験せず。 ・1946年父の薦めで ジプシーについてギターを習う。 ・1947年3月5日Académie de Montmartreのアトリエで、ロシア出身の女子画学生Elisabeth Levinzky(愛称Lisa、1926-)と出会う。Lisa:「彼はさえない男だった。彼の鼻と言ったら。それにスペードのエースのようなみっともない格好をしていた。でも彼の手は素晴らしかった、特に絵を描くときの。二人にはJean-Paule SartreとSimone de Beauvoirのようなカップルが理想だった。しかし、嫉妬深かったLucienは自分の恋の冒険は棚に上げて、結婚を強く望んだ」。 ・・1951年11月3日Paris郊外(Mensnil-le-Rot)で結婚。Lisa:「彼は私に決して彼を裏切らないようにと誓わせた。そんなことは彼には耐えられないからと」。 ・・1957年10月9日に離婚。Lisa:「私は自由になった。肩の重荷がおりた。彼は不満だったよう。この日二人はシャンペンで乾杯した」。「私たちは1968年5月ParisのLouis-Philippe橋の上で偶然再会した。LucienはBrigitte Bardotとの破局の後で精神的に参っている時期だった」。その後Lisaは恋人の一人として、友達の一人として、さらには相談相手としてGainsbourgが亡くなるまで親交があった。 ・1947年9月建築と絵画の勉強を放棄。Ecole normale de musique de Paris/パリ高等音楽学校に入学、シャンソンの作曲家を目指しsolfègeとharmonie/を学ぶ。 ・1948年―49年兵役。 ・1949年11月除隊。 ・1950年-52年Maison-Laffite(Paris北西18km)にあったイスラエル人難民のための施設Champsfleurで主にコーラスの指導者に。この間ギターとピアノ(ダンスの練習のため施設にあった)で作曲を行う。月に1度夕食後入所者の前で自作やTrenetの曲(「Il pleut dans ma chamber/部屋に雨が降る」など)を歌う。 ・1952年夏からParis市内のbarなどでピアニスト、ギタリストとして活動。 ・1953年画家の道の放棄を決心し、それまでに描いた絵画のうち6点を残しあとは焼却。 残ったもののうち1点はJane Birkinの手許に、他の1点、Juliette Grécoの手許に。 ・1954年Pâques/復活祭休暇の間、Club de la Foretにピアニストとして雇われる。契約延長夏の間も。 ・1954年7月SACEMに作詞家・作曲家として登録、Julien Grixの名で。 ・1954年8月26日SACEMに「Les amours perdus/失われた愛」、「Ça n’vaut pas la peine d’en parler/それは語るに及ばない」、「Défense d’afficher/張り紙禁止」など6曲を初めて登録。 ・1954年秋のシーズンから父に代わってキャバレ「Madame Arthur」(女装アーティストの出し物で有名)のピアニストに。アートディレクターで作詞家のLouis Laibeと組んで同キャバレの54年-55年、55年-56年の出し物の作曲を担当。55年初め 「Antoine le
casseur/強盗アントワヌ」(55年2月18日SACEM登録)を作詞作曲、女装歌手Lucy Sarcellによって歌われる。 SarcellがGainsbourgの曲を最初に歌った歌手。 ・1955年Les
Trois BaudetsでBoris Vianを聞き、感激。 ・1956年パリ1区 5,rue BeaujolaisにあったFrancis
Claudeがオーナーのキャバレ Milord l’Arsouilleにピアニスト兼ギタリストとして雇われる。毎晩まずピアニストとして演奏。12時近くにギタリストとしてClaude夫人で歌手Michèle Arnaudの伴奏を。 ・1956年末芸名Serge Gainsbourgを採用。 ・1957年1月3日Gainsbourgの名でSACEMに「Cha
cha cha intellectuel/知的なチャチャチャ」を登録。 ・1957年6月28日SACEMに「Le poinçonneur des Lilas」、「La jambe de bois/義足」、「Mes petites odalisques/僕の可愛いオダリスクたち」、「La cigale et la foumi/蝉と蟻」を登録。 ・1957年Gainsbourgの絵画を見たいとClasudeとArnaudがGainsbourg宅を訪問。二人は部屋のピアノの上に無造作に置いて あった楽譜に目をとめた。それらはGainsbourgがそれまでに作っていた曲、「Le poinçonneur des lilas」、「La recette de l'amour fou/愚かな愛の処方箋」などであった。(Lisa談:「それを予想してピアノの上に置いておいた」)。 Arnaudはそのいくつかを取り上げたいと希望。ClaudeはGainsbourgに歌うことを勧める。 ArnaudはMilord d’Arsouille」で「Ronsard 58/ロンサール 58」(作詞Serge Bathelemy、作 曲Gainsgourg)、「La
recette de l'amour fou」、「Douze belles dans la peau/1ダースの恋人たち」を歌う。Arnaudは58年1月にはこれらを録音。 ・1957年12月Gainsbourgは、二人が来訪した翌日Miloer l’arsouilleのステージに初めて立ち、「Le poinçonneur des Lilas」などを歌う。 ・1958年1月5日GainsbourgはClaudeが演出をしていたラジオ局Paris-Interの番組に出演「Mes petites odalisques」を歌う。 ・1958年3月29日最初のTV出演「Chez vous ce soir/今夜あなたのお宅で」で「Le poinçonneur des Lilas」を歌う。 ・1958年9月3日最初のLP『Du chant à la une/トップページの歌』をリリース。LPには「Le poinçonneur des Lilas」、「La recette
de l’amour fou」、「Douze belles
dans la peu」、「Ce mortel ennui/この死にたいほどの退屈」、「Ronsard 58」など9曲収録。Alain Goraguerのアレンジで。LPジャケットの裏面にはMarcel Ayméの献辞。Boris Vianは1958年11月12日 Canal Enchainé紙上で絶賛。このアルバムは59年3月14日ACCディスク大賞を受賞。しかしアルバムの売れ行きは低調。 このLPは2006年にCD化、その際にボーナスとしてParisのLes Trois Baudetsにおける「Le poinconneur des lilas」、「La recette de l'amour fou」のライヴヴァージョンなど5曲が追加された。 ・1958年11月からTrois Baudetsにも出演。 ・1959年2月Juliette Gréco、EP『Juliette
Gréco chante Serge Gainsbourg/ジュリエット・グレコ セルジュ・ゲンズブールを歌う』をリリース。「Les amours perdus」、「La jambe de bois」など4曲収録。 ・1959年3月から初の国内ツアーJacques Brelらと。 ・1959年12月18日公開Michel Boisrond監督映画、Brugitte Bardot主演の「Voulez-vous danser avec moi/(邦題)気分を出してもう一度」にカメラマン役で出演、音楽も担当。 ・1959年Jacques Doiol-Val;croze監督映画「L’eua à la
bouche/唇によだれ」(1960年1月公開)で音楽担当。 ・1959年7月セカンドアルバム『Serge Gainsbourg №2』リリース。 ・1960年1月27日EP『L’eau s la bouche』リリース:「L’eau à la bouche」、「Black March」、「Ludith」、「Angoisse/不安」を収録。10万枚の売り上げでGainsbourgの最初のヒット。 ・1960年12月17日Arnaudが「La chanson de Prévert/(邦題)枯葉に寄せて」をTVで歌う。 「Le poinçonneur des Lilas」について Lilas駅は地下鉄11号線(Chatlet←→Mairie des Lilas 間)にあるPorte des Lilas/リラの門駅。 なお、11号線は 現在延伸工事中、2019年には延伸された線のPorte des Lilas駅の次にLes Lilas-Serge Gainsbour駅が開設される予定。 シャンソン「Le poinçonneur
des Lilas」は57年6月28日SACEMに登録されている。この曲が出来た経緯について、Gainsbourが語るところによると・・ある夜「Porte
des Lilas」駅の切符切りに 「Monsieur, SVP ! Quels sont vos espoirs ,après une journée de boulot, comme ça?/失礼。1日中そのような仕事をした後で、どんな望みを持っていますか?」と質問したところ 「Jeune homme
! Voir le ciel,voilà/お若いの、空を見ること、だね、」と答えたことから想を得、そして一晩で曲を作った・・。但しこの逸話については、内気なGainsbourgにそんなことが出来るわけはない、Gaisbourgの創作だろうと言われている。 また、Lilas駅にしたのは、57年9月25日René Clair監督Brassens出演の映画「Porte des Lilas」が公開され好評だったことからその影響という説がある。この説についても、曲のSACEM登録が映画公開の前であることから、疑問視されている。 そして、1957年のある日Gainsbourgの絵画を見たいとキャバレMilord l’Arsouille のオーナーFrancis ClaudeとClaude夫人で Milord
l’Arsouilleの歌手Michèle ArnaudがLucien宅を訪れた。そして2人はピアノの上に無造作に置かれたいくつかの曲の譜面に目をとめた。いずれもGainsbourgが作曲したものだった。「Le poinçonneur des
Lilas」を見つけたClaudeはGainsbourgにそれを歌うことを勧めた。そしてこの訪問の翌日57年12月GainsbourgはMilord l’Arsouilleでこの曲を歌った。 そして、Gainsbourgは、1958年3月29日「Chez vous ce soir/今夜あなたのお宅で」でTV初出演し、この曲を歌った。この番組ではMichèle ArnaudがGainsbourgを次のように紹介・・Serge Gainsbourgです。私は彼を2~3年前から知っている。私が歌っていたキャバレでギターとピアノを弾いています。彼はあまり話さなかったので、口がきけないのではと思っていました。ある日口を開いたら自分のシャンソを歌うのに驚きました。作詞、作曲をします。 今Milors l’Arseuilleに来る客の多くが彼に歌うようにリクエストします。その結果私のために何もしてくれなくなるのではと心配です。お聞きになって、判定してください・・。 この曲は58年9月3日リリースのLP『Du chant à la une !/第一面の歌』に収録された。LPは58年6月10日、17日、7月1日及び3日にParisのPhilips社のスタジオ(bd.Blanqui)で録音された。アレンジとピアノ伴奏及び音楽監督はAlain
Goraguerが担当した。「Le poinçonneur des Lilas」はこれより前の58年2月17日同スタジオでデモテープが録音され、Philips社のアートディレクターであったJacque Canettiの許に届けられた。デモテープの録音は2001年2月没後10年を記念してリリースされたコンピレーション『Gainsbourg Forever』に収録されている。また、58年11月にTrois
Baudetsで録音されたライヴヴァージョンは、2006年LP『Du chant a la une !』をCD化した際にボーナスとして、追加された。 なお、「Le poinconneur des Lilas」は1958年6月Les Frères
Jacquesが録音、EPとしてリリース。10月23日Comédie
des Champs-Elyséesで歌っている。 歌詞についていくつかの言葉の説明: ・poinçonneur(切符切り):1969年から自動改札工事を初め1973年には切符切りは完全に姿を消した ・リーダーズ・ダイジェスト/Reader’s Digest:1922年アメリカで創刊された月刊総合誌。基本的には多くの大衆雑誌の記事を要約して掲載(30~40%)。オリジナル記事、本の抜粋、ジョーク集なども。35カ国語、100ヵ国以上で発行され、発行部数は1700万部。日本語版は1946年から1986年まで刊行 ・地下鉄の1等:1991年に廃止された ・「紙吹雪/confetti」:切符を切ると足下に多くの紙片が溜まる ・「アンヴァリッド」には「オペラ」で乗り換え:現在では1958年当時の路線と異なり、「リラの門」から「オペラ」までは一度乗り換えが必要(3bis号線Gambettaで3号線に乗り換え、または11号線Répbliqueで3号線に乗り換え) ・「アール・ゼ・メティエ」には「ル ヴァロワ」方面で直通:現在ではむしろ11号線Châtelet方面で直通 「Le poinçonneur des
Lilas」には続編がある。1966年の「Le fossoyeur de Pacy-sur-Eure/Pacy-sur-Eureの墓堀人」。メロディーは同じで、地下鉄を退職したpoinçonneurはPacy-sur-Eure(Haute-Normandie地方圏 Eure県の町)で墓掘人になった。そこにはシクラメン、ベゴニア、菊はあるけれどリラはない。彼は今や地上で、燦々と輝く太陽の下で大きな穴を掘っている。1等の穴を、2等の穴を。小さな穴より大きな穴の方がいい、小さな穴より、小さな穴より・・ 2010年7月パリ19区「Porte des Lilas/リラの門」地区に「Jardin Serge Gainsbourg/セルジュ・ゲンズブール公園」が誕生した。外周環状自動車道の下を中心に広さ約1.4haの都市型緑地。7月8日午後に行われた開設セレモニーにJane Birkin、Charlotte Gainsbourg,の母娘、Bertrand Delanoë Paris市長、この案を推進したパリ19区Roger Madec区長らが出席した。区長「Serge Gainsbourgが『Le poinçonneur
des Lilas』を歌ってくれるまでは、誰もリラの門がどこにあるか知らなかった」。Birkin「Sergeの死後20年になろうとする今日、彼は自分の庭を持つことが出来た」。 「Le poinconneur des lilas」 1958年3月29日TV「Chez vous ce soir」で https://www.youtube.com/watch?v=uoldELYA_bE 1978年4月9日TV「Musique and music」で http://www.ina.fr/video/I04258935 「Le fossoyeur de Pacy-sur-Eure」 http://www.ina.fr/video/I04258899/ |
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今月の顔 8月 シャルル・アズナヴールCharles Aznavour シャルル・アズナヴールCharles Aznavourは1966年「Paris
au mois d’août/8月のパリ」を歌った。 「Paris
au mois d’ao ût」(1966年 Charles Aznavour作詞、Georges Garvarentz作曲)歌詞の大意: ・・9月に追い立てられるように、僕たちの一夏の恋は、悲しくも崩れ、過去のものになろうとしている、僕の期待は空しかった、そして僕のうつろな心はよく似ている、8月のパリに。 涙と笑いで作られていた僕たちの恋は、最悪の事態を恐れながら、その日暮らしに生きてきた、どの通りも、石さえも、僕たち二人だけのもののようだった、この地上には僕たち二人だけだった、8月のパリでは。 君がどんなに遠くに離れていようと、君に「Je t’aime」に言うために、僕の一部は君にまつわりついて離れない、そうして僕の残り部分は孤独で至るところに探し求めた、めくるめく光を、8月のパリの。 願わくは君の唇の上に少しばかりの8月を見つけ、君の瞳にパリを見つけたいという僕の夢が、実現するように、そして少し常軌を逸した僕たちの恋が再び始まるように、8月のパリで・・ シャルル・アズナヴールCharles Aznavour(1924-ACI)の略歴・・1960年代まで ・1924年5月22日Paris 5区で誕生。本名Shahnourh Vanenagh Aznavourian。両親はArménieから移住 ・1933年9歳で児童劇やシェイクスピア劇に出演。その後姉Aïda(1923-)とともに劇団に入り、国内各地を巡る ・1942年Pierre Roche(1919-2001)とデュオ「Roche et Aznavour」を結成 ・1946年Edith Piaf(1915-1963)と知り合う。50年代 8年間Piafの「l’homme à tout
faire/何でも屋」に。作詞家としてPiafに「Il y
avait/若者がいた」(50年)、「Plus bleu que tes yeux/あなたの目よりも青く」(51年)、「Je hais les dimanches/日曜は嫌い」(52年)などを提供 ・1950年デュオ「Roche et Aznavour」解散 ・1951年「J’aime Paris au mois de mai/5月のパリが好き」 ・1952年ソロで歌い出す ・1955年6月Sydney Bechetの前座でOlympia初出演 ・1956年「Sa jeunesse/青春という宝」、「Après l’amour/愛の後で」 ・1956年アルメニア出身の作曲家Geoges Garvarentzと知り合い、Aznavour作詞、Garvarentz作曲で多くのヒットを ・1957年Olympiaにvedetteとして初出演。前座はDalida ・1960年11月公開のFrançois Truffaud監督「Tirez sur le pianist/ピアニストを撃て」で主役 ・1960年12月Paris Alhambraに出演、「Je m'voyais déjà/希望に満ちて」を斬新な演出で歌い人気に ・1961年「Il faut savoir/それが分かれば」、「Comme des étrangers/見知らぬ人のように」、「Non,je n’ai
rien oublié/ 遠い想い出」(Aznavour作詞/Gatvarentz作曲)、「La marche des anges/天使たちの行進」(Aznavour/Garvarentz Aznavour出演映画「Un taxi pour Tobrouk」より) ・1962年「Les Comédiens/コメディアン」、「L’amour c’est comme un
jour/恋は一日のよう」、「Jezebel/ジェゼベル」 ・1962年Johnny Hallydayに「Retiens la nuit/夜を返して」(Aznavour作詞/Garvarentz作曲)を提供 ・1963年アメリカ公演、3月30日Canregie Hallに出演 ・1963年「La mamma/ラ マンマ」、「Bon anniversaire/素晴らしい誕生日」、「For me formidable」 ・1964年2月Michel Boisrond監督映画「Cherchez l’idole/アイドルを探せ」公開。Aznavour、Johnny Hallyday、Sylvie Vartan、Frank Alamo、Eddy Mitchell、Jean-Jacques Deboutなどの歌手が本人役で出演 この映画の中で歌われた次の曲はAznavour作詞/Garvarentz作曲 「Et pourtant/想い出の瞳」(歌Aznavour)、「La plus belle pour aller danser/アイドルを探せ」(歌Sylvie Vartan) 「Bonne chance/幸運」(歌Johnny
Hallyday)、「L’ange que j’attendais/僕が待っていた天使」(歌Frank Alamo) ・1964年「Qui/誰が」、「Hier encore/帰り来ぬ青春」、「Que c’est triste Venise/悲しみのヴェニス」、 ・1965年4月Théâtre du Châtletでオペレッタ「Monsieur Carnaval/ムッシュ カルナヴァル」上演。Aznavourは全曲を作曲、作詞はJacques Plante。後にAznavourも歌い世界的にヒットした「La bohème/ラ ボエム」は劇中Monsieur Carnaval 役のGeorges Guétaryが歌っている ・1965年「Reste/じっとこうして」、「Je te réchaufferai/愛は燃えている」 ・1966年1月7日Pierre Granier-Deferre監督映画「Paris au mois d’août」公開。 ・1966年1月20日初来日2日間滞在 ・1966年「Et moi dans mon coin/僕は一人片隅で」、「Les enfants dela guerre/戦争の子供たち」 ・1967年1月11日スエーデン人Ula Thorsell (当時25歳)とアメリカ、Las VegasのFlamingoホテルSilver Roomでcivil(民事上の)結婚式、証人はSammy Davis Jr.とPetula Clark。religieux(宗教上の)結婚式68年1月12日Parisのアルメニア教会で。 Aznavourにとって3回目の結婚。 ・1967年「Eteins la lumierre/灯りを消して」、「Les bons moments/素晴らしい時」 ・1968年5月日本初公演。5月12日東京、日比谷公会堂、14日名古屋、愛知文化講堂、16、17日大阪、フェスティバル・ホール、19日東京、サンケイホール、21日東京、厚生年金大ホール。Henri Byrsとそのアンサンブルが同道、伴奏。 コンサートの司会は古賀力 最近の日本公演は2007年2月3日―2月13日 ・1968年「Emmenez-moi/世界の果てまで」、「Le cabotin/大根役者」(Aznavour/Garvarentz) ・1969年「La lumière/光」(Aznavour/Garvarentz)、「Désormais/これからは」(Aznavour/Garvarentz)、「Je n’oublirai jamais/決して忘れない」(Aznavour/Garvarentz) Charles Aznavourとジョルジュ・ガルヴァテレンツGeorges
Garvarebtz(1932.4.1-1993.3.19 作曲家) Garvarentzはギリシャ、アテネ生まれ、アルメニア出身の両親と共に1942年Parisに。Conservatoire de Parisで学ぶ。56年Aznavourの姉Aïdaを通じてAznavourと知り合う。Garvarentzは1965年Aïdaと結婚。Aznavourは「Georgesは僕の姉と、僕の詩と結婚した」と語っている。Aznavour作詞、Garvarentzs作曲による曲は100曲以上で、2人の最初のコラボは56年の「Prends garde à toi/君に気を付けろ」、最後のコラボは1990年の「Ton
doux visage/君の穏やかな顔」。 Aznavour「私はGeorgesが入院している病室にピアノを入れさせた。私は作曲家というものは最後の最後までピアノで自分を表現したいと思うものだと信じていたから。私は彼の許へ詩を一つ置いてきた。いつもと同じようにGeorgesはその詩に曲を付けてくれた。そのシャンソンに私は『Ton doux
visage』というタイトルを付けた」。 Aznavour作詞、Garvarentz作曲になる曲には上記で示したもののほかは:「Ava Maria」(78年)、「Le temps des loups/狼たちの時代」(70年)、「Ils sont tombés/彼らは倒れた」(76年)、「Nous irons à
Verone/ヴェローナへ行こう」(73年)、「Les plaisirs démodés/昔気質の恋」(72年)、「Autobiopgaphie/自叙伝」(80年)、「Une vie d’amour/愛ある人生」(81年)「Embrasse-moi/僕にキスして」(86年)、「Pour toi Arménie/アルメニア、お前のために」(86年)などがある。 また、Garvarentzは150本以上の映画で音楽を担当しており、Aznavourが出演しているものでは:「Un taxi pour Tobrouk/地獄の決死隊」(61年)、「Le Diable et les dix commandements/悪魔と十戒」(62年)、「Le rat d’Amerique/アメリカのネズミ」(63年)、「Chrchez l’idole/アイドルを探せ」(63年)、「Paris au mois d’auût」(65年)、「Caroline chérie/愛しのカロリーヌ」(68年)、「Le temps des loups/狼の時代」(69年)、「Le part des
lions/獅子の分け前」(71年)などがある。 そのほか、ミュージカル「Deux anges sont
venus/二人の天使がやってきた」(65年)、オペレッタ「Douchka/ドウーシュカ」(73年)でも作曲も担当し、Aznavourの詩に曲を付けている.。 AznavourとGarvarentz 「Paris au mois d’août」について Aznavour作詞、Georges
Garvarentz作曲によるこの曲は、1966年1月7日公開されたPierre Granier-Deferre監督の映画「Paris au mois d’août」の主題歌。この映画は1964年刊行のRene
Fallet著「Paris au mois d’août」を映画化したもの。FalletはAznavourを念頭に主人公を考えたと言われている。 映画の粗筋: 9月にしかヴァカンスをとれないSamartineデパートの釣り具売り場に勤める40歳代の男性Henri Plantin(Aznavour)は、8月ヴァカンスに出発する妻と子供たち駅で見送った。Henriは8月のParisで独身生活を始めることになる。住まいの近くの「Café des sports」の常連客とわいわいやっていたHenri、ある日Panthéonはどこかと尋ねたイギリス人Patricia(Susan Hampshire)と知り合いになる。Patriciaは自称モードモデル、旅行中の由。25、6歳、でHenriより若干背が高いPatriciaを一目で気に入ったHenriは画家だと名乗りParisを案内。この映画によると当時Parisの8月は現在とは異なり観光客は少なく、静だったよう。その間に二人は激しい恋に落ちる。8月31日3週間のアヴァンテュールは終わる。Patriciaは去り、Henriは再び家族との生活に戻る。それでもPatriciaの思い出にHenriは朝食にはコヒーをやめて紅茶にした。 映画のポスター(映画は白黒)
「Paris au mois d’août」は1966年1月リリースのEP「Charles Aznavour chante
Paris au mois d’août」及びLP「Charles
Aznavour」に収録されている。EPには他に「Sur le chemin du retour/帰り道で」など3曲、「LPには「La bohème」、「La
route」(Aznavour作詞、Gilbert Bécaud作曲)、「Sarah」(Jacques Plante作詞、Aznavour 作曲)なども収録されている。Daniel Lesueur編集の「Hit Parades」によればこの曲は1度だけ、1966年8月、19位に顔を見せている。 「Paris au mois d‘aout」 1968年 https://www.youtube.com/watch?v=Dp2srrHiz1s 「Paris au mois d‘aout」 1994年 https://www.youtube.com/watch?v=i-5mUyWnKO |
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今月の顔 juillet 2015
ジャン・ギャバン Jean Gabinが晩年のヒット曲「Maintenant je sais/いま、私には分かる」を録音したのは1974年7月6日。 「Maintenant
je sais」(1974年 Jean-Loup Dabadie作詞、Philip Green作曲)歌詞の大意: ・・まだガキで、背も低かった頃、一人前に見せようと、声高に言ったもの「分かってる、分かってるって」。 駆け出しの頃で人生の春を謳歌している18歳になったときにはこう言ったものだった「分かってる、これでよし、今度は分かってる」。 そして今過去を振り返る頃になって、自分が散々歩き回った地球を眺めても、地球がどのように回っているか、相変わらず分からないまま。 25歳近くになって私は全てが分かっていた。恋愛、バラ、人生、金銭。そう、恋愛についてはそれまでに全てのことをやった。 幸いなことに、仲間の連中同様、自分に与えられたパンを全て食べてしまったわけではなかった。 人生の半ばにあって、私は更に学んだ。私が学んだことは、3つか4つの言葉で言える。「誰かに愛されている日々、それは素晴らしい」。それ以上うまくは言えない、「本当に素晴らしい」。 人生の秋を迎えている私が、人生で驚くこと、それは悲しい夕べはいくつあっても忘れてしまうけれど、愛に満たされた朝は一つとして忘れることはないということ。 若い頃はずっと、分かっていると言いたかった。けれども探せば探すほど、分からなくなった。 時計が60の時を告げるとき、私は相変わらず窓辺に寄り添って、外を眺め、自分に言い聞かせる。 いま、私には分かる。人は決して分かることがないと言うことが。人生、愛、バラ、金銭、人はそれらが出す物音も、色合いも、決して分かることはない。それが、私が分かっていることの全て。そう、それが私には分かる・・ Jean Gabin(歌手としての)略歴 ジャン・ギャバンJean Gabin、本名Jean-Alexis-Gabin Moncorge(1904.5.17-1976.11.15)はParis、Pigaslleに近い、23、bd.De Rochechouart(9区)に生まれた。父Ferdinand Gabinはカフェのオーナーで、Gabinの名でステージに立っていたオペレッ タ歌手、母Hélène Petitもカフェ・コンセールで歌っていた。 1922年18歳で父に強引に勧められFolies-Bergeèeにエキストラとして入る。 1923年12月Bouffes-Parisiensで上演されたオペレッタ「La Dame en décolleté/デコルテの貴婦人」にbarman役で出演、台詞なし、カウンターの中を黙々と動き回るだけ。 1924年~25年兵役で海軍に。 1925年12月からBouffes-Parisiensほかで18ヶ月上演された「Trois jeunes
filles nues/3人の裸娘」に端役で出演。 1928年春にはMoulin RougeのオーディションでミスタンゲットMistinguetteの目に止まり 1928年4月Moulin Rouge及びBouffes-Parisiensで上演されたレヴュー「Paris qui tourne/パリは回る」でMistinguetteのboy(主役の背後で踊る群衆の男性ダンサー)として出演、パートナーとして「On me
suit/皆ついてくる」などを歌う。 1929年5月Bouffes-Parisiensで上演されたオペレッタ「Flossie/フロッシー」に出演。 1930年5月Bouffes-Parisiensで上演オペレッタ「Arsene Lupin
banquier/銀行家アルセーヌ・ルパン」に配役順で3番目のGontran役で出演。「C’est chouette d’être un monsieur/紳士であることは素晴らしいこと」、「Quand on a ça/そんなことがあると」をソロで歌う。 1930年「Chacun sa chance/誰にもチャンスが」で映画初出演、その後は映画俳優の道を歩む。 初期の映画の中では歌い踊る場面が数多く見られる。 1932年の「La belle marinière/ラ ベル マリニエール号」では「La chansons des mariniers/船頭の歌」を歌う。 1934年Joséphine Bakerと共演した「Zouzou/はだかの女王」では「Viens Fifine/おいで、フィフィヌ」を歌う。 1936年のJulien Duvivier監督「La belle équipe/我等の仲間」では「Quand on s’promène au bord de l’eau/水の畔を歩いてみると」(Julien Duvivier他作詞、Maurice Yvan他作曲)と「Qu’est-c’que tu dis d’ça/どんな話だ」を歌う。 1837年「Pépé le moko/望郷」では「Que faut-il?/何が必要か?」、「La descente de la Casbah/カスバを降りる」を歌う。 1974年40年振りに「Maintenant,je
sais」他1曲を録音 1976年11月15日心臓発作によりパリ郊外のNeuillyのアメリカ病院で死去。遺体は荼毘に付され、遺灰は遺志によりブルターニュ、Brestの外洋に散布された。墓所はCimetiere de Neuilly、3、rue Victor Noir 92200 Neuilly sur Seineにある。 Gabinが映画の中で歌った曲はレコード化されていない物もあり、生涯30曲ほど録音している。 「Maintenant je sais」について 1974年作詞家のJean-Loup Dabadieジャン=ルー・ダバディはJean Gabinに歌ってもらいたいと「Maintenant je sais」を作詞した。そしてPhliip Greenフィリップ・グレーン(1911-1982、英国の作曲家)が作曲し、曲が出来上がった。 Jean-Loup Dabadie(1938Paris―)は新聞記者、作家、作詞家、脚本家、演出家。2008年Académie françaiseの会員になっている。1960年代末からSerge
Reggiani、Marcel Amont、Julien
Clerc、Dalida、Claude François、Mireille Mathieu、Yves Montant、Michel Polnareffら多くの歌手に歌詞を提供している。特にReggianiの「Le petit garçon/少年」、Clercの「Ma préférence/僕の好みの人」、「L’Assasin assassiné/殺された殺人者」、Polnareffの「Lettre à France/フランスへの手紙:哀しみのエトランジェ」、「Holidays/愛の休日」などはその歌手の代表作になっている。 GabinはCBS社と「Maintenant je sais」の録音に同意した。しかし、そのちょうど1年前にJose
Giovanni監督映画「Deux homes dans la ville/暗黒街の二人」撮影の際、体調不良を訴えていたGabinは、最初に録音の日として設定された日をキャンセルした。最終的に録音は1974年7月6日になった。スタジオに入ったGabinの許にFrancis Blancheの訃報が届いた。俳優で、作家で、ユーモリストであったBlanche(1921-1974)は古くからのGabinのpote/親しい友人。 録音はDisque
Bagatelleの Studio 10で、Jean-Pierre
Sabarの指揮で行われた。スタジオには悲痛な雰囲気が漂っていた。録音は2回行われ、Take oneの方が良い出来だった。「Maintenant je sais」と「Maître Corbeau et Juliette Renard」(Jean-Loup Dabadie作詞Jean-Pierre Sabar作曲、Anne Germainとのデュオ)とのカップリングによるSPは、Thérèse Ruyantのコンセプト、写真家Marcel Doleによる写真をジャケットで7月にはリリースされ、7月のチャート3位であった。 Anne Germainは1935年生まれの歌手。Charles
Aznavour、Gilbert Becaud、Michel
Sardouら多くの歌手のバックコーラスを務め、Jacques Demy監督の映画「Demoiselles de Rochefort」にはCathertine
Deneuveの歌の吹き替えを務めている。 「Maintenant,je sais」については、75年1月にはGabin自身が歌う英語ヴァージョン「But now I know」がリリースされた。 このレコードは日本では1976年Gabinの死後「追悼盤」としてリリースされた。その際「Maintenant je
sais」には「俺の人生」、「Maitre Corbeau et Juliette Renard」には「カラスの先生とジュリエット狐」の邦題が付けられていた。 この曲は2010年7月リリースのコンピレーション「15 titres de Jean Gabin/ジャン・ギャバンの15曲」、2011年3月23日リリースの「Intégrale Jean Gabin/ジャン・ギャバン全集」などに収録されている。 ジャケット 「Quand on s’promène au bord de l’eau」 https://www.youtube.com/watch?v=Mi-WY_1zf-8 「Maintenant,je sais」 https://www.youtube.com/watch?v=orDR4JA91F4 |
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今月の顔
マキシム・ル フォレスティエ Maxime Le Forestierは2011年6月21日 彼の最大のヒット曲「San Francisco」に歌われた 「San Francisco」(1971年、作詞・作曲 Maxime Le Forestier)歌詞の大意:・・・・それは青い色の家、丘を背にした、人はそこに歩いてやってくる、ノックもしない、そこに住む人たちは鍵を捨ててしまったから。何年も旅した後、また顔を合わせる、食事どきになるとみんなが集って来て揃う、夕方の5時には。もやに包まれたSan Francisco、San Franciscoに灯がともる、San Francisco、君たちはどこにいるの、Lizzard 、Luc、Psylvia、僕を待ってて。 今夜も聞くだろう、Tomのギターを、Philのケナを、真っ暗になるまで。 また一人やって来た、そしてニュースを伝えてくれる、1.2年後にはまたやってくるだろう彼の。今彼が幸福だと知ってみんな安心して眠りにつく。San Franciscoが起きるとき、君たちはどこにいるの、僕を待ってて。 それは青い家、僕の思い出の中に残っている。人はそこに歩いてやってくる、ノックもしない、そこに住む人たちは鍵を捨ててしまったから。髪の長い人たちが住み、大きなベッドがあり、音楽と光が住み、常軌を逸した人が住む。それは最後まで立ち続けるだろう、もしSan Franciscoが崩れ落ちたとしても。Lizzard 、Luc、Psylvia、僕を待ってて。 ・Maxime Le Forestier略歴 マキシム・ル フォレスティエMaxime
Le Forestier(1949.2.10- 本名Bruno Le Forestier Paris生まれ、 ACI) 14歳でギターを習い始め、時折、Saint-OuenのMarche aux puces/のみの市にあるbar「Chez Louisette」に出演していた。65年姉のCatherine(1946-)とデユオ「Cat et Maxime」を組んで左岸の小さなキャバレでPPM(ピーター、ポール&マリー)の曲をフランス語で歌い、また、Georges
Moustakiに提供された「Le facteur」、「La
ballade de nulle part」などを歌っていた。その後このデュオは作詞作曲をするようになりMaximeが作詞した「Ballade pour un traitre/裏切り者のためのバラード」をSerge
Reggianiが取り上げてくれるなど成功の兆しが見えたが、デュオはMaximeの兵役(により自然解消。 1970年5月Maximeは除隊後ソロで音楽活動を再開 1972年ファーストアルバム『Mon frère』をリリース:「Mon frère/兄弟:追憶のコンチェルト」、「San Franciscoサン フランシスコ」「La Rouille/さび」、「Education sentimentale/感情教育」、「Ça sert à quoi/わが人生」、「Parachutiste/落下傘兵」、「Comme un arbre/1本の木のように」、「Fonteray-aux-Roses」(Hauts –de- Seine県の町)など11曲が収録されている。 1972年10月パリ BobinoでGeorges Brassens(1921-1981)の前座をつとめる Le Forestier「Brassensに大きな影響を受けた。14歳の時、それまでのヴァイオリンに代わってギターを習いたくなり、パリの楽器店でギターを買った。その際Brassensの『Le gorille/ゴリ』、『La mauvaise réputation/悪い噂』などの譜面も買うように勧められた。だから私が初めてBrassensのシャンソンを知ったとき、私は彼がどんな風にそれを歌っているのか知らなかった」。 Le ForestierはBobinoのこの公演で世に出たと言ってよく、Brassensの一番弟子と言われている。79年にはパリのGaîte
Montparnasseでの2回の公演を皮切りにフランス及びベルギー国内で「Le Forestier
chante Brassens/ル フォレステイエ ブラッサンスを歌う」と銘打ったコンサートを行った。また、97年-98年の18か月、20数か国において220回以上のBrassensの曲ばかりを歌う世界ツアー「Maxime chante Brassens/マキシム ブラッサンスを歌う」を行った。そして、98年秋Brassensの曲84曲を収めたCD4枚組のアルバムル「Le cahier /手帳」をリリース、それにはBrassens自身は歌うことがなかった曲も収められていた。 1973年9月セカンドアルバムLP『Le Steak』:「Le
Steak/ステーキ、空腹を託つ男の哀歌」、「Dialogue/対話」、「Mauve/むらさき色」など11曲。 1973年Olympiaに初出演 その後定期的にアルバムをリリース 1988年10月リリースのアルバム『Né quelque part/どこかで生まれて』に収められた「Né quelque
part」でVdM最優秀シャンソン賞を受賞。 1996年にはVdMで最優秀男性歌手賞 2004年ミュージカル 「Spartacus、Le Gladiateur/剣闘士スパルタカス」では作曲を担当、
詩はElie Chouraqui。04年10月1日からPalais des
Sports公演 2008年アルバム『Restons amants/恋人同士でいよう』 2011年には自伝「Né quelque part/どこかで生まれて」(87年のヒット曲のタイトルから)を出版。 2012年Académie
FrançaiseからGrande Médaille de la chanson françaiseを授与される 2013年4月最新アルバム『Le cadeau/贈り物』:「Le cadeau」、「Le p’tit
air/ちょっとしたメロディー」、「Les
coups/打撃」、「La p’tite hirondelle/小さなツバメ」、「Impasses des oiseaux/鳥たちの袋小路」、「La folie/狂気の沙汰」(Camilleとのデュオ)、「La caillou/小石」、「L‘averse/にわか雨」など収録 Le
Forestuerは他の歌手とも作詞作曲で協力している。特にJulien Clercとの協力は76年からで、Clercの06年のヒット曲「Double enfance/2重の子供時代」、08年「Restons amants」(Le Forestierも歌っている)、11年の「Fou , peut-être/常軌を逸した、おそらく」はLe Forestierの詩にClercが曲を付けたもの。他にもIsabelle Boulay、Céline Dionなどに詩を提供している。 Le
ForestierはまたLes
Enfoirésの常連で、1998年出演の際Vanessa Paradisとのデュオで歌った「Mistral gagnant/ミストラル ガニャン」(Renaudの1985年のヒット)は評判になった。 「Mistral gagnat」Le Forestier & Paradis https://www.youtube.com/watch?v=1Ax221B6LAM ・「San Francisco」と「maison bleue」 1971年7月3日Catherine Le Forestierは弟のMaximeをギター伴奏者にしてSpa(ベルギーのリエージュ県)で行われたLe 8e festival de la chanson française/第8回シャンソンフランセーズフェスティヴァルで優勝した。2人は優勝で得た賞金でSan Franciscoに向かい、ベルギー人の友人で俳優のLuc Alexandreに勧められた「maison bleue/青い家」のアドレス(The Castro地区の3841,18e rue、 Dolores Parkに近い)に赴いた。・・「『San Francisco』を聞いて『maison bleue』を思い描いているファンはその家が丘に抱かれた一軒家ではなく、街中にあるので落胆することがある。 San Franciscoは全体が巨大なsquat(不法占拠された街)のようだった。そしてその中でも特に『maison bleue』は。それは『Hunga Dunga』と呼ばれていたヒッピーのコミュニティーの真ん中にあり、ヒッピーや同性愛者のたまり場だった。画家が、彫刻家が、歌手が、ダンサーが、ミュージシャンが住んでいた。皆friendsだった」。 Le Firestier姉弟はそこで1ヶ月過ごした。「San Franciscoで僕は自由というものが存在することを知った。住んでいる人たちは、典型的なアメリカ人であるハンバーガー人種ではなく、ベジタリアンだった。滞在期間中多くの音楽を聞いた。特にベースの伴奏で詩を朗読する女装したAllen Ginsberg(1926-97 詩人 Beat Generationの代表的人物)に会った」。フランスに帰国した後Maximeはmaison bleueの住人から手紙を受け取った。英語があまり得意でなく返事を書くことができなかったMaximeは返事の代わりに、71年秋Paris Saint-Ouenの自宅で作った「San
Francisco」をテープに録音、それを送った。曲を発表するつもりもなく。 ある日Maximeはやることもなく、時間をもてあましていた。そしてたまたま録音スタジオが空いていたので暇つぶしのためにこの曲を録音。アルバムに加えることにした。 ヴィクトリア調のmaison bleueはその後緑色に塗り替えられていた。2011年「San
Francisco」が発表されてから40年になるのを機会に、Maximeの所属するPolydor社は、maison bleueの現所有者及び居住者に、当時のようにブルーに塗り替えることを提案。在San Franciscoフランス総領事Romain Sermanの尽力、また塗料メーカーRessource社の協力もあり、家は40年前同様ブルーに塗り替えられることになった。色は同社の見本からMaximeが選んだ。そして6月21日Maxime自身が最後の一刷毛を塗った。6月22日maison bleueに付けられた銘板の除幕式が行われた。Maximeがテープをカットした。銘板には「1970年Maxime Le Forestierはこの家にインスピレーションを受け、彼のデビュー当時のヒット曲の一つ『San Francisco』を作った」と書かれ、銘板にはこの曲を収録したレコードジャケットのレプリカがはめ込まれている。6月23日にはmaison bleueに近いレストラン「Chez Chow」でMaximeを囲んだ昼食会が開催された。曲の中でケナを演奏していると歌われた Phil、「僕を待ってて」と呼びかけられたPsylvia、それに当時のmaison bleueの住人Larryが出席した。LucとLizzardはエイズで亡くなっていた。 [なお、Le Forestier姉・弟がmaison bleueに滞在したのは1971年のよう] 2011年にはまたファーストアルバム「Mon frère」リリース40年周年を記念して、同じPolydor社に所属する歌手が「Mon frère」収録曲11曲をカバーしたトリビュートアルバム「La maison
bleue/青い家」がリリースされている。ここでは「Mon frère」をCalogeroが、「San Francisco」をDaby Toure他が、「Education sentimentale」をAdamoが、「Ça sert à quoi」をEmily Loizeauが、「Parachutiste」をJuliette & François Morelが、「Comme un
arbre」をLa Grande Sophieが、「Fontenay-aux-roses」をStanislasが歌っている。 「San Francisco」 1972年9月29日 http://www.ina.fr/video/I12062595/maxime-le-forestier-chante-san-francisco-video.html 「San Francisco」 2014年10月30日https://www.youtube.com/watch?v=rN6OhLo16Dk 新装maison
bleue と銘板 |
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2015年5月 今月の顔
Marcel Amontの略歴 マルセル・アモンMarcel Amont(1929.4.1-本名Marcel Jean-Pierre Balthazar Miramont、 Bordeaux生まれ、歌手、作詞・作曲も行う、俳優) Bac(中等教育修了認定試験)合格の後、体育の先生を目指しInstitut d‘Education Physique/体育学校に入学、同時にBordeaux のConservatoire national d’art dramatique/国立演劇学校で演劇を学ぶ。地元でバンドの歌手、オペレッタの歌手、あるいはMolière劇の端役などで活躍 1950年1月にParisに 1953年キャバレ「Chez Pasdoc」に出演の際Jean Nohain(1900-1981年 作詞家、司会者)に認められ、その一座(Troupe)に入り国内巡業。Philippe Clay(1927-2007)らの前座で歌う。またNohainが司会をしていたTV番組「36 chandelles/36本の蝋燭」にしばしば出演 1954年8月27日Deauville(英仏海峡に面したCalvados県)シャンソンコンクールで「Le pigeon voyageur」/伝書鳩」を歌い「Le prix d’interprétation/歌唱賞」を受賞 1956年5月Paris Alhambraに出演 1956月24日からEdith Piaf(1915-63)の前座としてOlympiaに出演 1956年最初のEP「Marcel Amont」をリリース。「Escamillo/エスカミリオ」、「Le pigeon voyageur」他2曲収録 1956年11月公開の映画「La mariée est trop belle/美しすぎる花嫁」で映画初出演、BB(1934-)らと共演 1958年11月リリースしたOlympia出演のLiveLP「Marcel Amont à l’Olympia」(「Cha cha Boum/ブンのチャチャチャ」、「Viens/お出で」、「Sur la table/テーブルの上に」、「Escamillo」など9曲収録)が59年ACC賞を受賞 1959年最大のヒット曲「Bleu,blanc,blond/ブルー・ブラン・ブロン」 1962年にはBobinoに3ヶ月間Claude Nougaroの曲「Le jazz et la java/ジャズとジャヴァ」などを歌う 1963年5月、初来日「日本語のおけいこ」(谷川俊太郎作詞、寺島尚彦作詞)を披露 1963年「上を向いて歩こう」を「Sous une pluie d’étoiles/星の雨の下で」(Frank Gérald 翻案)のタイトルで歌う 1965年vedetteとして5週間のOlympia公演。12人のバックダンサーに踊らせるという斬新な演出で評判に 1970年Olympiaでの5週間公演、2時間のステージの演出はより磨き上げられ、それを持って世界ツアーへ 1971年6月2度目の来日 70年代には4枚のアルバムをリリ-ス、「C’est aujourd’hui dimanche/今日は日曜日」(71年)、「Le chapeau de Mireille/ミレイユの帽子」(74年)、「Viennois/ウイーン人」(79年)、「La galère/辛い生活」(79年) 80年代には「démodé/時代遅れ」と考えられ、レコードのリリース、TV出演も減り、活動の中心を「シャンソンフランセーズの親善大使」としての外国でのツアーに 2006年「砂漠を横断するような/traversée du désert」停滞期を過ごした後、アルバム「Décalage horaire/時差」でカムバック 2007年1月18日、1日だけOlympiaに出演、最初の出演から50年を記念して、同劇場23年振りの出演 08年から2年間ユニット「Age tendre
et têtes de bois」に参加 2009年10月ParisのLa Grande Comédie
de Parisで80歳の誕生日を祝う 2009年自伝「Sur le boulevard du temps
qui passe/『過ぎゆく時間』通りにて」を出版 2010年8月 21曲収録コンピレーション「Tout
doux tout doucement/優しく、とても優しく」 2010年11月Emma Daumasの子供向けアルバム「Les larmes de Cricodille et autres fables/ワニの涙その他の物語」で「Dino le dinosaur/恐竜ディノ」他3曲を歌う 2012年10月自伝続編「Il a neigé/雪が降った」 2012年11月25日Paris Alhambraでキャリア60周年を祝う。 その後国内及びフランス語圏ツアー 2014年9月28日50曲収録「Best of
Marcel Amont」 2014年3月「Lettre à des amis/友人たちへの手紙」刊行 Charles Aznavour、Maurice Chevalier、Yves Montand、Alain Souchonらへの手紙の形式による交友録 2015年1月7日から「Age tendre
et têtes de bois」」に参加。Petula Clark、Nicolettaらと出演 ・AmontのParis Olympia出演 Amontは1956年5月24日Edith Piaf(1915-63 歌手、作詞・作曲も)の前座でParis Olympia劇場(28、bd.Des Capucines Paris 9区)に初出演した。 Olympiaの当時の支配人Bruno Coquatrix は、直前にAlhambra劇場に出演して好評だったAmontの評判を耳にしてAmontを前座で歌わせたいとPiafに提案した。PiafはAmontの「gentille fantasie/大人しい(品の良い)、奇抜さ」が気に入って、それに賛成したと言われている。 5月24日のプログラム冊子にはAmontの名は:「Dany Kaye a dit de lui 『C’est moi en francais』 MARCEL AMONT En supplément du programme /ダニー・ケイが「フランスの私」と言っているMARCEL AMONT 追加出演者」と表示されていた。この公演のプログラムは、当時のvariété劇場での一般的な公演形式に則り、次のようだった(らしい)。 第1部はAmontが幕開きに歌い、次に男女2人のダンスショー、次にパラグアイ出身のグループによる歌と演奏、次にドッグショー、一部の最後はお笑いコンビによるトークショー。 そして第2部はRobert Cauvigny指揮のオーケストラをバックにしたPiafのワンマンショー。 この公演でAmontは、たちまちマスコミがこぞって、そして一般の観客も、「Révélation de l’année/今年の新星」と評価するほどに人気になった。 当初Piafの公演は5月24日から6月12日までの予定。その後公演はまず7月1日まで延長された。そしてさらに7月12日まで延長された。 そしてAmontは、最初は人数合わせのような存在であったが、最後には出演者の格付けでは「la
tête d’affiche/ポスターの筆頭」(あるいは「la vedette principale/主役」) であるPiafに次ぐ第2位(La deuxième position sur l’affiche/ポスターの2番:la vedette américaine/準主役)、第1部のトリで歌うようになった。 すでにキャリアがあり、独特のスタイルを持ち、観客を引きつける術を十分心得ていたMarcel 「この公演では全くの新人が務めるsupplément du programmeの立場で出演したが、最終的には出演者の格では第2位になった。しかし、偉大な、そして最盛期にあった大スターPiafに比べれば、その差が大きすぎる2位だった。それにしても、私にとって1956年という年は、それ以前と、それ以降とを画す、今まで全く違う、比べようのない、奇跡の1年だった。私にとって全てがこの年に始まった。 Piafには感謝している。日程が延長されるたび私が出演を続けることに同意してくれた。 この公演の期間中毎夜舞台裏からPiafを観察した。そしてミュージックホールにおけるステージ動作や態度を学んだ」(2007年、14年のインタヴューで)。この公演中Amontは「Escamillo」、「Le pigeon voyageur」などを歌った。Piafのステージの模様はライヴアルバム「Edith Piaf à l‘Olympia1956」になっていて、「Hymne à l’amour/愛の讃歌」、「L’accordéoniste/アコーデオン弾き」、「Les amants d’un jour/ある日の二人」などを歌っている。そしてこの公演中Chalie ChaplinとMarlene Dietrichが観客として顔を見せていたとの資料もある。 Marcel AmontとEdith Piaf:1956年Olympiaの舞台裏で 「Escamillo」1957年1月7日 ORTFのTV番組「36 chandelles」 http://www.ina.fr/video/I10043131/marcel-amont-escamillo-video.html 「Bleu,blanc,blond」1960年5月30日 ORTFのTV番組「Toute la chanson」 http://www.ina.fr/video/I04280777/marcel-amont-bleu-blanc-blond-video.html |
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2015年4月「今月の顔」
Yvette Giraudは1950年「Avril au Portugal/ポルトガルの4月」を歌っている。 ・「Avril au Portugal」(1949年、Jacques Larueフランス語の歌詞/Raul Ferrao作曲)歌詞の大意: ・・お話ししましょう、私に起こったことを。幸せな日々の思い出として心に抱き続けている恋物語について、いろいろなことが起こった旅について。 大型船が波止場に着き、下船する人たち。木立から見つめる二つの瞳、私たちが見つめ合い、私が心の中で歌い始めたとき、恋の雰囲気があちこちに。・・ポルトガルの4月は二人にとっては理想的、そこでは人は陽気に浮かれ、空は誰よりももっと陽気。感傷な人には、恋は4月のポルトガルではない別の場所にある・・目を閉じている間に夕暮れは忍び寄り、船窓からは岸辺が見え、色とりどりの帆が見える。花々の強い香りと、大道芸人たちの歌声が私のところにも届いてくる。それら全てが、幸せな夢、私の心を揺する。私はその幸せを懐かしむ気持ちを持ち続けている。 毎夜私たちを見守ってくれた愛の神、だから解っているはず、私が何時か再び愛の神に会いたいと願っていることを。・・ポルトガルの4月は二人にとっては理想的、そこでは人は陽気に浮かれ、空は誰よりももっと陽気。 ポルトガルは心から待っていてくれる、私がポルトガルに行くことを、4月に・・ ・Yvette Giraud(1916-2014 歌手)略歴 Giraud、本名Yvette Houron、は1916年9月24日Paris、Quartier Latin生まれ、Montparnasse育ち。1922年生まれとしている資料があるが、16年生まれが正確のよう。 45年美声を認められイギリス軍の軍用劇場に採用され、そこで作詞家のJacques Planteと知り合い結婚。PlanteはAznavourの「La bohème/ラ ボエム」、Montandの「Les grands boulevards/グラン ブルヴァール」の作詞者。46年Giraudのために「Mademoiselle Hortensia/あじさい娘」と「La danseuse est créole/女性ダンサーはクレオール出身」(作曲はいずれもLouiguy)を書き、それらがGiraudのデビュー曲。「Mademoiselle Hortensia」はGiraudの代名詞になった。Planteの詩による「J’ai
peur de revenir/家へ帰るのが怖い」、「Sentimental Journey」にPlanteがフランス語の歌詞を付けた「Petit Voyage sentimental」、同じく南米の曲にフランスの歌詞を付けた「La fête des fleurs/花祭り」もGiraudの初期のヒット曲。GiraudはElvis Presleyの「Love me tender」のをFelnand.Bonifayが翻案した「L’amour
qui m’enchaîne à toi/私をあなたに縛り付ける愛」も歌っている。 Giraudは52年にCompagnon de la Chanson/コンパニオン ド ラ シャンソンのメンバーであったMarc Herrandと再婚。HerranはGiraudのアレンジャー、バックオーケストラの指揮者を務め、また作詞・作曲もしている。Giraudはその後「Ambassadrice de la chanson française/シャンソンフランセーズの親善大使」として世界各国で公演。1955年インドシナ公演の後初来日。以来日本を主要な活動の場とし、ほぼ毎年のように来日、99年の最後の来日までその回数は35回を数えた。Giraudは95年2月14日日本政府から日仏文化交流に貢献した業績に対して勲4等宝冠章を授与された。Herrand作詞作曲による「Trente ans/30年」は日本への愛情を歌ったもの。Giraudは1999年歌手活動を止め、フランス東部Strasbourgに居住。2014年8月3日同地で死去、享年97歳。 Giraudのヒット曲は上記の他: 「Les lavandières
du Portugal/ポルトガルの洗濯女」、「Avril au Portugal/ポルトガルの4月」、「Cerisier rose et pommier blanc/バラ色の桜んぼの木と白いリンゴの木」、「L’âme des poètes/詩人の魂」、「Johnny guitare/ジョニー ギター」、「Le petit
cordonnier/小さな靴屋さん」、「Les croix/十字架」、「Un home est un homme/男は男」(原曲は「A guy is a guy」)、「Bal du faubourg/場末の舞踏会」(Aznavour作詞、Pierre Roche作曲、Giraudは創唱者といわれている)、「Le pont Mirabeau/ミラボー橋」、「L’Hymne à l’amour/愛の讃歌」など。 ・「Avril au Portugal」について 原曲はポルトガルの曲「Coimbra」。Coimbra/コインブラはリスボンから北約200km、ポルトガル第3の都市。古代ローマの遺跡がある歴史的な町、ヨーロッパでも古い大学の一つで13世紀に設立されたCoimbra大学がある学園都市、「ペドロとイネスの物語」の舞台となった町、ポルトガル文化の中心地で観光客に人気の町。そして、知的な、明るいファド発祥の地とも言われ、ファドは学生たちによりセレナードとして歌われていた。 楽曲「Coimbra」はJose Maria Galhardo作詞、Raul
Ferrano作曲で1930年代には出来ていたがほとんど知られることはなかった。1947年Armando de
Miranda監督の映画「Capas Negras/黒いレインコート」の中で男性歌手によるセレナーデとして用いられた。この映画で主役を演じた、代表的なファドの歌手Amalia Rodrigues(1920-1999)が映画の公開直後にこの曲を歌ったことから、世界的に知られるように。 第2次大戦後ヨーロッパ復興を計ったアメリカのMarshallプランの一環としてヨーロッパ各地で当時の人気歌手によるコンサートが開かれた。GiraudはDublinのコンサートにRodriguesと共に出演した。その際Giraudは、Rodriguesが自身の好きな曲を歌ってくれるよう所望した。Rodriguesは「Coimbra」と「Lisboa nao seja Francesa/リスボンはフランスにはない(?)」を歌った。「Coimbra」が気に入ったGiraudはJacques Larueに翻案を依頼。Larue(1906-1961作詞家)は「Les bleuets d’azur/空色の矢車草」(Marcel Amontほか)、「Cerisiers roses et pommiers blancs/バラ色の桜んぼの木と白いリンゴの木」(Andre Claveau、Giraudほか)などの作詞を行っているほか、「Limelight」(「Deux petits chaussons」)、「Bambino」、「Come Prima」、「Volare」(「Dans le bleu du ciel bleu」)、「Quizas,qiuzas,quizas」(「Qui,sait,qui sait,qui
sait」)などにフランス語の歌詞を付けている。 そして1949年「Coimbra」のフランス語版「Avril au Portugal」が誕生。Giraudこれを1950年レコーディング。 「Coimbra」には1953年Jimmy Kennedyのより英語の歌詩が付けられ「April in Portugal」となり、Louis Armstrong(1953年)、Bing Crosby(1961年)などが歌っている。60年代になるとジャズ、スウィング、フォーク、ポップスなど種々の形にアレンジされ、今日まで200以上のヴァージョンで録音されていると言われている。2006年リリースされた、CD「Ils ont chante Coimbra:Avril au Portugal-April in Portugal」にはGiraud、Rodrigues、Armstrong、Crosby、Eartha Kittなどの歌、Xavier Cugat、Perez Pradoの演奏など、この曲が24のヴァージョンで収録されている。 「Abril em Portugal/ポルトガルの4月」はポルトガル観光のスローガン、キャッチコピーとなった。また、ポルトガルでいわゆるカーネーション革命が起こったのは1974年4月25日。 「Avril au Portugal」はGiraudのほかLine Renaud、Charles Dumontらも歌っている。 「Coimbra」Rodrigues https://www.youtube.com/watch?v=XQ_IXtJ1Oco 「Avril au Portugal」 Giraud(1950年) https://www.youtube.com/watch?v=5ADRi_lZmqg Giraud(1987年) https://www.youtube.com/watch?v=2d98-ITWEvA 「April in Portugal」Crosby https://www.youtube.com/watch?v=uR3CSWd55ko |
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2015年3月「今月の顔」
Véronique Sansonが「Amoureuse/恋する女」(「愛のストーリー」、「恋人」の邦題あり)を収めたファーストアルバムLP「Véronique Sanson」をリリースしたのは、1972年3月20日。 ・「Amoureuse」(1972年作詞・作曲 Véronique Sanson)歌詞の大意: ・・一晩私は彼と眠る。私たちには許されないことだとは解っているけれど。私は心の中が熱くなるのを感じる。少しも後悔はしていない。 夜明けの光が私を眠りに誘う、私は太陽が昇らないようにと願っている。 私が彼の頭を両手の中に抱くとき、私は悲しみに襲われる。そして私は自分に問いかける、この愛に明日はあるのかと。 彼から遠くなると私は冷静ではいられない。私はもうここにはいない。私は他の惑星に降る雨のよう。 彼が私を抱きしめるとき、私が彼の人生の中に入ったと感じるとき、私は運命が私をそこから出してくれるようにと祈る、悪魔が私を運び去るようにと祈る。 不安が私の頭をよぎるとき、それを言葉に出してしまう。 私が彼の頭を両手の中に抱くとき、私は悲しみに襲われる。 そして私は自分に問いかける、この愛に明日はあるのかと。彼から遠くなると私は冷静ではいられない。私はもうここにはいない。私は他の惑星に降る雨のよう・・ ・Véronique Sansonの略歴 1949年4月24日Paris郊外Boulogne-Billancourt生まれ、ACI。父親Renéは国会議員などを務めた政治家、弁護士、第2次大戦中Résistance運動に参加していた両親は生まれた二人の女児の名に勝利victoireからVをとり、47年生まれの長女にはViolaine、次女にはVéroniqueと名付けた。両親は早くから二人の娘にピアノを習わせ、またヴァカンスはイギリスとスペインで過ごし外国語(英語とスペイン語)にも興味を持たせた。Véroniqueは66年夏、姉、友人のFrançois Bernheim(後にPatricia
Kaasの「Mon mec à moi/モン メック ア モワ」などの作曲者に)とともにグループ「Les Roche Martin/レ ロッシュ マルタン」を結成。67年4月Pathé-Marconi社から、同社のアートディレクターであったMichel
Berger(1947-92)のプロデュースでEP「Les
Roche Martin」を出す。Michel Bergerは、両親同士が親しくしていた近所に住む幼少時からの友人。Véroniqueは68年bacに失敗後、音楽に専心することを決意、Pathé社付きの作詞・作曲家として他の歌手に曲を提供。特にIsabelle de Funès(Louis de Funèsの姪)に「Une odeur de neige/雪の匂い」など。 ACIとして69年最初のEP「Le printemps est là/春がそこに」、「Le feu du ciel/空の火」を出す。当時は数百枚売れた程度だったが、専門家は彼女に注目。71年春Bernard de BossonはWarner系のフランスレコード会社Elektraを創設、2月PathéからMichel
Bergerをディレクターとして迎え、Sansonを最初の歌手として契約。71年12月公私ともにパートナーとなっていたMichel BergerのプロデユースでファーストアルバムLP「Véronique Sanson」をStudio de la Gaïteでレコーディング。72年3月にリリース。これにはSansonの作詞・作曲による「Amoreuse」、「Besoin de personne/誰も必要としない」、「Bahia」など12曲を収録。LPは好評裏に迎えられ20万枚以上の売り上げ。72年12月には同じくBergerのプロデユースでセカンドアルバム「De l’autre côté de
mon rêve/私に夢の反対側」をリリース、「Une nuit sur son èpaule/一晩彼の肩で」、「Toute seule/ただ一人」などを収録したこのLPも20万枚以上の売り上げ。 Sansonは73年Bergerと別れ、アメリカ人ミュージシャン、ロック歌手Stephan Stillsと渡米し、73年3月14日結婚(79年離婚)。74年長男Christopher誕生。83年フランスに帰国。 アメリカ滞在の間にもアルバムをリリース:74年「Le Maudit/呪われた人:悲しみの詩」、76年「Vancouver/ヴァンクーヴァー」 77年「Hallywood」、79年「7ème/7番目の」、81年「Laisse-la vivre/彼女を生きさせて」。 1974年10月7日及び9日にはParis Olympia にVedetteとして初出演。 また、1976年6月27日第5回東京音楽祭にフランス代表として出場「Une maison après la mienne/思い出のメゾン」(Violaine作詞作曲)を歌い銀賞。 帰仏後も、定期的にアルバムをリリース:85年「Véronique Sanson」、88年「Moi le venin/私、憎悪」、92年「Sans regrets/後悔なし」、98年「Indestructible/破壊できない」、99年「D'un papillon
à une étoile/一匹の蝶から一つの星へ」(Bergerの曲を歌っているアルバム)、2004年「Longue Distance/長い距離」 2008年には全集「Et voila!Intégrale 1967-2007」(CD22枚420曲収録、DVD4枚、全歌詞収録したブクレット付き) 2010年10月最新のアルバム「Plusieurs lunes/いくつもの月」 2012年コンピレーション「Amoureuse édition 2012」 2015年2月2日コンピレーション「Les années americaines/アメリカの時代」はアメリカ滞在時にリリースされたアルバムからの16曲を収録。それらは:「Feminin/女性の」、「L’amour est different/愛は様々」、「Si je danse pour toi/私があなたのために踊ったら」、「Ma revérence/私の挨拶」、「Vancouver/ヴァンクーヴァー」、「Etrange comédie/奇妙な芝居」、「Alias Souza/アリア・スーザ」、「On m’attend là-bas/誰かがあちらで私を待っている」、「Monsieur Dupont/ムッシュー デュポン」、「Doux dehors,fou
dedans/外では穏和、内では狂気」など。 Sansonは1991年SACEMのGrand Prixを受賞。VdMでは1993年及び1996年女性歌手賞(2回)、2013年特別賞を受賞している。VdMで女性歌手賞を2回以上受賞しているのは、Barbara(1994年及び97年)、Zazie(1998年及び2002年)、Olivia Ruiz(2007年及び2010年)。 ・シャンソン「Amoureuse」について シャンソン「Amoureuse」は1972年のSansonのファーストアルバムでMichel BergerのプロデュースによるLP「Véronique Sanson」に収録されている最初の曲。作詞・作曲Sanson、アルバムではSansonはピアノの弾き語りで歌っている。このアルバムには1989年にCD化された際に「Amoureuse」のタイトルが付けられた。 「恋人の許で一晩過ごした翌朝愛車のAutobianchi A 112コンパーティブルでChamps-Elysées通りを上っていた。6時頃だった。ちょうど登ってきた朝日が凱旋門を照らしていた。その瞬間にこの曲の出だしの部分がインスピレーションとして浮かんできた」。そして、歌い出しの部分「一晩私は彼と眠る、私たちには許されないことだとは解っているけれど」の「許されないこと」という表現は、「私がいた、厳格な家庭環境の下での意味。当時世間は今より保守的、特に我が家では、そして特に父は。『何時に帰る?』、『遅くなるな』といつも言われていた。だから時々父が眠ってから外出したこともあった」。 71年6月SansonはGrande Armée通りの小さなスタジオで、ピアノの弾き語りでデモテープを録音した。出だしの部分を2回と、タララと歌ったルフラン部分だけであったが。この録音では「Amoureuse」だけではなくそれまでにSansonが作っていた他の数曲も録音された。デモテープを聞いたElektra社のBernard de BossonはSansonとの契約を熱望、Sansonが同社の契約最初の歌手になった。 LPの録音は1971年12月パリのStudio de la Gaiteで2日間行われた。初日の録音は9時間に及んだ。しかし2日目録音が完了したとき、Sansonも、Bergerも、ミュージシャンも、技術スタッフも、終わったことが残念だった。ジャッケットの撮影はBergerの姉Frankaの友人Francis Giacobettiが行った。BergerがFrankaの娘Marineが使っていたおもちゃのピアノを撮影現場に持ち込んだ。 「Amoureuse」、「Besoin de personne」、「Vert,vert,vert」、「Mariavah」、「Bahia」など12曲を収録したLP「Véronique
Sanson」は72年3月24日にリリースされた。 LP「Véronique Sanson」http://www.lemiroiradeuxfaces.com/reseau/wp-content/uploads/sites/3/2014/04/amoureuse.jpg ほぼ同時に「Amoureuse」と「Mariavah」のカップリングのEP、「Besoin de personne」と「Vert,vert,vert」のカップリングのEPもリリースされた。「Besoin de personne」と「Vert,vert,vert」を収めたEPは72年には日本でもリリースされていて、「Besoin de personne」には「あなたを待って」、「Vert,vert,vert」には「緑色の世界」の邦題が付いている。なお日本では「Amoureuse」は1976年スタジオヴァージョンとライヴヴァージョンのカップリングによるEP「アムルーズ/恋人」がリリースされている。 澄んだ高音、独特なビブラートで、愛(「Amoureuse」)を、自由(「Besoin de personne」)を歌ったLP「Véronique
Sanson」は好評で、5ヶ月で20万枚以上売り上げのヒット。Sansonは72年3月3日TV初出演。LPリリース後3月末Guy Mandelの前座でEiffel塔内のキャバレ「Jules Verne」に出演。その後Michel Polnareff、Julien Clerc、Claude Françoisの前座でパリ近郊、あるいは国内各地を回った。そして、12月8日にはセカンドアルバム「De l’autre côté de
mon rêve」をリリース。 Sansonは「Amoureuse」を英語「Amoreuse」、ドイツ語「Amoureuse」、スペイン語「Enamorada」、イタリア語「Diverso amore mio」でも歌っている。 Sansonは2012年ファーストアルバム40周年を記念したアルバム「Amoureuse édition 2012」をリリース。これには「Amoureuse」は3つのヴァージョン(ファーストアルバムに収録されているもの、1971年にデモテープとして録音されたもの、2012年Fanny Ardantとのデュオで新しく録音されたもの)及び72年の英語ヴァージョン、73年のドイツ語ヴァージョン、73年のスペイン語ヴァージョン、78年のイタリア語ヴァージョンも収められている。 「Amoureuse」はLala Fabian(1970- ACI)がカバーし、2009年のアルバム「Toutes femmes en moi/私のなかの全ての女性たち」に収録。またJeanne Cherhal(1978- ACI)は2012年Sansonのファーストアルバム40周年を記念して、「Amoureuse」を初め、LP「Véronique Sanson」に収められた全曲を歌うコンサートを行っている。 「Amoureuse」 Sanson 1972.11.3 https://www.youtube.com/watch?v=BKjhaLgFocM 「Amoureuse」 Sanson 2012.5.20 https://www.youtube.com/watch?v=eJ1Lwp9jLeM 「Amoureuse」 Cherhal 2014.3.28 https://www.youtube.com/watch?v=A36xGefGVms |
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2015年2月「今月の顔」
Serge
Lamaは1974年2月5日~18日Paris Olympiaに出演。その際に歌った「La chanteuse a vigt ans/女歌手は20歳」は大好評を得た。 ・「La chanteuse a vigt ans/女歌手は20歳」 (1973年 Serge Lama作詞、Alice Dona作曲)歌詞の大意: ・・午後8時彼女は着く。まだ誰もいない。楽屋の鍵を2重に掛け、ほっとした様子で鏡に微笑みかける。もうかれこれ30年彼女は毎晩そんな風にしている。そして顔を両手に埋め、自分の顔ではないように優しく撫でる。それから白粉と筆を取り、入念に微笑みを描く。つけまつげを付け、黒い長いドレスを着て、サテンの靴をはき、金髪のカツラをつける。こうして、いま、歌手は20歳。 そして腕を広げて舞台に出て行く、初めて舞台に立つように。そして歌い出す、誰にも真似が出来ないと新聞に書かれる声で。彼女は微笑を浮かべる、みんなが好きな、彼女にしかない微笑みを。 そして彼女は疲れ切って舞台を降りる。メイクははげ落ちている。2,3の質問に答えて、普段着に着替え、車に乗り込む。そしてマネージャーの肩でうたた寝をする。そして夢を見る、AlcazarやDeuvilleを。まだ男たちが皆言うことを聞いてくれた頃を。あの若い歌手を思い出す、ギャラを全部はたいて彼女に花を贈ってくれた歌手を。彼女にすっかりのぼせていまい、彼女のベッドにダイヤのネックレスを投げてよこした恋人たちを。・・いま歌手は20歳。 腕を広げて舞台に出て行く、初めて舞台に立つように。そして歌い出す、誰にも真似が出来ないと新聞に書かれる声で。彼女は微笑身を浮かべる、みんなが好きな、彼女にしかない微笑みを。・・いま歌手は20歳、彼女は腕を広げて舞台に出て行く、舞台に立つのはこれが最後というように。そして彼女は嘆き節を歌う、新聞が誰にも真似が出来ないだろうと書くかも知れない声で、それから、彼女は涙を流す、微笑を浮かべながら、みんなが好きだった彼女にしかない微笑みを。いま、歌手は20歳・・ Serge Lamaの略歴 Serge Lama、本名Serge
Claude Bernard Chauvier、は1943年ボルドー生まれのACI。オペレッタ歌手の父はパリでの活躍を夢見てSerge7歳の時パリに。子供の頃から歌うことの興味を持ち、62年から兵役、Hammaguir(アルジェリア)にも駐留。3年間の兵役から戻ると、MireilleのPetit Cnservatoire音楽学院へ。パリ5区のキャバレ「L'Ecluse」のオーデイションに合格。 1964年2月11日、21歳の誕生日に「L’Ecluse」でデビュー、20Fのギャラで。当時のvedetteはBarbara 1964年5月「Relais de la chanson française/シャンソンフランセーズのリレー」コンクールで優勝。 1964年8月当時の女性人気歌手Renée Lebasに認められ、その薦めでレコデイング、64年10月に最初のレコードEP『Serge Lama』リリース、「A
quiz ans15歳で」(Lama作詞/Petit Cnservatoireで知り合った女性ピアニストJackie Bayyard作曲)など4曲収録、Lebasの推薦文 1964年10月20日にはバルバラBarbaraとともにGeorges Brassensの前座でボビノに。「新聞には3行しか載らなかったが好意的だった」 1965年8月Marcel Amontとツアーに。12日Aix-en-Provence自動車事故によりBarbaraのピアノ伴奏者で婚約者でもあった恋人Liliane Benelli、運転していたEnrico Maciasの弟Jean-Claude Maciasを失い、自身も1年半のブランク。Olympiaの支配人Bruno Coquatrixや「L’Ecluse」のパトロンLéo Noël、それに多くのアーテイストが救援の手を 1965年12月7日Olympiaで義捐金集めのコンサート(Barbara、Amont、Pierre
Perret、Macias、Régineら出演) 1966年1月18日には歩行は困難であったが録音を行い、2月17日2枚目のEP『Serge Lama』リリース 1966年5月女性歌手Régineにピアニストで作曲家のYves Gilbert(1937-2013)を紹介され、その後作詞Lama、作曲Gilberで多くの曲を。66年6月23日3枚目EP『Serge Lama』にはGilbert作曲の2曲を収録 1967年6月15日最初のヒット曲「Les ballons rouges/赤い風船」(Lama/Gilbert)など4曲収録の4枚目のEP『Serge Lama』 1967年10月23日にはNana Mouskouriの前座としてOlympiaのステージに立ち、復帰 1968年10月LP『D’aventures
en aventures』:「Le temps de la rengaine/はやり歌の時代」(Lama/Gilbert)、「D'aventures
en aventures/ヴァンチュールを重ねて」(Lama/Gilbert ZiziJeanmaireが創唱、Piafを歌った曲)、「Le 15 juillet à cinq heures/7月15日朝5時」などを収録 1969年7月「Uneîile/孤独な島」(Lama/Gilbert)がAntibes音楽祭で「Rose d’or/金のバラ賞」受賞 1971年Eurovisionフランス代表に選ばれ、歌う曲には「Un jardin sur la Terre」(Hanri Djianら作詞/Alice Dona作曲)が選ばれた 1971年4月3日IrlandeのDublin開催のEurovisionで18人中10位 Eurovisionを機に知り合ったLamaとDonaは意気投合、作詞Lama、作曲Donaで数々のヒット曲を 1973年2月12日(30歳に翌日)にはMusicoramaでOlympiaに出演、その後3月9-21日Vedetteとして10日間出演 1973年2月赤いジャケットのLP『Je suis malade』 1974年2月5日~18日(当初の予定では17日)Olympiaに出演。初日はOlympiaがミュージックホールとして再開してから20周年に当たった。その模様は、74年5月リリースの「L’explosif Olympia 1974」に26曲収録されている 1977年『L’enfant au piano』:「L’enfant au piano/ピアノを弾く少年」(Lama/Gilbert)、「L'Algérie/アルジェリア」(Lama/Dona)、「Mourir en France/フランスで死ぬ」(Lama/Dona) 1984年ミュージカル「Napoléon/ナポレオン」。詩はLamaとJacques Rosny、曲はYves Gilbert。Paris Théâtre Marignyで9月から3年にわたり上演、その後88年まで各地、カナダ公演。100万人の入場者 1991年劇場劇「La facture/請求書」に出演。 Françoise Dorin演出、Bouffes Parisiens劇場 1998年コンピレーション『L’âme à nue:intégrale/ありのままの魂:全集』CD12枚組258曲収録 2003年『Pluri(elles)』女性歌手とのデュオ:「L’enfant d’un autre」(Lynda
Lemay)、「Les ballons
rouges」(Lara Fabian)、「D’aventures en aventure」(Enzo
Eenzo)、「Je sui malade」(Dalida、ヴァーチャル)、「Une île」(Anngun) 2008年11月18枚目で最新『L'âge d'horizons』:「L’âge d’horizons/地平線の年齢」(Lama/Gilbert)、「Alors que l’on s’était tant aimés/あんなに愛し合ったのに」(Lama/Christophe Leporatti) 2013年2月8~17日Olympiaで70歳とキャリア50年を祝うコンサート「50 Ans d’encre et de
projecteur/書いて、ライトを浴びて50年」 2013年Best盤『La balade du poète』2枚組CD 39曲収録(うち4曲は新曲):「La balade du poète/詩人のバラード」(14歳の頃の詩に自身で曲を付けたもの) 2013年6月13日Académie Françaiseの「Grande Médaille de la chanson française」 2014年2月France 2「Le grand show」にメインゲストで出演(Nos.1363、1382参照) ・シャンソン「La chanteuse a vigt ans」について このシャンソンはEdith Piafをモデルにしたのではないかと言われることもある。しかし「Le petit Lecoeuvre
illustré」(2012年刊)などによると、この曲が出来た経緯は次のよう・・ かつてEdith Piafのマネージャーを務めたことがある著名なEddy Marouani(1921-2002)は64年LamaがBobinoに出演した際にリハーサルを聞いて気に入り、 Lamaのマネージャーも務めた。ある日Lamaに語ったことがある。「私は若い頃、Marlene Dietrichに憧れていた。いつかこの偉大な俳優で、歌手でもあるDietrichのマネージャーになりたいと思った」。この話はLamaの興味を引いた。Marlene Dietrich(1900 Berlin-1992 Paris)をテーマにした曲を作りたいと考えたLamaはその後数日間で詩を書いた。そしてAlice Donaに曲を依頼した。 アリス・ドナAlice Dona、本名Alice Donadel、は1946年2月17日、Paris郊外 Maisons-Alfort生まれ 歌手・作曲家。 MireilleのPetit Consevatoireで学び、60年代、67年までYeye歌手として活躍、そのご出産のため歌手活動を止め(76年Lamaらに勧められて歌手活動を再開)、68年5月から作曲活動。Claude François、Joe Dassin、Sylvie Vartanらに曲を提供。71年Eurovisionに出場したLamaが歌った「Un jardin sur la Terre」(Henri Djjianら作詞)を作曲したことでLamaと知り合った。その後お互いが自分の苦手とする部分を補えるパートナーとして協力。 出来上がった「La chanteuse a vigt ans」はJean-Claude Petitのプロデュースで録音され、1973年2月14日にリリースされた赤いジャケットで有名になるLP「Je suis malade」に収められた。このLPには「La chanteuse a vigt ans」の他:Lama/Donaコンビによる「Je suis malade/灰色の途」、「L’enfant d’un autre/他人の子供」など、他に、「Les petites
femmes de Pigalle/ピガールの女たち」(Lama/Jacques Datin)、「Les glycines/藤」(Lama/Gilbert)など13曲を収録している。 1974年2月5日から18日(当初の予定は17日)までOlympiaに出演したLamaがこの曲を歌ったところ、観客は全員が立ち上がり拍手。 その後各地を回ったLama、この曲を歌わないとステージを降りることが出来なかった。 Dietrichは一度だけこの曲を聞いたと言われている。感激して涙ぐんでいた彼女はコメントを発することは出来なかった。「詩も曲も素晴らしい、傑作だ」と語った以外には。 この曲はDonaも歌っている。 2009年になってSylvie Vartan(1944-)がこの曲をカバー。9月14日リリースのアルバム「Toutes peines confondues/混じり合ったすべての苦しみ」に収録し、9月18日~20日のOlympia出演の際、1部の最後の曲として、あるいはアンコールにこの曲を歌った。Vartanはその後もコンサートの際歌っている。最初に歌われてから35年以上経っても古びることのないこの曲、Vartanの歌手生活に合致するところがあるのだろうか。 「La chanteuse a vingt ans」 Serge Lama https://www.youtube.com/watch?v=sVRKo2ZLiUM 2014年3月22日 TVFrance 2放送の「Le grand show」で 「La chanteuse a vingt ans」 Alice Dona https://www.youtube.com/watch?v=eLDe0wUNr6E 2014年6月29日Niceのオペラ座で行われた「フランス スーパー・ママ コンクール」決勝戦に審査員・ゲストとして出演して 「La
chanteuse a vingt ans」 Sylvie Vartan https://www.youtube.com/watch?v=gpYueCqZakM 2011年9月30日から10月2日までParisのThéâtre du Châtelet行ったデビュー50周年コンサートで |
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2015年1月「今月の顔」
Hélène Ségaraが、シャンソンフランセーズにおける歌手としての人気を決定的なものにしたアルバム「Au nom d’une femme/一人の女性の名において」をリリースしたのは、2000年1月29日。 ・Hélène Ségaraの略歴 本名Hélène Aurore Alice Rizzo、1971年2月26日、南仏Varヴァール県、地中海沿岸の小村Six-Fours-les Plages生まれの歌手、作詞、作曲も行う。父はイタリア人、母はアルメニア出身。両親はSégaraが8歳の時離婚、その後は母と住む。幼少の頃から歌手になることを夢見て、11歳で地元のシャンソンコンクールでNana Mouskouriの「L’amour en héritage/受け継いだ愛」を歌って優勝。16歳で学業を放棄、生活のためC
ôte d'Azuのピアノバー、レストランで歌い始める。フランス語の他、英語、イタリア語、スペイン語、アルメニア語など7カ国語で1200曲以上歌えたという。当時Ségaraの歌を聞いた作詞家Claude Lemesle(1945- Joe Dassinの「Salut les amoureux/やあ、恋人たち」、Gilber Bécaudの「Desirée/デジレ」など)は彼女の歌が気に入り、続けるように励ました。90年長男Raphaël誕生。1993年最初のシングルCD「Loin/遠い」を出す、レコードは成功とは言えなかったが、これにより「La chance
aux chansons/シャンソンにチャンスを」でTVに初出演。「La chance aux chansons」は当時France 2で放送されていた音楽番組で、番組のタイトルはCharles Trenetの1971年のヒットから、番組の司会はPascal
Sevran。Ségaraは96年パリに。Dalidaの弟でDalidaのプロデユーサーであったOrlandoと知り合う。OrlandoはSégaraの美声をかってプロデューサーに。96年11月22日ファーストアルバム「Cœur de verre/ガラスのハート」をリリース。アルバムには先行してシングルカットされた「Je vous aime adieu/あなたを愛している、さようなら」(この曲は97年SACEMのPrix Rolf Marbot今年のシャンソン賞を受賞 、Christian Vié
& Ségara作詞、Thierry Geoffroy作曲)、「Les Vallées d’Irlande/アイルランドの山間」、「Vivo per lei:Je vis pour elle/彼女のために生きる」(イタリア人テノール歌手Andrea
Bocelli1958-とのデュオ、録音は個別に行われた)などが収録されていて、98年にはdisque d’or/ゴールデンディスク(当時は10万枚以上売り上げ)に。その後、Ségaraはミュージカル「Notre Dame de Paris/ノートルダム ド パリ」に出演する。Ségaraは97年のオーデイションでは不合格、翌年イスラエル出身のNoaが長期の出演は無理だと本番前に降板、その代わりとして選ばれた。「運命が2度ドアを叩いたら、絶対に逃がさないようにしなくては」。1998年9月17日からParisのPalais des Congèsで上演されたこのミュージカルにSégaraはEsmaralda役で出演、Garou(Quasimodo役)、Daniel
Lavoie(Frollo役)、Patrick Fiori(Phœbus役)などと共演。ミュージカルは大ヒット。Ségaraの歌及び演技は大好評で一躍スターに。ファーストアルバム「Cœur de verre」は99年に改訂盤がリリースされたが、その際には「Vivre/生きること」(Luc Plamondon作詞、Richard Cocciante作曲、ミュージカル「Notre-Dame de
Paris」から)を追加収録している。そして2000年1月セカンドアルバムアルバム「Au nom d'une femme/一人の女性の名において」がリリースされた。2002年10月には蝋人形がMusée Grevinに展示された。その後03年3月のアルバム「Humaine/人間的な」は、「On n’oublie jamais
rien, on vit avec/人は決して何も忘れない、それと共に生きる」(イタリア人女性歌手Laura Pausini1974-とのデュオ、イタリア語の部分はPausiniの詩による)、「Encore une fois/もう一度」、「L’amour est un soleil/愛は一つの太陽」などを収録、70万枚の売り上げ。その後出産などのため活動を控え、次のアルバム「Quand l'’éternité/永遠が・・するとき」がリリースされたのは06年9月、収録されている12曲のうち大半の曲はSégaraの詩による。2007年年初から「Quand l’éternité」ツアーを開始し、08年の夏まで、ParisのPalais des Congrèsから、ロシア、レバノン、モロッコ、中国まで回った。07年にはそれまでのヒット50曲を収録したコンピレーション「Les 50 plus belles chansons」が出た。2008年11月17日のアルバム「Mon pays, c'est la terre/私の国、それは地球」は世界各地のフォルクロール、民衆の音楽などをカバーしたもので、Cesaria Evoraの「Sodade」は「Qu’est ce qu’on va faire avec ce monde/人はこの世界をどうするのだろう」のタイトルで、Johnny Cleggの「Asimbonanga」は「La paix nous vient de Toi/神様、安らぎはあなたからやってくる」、「Greensleeves」は「D’ici/ここから」(ベルギー出身の女性歌手Maurane1960-とのデュオ)で収められている。2011年のアルバム「Parmi la foule/群衆の中で」には「Le monde à l'envers/逆さまな世界」(長男のRaphaëlとデュオ)、「La vie avec toi/あなたとの人生」などを収録。2013年10月Joe Dassin(1938-1980)の曲をカバーしたアルバム「Et si tu n’existais pas/もしあなたがいなければ」をリリース。これにはDassinのヒット曲、「Salut les amoreux/やあ恋人たち」、「Les Champs-Elysées/オー シャンゼリゼ」、「L’été indien/インディアン サマー」、「Et si tu n’existais pas」(Dassinとのヴァーチャルデュオ)などが収録されている。2013年TV出演の際の容貌の変化が話題になり、10月難病(Ségaraは病名を公にしていない)のため6ヶ月前からコルチゾン系の治療薬を使用していると公表。2014年12月アルバム「Tout recommence aujourd’hui/すべてが今日再び始まる」をリリース。Ségaraは1999年からLes Enfoirésに参加、主要な常連出演者の一人。 「Je vous aime, adieu」https://www.youtube.com/watch?v=JxfLFnBunVA 「Vivre」https://www.youtube.com/watch?v=u_QoESuLBLQ 「On n’oublie jamais rien, on vit avec」https://www.youtube.com/watch?v=ne8lvutMUHY ・アルバム「Au nom d’une femme」 ミュージカル「Notre-Dame de Paris」は6ヶ月のParis公演後99年3月からカナダに。Ségaraはカナダ公演中に声帯嚢腫のため途中で降板、手術を受け、休養を余儀なくされた。回復後アルバムのコーディングを開始し、アルバム「Au nom d'une femme/一人の女性の名において」は2000年1月29日にリリースされた。アルバムには「Il
y a
trop de gens qui
t'aiment/あなたを好きな人は大勢」、「Elle, tu l’aimes/彼女、あなたは彼女を愛している」、「Parlez-moi
de nous/私たちのことを話して」(Segaraの詩、Andrea
Becelliとのデュオ)、 「Au nom d’une femme」(Julie d’Aime作詞、Calogero作曲)、 「Tu vas me quitter/あなたは行ってしまうでしょう」、「Tu peux
tout emporter/あなたはすべてを持ち去ることが出来る」(「Amore per te」にSégaraがフランス語の詩を付けた)、「Je te perdrai/私はあなたを失うことになるだろう」(Ségaraの詩)、「Dites-moi qui je suis/私が誰だかいって」(Ségaraの詩)など12曲収められている。「Il
y a
trop de gensqui
t'aiment」はSégaraの最初のヒット曲「Je vous aime adieu」同様Christian Viéの作詞、Thierry Geoffroy作曲のコンビによる曲で、99年11月9日には先行してシングルでリリースされていて、フランス及びベルギーでシングルチャートの1位に。2000年6月28日にはdisque de platine/プラチナディスク(当時は50万枚以上売り上げ)になっている。そして2005年TV局France2の「Fête de la chanson française/シャンソンフランセーズの祭典」で「la plus belle chanson d'amour/最も美しい愛のシャンソン」に選ばれている。 アルバムは、フランスでは、Louise Attaqueの「Comme on a dit/人が言ったように」を抜くことができず、4週連続のチャート2位が最高位であったが、ベルギー(フランス語地区)では3週1位、スイスでも好評で、130万枚以上の売り上げたと言われている。 このヒットによりSégaraは2000年10月Olympiaに初出演、4夜連続してステージに立った。このコンサートの模様は01年10月には2枚組CDのライヴアルバム「En concert à l’Olympia/オランピアコンサートで」としてリリースされている。Ségaraはまた01年10月Télé Star 誌がスポンサーになりIFOP(フランス世論研究所)が実施したアンケートで「Chanteuse préférée
des français/フランス人の最も好きな女性歌手」に選ばれた。アルバムは01年1月のNRJ音楽賞ではフランス語アルバム賞を受賞。Ségara自身は01年2月のVdMでMylène Farmer、Françoise Hardyらを抑えて女性歌手賞を受賞、「この賞は一般大衆に受け入れられた証左であり、非常に嬉しい。昨年10月のOlympia出演では多くにの人々に気に入ってもらえたと思うが、それに続く今回の受賞で本当に皆さんに認められたようだ」。 Ségaraは2001年8月1日アルバムに収められた12曲に過去のヒット曲「Vivo per lei」及び「Les vallées d‘Irlande」の2曲を加え14曲の歌詞付き楽譜を集めた譜面集「Au nom d’une femme」を出している。 「Il y a trop de gens
qui t’aiment」 2005年「Fête de la chanson française」で https://www.youtube.com/watch?v=yki5ziZ19rE ・・私はあなたが大勢の人たちと話しているのを注意して見ている、私にはあなたはとても快活に見える。私は日々が、人生が過ぎていくのを眺めている、愛なんか求めていないと自分に言い聞かせて。あなたが楽しんでいるのを見て、私もそんな振りをする。私はあなたが子供のように振る舞ってもそれを止めてとは言えない。あなたは大きな身振りをして、とても満足そう。あなたはときどき感じるはず、私が自分のこうした感じに耐えられないでいることを。・・あなたを愛している人は大勢いる。そして、あなたは私を見ていない。私はあなたとの愛から傷つかずには逃げられない。あなたを愛している人は大勢いる。私が愛の言葉をちりばめて語っても、あなたはそれを聞いていない・・時々私はあなたから遠く離れていると感じるときがある。私があなたを待っているとあなたに思われたくはない。私はあなたを待っているのに、私は自分自身に嘘を付く、だから私はあなたが遠ざかっていくのを眺めるだけ。・・あなたを愛している人は大勢いる。そして、あなたは私を見ていない。私はあなたとの愛から傷つかずには逃げられない。あなたを愛している人は大勢いる。そしてはっきりしていることは、辛くても私はあなたを愛している。そしてあなたは分かっていない、あなたのせいで私が毎日この愚かな戦いを続けていることを・・ |
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2014年12月「今月の顔」
Henri Salvadorは2007年12月21日(金)ParisのPalais des Congrèsで最後のステージに立った。 Henri Salvador(1917-2007)の略歴 ACI、ギタリスト、TV司会者。 生涯を通じて3000曲以上を歌ったと言われ、SACEM(作詞家・作曲家・楽譜出版者協会)には作詞・作曲した曲、あるいは作曲、または作詞だけをした曲、949曲が登録されている由。 ・1917年7月18日フランス海外県ギアナのカイエンヌ生まれ、本名Henri Gabriel Salvador、父親はスペイン系フランス人で税務官吏、母親はグアルドループ生まれ。姉と兄(André) ・1929年8月一家はフランスへ ・15歳で学業を放棄、ギターなどを習う ・1935年兄とパリMontparnasseのキャバレJiimmy’s barに出演中 Django Reinhardtが目をとめ、ギター伴奏者として雇われる ・1937年軍隊に ・1941年除隊し、非占領地区、Cannesで活動中、Ray Venturaに認められ、そのバンドの一員として41年12月から45年12月南米公演(この間Venturaのバンドといくつかのレコードを出す) ・1946年帰国後自分の楽団を結成 ・1947年10月Bobinoに初出演 ・1948年3月には最初のソロレコード、A面「Maladie d'amour/恋の病」、B面「Clopin-Clopan/クロパン・クロパン」 ・1949年「Parce que ça me donne du courage/元気を付けてくれるのは」でACC大賞受賞 ・1949年ABCでMistinguetteのレヴユー「Paris s‘amuse/パリは楽しむ」に出演 ・1950年 「Le loup, la biche et le chevalier(La chanson douce)/狼、雌鹿と騎士(優しいシャンソン)」 1950年代にはパリミュージックホール、キャバレで活躍、ABC、Salle
Pleye、Théâtre Daunou、Alhambraに出演 また、Henry Cordingの別名でBoris Vian(1920-1959 ACI、トランペット奏者、詩人、作家、別名Vermon Sinclair)、Michel Legrand(1932-作曲家、別名Mig Bike)とのコラボレーションでロックンロール曲を作る。56年のレコード「Henry
Cording and his original rock and
roll boys」には「Rock
and roll mops/ロックンロール モップ」(Sinclair/Bike)、「Rock hoquet/しゃっくりロック」(Sinclair/ Cording)など4曲収録。 ・1956年10月アメリカへ Ed Sullivanショーに出演、人気に ・1958年「Blouse du dentist/歯医者の上っ張り」 ・1958年「Dans mon île/僕の島で」 ・1960年「Faut rigoler/笑わにゃ」 ・1962年「Le lion est mort ce soir/今夜ライオンが死んだ」 ・1963年「Syracuse/愛の国シラキューズ」 ・1964年「Zorro est arrivé/ゾロがやって来た」 ・1965年「Le travail c’est la santé/仕事即健康」 ・1968年ORTFのTV番組「Salves d'Or/金の拍手喝采」の司会。その後も73年の「Dimanche
Salvador/サルヴァドールの日曜日」などTV司会者としていくつかの人気番組に出演 ・1971年Walt Disneyの名曲をカバーしたLP「Les Aristochats/貴族猫」でACC大賞 ・1979年コントミュージカルのLP「Emilie Jolie」にナレイター、歌手で出演、Françoise Hardy(1944-ACI デュオで歌う)、Julien Clerc、Sylvie Vartan、Alain
Souchon 、Laurent Voulzylらと共演 ・1987年SACEM「Grand prix de l'humour/ユーモア大賞」を授賞 ・1994年自伝「Toute ma vie/我が全生涯」を出版、それを「Rigoler,c'est
aussi un métier/笑うこと、それも仕事」で結んでいる その後一時引退し、petanqueに熱中し、優れたプレーヤーに ・2000年12月アルバム「Chambre
avec vue/眺めの良い部屋:サルヴァドールからの手紙」でカムバック。アルバムにはKeren AnnとBenjamin
Biolayに提供された「Jardin d’hiver/冬の庭:サンルーム:こもれびの庭」と「Chambre avec vue」、Françoise Hardyとのデュオで「Le fou de la reine/女王の道化」(Hardy作詞/Salvador)作曲などを収録 ・2001年VdM男性歌手賞、「Jardin d’hiver」でシャンソン賞受賞 ・2001年Académie francçiseのMédaille
d’or受章 ・2003年アルバム「Ma cheèe et tendre/僕の愛しい、優しい人」 ・2003年蝋人形がMusée Grevinに展示 ・2004年Légion d’honneurのCommandeur受章 ・2006年10月には最後のアルバム「Révélrence/お辞儀:音楽よありがとう」をリリース。 ・2007年6月からさよなら公演 9月6~8日東京公演 ・2007年7月18日Monte Carloで90歳誕生記念コンサート ・2007年10月にはCD3枚組のコンピレーションアルバム「Les 50 plus belles chansons:Henri Salvador/アンリ・サルヴァドールの最も美しいシャンソン50曲」リリース ・2007年12月21日、パリのPalais des Congrèsでさよなら公演 ・2008年2月13日 動脈瘤破裂のためパリの自宅(6,place Vendome 1区)で死去、享年90歳 ・2008年2月16日 パリのマドレーヌ寺院で葬儀。遺体はPère Lachaise(97地区)に埋葬 ・2011年自宅に銘板が付けられた ・2012年6月没後アルバム「Tent de temps/多くの時間」リリース。Biolayのプロデュースで、録音したがアルバムに収録されなかった曲、収録された曲と異なるヴァージョンなどを収録。「Ça leur passera/それは彼らに似合うだろう」はBiolayとのヴァーチャルデュオ。 最後のステージ Henri Salvadorは2007年12月21日(金)最後のステージに立った。90歳5か月3日のこの日Salvadorが最後の舞台として選んだのがパリのPalais des Congrès(2,place de la Porte-Maillot 17区) 。3700人の観客を前にあの独特の笑い声と共に彼はステージに別れを告げた。 会場にはFrançoise Hardy(1944-ACI)、Thomas Dutronc(1973-ACI、ギタリスト)、Michel Jonasz(1947-ACI)、Bénabar(1969-ACI)、Petula
Clark(1932-歌手)、Emmanuel Donzella(1968-ACI)、Claude Lemesle(1945-作詞家)、Chirac前大統領夫人Bernadette Chirac、文化大臣Christine Albanelらが顔を見せていた。彼のブラックユーモアのセンスの象徴として、幕が上がる前にLaurent Baffie[ラジオ、TVの司会者]は観客に「コンサートの間携帯電話をオフにしないで下さい。90歳の歌手に何かあったときに直ぐSamu(Service d'aide médicale d'urgence 緊急医療救助サービス)を呼べるように」。 20時少し過ぎ、9人のミュージシャンをバックに、白いパンタロン、白いシャツ、ウルトラマリーンのブレザーで登場。最初の曲は高椅子に腰を下ろして、アルバム「Révérence」に収められている「La vie、c‘est la vie/人生、それが人生」。「・・人生、満足していようと、不満があろうと、人は死ぬまでそれを生きなければ・・」と歌うこの曲は時間に対する挑戦に聞こえた。手の届くところにはボルドーワインの入ったグラスが置かれていた。次いで同じく「Révérence」に収められた「Mourir à Honfleur/オンフルールで死す」、「Tu sais je vais t’aimer/気味は僕が君を好きになるだろうと解っている」。 Salvadorはジャズのクルーナー。もちろん声にはかつてのつやはなく年齢相応の衰えはあるが、50年代半ばに「ダチのBoris Vianと作った」「Blouse du dentiste」のようなダイナミックな、ジャズイな曲になると相変わらずその声は甘く、力強く、スウングのセンスは今もそのまま。 「アメリカではこんな曲を『money music』と言います」と語ってメドレーで歌ったのは、「Le lion est mort ce soir」、「Le travail,c'est la santé」、「Quand
je monte chez toi/あなたの部屋へ上って行くとき」、「Zorro est arrivé 」。歌った後では「これらの曲には本当に食べさせてもらった」 もちろんSalvadorのクラシックといえる曲「Dans mon île」、あるいは「Syracuse」も。 MDではサルコジ大統領からの激励の言葉を紹介しながら「Cafla Bruniがお相手では[背が違いすぎて]彼は彼女の膝にしかキスできないんじゃないの」、またフランス人歌手で最年長になった年齢については「Aznavourはまだ83歳。Chevalierは84歳で亡くなり、 Trenet86歳か88歳かで亡くなってしまった。私を越えるのはJeanne Calmentだけ。だけど彼女は鉄床みたいに歌っていたからなあ。」[Jeanne Calment:1997年に122歳5か月14日で死亡した女性、現在まで戸籍などで証明されているフランスで最も長命な人] また自らも笑いのネタにした。歌っている途中しゃがれた声になると「もう止めるときなんだ。」とか「彼はもうだめだ、Salvadorは」と囁いたり、ステージに置かれた2台のプロンプターを前に「見えなくなってしまった」と囁いたり。 「Le loup,la biche
et le chevalier」を歌った後「ああ、終わりの時が来ました」。と語ってゆっくりステージを去った。そして最初のアンコールに答えてLéo Ferréの「Avec le temps」/時の流れに。観衆のスタンディングオベーションに答えて、「止めることは愉快なことではない。皆さんの歓声を耳にするのはどれほど心地よいことか」。 ここでテーブルと、ボトルと、グラスが運ばれ、「紀元前からやっている」と語るアメリカのジンのコマーシャルを披露。パントマイムで酔っぱらいを演じる有名なコント。 「皆さんに別れを告げることは心を引き裂かれる思いです」と語ったSalvador最後の曲は「Bonsoir amis/友よ、さようなら」(・・友よ、さようなら、僕はもやい綱を解く、皆さんと一緒にいることができたのは偶然のたまもの、私は再び自分の道を進みます、さようなら、友よ・・)。長いスタンディングオベーションに答えて挨拶のため舞台に再登場する際にはいかにも疲れたというジェスチャー。 10月26日のSalle Pleyel公演では最後に感激のあまりに涙を流していたSalvadorであったが、この夜の公演は長年のキャリアを通じ常にそうであったようにユーモアにあふれるもの。そして翌日のインタヴユーでは「死は怖くない、それより死なないのではないかと心配だ。今後ステージに立つことはないが、レコーデイングは続ける。声と健康が許す限り」と語っていたが。 「Maladie d’amour」1964年 https://www.youtube.com/watch?v=WcIrnIo_Hao 「Blouse du dentist」(TV番組で) https://www.youtube.com/watch?v=kXrGtrLBXXw ジンのコマーシャルの真似(TV番組で)https://www.youtube.com/watch?v=17xe25PM_Jo 最後のコンサートの模様:2007年12月22日TVFrance 2 20時のニュース (32分50秒から) https://www.youtube.com/watch?v=BbbMz6wKUmY |
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2014年11月「今月の顔」 Michel Sardou が1975年11月初めにリリースしたシングル「Le France/フランス号:(邦題)フランス号の曳航」は同年11月8日の週から5週間シングルチャートのトップに。 ・「Le France/フランス号」歌詞大意 (Pierre Delanoë & Michel Sardou作詞、Jacques Revau作曲) ・・私は年老いたイギリス令嬢に思いを致す。彼女はQueen Mary号と呼ばれていた。それが今、母港の岩壁から遠く離れ、カリフォルニアの埠頭で岸に上げられている。 私が年老いたイギリス令嬢に思いを致すとき、夢を求めていたが再び祖国を見ることなく海に飲み込まれた客船を羨ましく思う。 ・・もう決して私をLe France/フランス号と呼ばないでくれ。La France/フランスという国は私を見捨てた。もう決して私をLe France/フランス号と呼ばないでくれ。それが私の遺志・・ 私は巨大な船だった、1000年も航海することが出来るほどの。私は大海に匹敵できるほど強かった。私は巨大な船だった。何千人もの恋人たちを運んだものだった。私はフランスそのものだった。今何が残っているだろう。海鳥が休むためのもやい柱だけ。・・もう決して私をLe France/フランス号と呼ばないでくれ。La France/フランスという国は私を見捨てた。もう決して私をLe France/フランス号と呼ばないでくれ。それが私の遺志・・私は年老いたイギリス令嬢に思いを致す。Queen Mary号と呼ばれていた彼女に。私はカリフォルニアの埠頭の彼女のようには終わりたくはない。 大きな戦艦が、勇気を持ってくれたら。生まれ故郷のSaint-Nazaire港の方向に船尾を向けている私を撃沈するという。・・もう決して私をLe France/フランス号と呼ばないでくれ。La France/フランスという国は私を見捨てた。もう決して私をLe France/フランス号と呼ばないでくれ。それが私の遺志・・ ・Michel Sardou略歴 (1947-ACI、俳優) Paris17区生まれ。父Fernandは歌手・俳優、母Jackieは女優。63年には学業を放棄し、父親がやっていたキャバレ「Chez
Fernand Sardou」でボーイ兼歌手に。65年末の最初のシングルレコード「Le Madras/マドラス」を出す。それから今日まで第一線で活躍。60年代から80年代にかけてのいわゆるヴァリエテフランセーズの黄金時代を生きた歌手。350曲以上を歌い、スタジオ録音アルバム25枚、ライブアルバム18枚をリリース、レコードを9000万枚以上売り上げている。71年には真打ちとしてオランピア初登場。保守的で、愛国的、何にでもけちを付けると言われるフランス人を代弁する存在。時代時代のテーマ、死刑制度、80年代の女性、ソ連の全体主義、同性愛、離婚、人種差別などを取り上げている。国外ではあまり知られていないが、その曲はフランスにとって国民的財産。VdMでは89年「Musulmanes/イスラムの女性」でオリジナルシャンソン賞、91年男性歌手賞を受賞。2001年Légion d’honneurのOfficier章を受章、同年Académie FrançaiseのGrande Médailleを受章。最新アルバムは10年の「Etre une femme 2010/2010年、女であること」。2012年デビュー50周年をParis Bercyコンサートで祝い、12年11月から13年11月まで記念ツアー「Les
Grands Moments/偉大なる時」を行った。14年9月からはComédie des
Champs-Elyséesで劇場劇に出演している。代表曲には:「Les Ricains/アメリカ人:アメリカの涙」(1967年)、「Les bals populairs/舞踏会」(70年)、「J’habite en France/僕はフランス人」(70年)、「Le rire du sergent/軍曹が笑う」(71年)、「Le
surveillant général/監督官」(72年)、「Maladie d’amour/恋の病」(73年)、「Les vieux mariés/永遠の絆」(73年)、「Une fille aux
yeux clairs/澄んだ瞳の少女」(74年)、「Je veux l’épouser un soir/恋の盗人」(74年)、「Je vais t’aimer/愛の叫び」(75年)、「Je suis pour/僕は賛成」(76年)、「J’accuse/告発」(76年)、「 Le temps des colonies/植民地の時代」(76年)、「Le
java de Broadway/ブロードウェイのジャヴァ」(77年)、「
En chantant/歌いながら」(76年)、 「Comme d’habitude/いつものように」(77年)、「Je vole/僕は飛ぶ」(78年)「Etre
une femme/女性であること」(81年)、「Je viens du sud/僕は南仏出身」(81年)、「Les lacs du Commemara/コネマラの湖」(81年)、「Cette
chanson là/歌おう愛の歓びを」(2000年)、「La rivières de notre enfance/子供の頃の小川」(04年)、「Voler/飛ぶこと」(10年)など。 ・豪華客船「Le France/フランス号」について 1957年10月7日Pays de la Loire地方の大西洋に面したSaint-NazaireのAtlantique造船場で1隻の客船が起工された。その客船は60年5月11日には進水式が行われ、Charles de Gaulle大統領により「Le France/フランス号」と命名され、大統領のYvonne夫人が支え綱をカット。そして全長315m、総トン数70000t、巡航速度31ノット、乗員11000人、乗客定員2000人の豪華客船「Le France/フランス号」は61年11月19日に完成。係留港はLe Havreとされ、62年1月19日Yvonne夫人、歌手のTino Rossiなどを乗せてカナリア諸島に処女航海。そして2月3日からは主としてLe Havre~NY間の北大西洋航路に運航された。しかし60年代にはすでに大陸間移動の手段としては航空機が主力になっていたこと、多量の燃料を要すること、オイルショックにより燃料費が高騰したこと、人件費も膨大なことから、その運航は当初から多額の赤字。運航を行っていたCompagnie générale transatlantique社にはフランス政府の補助金が支給され、それにより運行が続けられるという状況であった。しかし、74年にはValery Giscard d’Estaig大統領が補助金の打ち切りを決定、運航継続が不可能に。最後の運航は74年9月11日~17日のLe Havre~NY、10月18日~28日のNY~Cannesと発表された。しかしこの運航は実行されなかった。というのは9月11日Le Franceは運航終了に反対する乗組員らのストによってLe Havre港の入り口で立ち往生させられた。そして1ヶ月間そんな状態が続いた後Le Franceは74年12月Le Havre港に係船された。それまでの間にLe Franceは377回大西洋を横断、60万人の乗客を運んだ。 その後、Le Franceは77年まずサウジアラビアの実業家に売却され、次いで79年ノルウェーの海運会社に売却され、79年8月16日Le Havre港を去り、改造後「ノルウェー号」と命名されクルーズ客船として運航された。そして、2003年のボイラー爆発事故などのため、06年スクラップとして売却、09年解体された。 「Le France/フランス号」 http://www.cap-maquettes.com/contents/media/NM.France.jpg ・シャンソン「Le France/フランス号」について 1974年12月Pierre Delanoë(1918-2006 作詞家)はアメリカに居を移していたMichel
Polnareffに会うために渡米した。Polnareffは前年12月Le Franceで大西洋を渡っていた。この訪米の機会を利用してDelanoëカリフォルニアの有名なPalm Springsのゴルフ場で彼の好きなゴルフを楽しんだ。その際かつてのイギリスの有名な豪華客船Queen Mary号が岸に係留されホテルになっているのを見て驚いた。フランスに帰国後旬日ならずして、Le Franceが売却されるという新聞報道に接した。このニュースはDelanoëにはショックであった。Delanoëばかりではなく、同世代の人々にとってLe Franceはフランスの偉大さの、栄光の象徴であった。当時Le FranceはLe Havre港に係留され、ほとんど忘れ去られていた。その前年には運行を求める船員たちの大規模なストがあって、世間の耳目を集めていたのに。そしてLe FranceがQueen Mary号と同じ運命をたどるのではと危惧したDelanoëは、早速そんなことがないようにとの願いを込めた詩を書いた。 Sardou談・・ある日DelanoëがHaute-SavoieのMegèveの私の許にやって来た。書きかけの詩を持って。Delanoëはその詩の出だしに部分を読んでくれた「Je suis le France,pas la France/私はフランス号、フランス国ではない」。そのとき船自身を主語にしてその歴史を、運命を語らせるようにしたら?という考えが浮かんだ。そしてより衝撃的に「Ne m’appelez plus jamais le
France. La France,elle m’a laissé tomber./もう決して私をフランス号と呼ばないでくれ。フランスは私を見捨てた」としたらどうかと・・。Delanoëも賛成。そして作曲は2人の親友であったJacques Revauxに依頼した。Revaux(1940- 作曲家)は1973年にはDelanoëの作詞による「La maladie d’amour/恋の病」を作曲していて、この曲はSardouのヒット曲になった。他にもこのトリオは「Les vieux mariés/永遠の絆」、「Les lacs du
Connemara/コネマラの湖」(1981年)、「Je viens du sud/僕は南仏出身」(同)、「Etre une femme/一人の女性であること」(同)などのヒット曲を世に出している。 Revauxはその詩に壮大な、荘厳と言ってもよい曲を付けた。A面に「Le France」、B面に「Fais des chansons/シャンソンを作れ」を収めたEPは75年11月初めにリリースされた。そして2ヶ月で100万枚以上売り上げ、11月8日の週から5週間チャートの1位にあった。 75年11月17日ツアー中のSardouはLe Havreにやって来た。CGT/労働総同盟は、Sardouを頑固な保守主義者、危険なファシストだと見ていたが、この時は「Sardou
avec nous/Sardouは我々の仲間」の横断幕で迎え、「当時の書記長Georges Séguyは私を腕に抱くと『Bienvenue cararade/ようこそ同志』と歓迎してくれた」。 76年SardouはElisabeth Haasと再婚する数ヶ月前、彼女を伴ってLe Havreに赴いた。フランス号に最後の敬意を表するために。 その人気にもかかわらずこの曲はLe Franceの運命を変えることが出来なかった。 DelanoëもSardouも一瞬希望を持った・・のだけれど。 「Le France」Michel Sardou1975年11月1日 https://www.youtube.com/watch?v=-ysFyxSDiog |
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2014年10月「今月の顔」
エンリコ・マシアスEnrico Maciasは1962年10月5日ORTFのテレビ番組に初出演、「Adieu mon pays/さらばふるさと」を歌った。 ・「Adieu mon pays」(1962年、Enrico Macias作詞・作曲)歌詞の大意: ・・僕は故郷を去った、家を去った、それでも僕の人生、僕の悲しい人生は過ぎて行く、理由もなく。 僕は僕の太陽と別れた、僕の青い海と別れた、それらの思い出がよみがえる、僕がそれらと別れたずっと後で。 太陽よ!失しなわれた故郷の太陽よ、僕が愛した白い町よ、僕が昔つきあっていた娘たちよ。 僕は一人の女友達をと別れた、今でも彼女の瞳が目に浮かぶ、雨に濡れていた彼女の瞳が、永遠の別れの雨に。 僕は彼女の微笑みを思い出す、僕の顔のすぐ近くに、彼女の微笑みは僕の町の夕べを輝くものにしてくれた。 しかし僕を岸から遠ざけて行く船の端で、1本の鎖が海の中で鞭のようにびしっと鳴った。 僕は遠ざかる彼女の青い瞳を長い間見つめていた、そして、それが見えなくなった、望郷という波の中に・・ ・エンリコ・マシアスEnrico Maciasの略歴 エンリコ・マシアスEnrico Macias、本名Gaston Ghrenassiaガストン・グレナシアは1938年12月11日AlgérieのConstantine生まれのACI、ギタリスト。両親はユダヤ系。父は優れたヴァイオリン奏者で自分のチームを持っていたが、マルーフ(アンダルシア地方起源のアラブ系音楽)の名人Raymond Leyris(Cheikh Raymond/名人・長老Raymondと呼ばれていた)に会い、自分のチームを解散して、Raymondの伴奏チームに加わっていた。Gastonは15歳でRaymondにマルーフとギターを習い、伴奏者として加わった。またジプシーの友人たちとカフェのテラスでも歌うようになった。当時仲間からは「Petit Enrico/小さなエンリコ」と呼ばれていた。50年代後半からアルジェリアに独立運動が起こり、騒然としたため、Gastonはフランス、パリ近郊Fontainebleauに住む親戚の許に送られ、そこから高校に通う。Bac(中等教育修了認定資格)取得後帰国し、父親の希望もありConstantine郊外のChateaydun-du Rhumelの学校教師に。週末には家に帰りRaymondのチームで演奏し、あるいは地元のcasinoで歌い、ラジオ局ののど自慢で優勝したことも。60年代にはいると独立運動はますます激しくなり、61年6月22日RaymondがFLN(アルジェリア民族解放戦線)のテロリストに暗殺された。そこでGhrenassia一家は、当時Constantineに居住していた多くのキリスト教徒やユダヤ人同様に、フランスに移住。パリに落ち着いた後、Gastonは歌手として活動を始める(次項参照)。 ―63年以降― 63年1月Bobino出演中にpied-noirだというJacques DemarnyとPascal-René Blancの来訪を受ける。二人は自分たちが作詞した曲をMaciasに示して、作曲を依頼。詩が気に入った Maciasは早速曲を付けた、それが「hymne à la fraterneté/友愛の讃歌」として世界的なヒット曲になった「Enfants
de tous pays/世界の子供たち」。そしてこの2人の作詞家はその後も良質な詩をMaciasに提供。Demarnyは「La femme de mon ami/親友の妻」(63年)、「Je le vois sur ton visage/解っているよ」(67年)、「Les
gens du nord/北国の人々」(67年)、「Noël à Jérusalem/エルサレムのクリスマス」(68年)、「Un
berger vient de tomber/涙のベルジェ」(81年)など。Blancは「L’amour c’est pour rien/恋心」(64年)、「Mon cœur d’attache/いつも心に」(66年)など。 64年「Les compagnons de la chanson/シャンソンの友」の前座でオランピア初出演。 65年vedetteとして同劇場に出演。 67年10月、初来日、その後68年、69年、70年、72年、73年、75年、77年、79年、90年、91年、94年、96年にも来日している。 68年アメリカNYのCarnegie Hall公演。 78年エジプトのサダト大統領に招かれピラミッドの下で2万人を前に歌う。 80年国連事務総長Kurt Waldheimから「Chanteur de la paix/平和の歌手」の称号を与えられ、「Malheur à celui qui blesse un enfant/子供を傷つける者に災いを」の著作権をUNICEKFに寄贈。 81年サダトが暗殺された際には「Un berger vient de tomber/牧者は倒れた:涙のベルジェ」を発表。 87年Champs-Elyséesの特設会場で25周年記念コンサート 03年アルバム「Oranges amères/苦いオレンジ」 06年アルバム「La vie populaire/庶民の生活」 07年Légion d’Honneurの「officier」勲章受章 08年Suzy夫人死去 11年アルバム「Voyage d'une mélodie/一つのメロディーの旅」 12年9月7日~9日 デビュー50周年記念コンサートをOlympiaで 13年デュオアルバム「Venez tous mes amis/友達よ、みんな来て」。これには「Les filles
de mon pays/故郷の娘たち」(Dany Brillantと)、「Les gens du nord/北国の人々」(Carla Bruniと)、「Paris,tu m’as pris dans tes bras/パリに抱かれれ」(Sofia
Essaidiと)など収録。 13年VdMでデビュー50周年の特別賞。 ・「Adieu mon pays」について Gastonは61年7月29日にレイモンの娘Suzy(62年2月に結婚)を伴って「Ville d'alger」号でフランスへ。パリ郊外Argenteuilに落ち着き、生活のためカフェやキャバレでギター演奏し歌う。62年にはレコード会社Pathé MarconiのRaymond Berbardの目にとまり、女性作詞・作曲家Anne
Huruguenに預けられ、訓練を受け、62年Pathé社から最初のEP「Enrico
Macias」(Pathé EG 599M)を出す。芸名のEnricoは子供の頃のあだ名「Petit Enrico」から、Maciasは、本人は本名の最後の部分Nassiaのつもりでいたが、Pathé社の社員が誤って当時のボクシング選手と混同しMaciasにしてしまったと言われている。EPにはフランスへの船の中で自ら作詞作曲した「Adieu mon
pays」(B面)、Huruguenの詩に曲を付けた3曲、「Ma
maison,ma maison/僕の家」、「Par ton
premier baiser/初めてのくちづけで」、「Oh guitare,guitare/ギターよ、ギター」の4曲がおさめられていた。レコードジャケット裏面の作曲者欄には誤っていずれも「G. Ghenassia」と記載されていた。 そしてMaciasはPigalleのキャバレ「Robinson-Moulin-Rouge」で、当時イェイェ歌手として人気絶頂にあったJohnny Halydayと共演、観客の拍手は圧倒的にHallydayに向けられたが、Maciasがギターの弾き語りで歌った「Adieu mon pays」は好評だった。「Robinson-Moulin-Rouge」の契約が終了、地方公演に出ていたMacias、9月の終わりVichy滞在中にORTFのテレビ番組「Cinq colonnes à la Une/トップページの5つのコラム」のプロデューサーIgor Barrèreから電話が。「次回の番組はアルジェリアからフランス本国に移住してきた『pied-noir/ピエ=ノワール』(独立以前のアルジェリアに在住していたフランス人、あるいは、アルジェリアで生まれたフランス人)と呼ばれた人々にスポットを当てたものにしたい、ついては出演してくれないか」。撮影は9月29日パリのPalais de la Mutualitéで行われた。放送は同年10月5日、Maciasの歌う「Adieu mon pay」が全国に流れた。フランスへの移住は、それを余儀なくされた人々にとっては非常に辛い出来事。そして、「Adieu/さようなら」は、漫然と再会を期待している「Au revoir/さようなら:再び会う時まで」とは異なり、「永別」を意味すること、さらに歌詞の「1本の鎖が海の中で鞭のようにびしっと鳴った」は「自分とアルジェリアを繋いでいた鎖が切れてしまった」と解釈できることから、この曲は大きな反響を呼び、pied-noirを中心に、多くの人々が感動。レコードは放送の翌日から数日で5万枚以上売り上げたと言われている。当時23歳であったMaciasは150万人と言われたpied-noirたちを代弁する歌手、「Tino Rossi des pieds- noirs」になった。それによってブリュッセルの「L’ancienne Belgique」、パリではABCやBobinoが門戸を開いてくれた。 12年リリースのデュオアルバム「Venez tous mes amis」では「Adieu mon pays」をCaliと歌っている。 「Adieu mon pays」1965年11月 https://www.youtube.com/watch?v=XRZOlWg60mE 2013年2月のコンサート https://www.youtube.com/watch?v=RLwkIa2zlRI 「Le violon de mon père/父親からのバイオリン」→
「Oh gitare ,gitare」→「Adieu mon pays」→ 「Aux talons de ses
souliers/靴のかかとに」 |
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2014年9月「今月の顔」
Josephine Bakerジョセフィン・べーカー ジョセフィン・べーカーJosephine
Bakerが「J’ai deux amours/二人の恋人」(「二つの愛」の邦題も)を創唱したのは1930年9月26日Casino de Parisの舞台であった。 ・「J’ai deux
amours/二人の恋人」(作詞Géo Kogerジェオ・コジェ
& Henri Varnaアンリ・ヴァルナ、 作曲Vincent
Scottoヴァンサン・スコット) 歌詞の大意: ・・人々が言うには、海の向こう、よく晴れた空のもとに、魅惑的な住みかのある都が存在する。毎夜大きな黒い木々下で、私の望みはその都に向かって行く。・・(ルフラン)私には二人の恋人がいる。私の故郷とパリの。この二つに私は絶えず心を奪われる。私の故郷のサヴァンアは美しい。でも否定できないこと、それは私を虜にするのは、パリ、パリのすべてだということ。パリをいつか見ること、それが私のすてきな夢。私には二人の恋人がいる。私の故郷とパリの・・時々海辺で、私は見かける、沖合遙かに大きな客船が去って行くのを。私はそれに向かって腕をさしのべる。そして胸をときめかせながら、小声で言う、「連れて行って!」・・(男声)君には二人の恋人がいる。君の故郷とパリの。この二つに君は絶えず心を奪われる。君の故郷のサヴァンアは美しい。でも否定できないこと・・(女声)そう、私を虜にするのは、パリ、パリのすべて・・(男声)パリをいつか見ること、それが君のすてきな夢・・(女声)私には二人の恋人がいる。私の故郷とパリの・・ ・・Géo Koger(1894-1975 作詞家):1920年代後半から作詞を始め、代表作には、「J’ai deux amours」、「O Corse île d’amour /おお コルシカ愛の島よ」(Scotto作曲、Tino Rossi歌)、「Marinella/マリネラ」(同)、「Prosper/プロスペール」(Scotto作曲、Maurice Chevalier歌)、 「La java bleue (Scotto作曲、Fréhel歌)、 「Pigalle/ピガール」(Georges Ulmer作曲・歌)などがある。 ・・Henri Varna(1887-1969 俳優、劇場・ホール支配人、演出家、作詞家):俳優、あるいはVarnelの名で歌手として活動の後、Concert Mayol、Bouffes du Nordなどの支配人を務め、1929年からCasino de Parisの支配人・演出家としてMistinguette主演のレヴユー「Paris-Miss」をプロデュー(その中でMistinguetteが歌った「Gosse
de Paris/パリの悪戯娘」などを作詞)、30年には Baker主演のレヴユー「Paris
qui remue」をプロデュース、そのほか1966年まで、Tino Rossi、Maurice Chevalierなどが主演するレヴユーをプロデュースしている。 ・・Vincent
Scotto(1874-1952 作曲家):1900年代に生地Marseilleで歌手としてデビュー。1906年作曲した「La Petite Tonkinoise/可愛いトンキン娘」(Henri
Christine作詞)をPolinが歌って評判になりParisに上って作曲家に。生涯を通じて、4000曲のシャンソン、60曲のオペレッタ、200曲の映画音楽を作曲したと言われている。代表作には前記に記載したものの他:「La Vipère/マムシと言われた女」(J.Rodor作詞、Georgel歌)、「Sous les ponts de Paris/パリの橋の下」(J.Rodor作詞、Georgel歌)、「Le plus beau tango du monde/素晴らしきタンゴ」(René
Sarvil作詞、Alibert歌)、「Sans toi/あなたがいなければ」(René Sarvil作詞、Lucienne Boyer歌)、「C’est la fête a Tante Aurore/オーロール叔母さんの誕生日」(Fernandel歌)、「Où est-il donc?/彼はどこに:モンマルトルの挽歌」(A.Décaye作詞、Fréhel歌)、「Les mômes de la cloche/宿のない女たち」(Décage作詞、Piaf歌)など。 ・ジョセフィン・べーカーJosephine
Baker略歴 ジョセフィン・べーカーJosephine
Baker(1906-1975 フランスではJoséphine
Baker ジョゼフィヌ・バッケール)はアメリカ、ミズリー州、セントルイス生まれ、歌手、ダンサー、女優。父はスペイン人、母は黒人、16歳でNYに。25年9月黒人だけのレヴユーチームの一員としてフランスに。パリのTheéâtre
des Champs-Elyséesで上演された「Revue
négre/黒人レヴユー」に出演、チャールストンを踊るBakerとこのレヴユーはパリに一大センセーションを巻き起こした。レヴユーはその後ドイツ、ベルギーで上演され、26年パリに戻ったBakerはその後生涯を通じてパリの中心に活躍。26~7年にはFolies Bergèreのスターになり、「La folie du jour/今日の気紛れ」では16本のバナナを腰の周りにぶら下げて歌い踊るという有名なパフォーマンスを披露した。その後Casino de Parisに移ったBakerはグランドレヴユ-「Paris qui remue/うごめくパリ(あるいは、スウイングするパリ)」に出演し、「J’ai deux amours」、「La Petite Tonkinoise/可愛いトンキン娘」などを歌い、これらが大ヒット。34年にはMarc Alegret監督の「Zouzou/裸の女王」では混血の孤児Zouzou役でJean Gabinと共演。映画の中で「C’est lui/私の彼」を歌う。37年フランスの製糖工場経営者Jean Lionと結婚(40年に離婚)、フランス国籍を取得。第2次世界大戦中は自由フランス軍の空軍中尉として北アフリカにとどまり、また連合国軍の兵士慰問のためにも歌った。戦後その功績によりMédaille de la Résistance/レジスタンス勲章、Chevalier
de la Légion d’Honneur/レジオン ドヌール シュヴァリエ勲章を授与された。49年Folies
Bergèreでカムバック。56年Olympiaでさよなら公演。その後Dordogne地方のMilandes城に住み、各国の戦争孤児を引き取り養育。モナコのGrace公妃やBrigitte Bardotらの支援を得ていたが、事業に多額の経費を要することから、59年以降再び舞台に立つ。75年4月8日からBobinoでデビュー50周年を記念する公演。9日の公演の後自宅にもどったBakerは脳溢血に襲われ、12日に急逝、享年68歳。葬儀は4月15日パリのマドレーヌ寺院で行われた。遺体はモナコの墓地に埋葬されている。パリ14区にはPlace Josephine Bakerがある。Bakerは6度の結婚をしている。そして法的に有効でないものを含め7人と結婚しているよう。54年4月、初来日し、東京帝国劇場などで公演、その後度々来日している。歌手Bakerの代表作は上記の他:「Haiti/ハイチ」、「Sous le ciel d’Afrique/アフリカの空の下」、「Dis-moi
Joséphine/ジョセフィーヌ、私に話して」、「Chan d’amour de Tahiti/タヒチの愛の歌」、「Nuit d‘Alger/アルジェの夜」、「Sans amour/愛はなく」など ・「J’ai deux
amours」について Bakerがフランス語で歌った最初の曲である「J’ai deux amours」の誕生については次のような経緯がある。 ・・Parisでは1931年Bois de Vincennesで「L’Exposition coloniale internationale/国際植民地展覧会」が開催されることになっていた。そこでは植民地経営の成功の模様が展示される。そしてパリではそのテーマにあった種々のスペクタクルが計画されていた。1929年からCasino de Paris(16、rue de Clichy)の支配人になっていたHenri
Varnaはそれに合わせてレヴユー「Paris qui
remue」をBakerの主演で上演することにしていた。そしてVarnaはその中でBakerにシャンソンを歌わせようと試みた。「Paris qui remue」はこの展覧会の趣旨から、当時のフランスの植民地であるアルジェリア、インドシナ、赤道アフリカ、マルティニク、マダガスカルをテーマにした2幕50場の物語。その中には、アフリカ赤道直下のフランス植民地を舞台に、植民地に派遣されたフランス人男性と現地の娘の恋物語で、男はパリに行こうと娘を誘うが、部族のしがらみから娘にはそれができないという物語も。そしてVarnaはその物語の曲をScottoに依頼した。曲は舞台初日を間近にして完成していなかった。ScottoはBakerの声をあまり好きではないこともあって、インスピレーションが湧かないでいた。Kogerと道を歩きながら話し合っているうちにScottoに一つのアイディアが浮かんだ。Bakerはアメリカ生まれでパリに住んでいる。この滅多にない二重性から「私には2人の恋人がいる。故郷とパリの」というテーマが浮かび、最初のメロディーが頭に浮かんだ。パリ9区Chaussée d’Antin通りのある家の塀に寄りかかり、Scottoは曲を、それに合わせてKogerが詩を書いた。それを持ってCasino de Parisに着くとステージではリハーサルが行われていた。ScottoはVarnaの求めに応じてできあがったばかりの曲を歌った。詩にVarnaが多少手を加えて「J’ai deux amours」が完成した。1930年9月26日総勢400人のアーティスト、男性ダンサーとコーラスガールが出演する「Hyper Revue/レヴユーを超えたレヴユー」、「Paris qui remue」の初日の幕が開いた。第1場「L’0iseau des Forêts/森の小鳥」で登場したBaker、それまでのほとんど裸に近く、野性的でフランス人の趣味には合わないと評価されていた衣装とは全く異なり、背中に白い羽根を付けたぴったりした衣装で登場。そして劇中Bakerは共演していたテノール歌手Adrien Lamyとデュオで「J’ai deux amours」を創唱した。Bakerは他にも「Voulez-vous de lacanne à sucre?/砂糖キビはいかが?」(Lamyとのデュオ)、「La Petite Tonkinoise」(原曲は1905年Georges
Villard作詞、Scotto作詞の「Le
Navigatore」、1906年、Henri Christineは歌詞を変えこのタイトルに)などを歌った。レヴユー「Paris qui remue」は32年まで13ヶ月上演された。 「J’ai deux
amours」は、それぞれに「美しいサヴァンナ」のある故郷を離れてパリに出て、そこで働いている人々の共感を得た。Bakerの最大のヒット曲に。Bakerは第2次大戦後母国アメリカと距離を置くようになり、ルフランの部分を「私には二人の恋人がいる、私の故郷、それはパリ」、「私には一人の恋人、私の故郷、それはパリ」などと変えて歌っているよう。 Baker & Lamyの「J’ai deux amours」は、2002年にリリースされたCD4枚組コンピレーション「100 chansons françaises de légende/伝説のシャンソン100曲」のCD3に収められている。それによれば収められている曲の録音は1930年となっている。 レヴユーの中で歌われたヴァージョンは1997年Alain Resnais監督の映画「On connaît la chanson/(邦題)恋するシャンソン」で使用されている。 (上記は各種資料から筆者が構成したもので、曲成立の経緯については諸説あります) 「Paris qui remue」のポスター http://1.bp.blogspot.com/-5X7Ub7m-Zuw/Ti193D4U_QI/AAAAAAAACRY/a-Sh5NKqS-o/s1600/IMG_3645.jpg 「J’ai deux amours」Baker &Lamy https://www.youtube.com/watch?v=yQVmsSCj2Fg 「J’ai deux amours」Baker 1968年 https://www.youtube.com/watch?v=gRfrUdsL4Pk |
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2014年8月「今月の顔」 リシャール・アントニRichard
Anthonyの「J’entends siffler le train/汽車の汽笛が聞こえる」は1962年8月中チャートのトップにあり、フランスで最初の「Tube de l‘été/夏のヒット」と言われた。 ・「J’entends
siffler le train/汽車の汽笛が聞こえる」(歌詞の大意) (原曲「500 Miles/500マイル」にJacques Planteがフランス語の詩を付けた) ・・僕はさよならを言わずに別れた方が良いと思っていた。その方が君に会いたいという気持ちが起きないだろうから。でも汽車の汽笛が聞こえる、夕べに聞こえる汽車の汽笛の何と悲しいことか。 君はただ一人、「さよなら」が行き交うホームで、誰にも声をかけられずいるのだろう。汽笛が聞こえる。夕べに聞こえる汽車の汽笛の何と悲しいことか。 僕は君の許に駆けて行き、君に向かって叫びたかった。でもそれをやっとの思いで自制した。 君が行ってしまうのははるか遠く、いつか戻ってくることがあるのだろうか。 僕はさよならを言わずに別れた方が良いと思っていた。今、全てが終わったんだ。汽笛が聞こえる。これからも一生この汽笛を聞き続けることになるだろう。 Richard Anthony略歴 Anthony、本名Ricardo Anthony Btesh、1938年1月13日エジプト、カイロ生まれのACI(auteur・compositeur・interprète/作詞家・作曲家・歌手:シンガーソングライター)。6カ国語(仏、英、伊、西、アラブ、ヘブライ語)を話す。父はトルコ人、母はイギリス人。繊維業であった父親の仕事の関係でイギリスやアルゼンチンで幼少時代を過ごした後13歳でパリに。Bac取得後パリで法律を学ぶ傍らジャズクラブでアルト・サックスを吹く。毎週出演していた「Vieux
Colombier」のパトロンはPetula Clarkの夫。58年頃からよく知っていた英米のヒット曲にフランス語の歌詞を付けて歌うように。デモテープをレコード会社に売り込み、58年9月Columbiaから最初のレコード「Tu m’étais destinée/君は我が命」(原曲Paul Ankaの「You are my destiny」の翻案、Jacques Planteによるフランス語)を出すが成功せず。3作目「Nouvelle
vague/新しい波」(Coastersの「Three
Cool Cats」の翻案)が50万枚売れて知られるようになった。そして「Tinno Rossi du
rock’n’roll/ロックンロールのティノ・ロッシ」、「Père tranquille du twist/ツイストの物静かな父」と呼ばれるようになった。ラジオ局Europe 1のディレクターLucien Morisse(1929-1970)の推薦によりDalidaやClarkの前座で歌うようになり、その後はイエイエの波に乗ってヒットを続けた。62年の「J’entends siffler le train/汽車の汽笛が聞こえる」、63年の「Itsy Bitsy petit bikini」(当時、クリップの監督はClaude
Lelouch)、「On twiste sur le locomotion」(「Little EvaのThe Loco-Motion」の翻案)などがヒット。63年6月22日のパリのPlace de la Nationで行われたSalut les copains誌の創刊1周年記念コンサートに出演。当時マスコミはAnthonyのファンともう一人の人気歌手Johnny Hallydayのファンとの険悪な仲を喧伝したが歌手同士は親友であった。 65年「Ecoute dans le vent/風に吹かれて」(Bob Dylanの「Blowin’in
the wind」の翻案)を発表。この頃は年間300回以上コンサートを行うという人気振りで、操縦士の免許を取得、スタッフ、機材を積んで自家用機で移動していた。レコーディングはロンドンのAbbey RoadのスタジオでThe Beatlesと並んで行い、The Beatlesのデビューと成長を目の当たりにした。67年にはAnthony最大のヒット曲「Aranjuez,mon amour/恋のアランフェス;わが心のアランフェス」が生まれる。この曲はスペインの作曲家Joaquin Rodrigoの「Concerto d’Aranjuez:アランフェス協奏曲」にGuy Bontempelliがフランス語の詩を付けたもの、世界中でヒットし800万枚以上売れたと言われている。その後「Le sirop typhon/ル シロ ティフォン」(69年)、「Amoureux
de ma femme/わが妻に恋して」(74年)、「Nathalie/ナタリー」(75年)などを出すが往時の人気には及ばなかった。93年には300曲収めたコンピレーションアルバムが好評。98年デビュー40年をパリZenith出演で祝う。60年代に活躍した歌手を中心に結成されたユニット「Age tendre
et têtes de bois」には2006年から5年間参加し、中心メンバーとして活躍。2010年7月ヒット曲18曲を収めたコンピレーション「Tu parles trop/君は喋りすぎ」を出す。12年2月12日にはパリOlympiaに出演。 最近では13年9月50曲収めた「Compilation 50 hits」、14年3月25曲を収めた「Best of Richard Anthony」がリリースされている。 「アイドルの中のアイドル」と言われ、今までに600曲以上録音し、21曲が売上げ№1になり、レコードを6000万枚以上売り上げたと言われている。 「Aranjuez,mon amour」 http://www.youtube.com/watch?v=liaWjfp9f08 ・「J’entends siffler le train」 この曲はアメリカのフォークソングでHedy West、PPMなどが歌っている「500 Miles」(「500Miles Away from Home」あるいは「Railroaders’ Lament」のタイトルも)をJacques Plantが翻案、フランス語の歌詞を付けたもの。 Plant(1920-2003)はドイツ占領下で作詞家として活動を始め1946年Yvette Giraudに提供した「Mademoiselle
Hortensia/あじさい娘」が最初の成功作。Andre Claveauの「Domino/ドミノ」、Charles Aznavourの「La bohème/ラ ボエム」などはPlanteの作詞による。Planteは外国の曲にフランス語の歌詞を付けていて、Line Renaudの「Etoile des naiges/雪の星」、Anthonyの「Tu m’étais destinée/君は我が命」は彼のフランス語の詩による。 Anthonyは「500 Miles」にフランス語の歌詞を付けてくれるようPlantに依頼した。Plantは電話で素晴らしい詩が出来たとAnthonyに報告、出来上がった詩を電話口で読んだ。それを聞いたAnthonyはそれほど素晴らしいものだとは思わなかった。しかし、Christian
Chevalier指揮のオーケストラと録音に入ったときその詩が曲と完璧にマッチしていると感じた。そして録音が終わったときには現場にいたスタッフが全てその素晴らしい出来栄えに拍手を送った。しかしレコード会社の評価は高いものではなく、当時のヒット曲に比べてスロー過ぎるとしてレコードの発売は秋の新しいシーズンにしようと考えた。Anthonyは若者たちが夏のヴァカンスの間にこの曲で踊ることが出来るようにと早い時期のリリースを主張。A面「J’irai twister le blues/僕はブルースをツイストで踊ろう」と「Reviens vite mon amour/恋人よ早く戻って」、B面にこの曲と「L’irai pleurer sous la pluie/僕は雨に打たれて涙を流そう」を収めたEPは62年6月にはレコード店頭に並んだ。曲はヴァカンスの若者たちに受け入れられたばかりではなく、アルジェリアに派遣されていた兵士たちの共感を呼んだ。いわゆるアルジェリア戦争は62年3月Evian協定により休戦となっていたが、家族と別れて地中海を渡った兵士たちの心に沁みるものであった。そして「raz de marée/津波」のようなヒットになり200万枚以上の売上げになった。7月中旬から8、9月中、都合13週間チャートのトップを占めフランスおける最初の「Tube d’été/夏のヒット」と言われた(注)。また、62年前半にはAnthonyの「La leçon de twiste/ツイストのレッスン」が8週間トップ。この年は他にCharles
Aznavourの「Il faut savoir/それが分かれば」、「Les comédiens/コメディアン」、Johnny Hallydayの「Retiens la nuit/夜を返して」、「L’idole des jeunes/若者たちのアイドル」、Françoise
Hardy「Tous les garçons et les filles/男の子と女の子」、Claude Françoisの「Belles,belles,belles/美しい娘たち」などのヒットのヒットがあり、これらに伍しての快挙であった。 この曲はHugues Aufray、Serges Gainsbourg、Eddy Mitchellが録音している。 AufrayにはAnthonyとほぼ同時期に歌ったヴァージョン(Anthonyのものと比べほとんど話題にならなかった)あるいはFrançoise Hardyとデュオで歌ったヴァージョンがある。 (注)「Tube de l’été」という表現は60年代に、夏の期間に最も売上げの多かった曲、ラジオ、あるいはナイトクラブなどで最も頻繁にかけられた曲に対してマスコミが付けたもの。この表現自体が62年にすでに一般的に用いられていたかどうかは不明。しかし「J’entends siffler le train」はこのまさに定義通りの曲であることから、フランスにおける最初の「Tube de l’été」と言われている。 「J’entends siffler le train」 Anthony http://www.youtube.com/watch?v=9J80X1niH38 「500Miles」PPM http://www.youtube.com/watch?v=bwB2A9HHaCU 「J’entends siffler
le train」Gaibsbourg |
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2014年7月 juillet Pierre Bacheletピエール・バショレ 1982年の夏の大ヒット(Tube d’été)となった、ピエール・バショレPierre
Bacheletの「Les corons/炭住街」は 7月16日の週にチャートのトップに躍り出た。 ・「Les corons/炭住街」 歌詞大意 ・・(ルフラン)北国には炭住街があった、大地は石炭、空は地平線、男たちは地底で働く炭坑夫だった・・僕の家の窓は隣の家の同じような窓に面していた。僕のランドセルは雨で濡れた。でも家に帰ってきた時の父に目はとても青く、僕は青空を見ているようだった。僕は父の腕に頬を押しつけながら宿題をやった。父は僕のことが誇りだったと思う。父はこの地方の人がみなそうであるように寛容だった。今の僕があるのは父のお陰。 (ルフラン)北国には炭住街があった、大地は石炭、空は地平線、男たちは地底で働く炭坑夫だった・・僕の子供時代、それは幸せだった、洗濯釜の湯気の中で育った子供時代は。山はなかったが、その代わりのボタ山があった。その上から僕は平地を見下ろした。僕の父は父の親戚の人たち同様に黒顔だった。母の髪は白かった。彼らには炭坑が故郷だった。彼らのお陰で僕は自分が何者であるか知っている。 (ルフラン)北国には炭住街があった、大地は石炭、空は地平線、男たちは地底で働く炭坑夫だった・・村の守護聖人の祭の日、役場にはJean Jaurèsの写真が飾られた。そしてワインの一杯一杯はピンクのダイヤだった、珪肺の奥まで浸みて。みんなは1936年のこと、構内ガス爆発、坑道の奥での事故について話した。彼らは故郷を愛し、仕事を愛した。そのことは彼らと一緒にいたから僕にはよく解った。 (ルフラン)北国には炭住街があった、大地は石炭、空は地平線、男たちは地底で働く炭坑夫だった・・空は地平線、男たちは地底で働く炭坑夫だった・・ (注) 洗濯釜/lessiveuse:炭坑夫の黒くなった作業着は洗濯が困難。その洗濯や風呂のためお湯を沸かしておくことは炭坑夫の妻の重要な仕事 黒顔/gueule noire:北フランスの炭坑夫たちの俗称。皮肉なことにBacheletの父はblanchisseur/白くする人=クリーニング屋 守護聖人の祭の日/
kermesse:ducasseとも言われ、ベルギーや北フランスで村や町の守護聖人(patron)の日を祝う祭 Jean Jaurèsジャン・ジョレス(1859-1914):フランスの社会主義者。1892年フランス西部Tarn県Carmauxで社会主義者の鉱山労働者が解雇されたことが原因でストが起きた際、ストを強力に支援。 1936年:4月に行われた議会選挙で人民戦線派勝利し、社会党のLéon Blumを首班とする人民戦線政府が成立。37年6月スペイン内戦への対応を巡り政府内で対立、内閣は総辞職、人民戦線は崩壊。 ・Pierre
Bachelet略歴 Bacheletは1944年5月25日パリ12区生まれ、2005年2月15日パリ郊外Hauts-de-Seine県Surenesの自宅で死去したACI。幼年期を父親の出身地北フランスCalaisで過ごす。パリのENPC(L’Ecole nationale de photographie et
cinématographie/国立写真・映画学校、現在は「L’Ecole nationale
supérieure Louis-Lumière」)で映画を学び、軍役は陸軍の映写部隊。ドキュメンタリーやコマーシャルフィルムを製作する中で、その音楽を作曲するようになった。73年にはMat Camisonとロック グループRésonanceを結成、音楽活動を行った。同年Georges Lautner監督の「Quelques messieurs trop
tranquilles/静かすぎる男たち」で最初の映画音楽担当。74年Just Jaeckin監督の「Emmanuelle/エマニュエル夫人」の音楽を担当し、主題歌「Emmanuelle」を作詞作曲。歌ってくれる歌手が見つからなかったため自身で歌う。「僕は、EmmanuelleはJustの映像通り、美しく、官能的であると同時にロマンティックだと思う。だからエロティックでない、ポルノ風でない曲を目指した」とフランス語と英語で録音。 75年最初のアルバム「L’Atlantique/大西洋」を出す。この年の夏にはBacheletの他Nicolas Peyracが「So far from LA」、Gérard Mansetが「Le voyage en solitaire/孤独な旅」を出し、「75年夏の3新星」と言われた。 Bacheletはその後も映画音楽の作曲家、歌手として活動を続けた。映画音楽作曲家としては、「Histoire d’O/O嬢の物語」(Just Jaeckin監督75年)、「La victoire en chantant/歌いながらの勝利」(Jean-Jacques Annaud監督76年)、「Les enfants du
marais/邦題:クリクリのいた夏」(Jean Becker監督99年)、「Un crime au paradis/天国での犯罪」(同2001年)。 歌手としては、80年最初のヒット曲「Elle est d’ailleurs/遠くから来た娘」(Jean-Pierre
Lang作詞、Pierre Bachelet作曲)を収録した2枚目の同タイトルのアルバムを、82年には「Les corons/炭住街」を収録した3枚目の同タイトルのアルバムをリリース。その後も「Embrasse-la/彼女にキスしろよ」(アルバム「Découvrir l’Amérique/アメリカ発見」から、83年)、「Marionnettiste/マリオネット遣い」(同タイトルのアルバムから、85年)、「En
l’an 2001/2001年に」(同タイトルのアルバムから、85年)、「Vingt
ans/20歳」(同タイトルのアルバムから、87年)、「L’homme en banc/ベンチの男」(アルバム「Quelque part ・・c’est toujours ailleurs/どこか・・それはいつも他の場所」から、89年)、「La ville ainsi soit-il/街よかくあれ」(同タイトルのアルバムから、95年)、「Un homme simple/単純な男」(同タイトルのアルバムから、98年)、「Une
autre lumière/別の光」(同タイトルのアルバムから、2001年)とヒットを出す。 03年にはJacques Brelの没後25年を記念してBrelの曲をカバーしたアルバム「Tu ne nous quittes pas(Bachelet chante Brel)/あなたは我々の許からいなくなることはない(Bachelet、Brelを歌う)」をリリース。 2000年には一時期住んでいたことがあるMarseilleで、西暦2000年を迎える記念の野外コンサートを行っている。 04年10月デビュー30周年コンサートをCasino de Parisで、(10月22日の公演のliveアルバム2枚組みCD「30 ans/30年」及びDVDは没後の05年6月にリリースされた)。 パリのOlympiaには83年Patrick Sébastienの前座として初出演、その後vedetteとして84、86、88、90、99、01年に出演、特に01年の公演は80人の少年少女コーラスがバックを務めた。 04年Casino de Paris公演後、肺癌の闘病生活、05年2月死去、享年60歳。葬儀は2月21日Paris、rue St.HonoréのSt.Roch教会で行われた。ミサの間参列者は「Les corons」、「Marionettiste」、「En l’an 2000」それにBrelの「Quand on n’a que l’amour/愛しかないとき」を口ずさんだ。遺骸は夫人が眠るSt.Tropezの墓地に葬られた。 Bacheletは派手でなく、静かな雰囲気でシャンソン フランセーズに独特の地位を占めていた。08年には没後アルバム「Essaye/試してご覧」がリリースされ、これには「Essaye」、「La plus jolie chose/最も素晴らしいもの」など未発表曲9曲などが収められている。13年4月には55曲収録CD3枚組コンピレーション「Pierre Bachelet,Best of」がリリースされた。 「Emmanuelle」 https://www.youtube.com/watch?v=eljRVZC3KgU 「Elle est d’ailleurs」 https://www.youtube.com/watch?v=RN9YUKl5cCs ・「Les corons」 1980年「Elle est d’ailleurs」をヒットさせたBacheletは、その後それに続く第2弾を準備していた。協力してくれるスタッフは変える気はなかった。バックのミュージシャンも作詞者Jean-Pierre Langも。Jean-Pierre Langは1936年パリ郊外Neuilly-sur-Seine生まれ、医学を学んだ後作詞家、作曲家に。Nicole
Croisilleが歌った「Parlez-moi de lui/彼のことを話して」はLangの作詞作曲。LangはBacheletに「Elle est d’ailleurs」の詩を提供。その後Bacheletとの協力は13年に及んだ。82年春、アルバム製作の最終段階になって、2人はもう1曲は必要だと考えた。2人は急いで作業に取りかかった。パリ郊外SuresnesのBachelet宅の3階で。雑談の中で2人とも子供時代を炭鉱地帯で過ごしたことが解った。Bacheletは北フランスの、LangはSarre地方の。子供時代を回顧するうち、Langはcoronsと炭坑夫をテーマに詩を書きだし、ピアノに坐ったBacheletは最初のメロディーを弾きだした。その夜のうちに曲は出来上がった。録音は翌日の夕方パリ18区のCBEスタジオで行われた。Bacheletはtake oneで録音を終えた。バックコーラスはLangとプロデューサーのBernard Estardyが務めた。6月にリリースされた「Les corons」のシングル(B面は同じコンビによる「 Nos jours heureux/我々の幸せな日々」)は数週間で100万枚以上売上げ、7月16日の週にはチャートのトップに。そしてこの年の「tube d’été/夏のヒット」になったが、それは専門家が全く予想していなかった「véritable surprise/完全なサプライズ」であった。 この曲は1988年に行われた「Hit parade du siècle/世紀のヒットパレード」アンケートでは4位になった。 1位は「Prendre un enfant/子供を抱いて」(1977年Yves Duteil)、2位は「Ne me quitte pas/行かないで」(1961年Jacques Brel)、3位は「Les roses blanches/白いバラ」(1925年Berth Sylva)、5位は「La montagne/ふるさとの山」(1965年 Jean Ferrat)。 北フランスNord-Pas-de-Calais地方の炭鉱地帯は1991年末には最後の炭坑が閉鎖された。中心的な炭坑の町であったLensのサーカーチームRC Lens(1906― 現在2部リーグ)のサポーターはBacheletが亡くなった日の翌日のゲームの際Bachelet哀悼の意を込めて「Les corons」を歌った。その後炭坑華やかなりし頃のノスタルジーも込めて、サポーターはこの曲のルフラン部を応援歌としてハーフタイムに歌っている。 RCLensのサポーターが歌うルフラン部はBacheletの没後アルバム「Essaye」のBonus TrackにBacheletの歌う「Les corons」のバックコーラスとして収録されている。またLilleの近くDouaiにある「Ecole nationale supérieure des mines/国立高等鉱業学校」の学生たちは学園祭などで歌う。この曲は2012年Les Stentorsがファーストアルバム「Voyage en France/フランスの旅」の中でカバーしている。 Yves Montandのヒット曲「Battling Joe/闘うジョー」(1945年Jean Guigo作詞、Loulou Gasté作曲)の歌い出しは「・・石炭で真っ黒な町、煙突と炭住街の町、そこで彼は幼い頃から友だちを打ち負かしていた・・」となっている。Battling JoeはBacheletが「Les corons」で歌った地方の出身なのだろうか? 「Les corons」(Bachelet) https://www.youtube.com/watch?v=PkovH8DSUeM 「Les corons」(RCLensの応援団) https://www.youtube.com/watch?v=R3k-Mk1HXKs 「Les corons」(Les Stentors)https://www.youtube.com/watch?v=9o7-YTfsXHo |
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2014年6月 juin Patrick Bruel パトリック・ブリュエル パトリック・ブリュエルPatrick
Bruelが200万枚以上売り上げたと言われるアルバム「Entre deux/二つの間」をリリースしたのは2002年6月3日。 ・Patrick Bruelの略歴 本名Patrick
Bruel Benguigui、1959年5月14日アルジェリアのTlemcen(モロッコとの国境に近い町)生まれ、ACI(auteur/compositeur/interprète:シンガーソングライター)、俳優。60年両親が離婚、母親と暮らす。62年アルジェリアの独立後、パリ郊外のArgenteuilに移り住み、その後パリ13区に。78年6月France-Soir紙に掲載された新人(「pied-noir/アルジェリア在住フランス人」のアクセントで話すことができる16-18歳の男性)募集の広告に応募し採用され、Alexandre Arcady監督の「Le coup de sirocco/シロッコの攻撃」で映画初出演。79年ガールフレンドの後を追ってNYへ、2週間のつもりが9ヶ月滞在。その間に、後に多くの歌詞や曲の提供を受けることになるACIのGérard Presgurvic(1953-)と懇意になる。80年代には映画・TV俳優、舞台俳優として活躍。「それまでアングロサクソンの音楽のファンで、それしか聞いていなかった。しかし全くの偶然から[ラグビーの試合を観戦しようとしたが満員、それならと]Michel SardouをOlympiaで聞いた。75年だった。いつか彼のようになりたいと思った」(2013年10月26日TVFrance 2「Le grand show,Patrick Bruel」出演時)と、82年9月シングル「Vide/空白」で歌手デビュー、ほとんど注目されず。しかし、83年に出したシングル「Marre
de cette nana-là/あの女の子にはうんざり」(BruelとPresgurvicの共作)が20万枚以上の売上げのヒット、歌手としてキャリアが本格的に始まった。84年1月にはPascal Sevran司会のTV番組「La chance aux chansons/シャンソンにチャンスを」に出演、歌手としてTV初登場(79年には俳優として出演している)。86年最初のアルバム「De face(2 faces)/正面から(2つの面)」をリリース。87年5月5~8日パリOlympiaに初出演、同年そのliveアルバム「A tout à l’heure/また後で」。そして、89年10月にはアルバム「Alors
regarde/さあ、ご覧」をリリース。300万枚売り上げたと言われるこのアルバムには「Casser la
voix/声をつぶす」(BruelとPresgurvicの共作、シングルカットされ大ヒット)、「J’te l’dis quand même/それでも君に言う」、「Place des
grands hommes/偉人広場」など今でもBruelの代表曲とされている曲が収録されている。92年VdM男性歌手賞受賞。Bruelはこの受賞の前にも後にも再三男性歌手賞にノミネートされているが受賞はこの1回。90年代初めには「Bruelmania/ブリェルマニア」と呼ばれる熱狂的なファンが出来た。その後もアルバムをリリース、94年には「Bruel」、95年には「Plaza de los herores」、99年には「Juste avant/直前」、2002年「Entre deux」、06年「Des souvenirs devant/前面の思い出」(「Je fais
semblant/ふりをする」、「Raconte-moi/僕に話して」など収録)、12年「Lequel de nous/我々のうちどちらが」(№1190)。13年11月にはTVFrance2の「Le Grand Show」に出演(№1330)。Bruelは93年Les Enfoirésに初めて参加、連続して22回出演、主宰者であるJean-Jacques
Goldmanに次ぐ出演回数。 「Marre de cette nana-là」http://www.youtube.com/watch?v=uJEJppMLkrk ・アルバム「Entre deux」 2002年6月3日にリリースされたCD2枚組みコンピレーションアルバム「Entre deux/2つの間」は、第1次世界大戦(1914-18年)と第2次世界大戦(1939-45年)の間の平和な時代に生まれ、大衆の人気を博した曲を中心に24曲をBruel自身のソロ、または当時(多くは現在も)活躍中のCharles Aznavour、Johnny Hallyday、Jean-Louis Aubert、Laurent Voulzy、Alain Souchonなどの歌手、あるいはSandrine Kiberlainなどの俳優、都合12人とのデュオ、トリオで歌ったもの。高齢の聞き手にはguinguette(郊外の自然に囲まれた、食べて踊れる居酒屋)や土曜日の夜のダンスパーティーを思い起こさせるものに。24曲のうちこの期間に属さないものは「Le temps des cerises/桜んぼの実る頃」、「La complaite
de la Butte/モンマルトルの丘」及びBruelが弟と98年に作った「A contretemps/オフビートで」の3曲。 この企画につきBruelは次のように語っている・・アルバムに収められている曲はある時期に不当にも押入の中に入れられてしまったもの。しかしそれらには新しさと質の良さがある。メロディーは豊かで、歌詞は軽快さの中に奥深さがあり、現在のシャンソンフランセーズの先駆となったもの。これらの曲は必ずしも子守歌として聞いたものばかりではないから、その素晴らしさについて最近になって気付いたものもある。「Mon amant de Saint-Jean/サン・ジャンの私の恋人」を初めて聞いたのは1980年映画「Le dernier métro/最終電車」[François Truffaut監督、Catherine Deneuve、Gerard Depardiue出演]を見たときだった。映画館で次の上映まで残り、最後のクレジットでこの曲が流れるのを待った。その後Damia、Fréhel、Trenetなどのシャンソンを聞いて、その素晴らしさが解った。それらが忘れられてしまったのは、当時の歌い方に原因があり、ロックン・ロールで育った世代が素晴らしさに気付かなかったのだろう。現在活躍中の歌手のこの企画への参加を依頼したとき、それまで彼らは過去の曲を聞いたことなどなかっただろうに、皆一様にこれらの曲の美しさに心を奪われたようだった。これらのシャンソンでは言わんとしていることが率直に語られているし、メロディーは時代を越えて素晴らしいもの。これらの曲は我々の宝だ。最初はCD1枚でと考えていた。全部で200曲以上聞いた。1枚ではフラストレーションが溜まってしまっただろう・・ Charles Aznavourはこの企画につき次のように語っている・・アメリカでは過去の優れた曲を「スタンダード」と呼んで大切にし、多くの後輩の歌手たちがカバーしている。その場合カバーする歌手は自分の感性で曲を新しく解釈し、アレンジすることがある。Bruelはこのアルバムによってシャンソンフランセーズの「スタンダード」とも言える曲を、中にはほとんど忘れられていたものもあるが、同じような感覚で蘇らせた。素晴らしいことだ・・ Bruelは02年7月4日から11月17日までこのアルバムに収められた曲を歌うミニツアーを行った。この間9月11日~14日パリのOlympiaにも出演、そのliveアルバム「Entre deux (à l’Olympia)」は03年6月10日にリリースされた。これにはアルバム「Entre deux」には収録されていない「Padam,padam/パダン、パダン」、「C’est un mauvais garçon/不良少年」(Bernard
Lavilliersとのデュオ)などが収められている 「Entre deux」に収録されている曲(発表年と創唱はアルバムに添付された資料による): CD1 1.「Mon amant de
Saint-Jean/サン=ジャンの私の恋人」 :発表年1939年 創唱Lucienne
Delyle (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel) http://www.youtube.com/watch?v=9e_56sT_Mzk 2.「Ménilmontant/メニルモンタン」:1938年Charles
Trenet (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel、Charles Aznavour) 3.「Ah! si vous connaissiez ma poule/あの娘を知っていたら」 :1938年Maurice Chevallier (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel) (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel) (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel、Laurent Voulzy) http://www.youtube.com/watch?v=51k-toDDd7Q 6.「Vous qui passez sans me voir/去りゆく君」:1937年Jean Sablon (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel) (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel、Renaud) (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel、Sandrine Kiberlain、Emmanuel Béart) http://www.youtube.com/watch?v=nx3Y099FhF0 9.「Je suis dans la dèche/落ちぶれて」:1937年Damia (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel) (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel、Jean-Louis Aubert) 11.「Le temps des cerises/桜んぼの実る頃」1867年Fred
Gouin (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel、Jean-Jacques Goldman) :1937年Ray Ventura (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel、Johnny Hallyday) http://www.youtube.com/watch?v=4i7agf2FneU
1.「A Paris dans chaque faubourg/パリ祭」:1933年Lys Gauty (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel) 2.「La java bleu/青色のジャヴァ」:1938年Fréhel (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel、Danielle Darrieux) 3.「La complainte de la Butte/モンマルトルの丘」:1955年Cora Vaucaire (このアルバムで歌っているのは:Patrick Bruel、Francis Cabrel) |
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2014年5月mai Julien Clercジュリアン・クレール ジュリアン・クレールJulien
Clercが最初のレコードをリリースしたのは1968年5月9日。レコードには「La Cavalerie/騎兵」が収められていた。 「La Cavalerie/騎兵」の歌詞(作詞Etienne Roda-Gil、作曲Julien Clerc) ・・カリフォルニアから来たのか、フランドルから来たのか、パリから来たのか、野蛮なオートバイが僕たちの村々を駆け抜けていくのを見るとき、疾走するスポーツカーを見るとき、野獣の皮と銅が国を駆け抜けていくのを見るとき、金属と騒音の中で、僕は思いを馳せる。ダバダバダ、騎兵に、ダバダバダ騎兵に。 嵐が遠くへ去り、重い埃が収まり、眠りと倦怠の中に国が沈んでいるとき、英雄映画のクライマックスのように、僕の人生の中で全てが挫折するとき、すべてが危ういとき、僕は聞く、ダバダバダ騎兵を。そして思いを馳せる、ダバダバダ、騎兵に。 ある日僕は出発するだろう、他の土地へ、どんな犠牲を払っても、夜を徹して進む、騎兵に加わるために、僕は遂に勇気を持つだろう、僕が引き継いだ勇気を、僕は倦怠に終わりを告げるだろう、新しい騎士団の中で。 僕は思いを馳せる、ダバダバダ、騎兵に、ダバダバダ騎兵に・・ Julien Clercのデビュー Julien Clerc、本名Paul Alain Leclercは1947年10月4日Paris19区生まれ、歌手・作曲家。父は大学教授、Unescoの高級官僚、母はグアドループ島出身で白人と黒人の混血。2歳で両親が離婚。当時としては珍しく父親がJulienを引き取り、パリの南郊外Bourg-la-Reineに住む。その後は週日を父親と過ごし週末は母親と過ごす生活。この母親はJacques Brel、Georges BrassensあるいはElvis Preslayが好きで、訪ねてきたJulienに聞かせた。父は程なく再婚。継母はクラシックが好きで、こちらはそれをよく聞かせた。 この頃についてClercは「Double enfance/2重の子供時代」(2005年、作詞Maxime Le Forestier、作曲Julien Clerc)で歌っている。 「Double enfance」 ・・誰にでも永遠に愛し合うという幸運が与えられている訳じゃない、10年か、10ヶ月か、10秒か。僕たちの置かれている立場は、濁った水の中に沈んでいるよう、遠い想い出の。 時々僕には2重に見えることがあるが、それは子供時代が僕に戻るから・・2重の人生、2重の沈黙、2つの感覚、2つの遊び、2つの家、2つの町、誕生日にはケーキが2つ、なぜ両親が2組、でも心は静かにバランスを取る。父と母が倍になることは悪いことばかりじゃない。 僕が最初に持ち、ずっと持ち続け、そして消すことが出来なかった感情、それは別れのおそれ。・・10年か、10ヶ月か、10秒か、誰にでも永遠に愛し合うという幸運が与えられている訳じゃない・・ http://www.youtube.com/watch?v=Tdpfo9-ku34 Clercは6歳からピアノを初め、独学で13歳頃にはラジオから聞こえたメロディーを弾くようになった。1964年秋SceauxのLakanalラカナール高校の最終学年で、後にClercに詩を提供するようになる同級生のモーリス・ヴァレMaurice Vallet(Momoと呼ばれる)と親しくなる。この頃からClercは作曲を始めた。ValletはClercより1歳年長。知り合ってからはClercのミニバイクの後ろにValletが乗って通学していた。演劇のクラブで活躍していたValletはClercを誘って入会させた。しかしリハーサルが厳しかったためClercは早々に退会。 Bac取得後66年Sciences Politiquees政経学院の入試に失敗、父親の勧めで同年9月Sorbonne大学の法学部に入学。父と同じ大学教授の道を目指した。Valletも同様に法学部に入学。Valletはすでにいくつかの詩、どちらかと言えば難解な詩を書いていた。Clercは自分の曲に詩をつけてくれるよう依頼、Valletの方には問題はなかった。 Clercの学生時代の逸話の一つ;友人とコルシカに旅行した際、ナイトクラブ「Au
bout du monde/世界の果て」が歌手を探していることを知り、Clercは早速自分を売り込み夏の間、Antoineの「Les élucubration/おかしな話」やJacques Durtoncの「Palyboys」などを歌った。
Clercは67年、後に数々のヒット曲の歌詞を提供してくれる作詞家エティエンヌ・ロダ=ジルEtienne Roda-Gilと知り合う。その出会いについては次のような伝説が。 Clercは授業を受けるよりSorbonne大学の前庭にあるカフェー「Ecritoire」(「文箱」の意 3,Place de la Sorbonne 5区)に入り浸り、曲作りに励んでいた。折しもValletは結核に罹患しその年の3月から8ヶ月間Biarritzで静養。Clercはある日「J’ écris des chansons,qui veut m’écrire des
paroles?/僕は曲を作ったんだけど、誰か詩を書いてくれないか?」と叫んだ。その場に居合わせたRoda-Gilはこの挑戦を受けて「Moi/僕が」と答えた。 Roda-Gilは1941年8月1日Montauban(Tarn-et-Garonne)の難民キャンプで生まれ、両親はスペイン人、共和国派の闘士で39年フランコ政権を逃れてフランスに移住。 そしてClerc/Vallet/Roda-Gilの協力関係が始まった。作詞をValletとRoda-Gilが、作曲と歌をClercが担当するという。(なお、ClercとRoda-Gilの出会いを1966年としている資料もある。) 67年12月Clercは従姉妹の紹介でPathé Marconi社(19,rue Lord-Byron)のオーデュションを受けた。Brassensの「Hécatombe/大虐殺」を歌った。プロデューサーのBob Socquet叫んだ「C’est pas rien !/悪くない!」 SoquetはAlain Souchon、Laurent Voulzyなどを世に出したプロデューサー。早速Pathé
Marconi社と7年の契約が結ばれた。そして、芸名をJulien Clercとした。Socquetによれば、Julienは「Le
Rouge et le noir/赤と黒」の主人公、愁いを含んだ美男で、野心満々のJulien Sorelから、ClercはSocquetの本名がSoquet-Clercだったから。Clerc自身は日めくりカレンダーで偶然見つけたと言っている由。 Clercの最初のレコードは68年2月に録音された。そして5月9日に45回転17cmSP「Julien Clerc」がリリースされた。A面には「La Cavalerie」、B面には「Julien/ジュリアン」(作詞Maurice Vallet、作曲Julien Clerc)が収められていた。リリースの翌日の10日から11日にかけての夜、いわゆる「5月革命」はカルティエ・ラタンでの学生と共和国機動隊の大衝突というピークを迎え、また13日にはゼネストが行われた。 レコードはラジオ局Europe
1の番組編成担当者Marie-France Brièreの手に渡った。Brièreは「La Cavalerie」が気に入った。レコードを受け取った後、直ぐにラジオ局のスタッフはストに入ってしまう。スト中はフラッシュニュースが放送され、その合間には曲が流された。スト直前に手許の届いたこの曲は68年5月18日初めてラジオから流れた。それからは1日に何度も放送された。そしてClercの震えるような、かつ熱い声とRoda-Gilの幻想的ともいえる詩は聞いていた人たち、特に「5月革命」の主役であった若者たちの心に染み込んだ。また、「J’abolirai l’ennui/僕は倦怠に終わりを告げるだろう」の件はその心を駆り立てた。 Clercは68年7月には「Ivanovitch/イワノヴィッチ」(Vallet作詞、Clerc作曲)など4曲を収めた2枚目のコードをリリース。Gilbert Bécaudはこの曲が気に入り、翌年のOlympia公演の前座で出演するように招いた。しかしその前にステージ経験を積むようにと進言され、Clercは68年秋からAdamoのツーアに同道、その第一部で歌った。同年にはまた最初のLP「Julien Clerc」をリリース、これには上記3曲の他:Roda-Gil/Clercのコンビによる「Yann et les dauphins/ヤンといるかたち」、「La petite sorcière
malade/病気にかかった小さな魔女」、「Le delta/二人の三角州」、「Sur tes pas/君の足跡」、「La tarentelle/イタリア舞踏の終末」(「Cavalerie」以前の、このコンビによる最初の曲だと言われている)、「L‘amour en chantier/消えゆく僕等の街」、「Jivaro song/ジヴァロ ソング」およびVallet/Clercのコンビによる「Les vendredis/金曜日のサークル」が収められており、レコードはACC賞を受賞した。 そして、69年3月ClercはBécaudの前座としてOlympiaに出演。Serge Gainsbourg、Henri SalvadorはClercのステージを絶賛した。また、ミュージカル「Hair」のフランスでのプロデューサーJacques LazmannとBérnard GastelliもClercに注目。Clercは69年5月31日から9ヶ月間Porte Saint-Martin Fleuron劇場で上演されたフランス版「Hair」で主役のClaude Bukowski役を演じることになる。 ファーストアルバム「Julien Clerc」のジャケット http://blog.amicalien.com/blogs/photos/28DF5189-3048-7BE8-78FB3D1600BE915D.jpg 「La cavalerie」 http://www.youtube.com/watch?v=QQsgjZPhyeQ 「Julien」 http://www.youtube.com/watch?v=EDVSzdK4rRc |
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2014年4月avril
ブルヴィルBourvil ブルヴィルBourvil(1917-1970)は1958年4月9日、彼の代表的ヒット曲の一つ「Ballade irlandaise/アイルランドのバラード」を録音した。
「Ballade
irlandaise」(作詞Eddy Marney、作曲Emil
Stern)の歌詞 ・・アイルランドの地に、オレンジの木を見ることは決してないだろう、リラの香りがする雪を見ることも決してないだろう。でもそれが何だろう。それが何だろう。君は私の傍らで眠っている。川の畔にある私たちの藁葺き家は、喜びに溢れた心臓のように鼓動している。 アイルランドの地にオレンジの木を見ることは決してないだろう。私の腕の中に君以外の誰かを見ることも決してないだろう。 君は私の傍らで眠っている。小川の水はヒースの香がする。君の眠りは私の眠り。 アイルランドの地に、オレンジの木を見ることは決してないだろう、リラの香りがする雪を見ることも決してないだろう。でもそれが何だろう、それが何だろう。 我が子よ、君はここにいるのだから(注)・・ (注)歌詞のこの最後の部分(「Toi,mon enfant tu es là」)になってこの曲は子供に歌いかけていることが分かる。後述するようにこの曲は多くの歌手によってカバーされている。歌手によっては、歌詞にいくつかの変更を加え、この曲を恋人などに歌いかけるものにしている。その際には特にこの部分を「Toi,tu seras toujours là/あなたはこれからもずっとここにいるのだから」としている。 作詞者:Eddy Marnay(1920―2003)アルジェリア生まれ、1937年パリに。最初は新聞記者、歌手として活動。45年Reneée Lebasのために「Où es-tu mon amour?/いとしき人いずこ」(作曲はEmil Stern)を書いてから作詞家に。4000曲以上作詞したと言われる。1990年から97年までSACEMの評議員。
作曲者:Emile Stern(1913―1977)パリ生まれ、Conservatoire de
Parisのクラシックピアノ課程を首席で卒業、30年代からJazzピアニスト、Maurice Chevalierの伴奏者として活動。戦後André Clabeau、Renée Lebas、Jean Sablonなどのバックバンドの指揮者、アレンジャー。またCharles Aznavour、Gilbert Bécaud、Piaf、Dalidaなどのスタジオ録音の際のオーケストラの指揮者。50年代からEddy Marnayと組んで作曲を。代表作のほとんどはMarnayと組んだもの。それ以外Serge Lamaの詩に曲を付けた「Dis Pédro/ねえ、ペドロ」(歌 Lama)、「Les plages blanches/白い砂浜」(歌Lama)、Pierre Delanoëの詩「La cigale/蝉」(歌Régine)などがある。 Bourvil略歴 ・1917年誕生 Bourvil,本名André Robert Raimbourgは1917年7月、Haute-Normandie地方Seine-Maritime県Pretot-Vincquemare生まれ、歌手、俳優。父はAndréが生まれる少し前に第1次大戦中戦死。母は二人の子供を連れて同県Bourvilleに戻り、しばらくして農業者と再婚。Andéeも農業に従事。家族の連帯を大切に考える質素な農家の生活はその後のAndréの生涯に大きな影響を与えた。10歳の頃から音楽を持ち、町のブラスバンドに入り、ハーモニカ、アコーデオン、cornet à piston/コルネットを演奏しFernandelの曲などを歌う。 ・37年3月パリの24歩兵連隊にラッパ手として入隊。同じ隊にLouiguy(「La vie en rose/バラ色の人生」、「Mademoiselle
Hortensia/あじさい娘」などの作曲者)がいてシャンソンに興味。ラジオののど自慢番組に出場し、コミックな歌を歌い、38年Radio Parisのコンクールで優勝。部隊ではAndrel(AndréとFernandelから)の名で同僚たちを楽しませた。 ・39年9月第2次大戦勃発、前線へ。 ・40年8月Pauの近くで復員、そこでアーティストの道を進もうと、軍隊仲間でプロのアコーデオニストのEtienne Lorinとパリに。2人とも女性歌手Marcelle Bordasの伴奏アコーデオニストとして雇われる。その後生活のため昼はパン職人、配管工などの職に就き、夜は出演できなくなった歌手の代わりとして呼ばれる生活。そしてユーモアのあるモノローグ一人芝居で、会場を沸かせ次第に評判に。 ・42年育った町からとったBourvilの名でキャリアを始める。 ・43年1月幼なじみのJeanne Lefriqueと結婚(2人の男児、1950生まれ、53生まれ)。 ・44年Tino RossiのマネージャーPierre-Louis Guerinが1週間「Club」出演を持ってくる、好評で1年続く。また、Guerinの推薦により「Alhambra」などの名のあるcabaretに出演。人気歌手GeogelはBourvilの歌を聞き、コミックな曲を探していた出版社社長Michel Fortinに。 ・45年3月8日SACEMに合格。 ・45年パリの街角で会った絵葉書売りの少女に想を得たBourvilの詩にEtienne Lorinが作曲した「Les crayons/鉛筆」(孤児の鉛筆売りの少女の物語)がいきなりヒット。この曲は45年公開Bourvil初出演、Jean Dreville監督「La ferme du pendu/首つり人の農場」中で歌われた。楽譜が「petit pain chocolat/チョコレートパン」のように売れた。 ・46年Pathéレコードと契約、「Les crayons」を吹き込む。 ・46年11月「ABC」にvedetteとして出演。 ・47年「A bicyclette/自転車で」、「Le pêcheur du bord de l‘eau/釣り人」 ・49年「La tactique du gendarme/憲兵隊の戦術」 ・50年「En revenant de la revue/観閲式の帰りに」 ・52年Lyonで初演、その後パリABCで上演されたオペレッタ「La route fleurie/花咲ける道」にAnnie Cordy、Georges Guetaryと出演。 ・53年ADF(L’académie
du disque français)のグランプリを受賞。 ・56年「Quand on est deux amis/二人が友だちだった頃」Luis Marianoとのデュオで。 ・58年オペレッタ「Pacifico/パシフィコ」にGuetary、Pierre Brunoと出演。 ・58年「Ballade irlandaise/アイルランドのバラード」 ・59年「Salada de fruits/フルーツ・サラダの歌」 ・61年「Petit bal perdu/今はないダンスホール」 ・63年「La Tendresse/優しさ」 ・68年「Mon village au clair de lune/月光の故郷」 ・70年最後のレコーディング;「「Ça/それ」(「Je t'aime,moi non plus/ジュテーム、モワ ノン プリュ」のパロディー、Michel Mithoisの詩)、Jacqueline Maillanとのデュオで。 ・歌手として生涯を通じて300曲以上歌い、13年4月27曲収録のコンピレーション「Legend:Boulvil Les
Grands Clasiques」がリリースされている。 ・映画俳優としては:1945年Jean Dreville監督映画「La Ferme du pendu」デビューして以後、60本以上に出演。フランスで最も人気のあるコメディアンの一人。1956年Claude Autant-Lara監督の映画「La traversée de Paris/パリ横断」(Jean Gabin、Louis
de Funèsらと共演)で失業中のタクシー運転手の役でヴェネチア映画祭男優賞を受賞。1962年の「Le jour le plus
long/史上最大の作戦」では連合軍の侵攻に大喜びするCollevilleの市長役。1964年の「Le Corniaude/大追跡」をはじめとする一連のLouis de Funèsとの迷コンビぶりを見せた。最後の映画1970年のJean-Pierre Melville監督の「Le Cercle rouge/仁義」(Alain Delon、Yves Montandらと共演)の刑事役ではシリアスな演技を見せた。映画出演はAndré Bourvilの名で。 ・70年9月骨髄腫によりパリ16区bd.Suchetの自宅で死去。遺体は別荘のあったYvelines県Montainvilleの墓地に埋葬された。 「Ballade irlandaise」の誕生と録音 1957年のある日インスピレーションが湧かなかったEddy
Marnayは友人の作曲家Emil Stern宅を訪ねた。ピアノの上に無造作に置いてある楽譜を見つけた。Sternは大した曲ではないからと抵抗した。しかしMarnayの説得に負けたSternはピアノの前に座り曲を弾き始めた。突然Marnayの頭の中に「Un oranger sur le sol irlandais/アイルランドの地の1本のオレンジの木」というフレーズが浮かんだ。そこからインスピレーションが湧き、余勢を駆って残りを書いた。優しい、センチメンタルな詩が出来た。そしてそれを歌ってくれるのに適した歌手としてまずAndré Claveauに持って行った。Claveauは拒否。その後しばらくして誰も歌ってくれないこの曲をSternは偶然にもBourvilの(そしてGilbert Bécaud)のアートディレクターJacques Sclingaudに聞かせた。この曲に感動したSclingaudはBourvilがこの曲を録音すること提案した。Marnayは驚いた。この曲はBourvilの性格とは正反対のものだと考えて。「La tactique du gendarme」などからは大分離れた曲だから。しかし誰も取り上げてくれないこともあり、その意見に乗った。1958年4月9日Jerry Mengo指揮のオーケストラをバックにPathe社のスタジオで録音が行われた。コメディータッチの曲を歌っていたBourvilにとってキャリアの転換を意味する録音だった。繊細な慎み深い歌い方はこの曲のヒットに貢献した。この成功によりBourvilは「Petit bal perdu」や「La tendresse」などそれまでとは異なる曲を歌い、それらはいずれもBourvilの代表作になった。 曲は同年6月リリースのEP「Bourvil」のA面に「Ballade
irlandaise(Un oranger)」のタイトルで収録された。他にはA面に「La baïon de Cupidon/キューピッドのバイヨン」、B面に「Et ta sœur/そして君の妹は」、「Ne reviens pas sur ton passé/昔のことは蒸し返すな」とともに収録された。 この曲のタイトルを「La ballade irlandaise」としている資料も見受けられる。 レコードのジャケット http://www.encyclopedisque.fr/images/imgdb/main/2888.jpg 「Ballade irlandaise」は1959年2月25日当時のTV局ORTFの番組 「Magazine de la chanson」で歌われた。司会のJacquline Joubertは「7位には『La ballade
irlandaise』が入っている。フランスのテレビでは初めて、この曲を創唱者Bourvilが歌います」と紹介。 http://www.ina.fr/video/I05130187/jacqueline-joubert-presente-bourvil-qui-chante-video.html 「Ballade irlandaise」または「La ballade irlandaise」を歌っている他の歌手 ・Enzo Enzo:(№1346) (最後の部分:「Toi, mon petit tu es là/我が息子よ、あなたがここにいるから」 http://www.youtube.com/watch?v=FUIcR2PVXX4 ・Il etait une fois:ヴォーカルのJoelle Morgensenを中心に1972年~79年に活躍したポップグループ) (最後の部分:「Toi,mon enfant tu es là」) http://www.youtube.com/watch?v=HwfOiR5QC0Y ・Vox Angeli:08年当時11歳から14歳の3人の少年、3人の少女で結成されたグループ。11年まで活動。この曲はメンバーのうち3人の少女が歌っている。 (最後の部分は歌っていない) http://www.youtube.com/watch?v=jdHR8EDal4g ・Daniel Guichard:1948年パリ生まれ、歌手、作詞も (最後の部分:「Toi,tu seras toujours là」) http://www.youtube.com/watch?v=JHSL1gcLRpU ・Danielle Darrieux:1917年ボルドー生まれ、俳優・歌手 (最後の部分:「Toi,tu seras toujours là」) http://www.youtube.com/watch?v=sdgu5jyJMtA ・Mireille Mathieu:1946年アヴィニョン生まれ、歌手&Jean Lefebvre:1919年-2004年、俳優 (最後の部分:「Toi,tu seras toujours là」) http://www.youtube.com/watch?v=55HIP7D5h78 ・他に、Jean Sablon、Renée Lebas、Hugues Aufrayらも歌っている。 |
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2014年3月mars
Alain Barrièreは「Yeye/イェイェ」が最盛期の1963年3月23日ロンドンで行われたEurovisionシャンソンコンクールで、それとは対極的な「Elle était si
jolie/彼女はとても美しかった」を歌って5位になった。 (Yeye) 1960年初めにフランスで生まれた音楽の流れ。アングロサクソンからのRock’n rollやtwistのリズムの曲でバック・コーラスや、バック・ミューズシャンがヴォーカルの合いの手に入れる囃子詞「Yeah」のフランス語訛りが語源のよう。1959年10月からラジオ局Europe1でDaniel Filipacchiのプロデュースによる若者向けに毎日放送される音楽番組「Salut
les copains/サリュー レ コパン:やあ仲間たち」(SLC)が始まった。そして62年6月には関連雑誌「Salut les copains」が創刊された。63年6月22日(土)雑誌の創刊1周年を記念してParisのPlace de la Nation/ナシオン広場(11区、12区)で公開コンサート「La Nuit Saluts les copains/SLCの夕べ」が開催された。そこには主催者は当初3万人程度の観客を予想していたが、15~20万人の若者が集まったと言われている。その数日後7月6-7日Le Monde紙の社会時評欄で社会学者Edgar Morinが、長文の時評「Le temps du yeye/イェイェの時代」を掲載、集まった若者たちを「Yeye」と命名。それが社会現象やモードをも指すようになった。Yeye歌手としては、Johnny Hallyday(1943-)、Silvie Vartan(1944-)、Eddy Mitchell(1942-)、Françoise Hardy(1944-)、Sheila(1945-)などが挙げられる。 (「Elle
était si jolie/彼女はとても美しかった」 歌詞) Alain
Barrière作詞・作曲によるこの曲には「風が連れ去った恋」 あるいは「愛し合ったとき」の邦題が付けられている。 ・・彼女はとても美しかったので、僕には彼女を愛する勇気がなかった。彼女はとても美しかったので僕は今でも忘れることは出来ない。彼女はあまりにも美しかった、風が彼女を連れ去ったとき。彼女は嬉しそうに去っていった。そして風が僕に言っていた。 「彼女は美しすぎる。私はお前のことをよく知っている。彼女を一生涯愛することはお前には決して出来ないだろう」。そう、でも彼女は去っていった。残念な事だけど、それが真実。彼女はとても美しかった。僕は決して忘れないだろう。 今は秋、僕はよく涙を流す。今は秋、春は遠い。 木の葉が荒れた風にうち震えている公園で、彼女はドレスをひるがえし、そして彼女は消えた。 彼女はとても美しかったので、僕には彼女を愛する勇気がなかった。彼女はとても美しかったので僕は今でも忘れることは出来ない。彼女はあまりにも美しかった、風が彼女を連れ去ったとき。彼女はとても美しかった。僕は決して忘れないだろう・・ (Alain
Barrière略歴) ・1935年11月18日ブルターニュ地方Morbihan県のQuinberon湾に面した小漁村La Trinité-sur-Merに「ブルターニュ人の血(母)とイタリア人の血(父)を引いて」(1971年のヒット「Un peu de sang breton/ブルターニュの血筋を少し」から)生まれる。本名Alain Bellec。ACI(シンガーソングライター) ・1955年bac取得後、高級技術者を養成するAnger所在の「Ecole Natinale des Ingenieurs des Arts et Métiers/国立工芸技術者学校」に入学 ・1959年友人に勧められてFrancis
Carco、次いでRobert Desnosに夢中に。最初のギターを購入、独学で演奏を学び、曲作りもするようになり、友人らに聞かせた ・1960年パリ郊外のタイヤ会社に技師として就職。そして夜にはパリの小さなキャバレで歌うようになる ・1961年Barrièreのステージ名で若いACIを対象にしたラジオ局Europe 1主催の「Coq d’or/黄金の鶏」シャンソンコンクールに自作の「Cathy/キャティ」を歌い出場。パリOlympiaで行われた決勝まで進んだ。決勝では12人中11位の成績だったが、ロックやイェイェに対抗するような彼の曲がOlympiaの支配人Bruno Coquatrixの目に止まり、レコード会社RCAと契約、61年7月RCAから「Cathy」、「S’il fallait que sur terre/地球上でそれが必要なら」など4曲を収録したEPリリース ・1962年初めには会社を退職、本格的に歌手活動を開始 Yeye全盛ではあったがJean MejeanはBarrièreに「Trois Baudets」などの門戸を開放してくれた ・1962年2月Colette
Renardの前座でOlympia に出演5曲歌う ・1962年詩人Paul Fortの詩に曲を付けた4曲「Complainte du roi et de la reine/王と女王の哀歌」、「La
ronde autour du monde/地球を回るロンド」などを発表 ・1963年「Elle était
si jolie/彼女はとても美しかった」が好評でEurovisionのフランス代表に選ばれ、ロンドンのコンクールに出場 ・1963年9月にはPaul
Ankaの前座でOlympia 出演、10曲歌う ・1963年「Plus je t’entends/あなたの声を聞くとき」 ・1964年最大のヒット曲「Ma
vie/マ ヴィ」を出し12月vedetteとしてOlymoiaに出演(Olympiaには67、72、74、76年、78年にも出演している)。「Ma vie」は特に南米でヒットし、アルゼンチンやブラジルではチャートの1位に ・1966年から68年の間は主にBobinoに出演 ・1966年Sergio
Gobbi監督のギャング映画「Pas de panique/パニックなし」に出演、Pierre Brasseurらと共演。映画はヒットせず、その後映画には出演していない ・1966年「Toi/トワ」、 ・1968年「Emporte-moi/二人の旅路」、 ・1969年「C’était aux
premiers jours d’avril/それは4月の最初の日だった:浜辺の思い出」(69年) ・1971年レコード会社Albatrosを設立 ・1971年「Rien qu’un
homme/ただ一人の男」 ・1973年6月来日 ・1974年クリスマス前「Tu t’en vas/去りゆく君」(Noëlle Cordierとのデュオ) SPは100万枚以上、LPは20万枚以上。ドイツ、オーストリア、スイス、ベルギー、オランダ、ブラジル、カナダでヒット ・1975年7月29日Bretagne地方Carnacに城を買い、Théâtre-Discothèque―Restaurantに改造し「Stirwen」(ブルターニュ語で「白い星」)と命名 ・1977年「Stirwen」の係る税金問題などでフランスを脱出、アメリカへ、 ・1981年帰国 アルバムを2つ出すが成果を上げず、カナダへ ・1990年代初めにフランスに帰国 ・1998年アルバム「Barrière
97」 ・1998年にはパリのSalle Pleyelに出演 ・2006年には自伝「Ma vie」を刊行、これには未発表の3曲収録のCDが添付されている。その3曲は「If」(Rudyrard Kiplingの詩に曲を付けたもの)、「Hymne à la
Bretagne/ブルターニュ讃歌」、「Quand la mer s’est retirée/引き潮のときに」 ・2007年5月から国内ツアー ・2007年シャンソンフランセーズの名曲のカバーアルバム「Chansons françaises」(「La foule/群衆」、「Ne me quitte pas/行かないで」、「Les copains d’abord/パリジャン気質」、「La mer/ラ メール」など収録) ・2010年3枚組CD、53曲収録の「Best of」、10万枚以上売り上げ ・2011年1月7日脳血管障害に襲われNeuillyのアメリカ病院に入院、その後Bretagneの自宅で療養。9月10日には生まれ故郷Trinité-sur-Merで入場無料の野外コンサートを予定 ・2011年9月5日病状が回復せずコンサートの中止を発表 (1963年Eurovisionシャンソンコンクール) 1963年第8回Eurovisionシャンソンコンクールは3月23日イギリス、ロンドンで開催された。前年の優勝はフランス代表Isabelle Aubretが歌った「Un premier amour/初恋」であった。従って通常であればフランスが開催国であったが、財政上の理由から開催を返上。代わってイギリスが開催国となった。会場はBBC放送局のテレヴィジョンセンター。コンクールの模様はTV中継され、出場者を送った国ばかりでなく、ヨーロッパ中で視聴され、当時はどの国でも視聴率の高い番組であった。63年参加国は16か国。現在では参加国数が多いため(2013年には39か国)予選が行われているが、63年当時予選はなかった。出演順序は前年12月には決定。出演者は2日前から一人55分間、会場でのリハーサルを行った。この回では初めての試みとしてboomマイクが使用された。それによりTV視聴者にはマイクが見えることはなくなり、また出演者の動きもより自由になった。 各国20名の審査員が自国の曲を除き、気に入った5曲に、5、4、3、2、1ポイントを付ける。20人のポイントを合計し、多い順にその国が各国のへ与えるポイント(5~1)が決まる。そして各国から受けたポイントの合計でコンクールの順位が決まる。 Alain Barrièreは11番目に登場。伴奏のFranck Pourcel指揮のオーケストラは美しいアラベスク風の前奏を弾き始め、ダンサーのTessa Beaumontはエレガントに踊り始めた。Barrièreは優しい声で、正確に、彼の仮初めの恋を語るシャンソンを歌い出した。Yeyeが爆発的な人気を誇っていた時代はあったが、TVを見ていた視聴者の多くは、若い女性を中心に、この優しいメリディーを心の中で受け止めた。 Barrièreはユーゴスラヴィアから5ポイント、オランダ、イタリー、スイスから4ポイントなど25ポイントを獲得し、5位に。優勝は42ポイント獲得したデンマーク代表であった。この回にはフランス語で歌った歌手が4人出場。Barrièreの他には、Suisse代表のEsther Ofarimは「T’en va pas/行ってしまわないで」を歌い40ポイントで2位、Monaco代表のFrançoise Hardy「L’amour s’en va/愛は去って行く」でBarrièreと同ポイント5位、Luxembourg代表のNana Mouskouriは「A force de prier/お祈りしたので」で13ポイント8位だった。「Elle était si jolie」によりBarrièreの人気は一気に高まり、それに答えてその後Barrièreは良質な曲を提供して行く。 「Cathy」(1962年4月) http://www.youtube.com/watch?v=-P5Sqekgs2U 「Elle était si jolie」(1963年3月23日Eurovision出演時) http://www.youtube.com/watch?v=UaL2rfJWXlk 「Ma vie」(1966年5月) http://www.youtube.com/watch?v=1cSzvNeIoNY 「Emporte-moi」(1968年2月) http://www.youtube.com/watch?v=11AN3mzy4Yw 「Tu t’en vas」(1975年5月) http://www.ina.fr/video/I07147794/alain-barriere-et-noelle-cordier-tu-t-en-vas-video.html 「メドレー」(2010年1月) 「Rien qu’un homme」→「Elle était si jolie」→「A regarder la mer/海を見つめて」→「Emporte-moi」→「Ma vie」 http://www.youtube.com/watch?v=ldNWowGK8RE |
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今月の顔
・Alain Bashung アラン・バッシュング (Alain Bashung略歴) ・1947年パリ生まれのACI(シンガーソングライター)、俳優。本名Alain Claude Baschung ・1歳時に母がRoger Baschungと再婚。幼少時健康上の理由から継父方の祖父母の許、アルザスで過ごす。 ・1959年パリに戻る、経理を学びながら、62年友人たちとグループ「Hill Billy」を結成、フォークやロカビリーを歌い、地方のホテルやレストランあるいはアメリカの匂いがするドイツ駐留米軍キャンプなどを回る。 ・1966年11月Alain Bashungの名(アメリカ風にするためにcを削った)で、「Pourquoi rêvez-vous des Etats-Unis?/君はなぜアメリカを夢みるのか」、「Petit garçon/少年」など4曲を収めた最初のEPレコードを出すが注目されず。 ・1966年からソロで活動を開始。 ・1972-74年フランスのロック歌手Dick Riversの作曲家、バックミュージシャン、マネージャーに。 ・1973年Claude-Michel Schönberg製作のロックオペラ「La Révolution
française/フランス革命」にRobespierre役で出演 ・1977年、すでにMireille Mathieuの「Ma mélodie d’amour/私の愛のメロディー」など数々のヒット曲の詩を書いていた作詞家Boris Bergman(1944-)と知り合い、Bergman の詩に曲を付けた「L’amour c’est pas confortable/恋は快適じゃない」などを収めた最初のアルバム「Romans photos」を出す。次いで、79年には「Roulette russe/ロシアン ルーレット」を出すがいずれも成功せず。 ・1980年「Gaby,oh Gaby/ガビー、オー ガビー」を収めたSPをリリース。 「Gaby,oh Gaby」はデビュー以来14年「peau de cou/首の皮」1枚で繋がっていたBashungの歌手人生を完全に変えた。それまでに出したレコードがいずれも不振だったことからレコード会社は契約の解除を考えていた。Alainは会社を説得、このレコードを出すことを承知させた。A面に「Gaby oh! Gaby」(Bergman作詞、Bashung作曲)、B面に「Ell‘s’fait rougir toute seule/彼女は一人で真っ赤になる」(同)をおさめた45回転レコードは80年年初各ラジオ局に送られた。音楽番組の担当者は全く興味を示さなかった。Bergmanに詩は突飛で、シュールだった。「タバコを吸わなくなっていたサメは吸い殻に火を付けた・・」。番組責任者はもっと懐疑的で、このレコードも毎週送られてくる多くのもの同様お蔵入りにした。それから4ヶ月が経って、「tube de l’été/夏のヒット」を探さなければならない時期になった。ラジオ局France Interのプロデューサーは、手許に大した曲がなかったので、蔵の中からBashungのこのレコードを引っ張り出してきた。そしてそれを流した。途端多くの聴取者から好意的な反応が寄せられた。2週間後には他の放送局もこぞってこの曲を流した。そしてたちまち大ヒットになり80年の夏の間だけで130万枚以上の売上げになった。この曲は結局、歌詞は何を歌っているか解らないが、語感だけで乗せられていくと言われた。更にアルバム「Roulette russe」は当初収録されていた2曲を削除して「Gaby oh!
Gaby」を収めたnew editionをリリース、こちらも50万枚以上の売上げ。 「Gaby oh! Gaby」:http://www.youtube.com/watch?v=mey8GokRFf4 ・1981年のアルバム「Pizza/ピザ」には、「Vertige de l’amour/愛のめまい」などBergman作詞/Bashung作曲の11曲収録、これもヒット。 ・1981年6月3日パリOlympiaに出演。 ・1982年アルバム「Play blessures」をリリース。これには詩をSerge Gainsbourgと共作し、Bashungが作曲した曲を中心に13曲収録。このアルバムは当時一般にファンの間でも、評論家の間でも評価は低く、商業的には成功しなかった。しかし、最近ではBashungの傑作の一つとされる。 ・1982年公開の映画Jean-Luc Miesch監督の「Nestor Burma,détective de
chocにロック歌手役で出演、Michel Serrault、Jane
Birkinらと共演 (その後Fernando ArrabalやPatrice Le Conteなどの映画10数本に出演)。 ・1983年アルバム「Figure imposée/規定演技」も商業的には失敗。 ・1984年シングル「S.O.S.Amour/SOS愛」(Bashung
& Didier Golemanas作詞/Basshung作曲)が好評で前2作のアルバムの不振から脱却。 「S.O.S.Amour」:http://www.youtube.com/watch?v=CXN6R__Gy3k ・1986年10月アルバム「Passé le Rio Grande/リオ・グランデを通過」をリリース。Bergman/Bashungの曲を中心に10曲集録。アルバムは86年11月の第2回VdMでロックアルバム賞を受賞。これがBasgungのVdMでの最初の受賞。 ・1989年アルバム「Novice/初心者」Bergmanとの最後の協力。3曲の詩を提供した作詞家Jean Fauque(1951-)との最初の協力。 ・1991年10月リリースのアルバム「Osez Joséphine/ジョゼフィーヌ、思い切って」にはFauqueと共作した詩にBashungが作曲した「Osez Joséphine」、「J’écume/僕は怒っている」、Pierre Grilletの詩にBashungが作曲した「Madame rêve/マダムは夢みる」などを収め、35万枚以上の売上げ。 ・1993年の第8回VdM授与式は2月8日Naguiの司会でパリPalais de Congrèsで行われ、Bashungに男性歌手賞が授与され、「Osez Joséphine」にはヴィデオ・クリップ賞が。 「Osez Joséphine」:http://www.youtube.com/watch?v=NiOHAlkNZa8 ・1994年アルバム「Chatterton/絶縁テープ」には全曲Fauqueとの協力、「Ma petite entreprise/僕の小さな企み」など収録(アルバムはACC賞受賞)。 ・その後2年間のツアーではパリのOlympia、Zénith、Bataclanに出演。95年liveアルバム「Confession publique/公の告白」に。 ・1998年1月アルバム「Fantasie militaire/軍隊のファンタジー」リリース。「La nuit
je mens/夜僕は嘘をつく」ほか12曲のうち11曲はFauqueとの協力、評論家の評価も高く30万枚以上売上げのヒットに。 ・1999年第14回VdMの授賞式は2月20日Michel Druckerの司会、パリOlympiaで行われた。Alain Bashungに男性歌手賞が授与され(他の候補は、Etienne Daho、Johnny Hallyday、Pascal Obispo)、「Fantasie militaire」にヴァリエテ・ポップ・ロックアルバム賞が、Jacques Audiardの演出による「La nuit je mens」のオフィシャルクリップにヴィデオ・クリップ賞が授与された。 「La nuit je mens」:http://www.youtube.com/watch?v=R76URfXE_ck ・1999年9月フランス公開のPierre Jolivet監督映画「Ma petite entreprise」音楽担当 ・2000年第15回VdMで上記の音楽でTV・映画音楽賞 ・2000年Vanéssa Pardisのアルバム「Bliss」に「L’eau et le vin/水とワイン」を提供。 ・2001年女優・歌手Chloé Monsと結婚、1998年「La nuit je mens」のclip撮影の際に出会った(Bashungは再婚)。 ・2002年にはアルバム「L'imprudence/不注意」リリース。 ・2003年Léo Ferréの没後10年を記念したトリビュートアルバム「Avec Loé/レオとともに」には「Avec le temps/時の流れに」で参加。 ・2005年第20回記念のVdMで特別賞「過去20年の最優秀アルバム」に「Fantasie militaire」が選ばれる。 ・2006年にはFrançoise Hardyのアルバム「Parenthèses/括弧」でHardyとデユオで「Que reste-t-il de nos amours/残されし恋には」を歌う。 Que reste-t-il de nos amours」(Bashung
& Hardy): http://www.youtube.com/watch?v=LU44NskHzpk ・2007年4月13、14日改装なったSalle Pleyelに出演。 ・2008年3月24日にはアルバム「Bleu pétrole/青い石油」をリリース。Gaëtan Roussel(「Résidents de la République/共和国の住人」、「Hier à
Sousse/昨日スースで」などの作詞・作曲)、Gérard Manset(「Comme un lego/レゴのように」の作詞・作曲など)らの協力を得る。また、Mansetの「Il voyage en solitaire/彼は一人で旅する」をカバー。 ・2008年6月のOlympia出演をはじめ国内で「Bleu pétrole」ツアーを行った。 ・2009年1月1日Légion d’honneurのChevalier勲章受章。 ・2009年第24回VdMの授与式は2月28日Naguiの司会、パリZénithで行われた。男性歌手賞はAlain Bashungに授与された(他の候補者は:Francis Cabrel、Manu Chao、Julien Clerc、Christophe Maé)。「Bleu pétrole」にシャンソンアルバム賞(他の候補はBenabar「Infréquentable」、Camille 「Music Hale」、Vincent Delerm「Quinze chansons」)、「Bleu
pétrole tour」にスペクタクル/ツアー/コンサート賞が授与された。 ・・授賞式の模様 肺ガンの治療を受けていたバッシュングは2月中にもいくつかのコンサートをキャンセルしなければならなかったが、「ステージで歌うためには立っていなければならず、それが私に力を与えてくれる。」とVdMには出場。 この授賞式で最初に発表されたのはスペクタクル/ツアー/コンサート賞。アルバム「Bleu pétrole」の名を冠したツアーがこの賞の候補になっていることから、Bashungはステージに登場、アルバムに収められている「Résidents de la République」を歌う。途中で何度も観客のオヴェーション。 この賞を受賞しBashungは「オーララ、オーララ、ありがとう、皆さんのおかげ。皆さんがたくさんの愛情を私に送ってくれた」と闘病中の支援に感謝、「本当にありがとう、皆さんにとって実り多い年でありますように」。 「Résidents de la République」:http://www.youtube.com/watch?v=F4BMHHnFI3Y スペクタクル/ツアー/コンサート受賞:http://www.youtube.com/watch?v=3rk7FkE-cW0 2つ目の賞、男性歌手賞のトロフィーをOlivia Ruizから受け、「Que dire,que dire?/何と言ったらいいか。トロフィーは光っている、重い。心を温めてくれる」。 3つ目の賞、シャンソンアルバム賞を受賞した際にも会場はスタンデイングオヴェーション。見た目にも疲れたよう「このアルバムの製作に力を貸してくれたすべての人に感謝。今夜は皆さんのおかげで素晴らしいものになった。今夜のことは決して忘れないだろう」ステージを去るときは「もう行きます。いい加減にしないといけないから」。 2009年3月14日パリのSaint-Joseph病院で死去、享年61歳。肺ガンのため1年以上にわたり化学療法の治療を受けていた。 葬儀は3月20日(金)11:30からパリ6区のSaint-Germain –des –Prés教会で。 遺体はPère-Lachaise墓地第20区のav.de la Chapelleに埋葬された。 Bashungの最後のコンサートは08年12月14日のパリElysée
Montmartre における「Les dimanches à l'Elyéee/日曜日にエリゼで」だった 最後のヴィデオ・クリップはアルバム「Bleu petrole」からの3枚目のシングル「Sur un trapèze/空中ブランコの上で」用のものでJean-Batiste Mondino監督。 ・2010年第25回VdMで2008年のOlympia公演を記録したDVD「Alain Bashung à l’Olympia」がDVDMusical de l’annéeを受賞、VdMでの12回目の受賞。 ・2011年11月7日アルバム「L’Homme à tête de chou/キャベツ頭の男」リリース。Serge
Gainsbourgの同名のアルバムに収められた全曲をカバーしたもので「L’Homme à tête de
chou」、「Marilou sous la neige/雪の下のマリルー」「Marilou Reggae」など12曲収録。 ・2012年6月21日Bashungが住んでいたパリ18区Goutte-d’Or地区16、rue de JessaintにSquare Alain Bashungが誕生した (VdM): VdM(Victoires
de la musique)は、前年にフランス国内でリリースされた楽曲、活躍したアーティスト等を対象にした音楽賞を授与するセレモニーで1985年から毎年行われている。受賞者には「Victoire」と呼ばれるトロフィーが授与される。授賞式は毎年TV中継され、視聴率は高い。Victoireはいくつかの部門に分けられる。部門は状況に応じ追加、削除される。2013年には:「男性歌手賞」、「女性歌手賞」、「シャンソンアルバム賞」、「オリジナルシャンソン賞」、「新人賞」、「新人ステージ賞」、「ロックアルバム賞」、「アーバンミュージックアルバム賞」、「ワールドミュージックアルバム賞」、「エレキ・ダンスミュージックアルバム賞」、「スペクタクル・ツアー・コンサート賞」、「ヴィデオ・クリップ賞」、それに「特別賞」の13部門。「特別賞」を除く各部門の候補(通常4人・曲)はVdM協会の理事会により決定される。受賞者は理事会が指名する1200人強からなる投票権保持者の投票で決定する。投票権の保持者の40%はアーティスト(歌手、作詞家、作曲家、ミュージシャン・・)、40%は音楽製作の専門家、20%は音楽関連の専門家(エージェント、レコード店、音楽評論家、ラジオの番組編成者・・)。2009年からは「新人賞」及び「オリジナルシャンソン賞」の受賞者は一般の投票により決定される。 Bashungが「Roi des Victoires」あるいは「Recordman des Victoires」と呼ばれている所以は、Bashungが上記のように男性歌手賞3回、アルバム賞3回、さらにVdM創設20周年の2005年にはアルバム「Fantasie militaire」が「過去20年の最優秀アルバム」に選ばれるなど12個(没後の受賞も含め)の賞を受けていることによる。 Bashungに次いで受賞回数が多いのは:Alain Souchou(9回)、M(Matthieu Chedid 9回)、Johnny Hallyday(8回)。男性・女性歌手賞を2回受賞しているのは:M、Véronique Sanson、Barbara、Zazie、Vanéssa Paradis、Olivia Ruiz。 2014年の授賞式は2月14日パリのZénithで行われる。 |
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2014年1月 Janvier
人気女性歌手JeniferがTVTF1のスター誕生番組「Star Academy」で優勝したのは2002年1月12日であった。 略歴 (Star Academyまで) Jenifer、本名Jenifer Yaël Dadouche-Bartoliは1982年11月15日Nice生まれの歌手。母親はコルシカ島出身、ユダヤ系の父親はアルジェリアからの「pied-noir/独立以前のアルジェリア在住(出身)のフランス人」。名前のJenifer(nが一つ、普通はJenniferとnが二つ)は7文字の名が幸運を呼ぶという叔母の進言から。音楽的な環境で育つ、父親はJeniferにJames Brown、Stevie
Wonder、Janis Joplinのレコードを聴かせ、ダンスパーティーなどの歌手だった母親は、Jacques Brel、Edith Piaf、Charles Aznavourなどの歌を歌い、母方の祖母はフラメンコを教えた。Jeniferは7歳で家族の集まりでPiafの「Milord」を歌った。その後出身地やその近くで行われるコンクールに頻繁に出場。1993年の夏、ヴァカンスをコルシカ島で過ごしていたJeniferは、そこで行われた消防士のダンスパーティーでC.Jéomeの前座で2曲歌った。Jérome(1946-2000)はパリ生まれの歌手で、72年の「Kiss me」、85年「Et tu danses avec lui/そして君は彼と踊る」などのヒットで知られていた。 Jeniferは14歳でTV局M6のスター誕生番組「Graines de Star/スターの卵」に出場、決勝で敗れた。その頃から年齢を18歳と偽ってCôte d’Azurのピアノバーやレストランで歌った。16歳で学業を放棄しパリへ。「どうしても歌手になりたかった。レストランやバーで歌う歌手でも良いから」。そして多くのオーディションを受け、レストランやバーで歌った。 (Star Academy) Jeniferは2001年、この年から始まったTV局TF1のスター誕生番組「Star
Academy」の第1シーズンに出場した。 「Star Academy」(「Star Ac」と省略される)ではフランス各地のオーデュションで選ばれた各シーズン15~18人の「étudiants/生徒」がパリ郊外のシャトーに設けられたAcademyに入り、合宿して、アーティストになるために必要な、歌唱、ダンス、芝居、スポーツなどの専門家による訓練を受ける。そして、毎年、秋のフランスにおける新学期の時期から、クリスマスを挟み、新年まで、3~4ヶ月の間、週1回(最初の3シーズンは土曜日、その後は金曜日)TF1で生放送するコンクールに出場する(étudientsには口パクはいなかったが、ゲスト歌手の中にはいたのではないかと言われている)。出場者はステージであらゆるジャンルの曲をソロで、étudiants同士のデュオで、グループで歌うほか、ゲスト歌手とのデュオなどで歌う。このコンクールは基本的には毎週1人が脱落するという厳しいもの。 番組にはレコード会社Universal Musicが協力している。優勝者は賞金100万ユーロを得、それによりUniversal Music社と契約しアルバムを出し、また、コンサートを開く。 Jeniferは仲間の歌手に勧められて、Star Ac第1シーズンに応募。最初の応募者10万人以上とも言われているが、Jeniferは8月行われたオーディションに合格。まず50人のétudiens候補者が選ばれた。次いで16人のétudientsが選ばれ、Jeniferはその一人に。そしてSeine-et-Marne県Dammairie-les-Lys市(パリの南西約60km)にあるChâteau des
Vives Eauxに設けられたAcademyに入った。第1シーズンにétudientsを訓練した専門家は、ダンスはKamel Ouali(ミュージカル「Les dix Commandements/十戒」の振り付けを担当した)、歌唱はArmande
Altaï、芝居はRaphaëlle Ricci(Alice
Donaの娘)などであった。 第1シーズンの特別ゲストはFlorent Pagny、他にLââm、Elton John、Serge
Lama、Nicoletta、Lio、Lara Fabian、Michel Delpech、Patricia Kaasなどがゲストとして出演。番組で「étudients」はNicolettaの「La musique/音楽」、Abbaの「Gimme!Gimme!Gimme!」などをグループで歌った。JeniferはゲストのLamaと「De l’aventure en aventure/アヴァンテュールを重ねて」、Pagnyと「Bienvenue chez moi/我が家へようこそ」をデュオで、「Harley Davidson」(Brigitte Bardot)などをソロで歌った。 このシーズンでは残ったétudientsが7人になった時点(8人が脱落し、ほか1人が出場継続を放棄した)で、これを男女別の2組に分け02年1月5日準決勝を行った。そして各組から決勝進出者1人が選ばれた。02年1月12日(土曜)の決勝戦は女性組からの決勝進出者Jeniferと男性組からの決勝進出者イタリア系でベルギー、リーエージュ出身24歳のMario
Barravecchiaとの対戦となった。1月12日1200万人がTVを視聴していたと言われている決勝でJeniferは60対40でMarioを破り優勝した。 オーディション風景(2011年4月TF1の番組「Enfants de la télé/テレビの子供たち」で流された映像) http://www.youtube.com/watch?v=fPEal69prvo 「Bienvenue chez moi」(Florent Pagnyとデュオ) http://www.youtube.com/watch?v=21SIz1DdN6w 「De l’aventure en aventure」(Serge Lamaとのデュオ) http://www.youtube.com/watch?v=asCw4OCg-OM 「Harley Davidson」 http://www.youtube.com/watch?v=mF3w0PHR35U 「Aimer/愛すること」(決勝戦の相手Marioとデュオ) http://www.youtube.com/watch?v=M6uh3XFsYyk 優勝の瞬間 http://www.youtube.com/watch?v=_r_n8HedP5I Star AcはTF1では08年12月まで8シーズンに渡って行われた。第2シーズン以降の優勝者は:第2シーズンNolwenn Leroy、第3シーズンElodie Frégé、第4シーズンGrégory Lemarchal、第5シーズンMagalie Vaé、第6シーズンCyril Cinélu、第7シーズンQuentin Mosimann、第8シーズンMickels Réa。 また、番組では優勝は出来なかったが、番組出演後歌手としてデビューし、活躍しているStar Aca出身者には:Olizia Ruiz(第1シーズンの準決勝で敗退)、Emma Daumas(第2シーズン)、Sofia Essaïdi(第3シーズン)、Judith(第6シーズン)などがいる。 なお、Star Acは2012年からNRJ局が多少の手直しを加えて第9シーズンとして放送を引き継ぎ、Laurene
Bourvonが優勝した。 (Star Academy以降) Star Ac優勝から一夜明けた翌日、2時間の睡眠後、午前8時にスターJeniferの1日がスタート。インタヴユーが15件、写真撮影が3件など。Jeniferは「私は『bosseuse/働き者・頑張り屋』」とそれらを精力的にこなした。 そして週明けからはアルバムの準備。3週間でレコーディングしたファーストアルバム「Jenifer」がリリースされたのは02年3月25日。 アルバムには11曲収められていた。そのうち「Donne-moi le temps/私に時間を」と「Je ne pourrai
plus aimer/私はもう愛せない」はLionel Florenceの詩。「Nos points communs/私たちの共通点」はMarc Lavoineの詩。「Je garde/私は持ち続ける」は決勝戦で争ったMario Barravecchiaとのデュオ。「J’attends l’amour」は「True Love」の翻案。 アルバム「Jenifer」はフランスで80万枚以上、他のヨーロッパ諸国での売上げを合計すれば100万枚以上に上がると言われる大ヒットに。
そしてJeniferは02年10月2日から03年4月6日まで最初のツアーを行った。この間にパリOlympiaには5回(02年11月12、13日、03年1月28、29、30日)、パリZénithには1回(03年3月14日)出演。フランス国内各地及びベルギー、スイスを回ったこのツアーでは約40万人の観客を集めた。Jeniferはまた03年6月のJohnny HallydayのパリParc des Princes公演にゲストで出演、10、11、14、15日、Hallydayのヒット曲「Je te promets/君に約束する」をデュオで歌っている。 Jeniferはその後も定期的にアルバムをリリース。すなわち:04年「Le passage/通過」(「Le souvenir de ce jour/あの日の思い出」、「Serre-moi/抱きしめて」など収録、60万枚以上)、07年「Lunatique/移り気な人」(「Si c'est une île/それが島なら」、「Touner ma page/私のページをめくる」などを収録、30万枚以上)。09年11月「Appelle-moi Jen/ジェンと呼んで」(「Je danse/私は踊る」、「Le dos tourné/背中を向けて」などを収録、10万枚程度)、12年「L’amour
et moi」(「Sur le fil/綱の上で」、「Les
jours éléctriques/エレクトリックな日々」など収録、10万枚程度)、13年「Ma déclaration/私の告白」(「Evidement/もちろん」、「Ella,elle a/エラ、彼女は持っている」などFrance Gallのヒットをカバー、10万枚以上。№1279)。13年には「We
love Disney」に「L’air du vent/風の歌」で参加している(№1332) TF1は2012年から新しいスター発掘番組「The voice、la plus belle voix/ザ ヴォイス、最も美しい声」を放送。この番組ではJeniferはGarou、Florent Pagny、Louis
Bertignac(第3シーズンからMika)とともに審査員・コーチを務めている。 JeniferはVdMではアルバム「Jenifer」が03年新人アルバム賞にノミネートされただけで受賞はしていない。他方NRJ Music Awardsでは受賞の常連で、都合8個の賞を受けている。すなわち、03年フランス語部門新人賞、04年・05年・06年・08年・09年・11年フランス語部門女性歌手賞、05年「Passage」でフランス語部門アルバム賞。 Jeniferはチャリティーコンサートには積極的に参加していて、Les Enfoirésには03年から毎年出演している。
07年12月には、Musée Grévin/グレヴァン博物館に蝋人形が展示された。 「Donne-moi
le temps」 http://www.youtube.com/watch?v=GjFsZCPzD1c 「Je
te promets」(Johhny Hallydayと) http://www.youtube.com/watch?v=kV5upd_mvEM 「Touner
ma page」 http://www.youtube.com/watch?v=M64NX-VoUs4 Jenifer(Musée Grévin) http://i175.photobucket.com/albums/w150/tricotin/ENCORE/parispatrice149.jpg |
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2013年12月の顔 Pierre Delanoë ピエール・ドラノエ
5000曲以上作詞し、シャンソンフランセーズの最も偉大な作詞家と言われ、「シャンソンのVictor Hugo」とも呼ばれたピエール・ドラノーエPierre Delanoëは2006年12月27日死去。 (略歴) ・1918年12月18日パリ10区生まれ ・1930年代には法律学士号取得後、国税庁に入り、租税検査官 ・1940年代終戦後、作曲家であった義兄Frank Géraldの曲に歌詞を付けることに興味を持ち、最初に作った詩は1948年の「Y’a un pli au tapis du salon/客間のジュータンには皺が一つ」。そしてPierreが歌いFrankがピアノというデュオを組んで rue du Faubourg Montmartre(9区)のキャバレなどで歌うが、記録に残るような実績はない。 ・1950年Jean Nohainに紹介された女性歌手Marie Bizet(1905-1998)が「Y’a un pli au tapis du salon」、「Quand vous reviendrez
chez moi/あなたが我が家に戻って来るとき」を歌ってくれる。 ・その後Bizet宅で当時Bizetの伴奏ピアニストであり、Bizetのために作曲もしていたFrançois Silly(1927-2001)を紹介される。後にSillyはGilbert Bécaudの名でJacques Pillsのピアニストになり、また、作曲家として、52年にはEdith
Piafのために「Je t’ai dans la peau/あなたに首っ丈」(作詞Pills)を作曲。 ・1953年Delanoë作詞、Bécaud作曲による「Mes mains/私の両手:メ マン」をLucienne Boyerがレパートリーに取り入れ、Alhambraのステージで創唱。これがこのコンビの最初のヒットに。この曲はBécaudも歌い、54年8月のSPに収録。その後Delanoë/Bécaudのコンビは数々のヒットを生み出す。 ・1955年ラジオ局Europe1の編成責任者に。1959年10月から伝説的なポップミュージック番組「Salut
les copains/やあ、仲間たち」を放送。番組のタイトルは1957年Bécaudのヒット曲「Salut les copains」(Delanoë作詞/Bécaud作曲)から。 ・1958年EurovisionシャンソンコンクールでフランスはAndré Claveauが歌う「Dors mon amour/おやすみ、僕の恋人」(Delanoë作詞、Hubert Giraud作曲)で参加、グランプリを獲得。 ・1962年Bécaud、Louis Amadeらとの5年間にわたる作業の末、オペラ「Aran」完成 ・1965年Hugues Aufrayのアルバム「Aufray chante Dylan/オーフレ、ディランを歌う」のためにBob Dylanのヒット曲にフランス語の詩をつける ・1984年SACEM(作詞家・作曲家・楽譜出版者協会)会長に就任。その後86、88、90、92年にも。94年以降は名誉会長 ・1997年10月アルバム「Pierre Delanoë chante”Y’a qu’à se laisser vivre”/ピエール・ドラノーエが歌う『気ままに生きるだけ』」をリリース。これには「Y’a qu’à se laisser vivre」(このアルバムのため特別に作った曲で、Delanoë作詞、Charles Aznavour作曲)、「Les Champs Elysées/オー シャンゼリゼ」、「Mes mains/メ マン」、「En chantant/歌いながら」、「Bravo Monsieur le Monde/ブラヴォー 地球よ」など自ら歌った15曲を収録。 ・2006年12月27日死去、享年88歳。 この間5000曲以上の作詞を行い、30人以上の歌手に提供した。 (生前の言など) ・「Y’a
qu’à se laisser vivre」では次のように歌っている・・・・気ままに生きるだけ、心を平衡に保って、舞台の上手と下手の間を、風の中を、霧氷の中を、友人たちのためにパンを少し残して。自分の進む道を選ぶことに自由であることを夢見て、明日は自分のものだと信じて、気ままに生きるだけ。自分の岸に沿って、そして記念すべき大切な日に、・・川を渡るだけ。 ・人生について①・・人はこの世に出ることを待ち、話せるようになることを待ち、成長することを待つ。郵便配達を待ち、籤に当たることを待ち、バスを待ち、愛を待つ。そしてある日、何も待たなくなる。永遠の曲がり角を見つけるから。 ・人生について②・・何も痕跡を残さないのなら、存在することに意義があるのか。そうであれば、何のために、誰のための人生? ・5000曲以上作詞したことについて・・そう複雑なことではない。私は50年間書いている。1週間に2曲として、1年に100曲、だから50年では・・5000曲。 ・ヒット曲について(1988年当時)・・約3500曲書いたがヒットしたのは300曲程度だろう。だから失敗作が3200曲という大きな数になる。作詞家を志す若者は知っておかなければならない数字だ。 ・作詞について①・・詩は何時でも生まれてくる。新聞を読んでいるときも、怒っているときも。その後で韻を考えたり、行数を考えたり、適切な用語を探したりという技術が必要になってくる。歌詞は大切、歌詞によって人はある曲を記憶してくれるもの。 ・作詞について②・・私は、猫背の人の仕立屋のようなもの、自分のアイデアを歌ってくれる人に合わせて書いている。 ・若い世代のACIについて・・Alain SouchonやRenaudは「l’âme de poètes/詩人の魂」を持っている。[もっと若い]Vincen Delerm、Carla Bruni、Lynda Lemayはいい。しかしその他大勢の中に飲み込まれてしまうのではと心配している。 ・新しい世代の歌手たちについて・・最近シャンソンフランセーズは水準ゼロ。女性歌手は犬のように吠えているだけ、男性歌手は猫のようにミャーミャー言っているだけ。 ・ラップについて・・私にとっては音楽ではない。あれは怒号、おくび。音楽を知らない原始人の表現の一形態。 ・Delanoëの曲を3曲歌っているEdith Piafについて・・Piafは20世紀の最も偉大な歌手だ。しかし私たち二人は理解し合っているとは言えなかった。私は彼女の人格や生き方が好きではなかった。彼女に真夜中過ぎまで付き合うなんてことは私には出来なかった。しかしステージでは彼女は太陽のようだった、存在感があった。それに彼女には自分が歌う曲を自分自身で選ぶという聡明さがあった。 (主な作品、歌っている歌手別に) ・アンドレ・クラヴォーAndré Claveau:「Dors mon amour/おやすみ、僕の恋人」(1958年Eurovisionシャンソンコンクール優勝曲) ・バルバラBarbara:「L’homme en habit/晴着の男」(創唱) ・シャルル・アズナヴールCharles Aznavour:「Inoubliable/忘れ得ぬ人」 ・クロード・フランソワClaude François:「C’est de l’eau,c’est du
vent/水だ、風だ」「Les ballons et les billes/風船とビー玉」 ・ダリダDalida:「Comme disait Mistinguette/ミスタンゲットが言っていたように」、「Fini la comédie/芝居を止めて」、「Laissez-moi danser/私を踊らせて」、「Salma Ya Salama/サルマ ヤ サマラ」、「L’amour et moi/愛と私」、「Le jour où la pluie viendra/雨の降る日」(創唱)、「Ciao
amore ciao/チャオ アモーレ チャオ」(原曲はLuigi Tencoの作詞作曲による同タイトルのイタリア語の曲で、1967年DalidaとTencoがSanremo音楽祭で歌った) ・エディット・ピアフEdith Piaf:「Les grognards/近衛兵」、「Le diable de la Bastille/バスティーユの悪魔」、「Toi,tu n’entends pas/あなたには聞こえない」 ・エンリコ・マシアスEnrico Macias:「Aimez-vous les uns les autres/お互いに愛し合いなさい」 ・フランス・ギャルFrance Gall:「Ne sois pas si bête/そんなにおばかさんにならないで」 ・フランソワーズ・アルディFrançoise Hardy:「La rue des cœurs perdus/『虚ろな心』通り ・ジェラール・ルノルマンGérard Lenorman:「La ballade des gens heureux/幸せは人々のバラード」、「Voici la clef/鍵はここ」、「Si j’étais président/僕が大統領なら」 ・ジルベール・ベコーGilbert Bécaud:「Et maintenant/エ マントナン」、「Je reviens te chercher/君を迎えに」、「Je t’appartiens/神の思いのまま」、「La solitude ça n’existe pas/孤独なんて存在しない」、「Le
jour où la pluie viendra/雨の降る日」、「Mes mains/メ マン」、「Natalie/ナタリー」、「Salut les copains/やあ仲間たち」「Viens danser/さあ踊ろう」、「Le pianiste de Varsovie/ワルシャワのピアニスト」、「Marie,Marie/マリー、マリー」、「Dimanche à Orly/日曜日はオルリーで」、「L’orange/オレンジ」、「La maison sous les arbres/木の下の家」、「Les gens de l’île/島の人々」、「L’homme en habit/晴着の男」 ・・「Et maintenan」についてDelanoëは語っている・・1961年Bécaudはパリからニースへ向かう飛行機の中で女優のOlga Andersenと一緒になった。彼女は婚約者に会いに行くところだった。帰路の飛行機の中でも一緒になった。その時には婚約者との仲が破綻して彼女は苦しんでいた。Bécaudは「一緒に朝食を」と、パリ郊外にあった木造の別荘に招待した。着くと彼女はピアノに寄りかかり「Et maintenant qu’est-ce que je vais faire?/今、私はどうしたらいいのかしら」とつぶやいた。Bécaudから電話があって、「曲の出だしが出来た。直ぐ来てくれ」。そして曲はその日のうちに完成した。[曲は「What Now My Love」のタイトルで英語の歌詞が付けられ、Sammy
Davis Jr.、Aretha Franklin、Brenda
Lee、Elvis Presley、Frank Sinatra、Barbara Streisand、Dionne Warwickらが歌っている] ・・「Natalie」についてDelanoëは語っている・・Bécaudは私の曲をしばしば拒否した。「Natalie」を歌わせるのに1年掛かった。最初はNatachaという名を考えていた。共産圏で叶わぬ恋に生きる女性として。Bécaudに歌詞を見せるたびにはねつけられた。そして「もっと強烈なイメージが欲しい」と言われた。そこで[この曲の歌い出しの部分]「La Place Rouge etait vide.Devant moi
marchait Natalie./赤の広場に人影はなかった。僕の前をナタリーが歩いていた」と口から出たとき、彼はピアノに向かった。曲作りは1時間で終わった。[なお、曲中に現れるCafé PouchkineはDelanoëの創作によるものだが、Pouchkine生誕200年に当たる1999年、Kremlinに近いTverskoi通りにBécaud出席のもと開店。2010年パリのPrintemps百貨店の1階にCafé Pouchkineがオープンしたが、これは、モスクワのCafé Pouchkineとは関係ない由] ・ユーグ・オーフレHugues Aufray:「Le rossignol anglais/英語で歌うナイチンゲール」「Debout les gars/立ち上がれ男の子たち」、「Je ne pourrai t’oublier
tout à fait/君を完全に忘れることは出来ない」、「La fille du Nord/北の少女」、「Le jour où le bateau viendra/船の来る日」 ・ジャン=クロード・パスカルJean-Claude Pascal:「Soirées de Princes/王子たちの夕べ」 ・ジョー・ダッサンJoe Dassin(Delanoëはダッサンを中心に集まった『Bande de Joe/ジョーの一味』のメンバー):「A toi/君に」、「Ça va pas changer le monde/それが世界を変えることはない」、「Et
si tu n’existais pas/君がいなければ」、「Il était une fois nous
deux/かつて我々二人がいた」、「L’Amérique/アメリカ」、「Le petit pain au chocolat/小さなチョコレートパン」、「Les
Champs-Elysées/オー、シャンゼリゼ」、「L’été indien/インディアンサマー」(「Deauvilleの温泉にいた。ぐったりするような暑さで、NYの秋の湿り気のある暑さを思い出した。そう言えばアメリカ人はそんな気候を『L’été indien』と呼んでいたっけ。この言葉が気に入った」)、「Le
chemin de papa/パパの歩いた道」 ・ジャック・デュトロンJacques Dutronc:「La vie,l’amour, c’est dingue/人生、愛、それはどうでも良いもの」 ・ジョニー・アリディJohnny Hallyday:「Derrière l’amour/愛の背後に」 ・ジュリエット・グレコJuliette Gréco:「De Pantin à Pekin/パンタンから北京へ」 ・ルシエンヌ・ヴォワイエLucienne Boyer:「Mes mains/メ マン」(創唱) ・ミシェル・デルペッシュMichel Delpech:「Inventaire 66/1966年財産目録」 ・ミシェル・フガンMichel Fugain:「Je n’aurai pas le temps/僕には時間がない」(1967年Fugainのデビュー曲、Fugainは「それなのに時間がないとは!」)、「Bravo monsieur le monde/ブラヴォー、地球よ」、「Chante
comme si tu devais mourir demain/歌え、今日を限りの命のように」、「Une
belle histoire/美しい物語」(日本のコーラスグループ「サーカス」の「Mr.サマータイム」の原曲、内容はかなり異なる) ・ミシェル・ポルナレフMichel Polnareff:「Le bal des Laze/ラーズ家の舞踏会」、「Hey! You Woman」、「Gloria/忘れじのグロリア」 ・ミシェル・サルドーMichel Sardou:「En chantant/歌いながら」、「Etre une femme/女性であること」、「J’accuse/私は告発する」、「Je viens du sud/僕は南仏出身」、「La java de Broadway/ブロードウェイのジャヴァ」、「Le France/フランス号の曳航」(「この豪華客船が売却されるのは一つの時代の終焉を意味すると思った」)、「Le temps de colonie/植民地の時代」、「Les lacs du
Connemaraコネマラ湖」、「Les vieux mariés/永遠の絆」、「Vladimir Ilitch/ウラディミール・イリッチ」(Lenineの本名) ・・「Les vieux mariés」にいてDelanoëは語っている・・Jacques Brelが「Les vieux/老夫婦」を発表した1963年、昼食を一緒にしたときBrelに言った。「君にはうんざりだ。この曲は老人の希望のない肖像画じゃないか」。そしてBécaudに、同じように老人をテーマにしてもっと希望的な、楽観的な曲を歌うように提案したが、受け入れられなかった。1973年になって「Les vieux mariés」をSardouが歌ってくれた。 ・ミレイユ・マチューMireille Mathieu:「Messieurs les musiciens/ミュージシャンの皆さん」「Qu’elle est
belle/彼女は何と美しいこと」、「Ecoute ce cri/この叫びを聴いて」 ・ミルヴァMilva:「Les quais de la gare de Berlin/ベルリン駅のホーム」 ・モーリス・シュヴァリエMaurice Chevalier:「Quand j’aurai 100 ans/100歳になったら」(1968年のChevalier引退公演のために作詞) ・ナナ・ムスクーリNana Mouskouri:「Comme un selei/太陽のように」、「Je chante avec toi liberté/自由よ、私はあなたと共に歌う」、「L‘amour en heritage/引き継がれた愛」(創唱)、「Ma verité/私の真実」、「Adieu Angelina/さよなら、アンジェリーナ」 ・ニコレッタNicoletta:「Il est mort le soleil/太陽が消えた朝」、「La solitude ça n’existe pas/孤独なんて存在しない」(創唱) ・ニコル・クロワジルNicole Croisille:「Une femme avec toi/あなたと一緒の女性」、「Je ne suis que de l’amour/O嬢の物語」、「Femme/女性」 ・シルヴィー・ヴァルタンSylvie Vartan:「La Maritza/思い出のマリッツア」、「Qu’est-ce qui fait pleurer les blondes?/ブロンドを泣かすのは誰」、「Tu ne me parles plus d’amour/あなたはもう私に愛を語らない」 ・・「La Maritza」についてDelanoëは語っている・・Vartanのために曲を依頼されたとき、彼女の出身地、ブルガリアとソフィアについて「Petit
Larousse」事典で調べた。よし、この川がある、面白いと思い詩にした。作曲者のJean Renardはルフランの部分をバルカン地方の民謡から想を得たが、「Les feuilles mortes/枯葉」の作曲家Jeseph Kosmaの出版社から盗作の疑いをかけられた。 ・ティノ・ロッシTino Rossi:「Deux amants/二人は恋人」 ・イヴ・モンタンYves Montand:「Cartes postales/絵葉書」 「Bravo
Monsieur le Monde」(Pierre
Delanoë作詞、Michel Fugain作曲、歌Delanoë) ・・ブラヴォー、地球よ、脱帽、地球よ、お前はいつも正常に動いているわけではないけれど。お前の山々にブラヴォー、それは美しいし、素晴らしい。お前の四季にも賛辞を贈る、それは我々にシャンソンのアイデアを与えてくれる。青い海に、麦の穂を踊らせる風に、火山の怒りに、子供の心に喜びをもたらす虹にブラヴォー。お前を台無しにする人たちを許して欲しい。お前が(平和の象徴の)白い鳩の命を奪うことがなければ、それだけで我々はお前に言うだろう、merciと。 http://www.youtube.com/watch?v=PVVlfsgl1Kc 「Et maintenant」(Pierre Delanoë作詞Gilbert Bécaud作曲・歌) ・・今、僕はどうしたらいいのだろう、これからの僕の人生で、君が去ってしまった今。夜は何のために、誰のためにあるのだろう。この心臓は誰のために、何のために脈打つのか。僕の人生はどんな虚空に向かっていくのか。君は全世界を僕に置いていったけど、君のいない世界はあまりにも小さい。パリさへも退屈で、パリのどの通りも僕の神経をすり減らす。今、僕はどうしたらいいのだろう、涙を流さないために笑ってしまおうか。僕は夜には身を焦がし、朝には君を恨む。そしてある日僕は道の終わりを見るだろう、花もなく、涙もない終わりを。僕にはもうやることは何もない、本当に何も・・ http://www.youtube.com/watch?v=p1H_dMrDUNo 「La Maritza」(Pierre Delanoë作詞、Jean Renard作曲、歌Sylvie Vartan) ・・マリッツア川は私の川、セーヌ川があなたの川であるように。でも今その川を時々にせよ思い出すのは私の父しかいない。私の10歳までのものは何も残っていない。みすぼらしい人形さへ。残っているものと言ったら昔の歌のちょっとしたルフランだけ。ララララ・・。私の川の小鳥たちは皆、私たちに自由を歌っていた。私にはほとんど分からなかったが、父はその歌を理解することができた。地平線が暗くなると鳥たちは出発した、希望という道に沿って。そして私たちも鳥の後を追った。パリへと。私の10歳までのものは何も残っていない。でも目を閉じて私は聞く、父が歌うあのルフランを、ララララ・・ http://www.youtube.com/watch?v=jb2wp3qE-k0 |
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ジャン・フェラJean Ferratが最大のヒット曲「La montagne/山:ふるさとの山」を録音したのは1964年11月12日。 「La montagne」(作詞Jean Ferrat/作曲Jean Ferrat)の歌詞: ・・彼らは一人、また一人故郷を去って行く、生活の糧を得るために、生まれた土地から遠く離れて。長い間彼らは夢みていた、都会を、都会の秘密を、フォーマイカや映画を。 老人たちは無意識のうちに折り返した袖で口を拭いていたものだった。そして皆よく知っていた、ウズラを絞める頃合いや、山羊のトムチーズの食べ頃を。・・(ルフラン)でも山は今も変わらず美しい。ああ、人はツバメの群れを目にするだけで、秋がもうそこにやってきたのだと気付くのだ。 ・・彼らは石垣を積み上げていった、長い年月を掛けて、丘のてっぺんまで。 彼らは皆高貴な、葡萄の根のように頑強な魂の持ち主だった。今葡萄の蔓は森の中に伸びてしまい、もうワインが絞られることはないだろう。それは安ワインだったが、それを作ることしか知らない100歳の老人を作り上げてきた。・・(ルフラン)・・山羊が2頭、それに数頭の羊、よい年もあれば、そうでない年も。ヴァカンスも、遠出することもない。娘たちはダンスパーティーに行きたがる。自分の人生を生きたいと思うのは当然。彼らの人生、それはお巡りさんや公務員になること、何の心配もなく退職の時がやってくるのを待つだけ。やりたいことをやる術を心得ていて、公団住宅に帰り、ホルモンで育った鶏肉を食べる・・でも山は今も変わらず美しい。ああ、人はツバメの群れを目にするだけで、秋がもうそこにやってきたのだと気付くのだ。 (Jean Ferrat略歴) ・1930年12月ジャン・フェラJean
Ferrat、本名Jean Tenenbaum、パリ近郊Vaucresson (Hauts- de- Seine県)生まれ、ACI(シンガーソングライター)で詩人。生涯に(曲を付けただけのものも加え)200曲作ったと言われている。ユダヤ人であった父はJeanが11歳のときAuschwitzで死去。Jeanは共産党員によって匿われた。15歳でリセ卒業と同時に働き出す。音楽と芝居に興味を持っていたJeanは50年代初めから作曲をしたり、ジャズバンドでギターを弾いたりした。 ・1956年尊敬していたLouis
Aragonの「Les yeux d’Elsa/エルザの瞳」に曲を付けた。それをAndré Claveauが取り上げ、歌ってくれたことにより世間に知られるように。 ・1957年Guy Béartの前座でパリのキャバレLa Colombeに出演、次いで、Milord l'Arsouille、L'Echelle de Jacob、La Rotisserie de l’Abbayeなどに出演。 ・1958年最初のレコードをVogue社から出すが反応なし。 女性歌手Christine Sèvresがいくつかの曲を取り上げてくれた。(60年Christineと結婚、Christineは81年病没) ・1960年2枚目のEPに収められた4曲のうち「Ma Môme/小さな愛」がラジオでも頻繁に流され最初のヒット曲に。 ・1962年Isabelle
Aubretと出会い、「Deux enfants au soleil/太陽の子供たち」を提供。Ferratから提供された曲は以後Aubretの重要な持ち歌に。 ・1963年LP「Nuit et brouillard/夜と霧」によりACC大賞を受賞
・1964年「La
montagne/ふるさとの山」、「Que serais-je sans toi/もしもあなたに逢わずにいたら」を発表。 ・1966年1月Bobinoにvedetteとして出演。 ・1967年キューバに2ヶ月半滞在、この旅行でその後トレードマークになる髭を蓄えるように。 ・1970年パリPalais des Sportsで12回の公演。 ・1971年200万枚売り上げたと言われているアルバム「Ferrat chante Aragon/フェラ、アラゴンを歌う」(「Le
malheur d'aimer/愛することの不幸せ」、「Nous dormiront ensemble/一緒に眠ろう」、「Robert le diable/悪魔のロベール」など収録)。 ・1973年最後のツアー。 ・1990年SACEMのMédaille d'Or/金メダルを受ける。 ・1998年Festival d'Alèsにゲスト出演し700人のコーラスをバックに歌う、最後のステージ ・2009年57曲を収めた3枚組みコンピレーションアルバム「JEAN FERRAT BEST OF」 ・2010年3月13日午後Aubenas(Ardèche県)の病院でガンのため死去。1992年に再婚したColette夫人が看取った。享年79歳。Antraiguesの共同墓地に埋葬。 AntraiguesではFerratを偲んで2011年から毎年Place de la Résistance/レジスタンス広場を中心に 「Festival Jean Ferrat」が開催されている。2013年は7月20、21日Juliette、Yves Jamait、Art Mengoらが出演。 また、Colette夫人は2013年3月12日からPlace de la Résistanceにある住居を記念館として一般に公開、Francesca Sollevilleらが出席して開館式が行われた。 (「La montagne」) Jean Ferratは1964年Rhone-Alpesローヌ=アルプ地方、Ardècheアルデッシュ県の県南部に位置するAntraigues-sur-Volaneアントレーグ=シュール=ヴォラヌ村(以下「Antraigues」、地図でSt―EtienneとNîmesとを直線で結んだほぼ中間地点)に移り住んだ。夏は暑く、冬は雪が降るこの人口600人足らずの小村に。Jean Trenenbaum(本名)にこの地方の血は流れていない。両親はロシアから逃れて来たユダヤ人。パリ13区に連接する郊外Ivry-sur-Seineで安穏な生活を送っていたFerrat、ツアーの合間に友人のGabriel
Monnetが館長を務めていたBourgesのMaison
de la Cultur/文化会館を訪れた。そこでMonnetに、パリ生まれで、Ardècheを根拠に活躍しているアーティストJean Saussacを紹介された。Saussacは画家、インテリアデザイナー、芝居や映画の美術担当(映画「Le vieux
fusil/邦題:追想」、「Les Grandes gueules/邦題:男たちの掟」など)、65年から77年までAntraiguesの村長を務める。SaussacはFerratに一度Antraiguesの様子を見に来るように説得。64年5月様子を見に行ったFerratは即、移り住むことを決心、その後Saussacの紹介の紹介で家も購入(FerratがAntraiguesに主たる居住場所を移したのは1973年)。 新しく移り住んだ土地の美しい自然が与えたインスピレーションにより、ギターを弾く彼の指から単純かつ雄弁なメロディーがほとばしり出た。彼がこの村に2軒あるレストラン兼ホテルの一つ、Hélène Baisade夫人が経営していた「Lo Podello」の一室で一気呵成に、通常は遅筆のFerratが2~3時間で「La Montagne」を書き上げた。 曲は64年11月12日に録音された。11月A面に「La montagne」、B面「Autan d’amour,autant de fleurs/恋と同じだけの花」(H.Bassis作詞、Ferrat作曲)を収録したSPが、続いて、同月中にA面「La montagne」&「Autant・・」、B面「Hourraf!/万歳!」(Ferrat/Ferrat)、「Que serais- je sans toi」{Aragon/Ferrat}を収録したEPがリリースされた。そして65年1月にはこれらの4曲の他「Berceuse/子守歌」(Ferrat/Ferrat)、「Au bout de mon age/旅路の果てに」(Aragon/Ferrat)など全8曲を収録したLPがリリースされた。64年12月8日TV番組「DISCORAMA」に出演、司会者のDenise Glaserにこの村の素晴らしさを語った。 「La montagne」は的確な言葉で、田舎からの脱出を、老人たち素晴らしい仕事や勇気や静かな忍耐力に対する敬愛の念を、酸味のあるワインを生み出す葡萄畑を、農民の必要最小限のもので暮らす貧しさとは違うミニマリズムの生活態度を歌っている。ツバメの出発は夏の終わりを示していたが、そんなツバメは姿を消えてしまった。またこの曲は最初のエコロジーへの信仰の告白。人口の都市集中、田舎の、農村の価値の喪失の告発。多くの村が人々の無関心の中で消えて行くという現実の悲しい証明。Arthur Rimbaudのような透視力を持って、Ferratはそれを予言した。この指摘を大衆は敬虔な気持ちで受けいれ、レコードは500万枚売れた。レコードが出されてから1年経ってAntraiguesに帰ったFerratに一人の農民が言った「今朝、ラジオで、わしらのシャンソンを聞いたよ。」 1973年にこの村に主たる居所に定めたFerratは1977年から村会議員や、Jean Saussac村長の下、文化担当副村長を務めた。 この曲は多くの歌手によってカバーされている。最近では2011年のLes Enfoirésで歌われているし、Les Stentors(№1276)が2012年5月リリースのファーストアルバム「Voyage en France/フランスの旅」の中でカバーしている。 「La montagne」(Jean Ferrat 1965.12.18) http://www.ina.fr/video/I00013275/jean-ferrat-que-la-montagne-ets-belle-video.html 「Antraigues-sur-Volane」(村の紹介) http://www.youtube.com/watch?v=8upJoyCFyNE 「La montagne」(2011年のLes Enfoirésで、歌っているのは順に Thomas Dutronc →Jean-Jacques Goldman → Zaz → Jean-Louis Aubert → 観客) http://www.youtube.com/watch?v=MI6e1kR3PcA 「La montagne」(Les Stentors) http://www.youtube.com/watch?v=uowPSmWE1U4 13年10月の顔 Charles Dumont シャルル・デュモン Charles Dumont シャルル・デュモンが作詞者のMichel Vaucaireとともに「Non,je ne regrette rien/そう、私は何も後悔しない:水に流して」を携えてEdith Piaf(1915-1963)宅を訪ねたのは1960年10月5日であった。 「Non,je ne regrette rien」(Michel Vaucaire作詞、Charles Dumont作曲)の歌詞: ・・そう、何一つ、私は何一つ後悔していない、人が私にした良いことも悪いことも、全て私にとって同じこと、そう、何一つ、私は何一つ後悔していない。それはもう、清算され、一掃され、忘れられたこと、過去なんてどうでもいい。 私のいろいろな思い出とともに、火を付けて燃やしてしまった、私の苦しみも、喜びも、そんなもの、もう必要ない、過去の恋を、その恋のわななきと共に捨て去り、永遠に捨て去り、私はまたゼロから出発する。 そう、何一つ、私は何一つ後悔していない、人が私にした良いことも悪いことも、全て私にとって同じこと、そう、何一つ、私は何一つ後悔していない。なぜなら、私の人生も、私の喜びも、今日、あなたと共に始まるのだから、・・ (Charles Dumont略歴) 1929年3月26日Lot県Cahors生まれACI(シンガーソングライター)。幼少の頃から音楽に興味を持つ。第2次大戦中にToulouse転居。Louis Armstrongのトランペットを聞きJazzを知り、その地のConservatoire/音楽学校でトランペットを学ぶ。第二次大戦後15歳でアマテュアジャズバンドを作りトランペットを演奏。40年代末パリに。パリConservatoireの聴講生としてトランペットを学んだが、扁桃腺炎を軽視して練習を続けたため、病状が悪化しトランペットの演奏が出来なくなる。その後、パリ11区のSaint-Ambroise教会のオルガン奏者Paul-Sylva Herardにピアノを習い、1日8時間の猛練習。ピアニストとしてバーなどの出演。20歳で兵役に。除隊の後Jeanineと結婚2人の男児FrédéricとPhilippeをもうける。生活は苦しくJeanineも働きに。Dumont自身はバーのピアニストや自動車工場の工員として働く一方、作曲家を志すように。 1956年から57年にかけて詩人Francis Carcoと知り合い、その詩に曲を付ける。詩人の素晴らしい詩に曲を付けるという作業は彼にとっては大きな喜びであった。Carcoを通じて女性歌手Cora Vaucaireを紹介され、Coraを通じてその夫で作詞家のMichel Vaucaire(1904-1980)と知り合いに。二人は意気投合、いくつかの曲を作る。Dumont自身は58年自作の4曲を収録したEPを出すが成功せず。一方Vaucaire/Dumontのコンビは、Les Compagnons de la Chansonが歌ってくれた「Lorsque Sophie dansait/ソフィーがダンスしているとき」が、1959年ラジオ局Europe1のコンクール「Le Coq d’or de la
chanson française/シャンソンフランセーズ金の雄鶏」で優勝。これが2人の最初の成功曲となった。そしてLuis Mariano、Tino Rossi、Gloria Lasso、Lucienne Delyle、Cara Vaucaireなどはこのコンビの曲を歌ってくれた。 コンビは楽譜出版会社を通して、あるいはDumontの友人でEdith Piafの友人でもあるRoger Normandを通じて
Piafに曲を提供しようとしたが成功しなかった。「Envoyez la
musique/音楽を送って下さい」、「Offrande/捧げもの」などには、「いい曲だけど、私には合わない」、「私は好きじゃない」、あるいは、「Les flonflons du bal/ざわめくダンスパーティー」(後に歌うようになったが)については「あまりにも私のイメージにぴったり過ぎる」など言われて拒否され続けた。 60年の秋Dumontはパリ6区Place Odéonに転居した。大変な出費で、家具を売らなければならず、ピアノ、電話、寝具など必要最小限のものしか残らなかった。働いていたJeanineの収入で一家はようやく生活出来た。しかし、それはDumontには耐えられないことだった。彼はそんな状況に怒りを覚えていた。怒りは時にはアーティストにインスピレーションを与える。Dumontは怒りに任せて戦闘的な、攻撃的なリズムの曲を作った。それに詩を付けてくれるようVaucaireに依頼した。その行進曲のようなリズムを前に当初Vaucaireは「Non,je ne trouve rien/だめだ何も思いつかない」。それでも結局単純な、鮮明な歌詞を付けた。それが「Non,je ne regrette rien」だった。Dumontはそれを大した情熱もなく受け取った。Dumontはこの曲をRosalie Dubois(1932-歌手、60年「Parce qu’un air d’accordéon/アコーデオンのメロディーが」を歌って「Le Coq d’or de la chanson française」で優勝)に提供しようと考えていた。しかし、Vaucaireが「これをMadame Piafのところへ持って行こう」と提案したとき、Dumontは友人の機嫌を損ねるのはまずいと思い、それに反対しなかった。Piaf宅訪問は1960年10月5日午後5時に決まった (1960年10月5日Edith Piaf宅) その前夜、翌日来るのが彼ら二人だと知ったPiaf、すでに体調がすぐれなかったこともあり、それを断るように秘書のDanielle Bonelに命じた。Bonelは2人あてに電報を打つなどしたがどうしても二人とは連絡が取れなかった。おそらく二人は大スターに会う前に気持ちを落ち着かせようとかなり早い時間に自宅を出たのだろう。二人は約束の時間にパリ16区、67bis Bd.LannesのPiaf宅に着いた。二人が着いてから1時間後、奥の部屋で休んでいたPiafは「来ちゃたんじゃしょうがないわね。」青い絹のガウン、ピンクのスリッパ、くちゃくちゃの髪、不機嫌な声で部屋から出てきた。そしてVaucaireとは挨拶のビーズを交わしたが、Dumontを無視。しばらくしてDumontに持ってきたものをさっさと聞かせるようにと言った。そこでDumontは客間のグランドピアノの前に座り、弾きながら「Non,je ne regrette rien」を歌い出した。彼女はピアノに頬杖をつき、むっつりと聞き始めた。しかし、歌い終わったときの顔つきはまったく違っていた。Piafの本能はこの曲が彼女のその後の人生を決定するものになるだろうと知らせた。終わったときPiafは「信じられないわ。これ、本当にあなたが作ったの?」Dumontはただ「そうです」と答えた。「もう一度やって」。歌い終わったときPiafは「Jeune homme!お若い人!これは世界中でヒットするわ。あなたに大きな富をもたらすわ」。それから彼女は友人に電話を掛けた。「すごい歌ができたのよ、直ぐ来てちょうだい」有名なミュージシャンが大勢呼びつけられた。その前でまた歌う。夜の10時を回っていた。ピアフが夕食を一緒にと言うのを何とか逃げ出したDumontはシャンペンを買ってJannineと祝杯を挙げた。午前3時に電話が鳴り響き「Madame Piafが急いで来て欲しいと言っております」。着くとOlympiaの支配人Bruno Coquatrixがいて、「是非彼にも聞かせたいの」。Olympiaは当時経済的な危機に瀕していて、それを救ってくれるのはPiafしかいないと考えていたCoquatrixはPiafに出演を依頼した。体調が芳しくなかったPiafは出演に難色を示していた。CoquatrixはDumontに言った。「もしあなたがMadame PiafをOlympia に引きだしてくれたら、私は一生そのことを忘れません」。Dumontはここでも何回も歌い、解放されたのは早朝6時過ぎであった。 (その後) Piafは「Non,je ne regretted rien」を、60年11月10日にPathé
Marconi社のBoulogneのスタジオで、Robert
Chauvigny指揮のオーケストラをバックに録音。健康が優れなかったPiafがエネルギーを振りしぼって歌う姿にミュージシャンの中には涙を流すものも。歌い終わったとき、その場にいた全員が拍手。それに立ち会ったDumontはその後4半世紀過ぎたインタヴユーでもその時の感動を語っている。 A面に「Non,je ne regretted rien」と「Les mots d’amour/愛の言葉」(Michel Rivgauche作詞、Dumont作曲)、B面に「Jérusalem/エルサレム」(Robert Chabrier作詞、Jo Moutet作曲)を収めたSPは12月にリリースされた。Piafは60年12月2日TV局ORTFのPierre
Desgraupes司会「Cinq colonnes à la une/トップページの5つの欄」に出演し、この曲を創唱した。レコードは61年1月及び2月チャートのトップに立ち、その後1年間20位以内に留まった。当時のヒット曲Johnny Hallydayの「Retiens la nuit/夜を返して」、Dalidaの「Garde-moi la dernière danse/ラストダンスは私と」、Charles Aznavourの「Il faut savoir/それが分かれば」などに伍して。そして61年には80万枚売上げた。15万枚売り上げれば大ヒットと言われた当時に。 Dumontはこの曲を1983年リリースの「Souviens-toi・・un jour/思い出して・・いつか」に収めているが、それ以前にも、それ以降にもOlympia(1979年など)出演時などに歌っている。 この曲はPiaf、Dumontの他にもPatricia Kaas、Mireille Mathieu、Johhny Hallydayなど多くの歌手が歌っている。 Hallydayは2000年7月のTour Eiffelコンサートの際最後の曲として歌っているが、歌詞の最後の部分「今日、あなたと共に始まるのだから」を「今日、あなた方と共に始まるのだから」に変えて観衆に歌いかけている。 「Non,je ne regrette rien」(Edith Piaf、1960.12.2.「Cinq colonnes à la une」で) http://www.ina.fr/video/I00012768/edith-piaf-non-je-ne-regrette-rien-video.html 「Non,je ne regrette
rien」(Charles Dumont) http://www.youtube.com/watch?v=pfvd9kX7Zqw 「Non,je ne regrette
rien」(Patricia Kaas) http://www.youtube.com/watch?v=RdODnZqTWP8 「Non,je ne regretted
rien」(Mireille Mathieu) http://www.youtube.com/watch?v=IrznmH3XZQ8 「Non,je ne regrette
rien」(Johnny Hallyday、2000年7月Tour Eiffelコンサート) http://www.youtube.com/watch?v=8X-Zp0-fBwM
Claude Françoisクロード・フランソワの最初のヒット曲で、彼を若者たちのアイドルに押し上げた「Belles,belles,belles/美しい娘たち」を収めたEPは1962年9月27日にリリースされた。 「Belles,belles,belles/美しい娘たち」歌詞: ・・ある日父が僕に言った:息子よ、お前が毎夜出掛けるのは知っている。お前の年齢の男の子なら、知っておかなければならないことがある。女の子というものは、お前が信じているのとは大違いのものなんだ。 彼女たちはみな綺麗、太陽のように、愛のように。 彼女たちはお前を喜びで我を忘れさせ、苦しみで気も狂わんばかりにさせる。彼女たちに日に日に夢中になり、お前はある夜家に帰るのを忘れるだろう。その時お前は父の言ったことが解るだろう。 遂にある日お前は彼女に言いたくなるだろう「Je t’aime」と、それ以上は何も言うことができないだろう。そして、順境にあっても、逆境にあってもと結ばれ、本当の幸福を掴むだろう。 私がお前の母さんに言ったように、お前も彼女に言うだろう、キスしながら。 君は綺麗、太陽のように、愛のように・・ Claude François、本名Claude Antoine Marie François、愛称Clocloクロクロは、1939年2月1日エジプトのIsmaïlia生まれのACI(シンガーソングライター)。父親は当時スエズ運河の運行管理者として赴任中。56年のスエズ動乱で一家はフランスに帰り、Monte-Carloに落ち着く。幼少の頃からピアノ、ヴァイオリン、ドラムを習っていたClaudeは59年Radio Monte-Carloのバンドでドラマーとしてデビュー、後にはパーカションも、ヴォーカルも。その後Casino Monte-Carloの歌手に。60年11月イギリス出身のダンサーJanetジャネットと結婚。61年夏にはBrigitte BardotやSacha Distelに勧められてJanetとともにパリに。 Montmartreのrue Veron(18区)の小さなアパートに住む。優れたダンサーであったJanetは直ちにOlympia劇場に職を得、そこでGilbert Bécaudと知り合いClaudeの許を去る。二人の正式な離婚は1967年3月。Claudeの方はLes Gamblersバンドのメンバーになり、rue Arsène Houssaye(8区)にあったCaramel Clubに出演。レコード会社Fontanaのオーディションに2回目で合格、同社のアートディレクターJean-Jacques
Tilchéの尽力により、62年3月19日Kokoココの名で最初の45回転レコードEP「Nabout Twist」(バックコーラスにNicole CroisilleとHugues Aufrayが参加している由)を出す。このレコードは思ったほどヒットせず。Claudeは62年夏にはギタリストで歌手Olivier Despaxのバンドの一員としてSaint-Tropezサントロペのキャバレに出演。 62年の秋パリに戻ったClaudeはFontana社と5年の契約を結んだ。その頃女性歌手Régineがアメリカから送られて来たEddie Hodfgesの「Made to love」をClaudeに聞かせた。これは1960年The Everly Brothersが歌ってヒットした「Girls,girls
girls」を62年にHodfgesが「Made to
love」のタイトルでカバーしたもの。この曲を聞いたClaudeは気に入り、Tilchéに歌いたいと話した。Tilchéはすでにこの曲のフランス語版の案を用意していてLuck Blondoに歌わせようとしていた。Blondoはアメリカのヒット曲の翻案による「Multiplication」「Sheila」などのヒット曲を持っていた。Blondoはルフランの部分がフランス語で「Rien,rien,rien,que
notre amour/何も、何も、何もない、僕たちの愛以外には」となっていたことなどが気に入らなかった。そしてこの曲を無名の新人Claudeに譲った。Claudeもフランス語ヴァージョンを修正することを要求。フランス語ヴァージョンを書くことになっていたTropicales出版社所属の女性作詞家Vline Buggy(1929-)に会い、協力してフランス語の詩を模索、「Belles,belles,belles」が生まれた。Vline Buggyは当時すでに名声があり、その後Claude と共同で(「Si j’avais un marteau」(If I had a hammer)、「Donna Donna」など)、あるいは単独で多数の詩をClaudeために書いている。 曲は直ちにBoulevard
Auguste-Blanqui(13区)にあったスタジオでChristian Chevallierのオーケストラをバックに録音された。 そしてA面に「Belles,belles,belles」と「Venus en blue-jeans/ブルージーンズのヴィーナス」(原曲Jimmy
Clanton「Venus in Blue Jeans」、フランス語の詩はGeorges Aber & Claude Carrere)、B面に「Moi,je pense encore à toi/僕は今でも君のことを思っている」(原曲Neil Sedakaの「Breaking up is hard to do」、フランス語の詩はGeorges Aber & Andre Dalvet)、「Hey
Potatoes」(原曲Billy Nashの「Hey
Potatoes」、フランス語の詩はClaude François)の4曲を収録したEPがリリースされた。 TilchéとClaudeは録音がすむと直ちにそれをラジオ局Europe1のディレクター、Daniel Filipacchiの許に持っていった。Filipacchiは同局で毎日放送していた若者たちに人気の歌謡番組「Salut les
copains/やあ 仲間たち」を担当していた。Fillipacchiは番組編成担当のMichel Poulainの勧めもあってこの曲を放送。放送は17時から18時までであったが、18時を過ぎるとこの曲に関する問い合わせの電話が殺到し、放送局の電話交換機がパンクするほどであった。Claude Françoisの名で初めてリリースされたレコードは数週間で60万枚売り上という爆発的なヒット。Claudeは若者たちのアイドルの一人となった。そして12月18日にはDalidaダリダの前座としてオランピア劇場に初出演、63年1月21日Jean-Christophe AvertyがプロデューサーをつとめるTV音楽番組「Toute la chanson/シャンソンの全て」に初出演。観客や視聴者はClaudeの才能を目の当たりにした。また、デビューしたばかりの若い映画、映像監督のClaude Lelouchはこの曲のクリップを、雪のFontainebleauで撮影した。 Claudeは16年間の歌手生活で、62年12月18日パリOlympiaのステージに初めて立ってから、1978年2月24日LyonのPalais d’Hiverでのコンサートの最終日まで、1188回ステージに立ち、ステージでは必ずこの曲を歌ったと言われている。 レコードのジャケット クリップ http://www.youtube.com/watch?v=FAO4hEHAaB0 1963年2月16日 http://www.ina.fr/video/I00009461/claude-francois-belles-!-belles-!-belles-!-video.html 1966年3月3日 http://www.ina.fr/video/I00009790/claude-francois-belles-belles-belles-video.html |
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(略歴) ジョー・ダッサンJoe Dassin、本名Joseph Ira Dassin、1938年11月5日アメリカNY生まれ、歌手、作曲家。父親Jules Dassin(英語読みではジュール・ダッシン1911-2008)はロシア系ユダヤ人で映画監督(1960年「Jamais le dimanche:Never on Sunday/日曜はダメよ」、64年「Topkapi/トプカピ」など)。母親はヴァイオリニストのBeatrice Launer。JoeのミッドルネームのIraは母親がIra
Gershwin(作詞家として、弟のGeorgeと組み、数多くのポピュラーソングのヒットを)が好きだったので付けられた。両親は62年離婚し、父は66年ギリシャ出身の女優、政治家Melina Mercouriと再婚している。 父親が「マッカーシーのレッドリスト」に載ったため一家は1950年からフランスに。Joeはグルノーブルでバカロレアを取得した後56年にアメリカに渡りMichigan大学で民族学を学び博士号を取得。大学生活の間学資を稼ぐためにコック、配管工、ラジオ局のDJをやり、カフェでGeorges Brassensのシャンソンを歌っていた。学業を終え、60年代初めにフランスに帰り、父のアシスタント、ラジオ局RTLのDJなどをしていた。64年CBSレコードから、PPMなども歌っていたアメリカのフォークソング「Freight Train」の翻案「Je change un peu de vent/風向きを少し変えて」など4曲を収めたレコードをリリース、1800枚しか売れなかった。しかし、この失敗が彼にやる気を起こさせた。そして、66年の「Bip bip/ビップ、ビップ」が彼の最初のヒット、その後は80年まで毎年アルバムを出した。アメリカ出身であること、エレガントな振る舞い、情熱的な声は新しいものに飢えていたフランス人の興味を引いた。67年にはアダモの国内ツアーの前座をつとめ、67年の「Les Dalton/ダルトン一家」を皮切りに「La bande à Bonnot/ボノとその一味」(68年)、「Siffler sur la coline/丘の上で口笛を」(68年)などのヒット曲が続いた。69年10月にはvedetteとしてOlympiaに初出演。69年には世界中でヒットした「Les Champs-Elysées/オー シャンゼリゼ」でACC大賞を受賞。その後も「L’Amérique/アメリカ」(70年)、「L’été indien/インデイアン サマー」(75年)、「Ça va pas
changer le monde/それは世界を変えない」(76年)、「Et si tu n’existais pas/君がいなければ」(76年)、「A toi/君に」(77年)などがヒット。生前の最後のアルバムは79年の「Blue Coutry」で、Tony Joe WhiteやEric Claptonらの協力を得た。Joeのアルバムは「Les petits pains au chocolat/小さなチョコレートパン」(68年のヒット曲)のように売れたと形容されている。わずか15年の活動で、レコードディングした曲は280曲以上、レコード売上げは3500万枚以上と言われている。Joeは他の歌手のためにも作曲していて、その中にはGigliola Cinquettiに「Le bateau-mouche/ル バトームーシュ」(作詞C.Lemesle)、France Gallに「Bébé requin/おしゃまな初恋」(作詞S.Gainsbourg)、継母Melina
Mercouriに「Je suis grecque/私はギリシャ人」(作詞P.Delanoë)などがある。79年には最後のオランピア出演。また72年にタヒチに土地を求め、ヴァカンスや度々起こしていた心臓病の静養などをそこで過ごしていた。 私生活では66年1月Maryse Massieraと結婚,77年5月4日離婚。78年1月14日Christine Delvauxと結婚。控えめであまり私生活でマスコミを賑わせたことはなかったJoeだが、この若いChristineと再婚したときは週刊誌のトップを飾った。 78年9月14日Jonathan 誕生、80年3月Julien 誕生 「Les petits pains au
chocolat」 http://www.youtube.com/watch?v=FaswDILZU8c 「L’été indien」 http://www.ina.fr/video/I04289432/joe-dassin-l-ete-indien-video.html 「Et si tu n’existais pas」 http://www.youtube.com/watch?v=sk1yGwi6OG4 (死去) 1980年長期の亘るヨーロッパツアーで疲れたJoeはタヒチに2週間のヴァカンスに出かけた。その前月胃潰瘍でNeuillyのアメリカ病院に入院。またフランスからタヒチに向かう航空機の中継地Los Angelesでも心臓発作に見舞われていた。ヴァカンスにはJoeの母親のBeatriceと二人の子供Jonathan2歳とJulien5ヶ月、それに懇意な作詞家Claude Lemesle(「L’été indien」、「Et si tu n’existais pas」などを作詞)が同道した。二人の子供の母親Christineは離婚協議中でヴァカンスには同道しなかった。8月20日パペーテのレストラン「Chez Michel et Eliane」(rue Jeanne d’Arc)で家族、友人たちと昼食を取っていた。12時30分気分の悪くなったJoeは椅子に倒れた。レストランに居合わせた2人の医師が直ちに治療に当たった。パペーテに1台しかなかった救急車が到着したのは40分後だった。病院に搬送されたときJoeの心臓はほとんど停止した状態で、医師は心臓マッサージなどを試みたが、蘇生させることはできず死亡を確認。死因は心筋梗塞。死去のニュースを告げるTVのアナウンサーは「Joe Dassinが死去、42歳であった。Dassinは『pour vivre/生活の資を稼ぐために』歌うことは40歳になったら止める、と語っていたが、それがかなわず歌い続け、そして今日なくなった。」 このレストランはその後Joe の74年のヒット曲「Vade Retro」に因んで「Le Retro」と改称され、2階の倒れた席の壁には標識が埋め込まれている。Joeの遺体はアメリカCalifornia州、Santa Monica、HallywoodのHallywood Forever Cemeteryのユダヤ人地区に埋葬された。没後30年の2010年夏にはパペーテの中心部にあり、Le Retroからも近い商業センターVaimaの一角に記念碑が建てられた。 (「Les Champs -Elysées/オー シャン・ゼリゼ」) 「Les Champs -Elysées」(歌詞)・・僕は通りをぶらついていた、誰にでもボンジュールと言いたい気分で。それが君だった、すぐ話しかけた、君と親しくなるためには、それで十分。(ルフラン)シャン・ゼリゼには太陽の下でも、雨の日にも、昼の12時にも夜の12時にも、望むものは何でもある・・ この曲の原曲は英国のグループJason Crestが歌った「Waterloo Road」。この曲にフランス語の歌詞を付けるという困難な仕事に取り組んだのはPierre Delanoë。「何でもあると」言いたいのならSamaritaineデパート(パリ1区Pont Neuf脇にあり現在改装中で、そのキャッチフレーズは「On trouve
tous à Samaritaine/Samaritaineではどんなものでも見つけられる」)でも良かったし、通りが必要ならYves Montandのヒット曲で知られ、パリの腕白小僧を思い起こさせるLes
Grands Boulevardsでも良かったかも知れない。しかし、Champs-Elyséesという魔法の音綴にはエレガントなイメージがある。封切り映画館、俳優たちが出入りするFouquet’s、「A bout de
souffle/勝手にしやがれ」でJean SebergがNew
York Herald Tribuneを売っていた脇道、自動車ルノーの看板。この歌詞にはそんなものは何一つ出てこない。ただChamps-Elyséesを発音するだけで呪文にかけられたようになってしまう。それは5th
AvenueやVia Venetoと同じ。そして当時リヴ・ゴーシュ/左岸のRaspail通りに住んでいたJoeにとっても右岸のChamps-Elyséesを歌うことに問題はなかった。1969年5月にリリースされたこの曲のルフランにより、世界で最も有名な通りは世界中の人々の口の端に上るようになった。この曲は、オランダでは7週間に亘りヒットパレードの上位を占め、モスクワではビートルズの曲より人気があり、中国や日本では自国語の歌詞が付けられた。日本のフランス大使館はこの曲をフランスの宣伝のために使った。Georges JouvinやRaymond Lefèvreの楽団もこぞってこの曲を演奏した。Joeはこの曲を伝説的になった白のスモーキングで歌っている。それはHenri
Salvadorが司会者を務めたTV番組「Les Salves
d’or」に出演した際当時のSalvador夫人Jacquelineに勧められたもの。 原曲で「オー シャン・ゼリゼ」と歌われている「オー」は感嘆の「オー」ではない。原文では「aux Champs-Elysées」、auxは場所・方向をあらわす前置詞àと定冠詞lesの縮約形で、「シャン・ゼリゼには、では、においては」の意。 http://www.youtube.com/watch?v=VIle6s5WDsI |
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2013年 7月 ミッシェル・ポルナレフ Michel Polnareff Michel Polnareffは2007年7月14日、パリChamps-de-Marsで行われた「Fraternité/友愛」コンサートに出演した。 (Polnareffの略歴) ミステリアスなアーティストの中でも際立ってミステリアス、800日間ホテルの部屋から出なかったという逸話がある、生きている伝説上の歌手、何年も故国を離れていても、帰ってくると歓呼で迎えられるMichel Polnareff。 Polnareffは第2次世界大戦中の1944年7月3日、両親の疎開先であった南仏Lot-et-Garonne県のNétac生まれのACI。父親のLeib Polnareffはロシア出身の音楽家、Léo Pollの名でEdith Piaf(「Un jeune homme chantait/若者は歌う」)、Yves Montand(「Le Galerien/ガレリアン」)などに曲を提供し、ピアノ伴奏も。一家は終戦後直ちにパリに戻る。Michelは5歳でピアノを始め、父の指導で1日10時間以上練習。11歳でConservatoire
de Parisのソルフェージュでグランプリ。Bac取得後19歳で兵役に。除隊後64年からギターを手にモンマルトルでシャンソンのスタンダード曲や英語で書いた自作を歌う生活を選び、ある程度の成功を。65年ロックコンクールで優勝。ラジオ局Europe 1のLucien Morisseの紹介でレコード会社AZラベルと契約。1966年当時スタジオの設備も、録音技術もフランスよりも遙かに優れていたイギリスで「La poupée qui fait non/ノンノン人形」を録音。レコードは当時としては前例のない大ヒット。その後「Love me、please love me/愛の願い」(タイトルは英語だが歌詞はフランス語、この曲のピアノによるイントロは66年の年代記を飾るもの)、「Le bal des Laze/ラーズ家の舞踏会」、「Tous les
bateaux,tous les oiseaux/全ての船、全ての鳥:渚の思い出」、「Tout,tout
pour ma chérie/全てを愛しい人に:シェリーに口づけ」などがヒット、ヨーロッパ中の若者の支持を得た。67年にはDalidaの前座として、70年1月にはvedetteとしてOlympiaに出演。71年にはNadine Trintignantの映画「Ça n’arrive qu’aux autres/そんなことは他人にしか起こらない:悲しみの終わるとき」の音楽を担当、同名の主題歌はフランスばかりでなく、日本でも大ヒット。72年には「Holidays/愛の休日」、「On ira tous au paradis/全ての人が天国へ行くだろう:天国への道」を発表。また同年10月6日から22日までOlympiaで「Polnarévolution/ポルナレフ革命」のタイトルでコンサート。公演は熱狂的な観客を集め大成功であった。その宣伝にパリを中心に張り出されたPolnereff自身の裸の臀部を露出したポスターは「猥褻罪」で罰金を課せられた。同年11月に初の来日(その後79年まで計4回の来日)。73年信頼を寄せていた会計担当者の裏切りより多額の借金と未納税があることが明らかに。母親が亡くなったことなどもあり、フランスを離れ、Los Angelesに移り住む。逮捕されるおそれがあったため、フランス国外での活動しかできず、75年には日本公演、ベルギー公演を。特に後者ではラジオ局RTLがチャーターした列車により多くのフランス人ファンがこの祖国を離れた歌手のコンサートに集まった。78年に一時帰国、裁判所に出頭、脱税問題を解決。77年Jean-Loup Dabadieの詩に曲を付けた「Lettre à France/フランスへの手紙:悲しみのエトランゼ」を発表。81年にはアルバム「Bulles/泡」を、85年にはアルバム「Incognito/身分を隠して」を出した。その後数年間は目立った活動はなく沈黙。しかし、89年6月一切の前宣伝なく、突然「Goodbye Marylou/グッバイ マリルー」がラジオから流れた。その年の9月からポルナレフはパリ8区のRoyal Monceauホテルに801日間籠もる。部屋には最新のスタジオ設備が据え付けられ、新しいアルバムを制作。アルバム「Kama Sutra/カマ ス-トラ」は90年2月リリース。その後再びアメリカに戻り、Los
Angeles、Sunset Boulvardの伝説的なホールRoxyでコンサート。その模様は96年6月アルバム「Live at Roxy」としてリリース。その後新しい恋人ができた、ブティックを開いたなどの大衆紙向けのニュースしか報じられなかった。そして2006年5月12日、突然テレビ局TF1の20時のニュースに登場し、フランスへの帰還と一連のコンサートの日程を告げた。「今まで第3者が帰国の話を何回もするので、狼少年の話のように誰も信じなくなってしまった。それで、僕自身で帰国公演を明らかにした。自分自身で宣言した以上、死んでもステージに立つつもり。」フランスでは34年振りというコンサートは2007年3月2日パリのBercyで行われ、その後フランス国内の主要20都市及びベルギー、スイスでコンサート。7月3日63歳の誕生日はMarseilleで祝った。7年12月には Bercyのライヴアルバム「Ze(re) Tour 2007」をリリース 「La poupée qui
fait non」 http://www.dailymotion.com/video/x2cwkx_michel-polnareff-la-poupee-qui-fait_music?search_algo=2 「Love me、please love me」 http://www.youtube.com/watch?v=3_FNvNtkGs4 72年Olympia公演のポスター http://franieblues.f.r.pic.centerblog.net/8ad7cd72.gif (Champs de
Marsでのコンサート) Polnareffは、2007年7月14日の革命記念日の夜、エッフェル塔の下から広がるChamps de Mars/シャン ド マルスで行われた「Fraternité/友愛」コンサートに出演。このコンサートは5月15日から大統領職にあったNicolas Sarkozyの提案によるもの。出演者はフランスで人気DJのBob Sinclar、ドイツのロックグループTokio Hotel、イタリア人女性歌手のLaura Pausini、ポルトガル出身のカナダ人女性R&B歌手Nelly
Furtadoと国際色豊か。Polnareffには「世代を超えた人気アーティスト」(エリゼ宮筋)と言うことで白羽の矢が。 会場にはSarkozy大統領、François Fillon首相、Christine Albanel文化大臣、Xavier Bertrand労働大臣、Simone Veil女史を初めとして当初予想の倍60万人の観衆が集まった。19時から始まったコンサート、21時15分大きな三色旗のケープを肩に掛け、トレードマークの白縁のサングラスで登場したPolnareffの第一声は「Bonsoir Paris!Bonsoir la France!Bonsoir l’Europe!」。そして「C’est une poupée,qui fait non,non,non・・」と「La
poupée qui fait non/ノン ノン人形」を歌い出すと同時に、カールした金髪のかつらと白縁のサングラスというポルナレフスタイルの若者を中心に多くの観客が唱和。この夜Polnareffは「Qui a tué la grand-maman/おばあさんを殺したのは誰:愛のコレクション」、「Lettre à France」(11日にエリゼ宮でPolnareffに会った大統領が特に所望)、「Love me please love me」、「Goodbye Marylou」、「Tout,tout pour ma chérie」、「Dans la rue/通りで」など14曲を歌った。最後の曲はBercyコンサートと同じように「On ira tous au paradis」。これを歌う前のMC: 「このコンサートで歌うようSarkozy大統領に選らばれたことをとても喜んでいる。 アーティストはゲンを担ぐ人が多い。仲間うちでは、ステージに立つ前に『Bonne chance!/成功を祈ります!』と言うとかえって失敗するというので、そうは言わない。その代わりに『Merde!/クソ!』と言うことになっている。大統領閣下、私の尊敬の念を込めてあなたに言います。『Merde!』。 我々が生きているうちにパラダイスに連れてきてくれたことに、Merci
Monsieur le President!」 22時30分Polnareffの歌が終わるとTrocadéroから革命記念日恒例の花火が打ち上げられた。 ステージへの登場と「La
poupée qui fait non」 http://www.youtube.com/watch?v=GBDj4PX_gC8 「Lettre à
France」 ・・君から遠く離れて以来、僕は自分自身からも遠く離れてしまったよう。言葉には出さないけれど、君のことを思っている。君は僕から6時間のところにいるけれど、何年もの距離を感じる。そう、こっちにいると言うことはそう言うこと。・・違いは僕の心の底に現れるこの静けさ・・時々新聞で君の写真を見ると、君は相変わらず水辺で生きている、僕の方は君から遠く離れて幻想の中で生きている。君はいつも一番美しいという訳じゃない、僕は君に不誠実なまま、でも誰が僕たちの思い出が将来どうなるか語ることができようか、声に出して言わないけれど、僕は君が恋しくなる、そう、恋とはそう言うもの。・・昔、君と僕がいた、それを決して忘れないで・・君から遠く離れて以来、僕は自分自身からも遠く離れてしまったよう。そして、声に出して言わないけれど、僕は君のことを思っている、密かに。 http://www.youtube.com/watch?v=ZvsdnOWQNP0 「On ira tous
au paradis」 ・・全ての人が天国へ行くだろう、この僕だって。祝福されていようと、呪われていようと、善良なシスターたちも、盗人たちも、神の僕も、強盗も、聖者も、人殺しも、上流社会の淑女も売春婦も、皆天国に行くだろう。人々が言うことを信じるな、君の心だけが唯一の教会、地獄の炎を怖れるな。全ての人が天国へ行くだろう、この僕だって、神を信じようと、信じまいと、善行をしようと、悪行をしようと、キリスト教徒も、異教徒も、けちな野郎も、強欲野郎も、皆天国に行くだろう。 ・・特に僕は。 http://www.youtube.com/watch?v=uGAdCuy5A6o 2013年 6月 Dalida ダリダ Dalida ダリダ(本名Yolanda Gigliotti、1933年エジプト・カイロ-1978年パリ)は1967年自殺未遂から回復後、6月8日初めてTVに出演した。 1966年10月イタリアでDalidaの契約レコード会社であったFCAの役員が、1938年カッシニ生まれの若いイタリア人ACI ルイジ・テンコLuigi Tencoを伴ってMontmartreのDalidaの自宅(11bis、rue d‘Orchamps 18区)を訪ねた。才能豊かなTencoはすでに何枚かのレコードを出していた。しかし、前衛的で、社会問題にコミットし、多少インテリ臭かった彼の曲は、広く受け入れられてはいなかった。 来訪者の用件は翌年San Remo音楽祭に出品するTencoの曲を歌って欲しいとの依頼であった。この音楽祭の当時の規定では、参加曲は2人の歌手によって歌われることになっていた。当初Dalidaには承諾に意志はなかった。しかし、TencoにCoup de foudre(一目惚れ)を感じたDalidaは出場を決断。歌う曲はTenco作詞作曲の「Ciao,amore,ciao/チャオ、アモーレ、チャオ」になった。この曲をTenco自身はそれほど気に入っていなかったが、Dalidaの強い勧めがあった。67年1月26日音楽祭の当日、最初にTencoが歌った。極度の緊張からTencoはアルコールとトランキライザーを服用してステージに立ったとも言われていて、それまでで最悪の出来だった。続いてDalidaが歌った。
真夜中近くの成績発表、両者とも決勝には進めなかった。そのことにいたく失望したTencoその後行われたレセプションには出席せず、Savoyホテルの部屋に戻った。出席したDalidaもTencoのことが気になり早々にホテルに戻った。Dalidaが着いたとき、二人の部屋のドアに鍵は掛かっていなかった。部屋に入ったDalida、拳銃自殺していたTencoを発見した。この日二人は近親者に4月には結婚するむね話すことになっていた。 傷心のDalidaはホテルの前に集まった多くの新聞記者を避け、その日のうちにパリに戻った。彼女の周りには多くのスタッフがいた。しかし、それはすべてDalidaの歌手活動を支えるスタッフ、彼女の精神状態を、心を注意深く見守ってくれる人たちではなかった。 2月16日、Guy Lux司会の公開TV音楽番組「Le palmères des chansons/シャンソンヒットパレード」に出演したDalidaはSan Remo出演時と同じ黒の衣裳で「Cia,amore,cjao」を歌った。これが最後という思いで・・
67年2月26日(日曜日)イタリアに行きTencoの家族や友人に会ってくると家を出たDalida、心配した従姉妹とその夫がOrly空港まで付き添い、トリノ行きカウンターまで見送り、引き返した。Dalidaは1時間空港にいた後、タクシーでパリ市内に戻った。18時サングラスで顔を隠したDalidaはホテル Prince de Galles(33,av.Georges V パリ8区)に。そこは、Tencoがパリを訪れる都度二人が過ごしたホテル。Dalidaは本名Yolanda Gigliottiでチェックイン。部屋にはいると「Prière de pas déranger/起こさないで下さい」のカードを部屋のドアに掛けた。 2月27日(月曜日)11時、Dalidaが宿泊した階を担当していたホテルの女性従業員は部屋への人の出入りがなく、カードがそのままになっていることを見て奇妙に思い、フロントにその旨告げた。フロントはそのままにした方がよいのではと言う意見だった。それでも女性従業員は何か異常を感じた。21時30分従業員は部屋のドアを叩いた。返事がないので、責任者に連絡、ドアを開けて室内に入った二人はバルビタールの大量服用で自殺を図ったDalidaを発見。直ちにFernand Widal病院(200,rue du Faubourg-Saint-Denisパリ10区)に搬送。5日後昏睡状態から目を覚ました、正に奇跡であった。目覚めたときずっと付き添っていた母親に「ごめんなさい!もうこんなことは2度としないわ。」 ・復帰後TV初登場 病室に山と積まれたファンからの励ましの手紙を目にして、立ち直る決心をしたDalida。回復したDalidaは6月8日、自殺未遂前最後に出演したのと同じ番組「Le palmères des chansons」に登場し、復帰した。司会のGuy Luxに「Daliは数ヶ月前にこの番組に出演して大好評でした。今日、嬉しいことに、復帰後最初のTV出演にこの番組を選んでくれました。」と紹介され、観客の拍手と歓声に迎えられたDalida、歌った曲は「Les grilles de ma maison/我が家の鉄柵」、「La chanson de Yohann/ヨアンの歌」、「Hava naguila/ハヴァ ナギラ」。「Les grilles de ma maison」は「Green green grass of home/思い出のグリーングラス」(1965年Curly Putman Jr.)にJacques Chaumelleがフランス語の歌詞をつけたもの。・・長い旅は終わり、私は故郷に戻った、軽い足取りで我が家に向かう、全てが見知らぬものになっているのではと心配していた、でも何も変わっていないよう、あの人の家の柵を開けるのは幸せなこと。 庭は花盛り、あなたはいて、私に微笑みかける、あの人の家の柵を開けるのは幸せなこと。 塀は古びていない、家は時の経過なんか問題にしていない、樫の老木は春の装い、全てが見知らぬものになっているのではと心配していた、でも何も変わっていないよう、あの人の家の柵を開けるのは幸せなこと。 (語り)突然目覚めると、私の周りには灰色の壁が見えるだけ、そう私は夢を見ていた。 今夜発つのには遅すぎるから、明日始発列車で、私の家の柵を開けに行こう。 庭は花盛り、あなたはそこにいるでしょう、そして私に微笑みかける、あの人の家の柵を開けるのは幸せなことでしょう・・。 歌っている最中からDalidaの頬には涙が。
その後夏の間Dalidaは幾日かのフランス国内ツアーを行い、白いロングドレスでステージに立つようになった。また、ファンもDalidaに対して以前と変わらぬ敬愛の念、崇拝の念を示したことからマスコミは「Sainte
Dalida/聖女ダリダ」と呼んだ。そして、10月5日にはOlympiaに出演。立ち直ったDalidaは歌った。「J’ai décidé de vivre/私は生きる決心をした」、「Je reviens te chercher/あなたを迎えに」、「Les grilles
de ma maison」、「A qui?/誰に?」、「Mama」、「La chanson de Yohann」、「Entrez sans frapper/ノック無用」、「Toi,mon amour/あなたは私の恋人」。他にTencoの作になる「Ciao amore ciao」、「Loin dans le temps/ロンターノ、ロンターノ」も。Olympiaの支配人Coquatrixは言った「こんな成功はPiaf以来だ」。 2013年 5月 リーヌ・ルノー Line Renaud Line Renaud リーヌ・ルノー(1928.7.2Nord県―)は82歳の2011年5月24、25日パリOlympiaに初めて出演した。 ・Line Renaudの略歴(2010年まで) Line Renaud、本名Jacqueline Enté、はフランス北部Nord県Armentières近くのPont-de-Nieppe生まれの歌手、俳優。「Mademoiselle from Armentières/アルマンチェールから来たお嬢さん」(Renaudの1952年のヒット曲)が彼女の代名詞に。慎ましい家庭の出、7歳で地方ののど自慢大会で優勝。祖母が経営していたカフェで、駐屯していた連合軍兵士の前で歌い、アイドルに。14歳でクラシック歌手を探していたLilleのConservatoireのオーディションに誤って応募、Loulou Gastéのシャンソンを歌う。それがポピュラー歌手を探していた地方のラジオ局ディレクターの目に止まり、そのラジオ局に出演するように。45年パリに上り、Folies Bellevilleに出演。そこにvedetteで出演していたJosette Daydéがその年の9月JacquelineのアイドルであったLoulou Gasté(1908-95)を紹介してくれた。21歳年長で当時すでに著名な作曲家であったGastéはJacqueline Entéのピグマリオンに。ステージ名をLine(Jacquelineから)Renaud(母方の祖母から)とし、髪型(田舎娘っぽかった)、体型(ちょっと太り気味だった)、衣裳、舞台での動作まで指導、それにより彼女は大きく変貌した。そしてラジオRadio Luxembourgの日曜朝の人気歌謡番組に出演して全国的に知られるようになり、Pathé Marconi社と契約。47年に録音し、48年にリリースした「Ma
cabane au Canada/私のカナダの小屋」(作詞Mireille Brocey,作曲Gasté)で49年ACCのGrand
Prixを受賞。49年Yves Montandの前座でL'Etoile座に出演。50年ABCにvedetteとして出演。同年末RenaudとGastéは結婚。54年4ヶ月間Moulin Rougeに出演。54年Bob Hopeの招きで「Bob Hopeショー」出演のためアメリカへ。Ed Sullivan showにも出演し、Dean Maartinと「Relaxez-vous/リラックスして」をデュオで歌うなどしてアメリカでも大人気に。59年にはCasino de Parisの「meneuse de revue/レヴユーのリーダー」になり、64年まで1000回以上出演。68年から5年間ラスベガスの「Dunes」出演などアメリカで活動。76年財政上の危機に瀕していたCasino de
Parisを救う4年間のレヴユー「Paris-Line」。 Renaudは50年代から映画出演、80年代からは演劇に挑戦、90年代からはTVドラマにも出演、30年は主に女優として活躍。社会問題にも深い関心を持ち、「Sidation/エイズに行動を」協会の副会長などをつとめている。94年にはLégion d‘honneur/レジオン ドヌールのofficier勲章、09年7月Ordre national du Mérite/国家功労勲章のGrand officier勲章[上位から2番目]を受賞。 「Ma cabane au Canada」1966年 http://www.youtube.com/watch?v=v96lh0uFOm0 ・2010年30年振りのアルバムリリース 2010年11月8日Renaudの1980年以来30年振りのアルバム「Rue Washington/ワシントン通り」がリリースされた。アルバムついて「タイトルは18歳で私が初めてレコード会社と契約を結んだPathé社が、パリ8区、Washington通り14番地にあったことから。Loulou(Gasté)は1954年までそこで音楽担当のディレクターだった。」そして「今シャンソンに戻ってきて、デビュー契約を結んだ場所から2軒隣のWashington通り10番地にあるDominique
Blanc-Francardのスタジオで録音するなんて。Loulouが後ろにいて糸を引いているからかも知れない。偶然にしてはできすぎている。」 「Rue Washington」には当代を代表するACI、作詞家、作曲家が協力、次の13曲が収められている:「Les torrents d’amour/愛の奔流」(作詞Michel Delpech)、「Tu m'tues Lulu/リュリュ、あなたは私をへとへとにさせる」、「Mes amis sont mes amours/私の友人は私の恋人」(作曲Alain Chamfort)、「Une minute/1分間」、「Ce monde est merveilleux/この世界は素晴らしい 」(Johnny Hallydayとのデュオ、Louis Armstrongの「What a wonderful world」の翻案)、「Happy birthday
la vie/人生よ、誕生日おめでとう」、「Dans ma tête/私の頭の中で」(作詞作曲Christophe Maé)、「La mémoire dévêtue/むき出しの思い出」(作詞Lean-Loup Dabadie、作曲Julien Clerc)、「J’en
veux encore/私はまだ欲しい」、「Je t'ai suivi, je te suivrai/わたしはあなたについて来た、これからもついて行く」(作詞Marc Lavoine)、「Un sourire/一つの微笑み」(作詞作曲Adamo)、「J’écris cette
lettre/私はこの手紙を書いている」(作詞Grand Corps Malade)、「C'est pas l'heure/今はその時じゃない」(作詞 Mylène Farmer、作曲Laurent Boutonnat、Farmerとのデュオ) 「C’est pas l’heure」(Farmerと) http://www.youtube.com/watch?v=0EmxU4LwDsk ・2011年5月24、25日パリOlympiaに初出演 Renaudの32年振りというコンサートは11年5月24、25日パリOlympiaで行われた。Renaudはこの劇場初出演。ABCやEtoile座に出演し、Olympiaに出ても良いキャリアを積んだ頃にはアメリカなどでの公演が多く、またその後女優としての活動が中心になっていたことからこの劇場に出演する機会を失ってしまったよう。 このステージではかつてのヒット曲及びアルバム「Rue Washington」から次の曲が歌われた: ・「Les torrents d‘amour/愛の奔流」(Nolwenn Leroyとのデュオ)。歌い終わった後、会場にいた作詞者Delpechを紹介「アメリカ式に立って下さい」。 http://www.youtube.com/watch?v=iXlGEiZbQaI ・「La mémoire dévêtue/むき出しの思い出」(Julian Clercのピアノ伴奏とデュオ)。歌う前のMCで「素晴らしい詩を書いてくれたのは友人でアカデミーフランセーズ会員のJean-Loup Labadie、作曲はこれも友人のClerc。」終わった後のMCで;Clerc「Line素晴らしい!こんなに長い曲では記憶力が必要。」Renaud「時代は変わったわ。あそこにも、ここにも歌詞を書いたモニターが置いてある。いらないと思ったけど、最近では皆やっていると言うことなのでOKした。でも白状すると、なんの役にも立たないの。あれを読むのには眼鏡が必要だから。」 http://www.dailymotion.com/fr/relevance/search/line+renaud+et+julien+clerc/1#video=xj0edl ・「Dans ma tête」(Christophe Maéがハーモニカの演奏、伴奏とデュオ) http://www.youtube.com/watch?v=kWOpX2GLkyc ・「Le plat pays/平野の国」(Jacques Brelのカバーで、フランス北部出身のRenaudは同じ気持ちを持っていると語ったことがある。)会場にはGrand Corps Malade、Nana Mouskouri、Didier Barbelivienとおぼしき観客の顔が見える。 http://www.youtube.com/watch?v=H4uHEGAScmY 「Ma cabane au Canada」コンサートの最後の曲 http://www.youtube.com/watch?v=MqyWxte9oxE ほかに過去のヒット曲から:「Ma petite folie/私のかわいいおばかさん」、「Le chien dans le vitrine/ワン ワン ワルツ」、「Mademoiselle from Armentière/アルマンティエから来たお嬢さん」、「Loulou/ルールー」、「Les plus jolies choses de la vie/人生で最も素晴らしいこと」、「Le bal aux Baléares/バレアルの舞踏会」、「Etoile des neiges/雪の星」、「Le soir/夕暮れ」、「Les enchaines/アンチェインド メロディー」、「Mister Banjo/ミスター バンジョー」、「Relaxez-vous/リラックスして」など。 このコンサートの模様は11年11月28日にリリースされライヴアルバム「Un soir de mai a l’Olympia/5月の一夜オランピアで」に収められている。 |
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2013年4月 フランソワーズ・アルディ Françoise
Hardy Françoise
Hardy(1944.1.17 Paris-)は1962年4月25日「Tous les garçons et
les filles/男の子、女の子」(作詞Hardy、作曲Roger
Samyn)を録音した。 「Tous les garçons et les filles/男の子、女の子」歌詞: ・・私と同じ年齢の男の子や女の子は皆、二人づれで街を歩いている。私と同じ年齢の男の子や女の子は皆、幸福であると言うことはどんなことか知っている。目と目を見つめ合い、手と手を取って、明日のことなど心配しない、恋人どうし。でも私は一人で街を歩く、悲しい気持ちで、誰も私を愛してくれないから。 私の昼も、私の夜も、いつも同じ、楽しみはなく、退屈、誰も私に囁いてくれない、「Je t‘aime」って。 私と同じ年齢の男の子や女の子は皆、一緒に将来の計画を立てている。私と同じ年齢の男の子や女の子は皆、愛すると言うことがどんなことか知っている。目と目を見つめ合い、手と手を取って、明日のことなど心配しない、恋人どうし。でも私は一人で街を歩く、悲しい気持ちで、誰も私を愛してくれないから。 私の昼も、私の夜も、いつも同じ、楽しみはなく、退屈、ああ、いつになったら太陽は私に輝いてくれるの? 私と同じ年齢の他の男の子や女の子のように、もうすぐ私も知るでしょう、愛とはどういうものか。いつかそんな日が来るでしょう、私と同じ年齢の他の男の子や女の子のように、目と目を見つめ合い、手と手を取って、明日のことなど心配しない、幸福な気持ちになる日が、悲しい気持でなくなる日が。 私も、私を愛してくれる誰かを持つ日が・・ 1962年4月25日「Tous les garçons et
les filles」の録音: Françoise Hardyはパリ9区Aumale通りの質素なアパルトマンに母親(1920-1991)と妹Michèle(1945-2004)と住んでいた。ラジオから流れるPaul Ankaの「I’m Just a
Lonely Boy」に夢中になりAnkaがパリ公演を行った際にはサインが欲しくて劇場前で歌手が出てくるのを待っていた。サインを貰うことはできなかったが。母は既婚者であった父を愛し、FrançoiseとMichèleをもうけた。父と母とは一緒に住むことはなかった。Françoiseは自分が他の人たちとは異なり、一人ぼっちであると感じていた。そして母からクリスマスに贈られたDaphne du Maurier著の「Rebecca/レベッカ」や「Ma cousine Rachel/従姉妹レイチェル」を読んで、その主人公と自分とを重ねていた。 1961年6月Bac(大学入学資格試験)に合格した記念に父がギターを贈ってくれた。それでいくつかのコードを弾きながら、もの悲しい曲を作っていた。母と父との恋物語をテーマにしたような。France-Soir紙にVoque社がJohnny
Hallydayと対になるような女性歌手を探してオーディションを行うという記事が載った。内気で、控えめ、思慮深いFrançoiseは自分からそれの応募する勇気はなかったが、この記事に目をとめた母が応募を勧めた。Pathé Marconi社のスタジオの扉を震えながら押したFrançoise、上がってしまったが、審査員は20分以上彼女の歌を聞いてくれた。合格はしなかった。しかし、初めて自分の声を聞いたFrançoiseは思った「悪くないじゃないの」。そしてPetit
Conservatoire de Mireilleに入り、本格的に歌の勉強を。Petit
Conservatoire de Mireilleは歌手のMireille(1906-1996)が1955年設立した音楽学校で、Hugues Aufray、Alice Dona、Yves Duteilらも学んだことで知られている。二度目のオーディションの後、61年11月14日母とVogueのJacques Wolfsohn部長と間に契約が結ばれた。 Mireilleは当時唯一のTV局ORTFの番組「En
attendant leur carrosse/彼らを迎えに来る四輪馬車を待ちながら」のプロデューサー、司会者として、Petit Conservatoireの受講生を出演させていた。Mademoiselle
Hardyは62年2月6日その番組に出演自作の「La fille avec toi/あなたと一緒の女の子」を歌った。これがFrançoiseのTV初出演となった。 62年4月25日、3時間かけて最初のEPレコードの録音が行われた。収められたのはA面2曲、B面2曲の4曲。会社は英語から訳され「Oh oh chéri/おお愛しい人」をA面の最初の曲にした。この曲はアメリカのカントリーシンガーBobby Lee
Trammellの1958年のヒット「Uh Oh」にJil&Janがフランス語の歌詞を付けたもので、Petula Clarkはそれを歌うことを断っていた。残りの3曲はFrançoiseが作ったものでA面2曲目は「Il est parti un jour/ある日彼は行ってしまった」、B面1曲目は「J’suis d’accord/私は賛成」、2曲目はFrançoiseが最も気に入っていた「Tous les garçons et les filles」であった。ギターで曲を作ったFrançoiseは楽譜を書いたり、読んだりすることが出来なかったため作曲者としてSACEM(Société des auteurs,compositeurs et éditeurs de musique/作詞家・作曲家・楽譜出版者協会)に登録することが出来ず、作曲者は当時Vogue社に所属していたミュージシャンRoger Samynの名で行われた。Samynは録音のバックをつとめたバンドの指揮をとったほか、編曲も行ったがFrançoiseはそれをかならずしも良いものだとは思わなかった。レコードのリリースは6月であった。当時のラジオ局Europe 1の人気音楽番組「Salut les copains/やあ 仲間たち」から最初に「Tous les garçons et les filles 」が流れたとき、Françoiseはキッチンで聞いていた。「信じられなかった、とても嬉しかった。でもバックの演奏はひどいなーと思った。」この時点でFrançoiseの生活には変化はなかった。Sorbonne大学で文学を学んでいたFrançoiseは、夏のヴァカンスには母の勧めで、ドイツ語を完璧にするためにドイツのバイエルン地方で勉強した。ヴァカンスから帰ると、3ヶ月の間にレコードは2000枚売れていることを知った「私にはそれが途方もないことに思えた。」 9月21日再び「En attendant leur carrosse」に出演したFrançoiseは「Tous les garçons et les filles」を歌い、10月8日にラジオ局RTFの音楽番組「Toute la chanson/全てのシャンソン」に出演した際にも歌った。 そして10月28日を迎えた。TV局ORTFはこの日「大統領を有権者の直接投票で選出するための憲法改正」案の国民投票の結果を放送した。放送の間にFrançoiseが登場、何百万人の視聴者を前に「Tous les garçons et les filles」を歌った。すると、この曲はたちまちと同年代の男の子、女の子、その兄弟姉妹、その親たちの心を捉え、11月と12月にはヒットパレードの上位にランクされた。Paris-Match誌は同世代のシンボルとして63年1月5日号の表紙をFrançoiseの写真で飾った。1年後にはアルバムは200万枚以上売り上げていた。 1962年2月6日「En attendant leur carrosse」出演時(Mireilleと、Françoiseはセーターを前後逆に着ている) http://ca-surmoi.droledefrimousse.com/wp-content/uploads/Image-162.png 「Tous les garçons et les filles」のジャケット http://www.le-copain.fr/UserFiles/Image/AVRIL%2007/UsineAVRIL07FrancHardy.jpg 「Tous les garçon et les
filles」1962年9月21日「En attendant leur carrosse」出演時 http://www.ina.fr/video/I06051243/francoise-hardy-tous-les-garcons-et-les-filles-video.html Paris-Match誌の表紙
2013年3月 シャルル・トレネ Charles Trenet シャルル・トレネ Charles
Trenetは、1938年3月25日パリのミュージックホールABCに出演し、ソロ歌手としてスタートを飾った。 Trenet、本名Louis-Charles-Augustin-Claude Trenet、1913年5月18日南フランスの地中海に面したナルボンヌNarbonne生まれ、2001年2月19日Paris郊外のCreteilで脳卒中のため87歳で死去、ACI。2013年は生誕100年に当たり、Trenetの渾名「fou chantan:フウ シャンタン/歌う狂人」(命名の経緯は後述)に掛けて、今年は「fou cent ans:フウ サン タン/100歳の狂人」と呼ばれている。1930年、17歳でパリに。昼は映画会社で小道具係、演出助手として働き、夜はMontparnasseのナイトクラブなどに出かけた。32年 Montparnasseのジャズクラブ「College inn」(rue Vavin 6区)で2歳年少17歳のスイス出身のピアニスト ジョニー・エスJonny Hess(1915-1983)と出会う。肝胆相照らす仲になった2人は当時人気のあったデユオ「Pills et Tabetピルスとタベ」(Jacques PillsとGeorges Tabetのコンビで1932-39年の間活動、「Couchés dans
le foin/枯れ草の中に寝る」などのヒットを持つ)に倣って、33年Trenetが作詩し、Hessが曲を付けた曲を歌うデュオ「Charles et Jonnyシャルルとジョニー」を結成。Palace、Le Fiacreなどに出演、白いパンタロンに開襟シャツ、赤いジャケットの出で立ちで「Maman,ne vends pas la maison/母さん、家を売らないで」、「Sur
le Yangste Kiang/揚子江の上」でなどを歌い大いに人気に。 このデュオは1936年10月Trenetの兵役義務による入隊で解散。Trenetは最初Bouches-du-Rhône県Istres(Marseilleから西方60km)の部隊に、次いで、Versailles近郊Yvelines県のVelizyの部隊に配属された。Trenetは兵役の間、「Je chante/僕は歌う」、「Y’a d’la joie/喜びあり」、「Fleur bleue/青い花」などを作詞・作曲。これらの曲は訪ねてくる楽譜出版者Raoul
Bretonに託された。BretonはすでにCharles et Jonnyの楽譜を扱っていた。TorenetがBretonに託した曲は当時の人気歌手によって取り上げられ、「Y'a d'la joie」はMaurice Chevalierが歌った。Trenetは夜間外出禁止など規則違反で禁足や営倉入りの処罰を受けることがままあったが、それを奇貨として曲作りをしていたと言われている。Trenetはまた式典などの際歌ったほか、土曜の夜には休暇をとってMarseilles のGrand Hotelの地下にあり、友人Edomond Boryが経営する「Melodie Bar」で歌った。ステージに登場したTrenetは頭髪をきれいに剃って、右の片眼鏡スタイル、まだYul Brynnerは存在していなかった時代で、Boryは「fada chantant」と渾名を付けた。fadaは南仏の方言で「頭のおかしい、間抜けな」を意味し、普通のフランス語では「fou chantant」[なお、この渾名はBretonが付けたとの説もある] 1937年10月に除隊し、ソロで活動を始めたTrenetはBretonの仲介でPathé-Marconi社と契約し、37年末から38年1月にColumbiaのスタジオで「Je chante」、「Pigeon vole/鳩が飛ぶ」、「J’ai ta
main/僕の手の中に君の手が」、「La polka du roi/王様のポルカ」、「Biguine à Bango/バンゴのビギン」を録音。これらはラジオから頻繁に流された。そしてBretonはTreneをまず当時のパリでは大きなホールの一つであったEuropéenの支配人Castilleに紹介した。Trenetの歌を聞いたCastilleは言った。「彼に必要なのはステージではない、精神異常者の収容施設だ」。次ぎにBretonはABCの支配人Goldinの許を訪ねた。 ABCは11,Bd.Poissonière 2区所在、1933年~1965年ミュージックホール、その後映画館、81年に取り壊され、現在は幼児用品店。 Goldinとは旧知であったBretonは「絶対にChareles Trenetを使うべきだ。」「君がそんなに勧めるなら、君を喜ばせるために、第1部の最後に歌わせよう。幕が降りるから目立たないだろうから。それに歌うのは2曲だけ。」こうしてTrenetは2曲歌う契約を結んだ。しかしBretonはTrenetに5曲準備するように言った。「君は5曲歌うことになるだろう。客がそれを望むだろうから。」5曲というのはTrenetがそれまでレコーディングした全曲だった。1938年3月25日(金)、この日ABCのvedette/主役は「A Paris dans chaque faubourg/パリ祭」、「Le chaland qui passe/過ぎゆく艀」のLys Gautyだった。1部の最後にステージに登場したTrenet、2曲歌い終わったとき、観客は総立ちになり足を踏みならして、叫んだ「Charles Trenet!Le fou!」。Trenetはそれに答えて5曲歌わなければならなかった。ステージから降りたTrenetはGoldinに事務所に来るように呼ばれた。Goldinは言った「ここに君との新しい契約書がある。3ヶ月もすれば君はABCのvedetteだろう。」[この日Trenetが歌った曲数については諸説ある] Trenetのソロデビューを新聞はこぞって絶賛した。「先週の金曜日ABCで一大事件が。歌う一人の詩人が満場の熱狂の中でデビューした。20歳代の若いアーティストが我々の目の前で、大胆さと、斬新な感性、並はずれた高揚により奇跡を実現した。Charles Trenetは生まれたばかりの新しいリズムそのもの。」、「Charles
Trenetはすでに作詞・作曲家として知られているが、歌手としては未知だった。しかし彼は歌手としても非凡な才能を持つことが示された。踊り、小刻みに体を動かし、あるいは大仰なジェスチャーをし、フェルトの小さな帽子を脱いだり、被ったり、ミュージックホールの歌手としてとても十分魅力的だった。」などと。 かくてTrenetは「La route enchantée/輝ける道」(38年11月に公開されたPierre Caron監督の映画で、Trenetは脚本・主役・音楽担当、劇中「Boum/ブン」などを歌っている)を歩み出した。 1938年のTrenet http://www.repro-tableaux.com/kunst/_frenchphotographer/charles_trenet_1913_2001_1938.jpg 「Je chante」 http://www.youtube.com/watch?v=-Jyutvxy4-I 2013年2月 ジルベール・ベコーGilbert Bécaud ジルベール・ベコーGilbert
Bécaud(1927.10.24Toulon-2001.12.18Paris ACI)は、シャンソンの殿堂Olympia(28,bd.
des Capucines パリ9区)に33回出演、この劇場に最も多く出演した歌手。 ・Bécaudの記念すべき最初の登場は1954年2月5日。 ミュージックホールOlympiaの起源は1893年に遡る。1893年Joseph Ollerがそれまでのメリーゴーランドを、2000席を擁するミュージックホールに改装、4月12日Olympiaと命名し開場した。その後第1次大戦までは世界中から集まった芸人達が華やかなショーを見せていた。大戦中は派手な出し物は影をひそめFréhelやLucienne Boyerらの歌が中心になった。1929年の恐慌後は映画館になっていた。1952年パリの小さなホールの支配人であったBruno Coquatrixは当時パリの興行界の実力者にミューズックホールを作ってみないかと誘われた。Coquatrixは25年間放棄されていたOlympiaの支配人に就き、2年間の準備期間の後、新しいミュージックホールを誕生させた。 1954年2月5日新生なったOlympiaの初日、幕開け歌手にCoquatrixはBécaudを選んだ。Bécaudはその前年1953年2月2日「Mes mains/メ マン(僕の両手)」と「Les croix/十字架」の2曲を初めてレコーディングしたばかりで、当時全く無名であった。この日のvedette/スターはLucienne Delyleで、Bécaudは3曲歌った。 ・1955年 2月17日BécaudはvedetteとしてOlympiaのステージに立った。マティネには、キャパ2000人のホールに4000人の若者達が殺到した(学生は学生証の提示で入場できた)。Bécaudはステージで激しく動き回り、四方に走り、マイクを持って踊り、観客に背を向けて歌い、ピアノを叩き・・。Bécaudの想像を絶するエネルギーに圧倒され、熱狂した観客が椅子を破壊するなどホールの一部を破壊する挙に出た。壁に掛けてあったスターの写真の入った額は空飛ぶ円盤のように投げられ、おまけに女性ファンは下着をステージ目がけ投げた。10人以上が負傷、破壊された椅子は439脚。騒動を鎮めるために警察が呼ばれた。マスコミはこの事件を大きく取り上げ、Becaudに「Monsieur Dynamite/ムッシュー・ダイナマイト」、「Le champignon atomique/キノコ雲」、「Monsieur、cent mille volts/ムッシュー・10万ボルト」などの渾名を付けた。その後「Monsieur、cent mille volts」がBécaudの代名詞になった。当時は戦後の活気のない、陰鬱な時代だった、若者たちは27歳のBécaudと自分たちの自信と力を共有したかったのでは・・と言われている。 ・Bécaudはその後もほとんど毎年秋の新しいシーズン始まりの時期にはOlympiaに出演した。 ・74年1月14日にはLégion
d’Honneur/レジオン・ドヌール のChevalier/シュヴァリエ勲章を、極めて異例ではあるがOlympiaの舞台で受けた。授与したのは当時県知事のルイ・アマード Louis
Amadeであった。Amadeは高級官僚で作詞家、52年にBécaudと出会う。Pierre Delanoë、Maurice Vidalinと共に、Bécaudに優れた詩を提供した。Amadeが提供したのは「Les croix/十字架」(52年)、「La ballade des Baladins/旅芸人のバラード」(53年)、「Les marches de Provence/プロヴァンスの市場」(57年)、「L’absent/いない人」(60年)、「Quand il est mort le poète/詩人が死んだ時」(65年)、「L’important
c’est la rose/バラは憧れ」(67年)、「Un peu d’amour et d’amitié/小さな愛と友情と」(72年)など(作曲はいずれもBécaud)。なおBécaudは1985年Légion d’HonneurのOfficier勲章を受章している。 ・1988年11月の公演は2枚組みのDVDになっている。 「Quand il est mort le poète」 http://www.youtube.com/watch?v=RBoWZiln7Yc 「L’important c’est la rose」 http://www.youtube.com/watch?v=w0sA1MBVsXw ・Bécaudは1度だけOlympiaを裏切った。1993年のデビュー40周年コンサートをパリのPalais
des Sportsで行った時に。 ・1995年Olympiaを含む建物を所有していた大手金融機関Société Générale社がその地域の開発を計画し、Olympiaを取り壊すことにした。しかし、多くのアーティストが反対して立ち上がり、文化大臣でもあったJacques Langの要望もあって、取り壊しは免れ、2年間に及ぶ改修工事と6ヶ月の閉鎖後Olympiaは生き残った。細部にわたり原状が正確に復元された。Bécaudは工事現場に足を運び、原状回復を確認した。Bécaudは「黄金の光」に固執した。それは天窓からの光がミラー効果によって小さな束になって舞台の上に落ちて来るというもので、「Edithも、Brelも、Montandも、僕も、舞台に出るときにはそれを頼りにした。」 ・1997年11月13日新装なったOlympiaの柿落としに出演したBécaudは「僕は思い出す。君は単なる映画館、僕はしがない作曲家だった。それが1954年のある日の午後、君はミュージックホールになり、僕は歌手になった。最近君が取り壊し処分になると聞いた。僕はそんなことは信じなかった。そう、信じなかった僕は正しかった。・・時というものは残酷だ。しかし君は若返った。今夜、僕たちは皆集まった。君のために。オランピア!」と語った。11月23日まで続いたコンサートはBécaudの70歳の誕生日を祝うものだった。 1997年11月13日20時のニュースに登場した出演直前のBécaud(Bécaudの登場は31:25~38:30) http://www.youtube.com/watch?v=VfvNzzz88yE ・1999年11月16日から28日まで、Bécaudにとって最後の33回目のOlympia出演。 ・Bécaudは2001年12月18日肺癌のためパリ郊外でセーヌ川に係留してあった自身が所有していた船で死去。葬儀は12月21日Olympiaから数百m離れたマドレーヌ寺院で行われ、遺体は、Bécaudを偲んでファサードに赤いネオンで「Salut Gilbert Bécaud/さようなら、ジルベール・ベコー」と表示されたOlympiaの前を通ってPère Lachaise墓地に運ばれ、45番地区に埋葬された。 Bécaudの死去を伝える2001年12月18日13時のF2のニュースではBécaudとOlympiaをレポート http://www.ina.fr/video/1884823001040/becaud-et-l-olympia.fr.html Olympiaの「Salut Gilbert Bécaud」 http://www.gilbert-becaud-fanpage.de/salut__2_.JPG
2013年1月 ミシェル・サルドーMichel Sardou
Colonne
Morris http://michelsardou.artiste.universalmusic.fr/site/wp-content/uploads/2012/06/ms.jpg ・父方の祖父ヴァランタン・サルドーValentin Sardou(1868年Toulon-1933年Casablanca):俳優でユーモリスト。Valkentinの父Baptistin-Hippolyte SardouはToulonの造船所の船大工であったが、イタリア出身のお針子であった夫人とともに仕事が終わった後、舞台装置などを手がけた。そのうち自身もパントマイムとして舞台に立つようになった。Valentinは1905年MarseilleのAlcazarでデビュー、1909年には遠縁に当たるFélix Mayol(1872-1941 歌手)の勧めでParisに上りMayolが経営するキャバレConcert Mayolで歌い人気に。1910年に息子Fernandが生まれた頃から興行主になり、出し物を持ってモスクワまで巡業した。28年にはモロッコのタザでキャバレAlhambraの支配人になった。出演していた歌手にはEdith Piafの母Line Marsa(1895-1945)もいた。Alhambraが不振に陥り、一家は1933年Casablancaに。Valentinはそこで没した。Valentinの夫人Josephine PlantinもSardounetteの芸名で夫と一緒に舞台に立っていた。 ・父フェルナン・サルドーFernand Sardou(1910年Avignon-1976年Toulon):俳優で歌手。ValentinとSardounetteとの間に生まれたFernandは父Valentinの没後1933年Parisに。30年代後半から映画俳優、舞台俳優、歌手として活躍。映画俳優としてはMarcel Pagnol(「Manon des sources/泉のマノン」52年など)、Henri Verneuil(「Le fruit défendu/禁じられた果実」52年など)、Jean Renoir(「Le déjeuner sur l’herbe/草上の昼食」59年など)の作品に数多く出演している。歌手としては1946年「Aujourd’hui peut-être/多分今日」がヒットし、同年AlhambraにEdith Piafの「vedette américaine/準主役」として出演している。55年にはTino Rossiとオペレッタ「Mediterrannée/地中海」で共演。1960年9月から65年までパリ18区Lepic通りにキャバレ「Chez Fernand Sardou」を開いていた。1945年Jacqueline Labbé(Jackie Saedou)と結婚、47年Michel 誕生。76年Toulonの劇場でリハーサル中に心臓麻痺で急死。 「Aujourd’hui peut-être」(Fernand Sardou、1966年2月) http://www.youtube.com/watch?v=f317gvBq26Q 「Aujourd’hui peut-être」(Fernand et Michel Sardou) http://www.dailymotion.com/video/x9zy92_fernand-et-michel-sardou-aujourd-hu_music?search_algo=2 ・母ジャッキーJackie(1919年Paris-1998年Paris、本名Jacqueline Labbé):Jackieの母親はダンサーで、キャバレConcer MayolやMoulin Rougeで活躍、父親は不明。JackieはConcert Mayolの屋根裏部屋で生まれたと言われている。16歳でダンサーとして舞台に立つ。母と共演していたFernan Sardouと45年結婚、47年Michel 誕生。10年間キャバレ「Liberty’s」に出演。48年FernandとFernandel主演の映画に共演。90年代半ばまでThéâtre des
Varietés(2区)などで才気あふれる、豪放な舞台俳優として、脇役の得意な映画・TV女優として活躍、TVやラジオのトーク番組にも出演し人気があった。また、82年にはJean-Loup
Davadie作詞、Michel Sardou作曲の「Maman」をMichelとデュオで歌い、93年には過去のシャンソンのヒット曲を歌ったアルバム「Jackie
Sardou chante・・/ジャッキー・サルドーが歌う・・」を出している。 「Ah ce qu’on s’aimait/甘き恋の思い出」 http://www.dailymotion.com/video/x5ezfl_sevran-jackie-sardou-chance-aux-cha_music Jackieと Michel http://www.youtube.com/watch?v=quKesE3KhW0 ・ミシェル・サルドーMichel Sardou自身(1947年Paris-):幼少時の遊び場はキャバレ、劇場の舞台裏。63年学業を放棄し父のキャバレ「Chez Fernand Sardou」のボーイ兼歌手に。65年Michel
Fugain(1942-ACI)と共作した「Le Madras/マドラス」がデビュー作、それによってTV初出演を果たした。その後しばらくは忘れられていたが、67年の「Les Ricains/アメリカ人:アメリカの涙」(作詞Michel Sardou自身、作曲Guy Magenta)で一躍有名に。この曲は第2次世界大戦でフランスが戦勝国になれたのはアメリカ人のお陰で、感謝すべき「彼らがいなければ、我々は皆ドイツ人になっていて、何語で話しているだろう、誰に敬礼しているだろう・・」と歌っている。この曲は当時アメリカのヴェトナムへの介入に異議を唱え、NATOから脱退の意志を示していたド・ゴール大統領の意に添ったものではなく、大統領はこの曲を「推奨できない」とした。そのためラジオから流れることはなかった。曲は70年ド・ゴール大統領の死後アルバム「J’habite en France/僕はフランスに住む:僕はフランス人」に収められた。アルバムはACC賞を受賞、そこに収められた「J’habite en France」、「Les bals populaires/舞踏会」などがMichel Sardou最初のヒット曲。 Michelは俳優としても活躍。6~7歳の頃から父や母が出演している映画に子役として出演。1966年René Clément監督の映画「Paris brûle-t-il?」ではFugainらとちょい役で出演。80年代以降Philippe Setbon監督映画「Cross/クロス」(86年)、Didier Kaminka監督映画「Promotion canapé/プロモーション用のソファー」などで主要な役を演じ、90年代からはTVドラマ、劇場劇にも出演している。 私生活ではSardouは3回結婚。最初の結婚は1965年Françoise Pettréとで、女児2人をもうけ77年離婚。2度目の結婚は1977年Elizabeth Haasとで、Romain(1974-)、Davy(1978-)の男児2人をもうけ98年離婚。3度目は1999年Anne—Marie
Périerと。 「Les Ricains」 http://www.youtube.com/watch?v=0VU52EzblZE ・次男ダヴィー・サルドDavy Sardou(1974年Paris-):1998年からアメリカNYでLee Strasbergの許で演劇を学ぶ。同年舞台俳優として、99年には映画俳優としてデビュー。2008年Théâtre des Varietésで上演された「Secret de famille/家族の秘密」では父Michelと共演している。11年には、Jean Anouihの「Le Nombril/へそ」出演でMolières新人男優賞にノミネートされ、またShakespeare劇に出演するなど将来を有望視されている。Davyは2004年にはMichelのアルバム「Du plaisir/楽しみ」に収められた「Espérer/願う」(詩はMichel)の作曲をしている。 「Secret de famille」のポスター http://www.clubsardou.com/Acteur/theatre/Secret_de_famille/autographes.jpg 「Secret de famille」の1場面(Michel&Daye & Mathilde Penin) 「Espérer」 |
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2012年12月 シャルル・アズナヴールChrales Aznavour
「Je m’voyais déjà/僕にはもう自分が見えていた:希望に満ちて」歌詞: ・・僕は18歳で田舎を出た、この手で人生を掴むんだ、パリを征服するんだと心に決めて、心は軽やかに、貧相なトランクを一つ下げて、貯金をすべてはたいて、町一番のテーラーで最新流行のブルーの三つ揃いを新調して。 その時僕にはもう見えていた、僕の名前が他の誰の名前よりの10倍も大きくポスターの一番上に載っているのが、僕にはもう見えていた、ちやほやされ、金もでき、押し合いへし合いするファンに囲まれて写真にサインしている僕が、僕は偉大な芸人の中でも最も偉大、観衆が総立ちで喝采を送っているのが、夜僕の首にしがみつくことができるという幸運に預かる女性をリストの中から選んでいる僕が。 今メイクの下の顔は老けた、年とともに少し気むずかしくなってきた、でも声は出るし、動きは正確、気力の十分、アイディアもある、この両足の下に舞台を感じ、目の前の観客を見るだけで胸が高鳴る、援助してくれる人はなく、ついてもいなかった、でも心の奥では自分には才能があると信じている。 このブルーの三つ揃い、もう30年も着ている、生徒も取ったし、訪問販売員もした、生活のためには何でもした、でも得られたのはちょっとした成功だけ、夜行列車、兵隊相手の女、安いギャラ、狭い家具付きアパート、粗末な食事。 僕にはもう見えていた、冬は雪の中で、夏は太陽の下でスタートと腕を組む写真の中の僕が、忠告を聞きに来る新人に悟りきった様子で人生について語っている僕が、初日の舞台にもひるむことなく、みんなを恐れさすパリのお歴々から千通もの祝電、喝采の中、スポットライトを浴びてステージに出て行く僕が。 日陰から抜け出すためにいろいろやってみた、恋を歌い、おどけてみたり、奇抜なことをやったり、何をやっても失敗したのは、僕が日の目を見ないのは、僕のせいじゃない、何も分かっていない大衆のせいだ、僕に一度もチャンスをくれなかったじゃないか、大した声をしていないのに、大金を使って成功した連中もいる、僕は純粋すぎたのか、それとも先を行きすぎたのか、でもいつかその日が来るだろう、彼らに見せてやる日が、僕に才能があることを・・ 1960年12月12日のステージ: Aznavourはこの曲を1960年12月12日Alhambra(50,rue de Malte パリ9区、1967年に取り壊され、現在は21,rue Yves-Toudic パリ10区)で、Paul Mauriat指揮のオーケストラをバックに2500人の観客を前に初めて歌った。自伝などによればその模様は次のよう: ・・そのシーズンの最初の舞台はAlhambraに大スターとして出演することだった。それは正にド・ゴール将軍のいう「大作戦」だった。私は[姉の]Aïda、[その夫で作曲家の]Georges Garvarentzの協力を得て熱に浮かされたように準備をした。当日、劇場に着くと例によって祝電が届いていた。Le Compagnons da la Chanson、Yves Montand夫妻、Jean Cocteau、Jacqueline François、Charles Trenet・・から。そうこうするうちに会場にも友人たちが集まってきた。彼らを見たとき私は支えられていると感じた。前座の歌手の伴奏が始まったとき準備にかかった。青白い顔色を隠すため、薄くメイク。そして、私がすべての希望を託した曲・・Yves Montandが「我々の職業をテーマにした曲なんて誰も興味を持たないよ」と言って歌ってくれなかった曲・・のために特別に仕立てたTed Lapidusのブルーの三つ揃いに腕を通した。オーケストラがイントロを演奏しだした。ステージに出た。拍手はまばらなものだった。誰にでも拍手をする人たちと私の友人たちだけの。1、2、・・6曲歌い終わったが反応はなかった。冷たい雰囲気だけ。私の7曲目は衝撃を与えるものになるはずだった。私はその曲を、照明効果を用いることのなかった当時としては画期的な演出で歌おうとしていたから。私は歌い始めた。・・僕は18歳で田舎を出た、この手で人生を掴むんだ、パリを征服するんだと心に決めて、心は軽やかに、貧相なトランクを一つ下げて・・前に歌った数曲の間に私は徐々に、ネクタイとり、上着を脱ぎ、カフスボタンも外していた。そしてこの曲を歌いながらゆっくりそれらを元に直した。曲が終わりに近づき、私が衣裳をちゃんと着たとき、正面のライトは消され、同時にステージの奥に並べられた多くのライトが平土間の観客の目をくらますほどに一斉に点けられた。私はその光の幕の中、踊りながら観客席に背を向けて引っ込んだ。そして拍手を待った。しーんとした静けさばかり。 私は舞台の下手にいたJean-Louis Marquetに話しかけた「明日は、仕事を変えなきゃ」。Marquetは「まあともかく舞台に出て挨拶して、締めて来いよ。」そこで私は頭を下げて前舞台に出た。幕が上がろうとしていた。椅子ががたがたいう音が聞こえた。観客が席を立って帰ろうとしているのだろうか?私は舞台の前方に泳ぐようにして進んだ。私の目の前は真っ暗だった。前方の席の観客の顔が少しずつ見えてきた。それから私は突然観客の全員が立ち上がり私に割れんばかりの拍手を送ってくれているのが見えた。あの誰にも恐れられているパリ社交界のお歴々が私の生涯で最も大きな喜びを私に与えようとしているのだ。私たちは面と向かっていた。初日に私の失敗を見ようとやって来た観客と、そんな観客の鼻をあかしてやろうなんて言う意識はなくなり泣き出しそうになった私とが。最後は素晴らしいものだった。アンコールに次ぐアンコール、その気になれば後10曲は歌うことができたかも知れない。しかし、何事も極限まで行くのはよくない。ステージを降りると、「彼のことはいつも話していただろう。」、「彼の成功は疑いなしだと思っていたよ。」、「君は偉大だ。」「素晴らしかったぜ、親友。」という偽善者の声が聞こえてきた。私はそれまで散々酷評されていたから、そんな声に騙されることはなかったが、それでも嬉しかった。屈辱の日々、懐疑の日々は終わり、新しいスターが誕生したんだ。しかし、錯覚するなよ。「Réussir est une chose,tenir en est une autre/成功することとそれを続けるのは別のこと」。私は15ラウンド闘うボクサーのように自問した「神様、この状態はいつまで続くのでしょうか?」 「Je m’voyais déjà」1960年12月Alhambra http://www.youtube.com/watch?v=JcVjqYrtnOA 「Je m’voyais déjà」1972年12月Olympia http://www.youtube.com/watch?v=ZW5jfRFe6EM 「Je m’voyais déjà」2004年5月Palais des Congrès http://www.youtube.com/watch?v=ycaYTG7xtSI |
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2012年11月 Barbara
バルバラBrabara(本名Monique Andrée Serf 1930-1997)は1963年の11月5日、パリのThéâtre des Capucinesで「Nantes/ナントに雨が降る」を創唱した。 「Nantes」歌詞 「Nantes」は、Barbaraが、Nantesで亡くなった父(Jacques Serf 1904-1959、享年55歳)を悼んで1963年に作った曲。彼女の自叙伝「Il était un piano noir/黒いピアノがあった」(1999年1月刊)の中に、彼女が10歳半の頃から父親に性的暴行を受けていたと解釈できるような記述がある。父は1949年に家を出て、その後連絡も途絶え、戻ってくることはなかった。
・・1959年12月21日(月)昼近くVitruve通りの自宅の電話が鳴った、未知の声で「お父さんが、NantesのSait-Jacques病院に入院している。事故があって。あなたにとても会いたがっています。」それですぐ病院に電話したらそんな人は入院していないとの返事。再度電話したら、霊安室につながれ、48時間前に死去した由。母に「Mon père est mort à Nantes、je pars/父がナントで亡くなりました、行ってきます。」と置き手紙をして、ナントへ。ナントは雨。Cと書かれた部屋に入ると、一人の修道女がいて「誰にも知らせなくていいと言っていたので」。電話を掛けてきた父の友人Paul氏とナントの旧市街のカフェーで会う。「激しい痛みで入院し、その3週間後に死去した。」また父がその高慢な態度からみんなに「Monseigneur/閣下」と呼ばれていたこと、前年にBarbaraが初めてTVに出演した際それを見て、誇らしく思っていたことなどを知る。 パリに帰りキャバレ「L'Amiral」のパトロンPabloに借金。弟のClaudeとともに再度Nantesへ。共同墓地に埋葬。形見は鼈甲の眼鏡のみ・・。 そして父については「あなたを許します、安らかに眠って下さい、私は立ち直りました、私は歌っていますから・・」と自伝に書いている。 ・「Nantes」について: 1959年12月28日にはノートにこの曲の出だし「Il pleut sur Nantes,donne moi la main,le ciel de Nantes rend mon cœur
chagrin/ナントに雨が降っている、手を貸して下さい、ナントの空は私の心を悲しくする。」を書き留めた。3年後の62年にこの書き留めてあった詩にメロディーが浮かんできた。そして63年11月4日、明日はパリThéâtre des Capucines(39,Bd.des Capucines 2区、1898年~1973年、現在のOlympiaの向かいあたりか?)の「Mardis de la chanson/火曜日のシャンソン」に出演するという前日、詩が奔流のように浮かんできた。彼女は書いた、書いた。11月5日出演の直前まで彼女はフェルトペンで手を加えた。そして出来上がったばかりの「Nantes」を創唱。大成功だった。聞いていた母、妹、弟も感動した。隠し取りされたこのときの音源があると言われているが、創唱時のヴァージョンではレコード録音されていない。曲は64年2月5日rue Saussier Leroy(パリ 17区)のスタジオで録音、5月末にCBSから出されたEP「Barbara」のA面トップに、64年10月1日に出されたLP「Barbara chante Barbara/バルバラ、バルバラを歌う」B面トップに収録されている。 「Nantes」のオリジナル楽譜は2000年6月2日Barbaraの他の遺品と共に競売に掛けられた。文化省は優先買い取りの権利を行使して取得、ナント市に寄贈、Château des Ducs de Bretagne美術館に展示されている。 ・「rue de la
Grange-au-Loup」について 「rue de la Grange-au-Loup/グランジュ・オー・ルー(狼のいる納屋)通り」はこの曲ができた当時はBarbaraの創作に拠るものであったがNantes市はJacques Serfが隠れ住んでいたと思われるSaint-Joseph de
Porterie地区の一つの通りrue des Charrettesの一部を「rue de la Grange-au-Loup」と命名。1986年3月22日ミュージカル「Lily
Passion」上演のため同地を訪れていた主演のBarbaraとGérard Depardieuが出席して命名式が行われた。従って、今ではNantesに「25,rue de la Grange-au-Loup」は存在する。更に2000年12月この通りに垂直の交差する小道がAlleé Barbara/バルバラ遊歩道と命名され、Jeanne Merlet作のBarbara像が置かれている。 Barbaraは1973年から住んでいたPrecy-sur-Marneの自宅に設けたスタジオを「rue de la Grange-au-Loup」と呼んでいた。 「Nantes」(1964年5月17日ORTF Discorama出演時) http://www.ina.fr/divertissement/chansons/video/I06013653/barbara-nantes.fr.html La rue de la Grange-au-Loupの命名式 http://blog.amicalien.com/blogs/photos/2AD70229-3048-7BE8-78AA7786A0871C6B.jpg Barbaraの銅像 http://www.jardins.nantes.fr/Patrimoine/Sculpture/photo/1.jpg 「Nantes」のオリジナル楽譜 http://1.bp.blogspot.com/-Gtutx0syUUs/TdrAHPmA7pI/AAAAAAAAA5Y/Eu4TfA61Tyc/s1600/DSC00025.JPG |
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2012年10月 Edith Piaf
Piafの出生に関しては、1915年12月19日パリの下町20区、72,rue Belleville(ベルヴィル通り72番)のアパートの入り口の階段で生まれ、通りかかった2人の警官のうちの一人のケープで病院に運ばれたとの逸話があり、そのアパートの入り口には次のように書かれた銘板がある。 「Sur les marches de cette maison naquit le 19 décembre
1915 dans le plus grand dénuement EDITH PIAF dont la voix,plus tard,
devait boulverser le monde/EDITH PIAFは1915年12月19日赤貧の中、この家の階段で生まれた。その歌声は後に世界を揺り動かすことになる。」 http://a1.img.v4.skyrock.net/a17/pivoine1959/pics/2509642653_small_1.jpg http://p3.storage.canalblog.com/31/91/108143/11060803.jpg 事実は、パリ20区、4,rue de la Chine(シーヌ通り4番)のTenonトノン病院で19日午前5時に誕生。本名はEdith Giovanna Gassionエディット・ジョヴァンナ・ガシオン。Edithはその数ヶ月前にドイツ軍にスパイ容疑で銃殺されたイギリス人看護婦Edith Cavellからとられたもの。父Louis Alphonse Gassion(1881-1944)はサーカスの曲芸師。母Annetta Maillard(1895-1945)は流しの歌手(芸名Line Marsa)。 Piafは亡くなる前年の1962年10月9日Théo Sarapo(本名Théophanis Lamboukas,1936年1月16日ー1970年8月28日)と結婚。Piafにとっては2度目の結婚であった。同日53年から住んでいるパリ16区、67,Bd.Lannes(ランヌ通り67番)でChareles Dumont、Francis Lai、Bruno Coquatrixらに囲まれて結婚を祝うパーティーが行われた。この住居の入り口には次のように書かれた銘板がある。 「Cette maison
abrita la grande chanteuse et fut son dernier domicile.EDITH
PIAF 1953-1963/この家は1953年―1963年の間、偉大な女性歌手EDITH PIAFを見守り、彼女の終の棲家となった」 http://www.paris.fr/viewmultimediadocument?multimediadocument-id=102713 http://clemsoninparis2010.files.wordpress.com/2010/06/158.jpg Piafは1963年3月18日最後の公演となるLilleのOpéra座に出演した。4月7日には自宅で「L’Homme de Berlin/ベルリンの男」(Michele Vendome作詞、Francis Lai作曲)を録音。4月10日肝臓障害により昏睡状態に陥りパリ郊外Neuillyの病院に入院。5月31日転地のために南仏Saint-Jean-Cap –Ferrat(Alpes-Maritimes県、Nice郡)の別荘へ。8月20日昏睡状態に陥りCannesの病院に入院。9月1日に退院した後はPlascassier(Alpes-Maritimes県Grasseの中心部から離れた、標高300m、人口500人弱の小集落)に移る。10月10日(木曜日)Plabcassierで危篤状態になり、13時10分死去。看取ったのは26年間にわたって秘書をつとめ、全幅の信頼を寄せていたDanielle Bonel(1919-2012)。しかし常々「Parisで死にたい」と語っていたPiafの意志を体して、遺体は非合法であったが、秘密裏に夜を徹してパリの自宅に運ばれた。
Sarapoと看護人のSimone Margantinに付き添われて。10月11日午前7時少し前に自宅に呼ばれたBernay de Laval医師には打つ手はなく、死亡を確認するだけであった。公式に死去が発表されたには10月11日11時。ラジオのニュース番組のトップはPiaf死去。Sheilaが「素晴らしい女性」、Sylvie Vartanが「彼女の歌に非常に感動した」と語り、Johnny
HallydayはNashvilleからPiafが歌う際の真摯な態度について語った。ある夕刊紙は「Piafは南仏から彼女を運んだ車の中で一晩中死と闘い、パリの自宅に着き息を引き取ったと」報じた。 人々は40年代から互いに敬愛し合う仲であったJean Cocteau(1889-1963)の哀悼の辞を待っていた。Parisから50km南東のMilly-la-Foret(Essonne県)に隠棲していたCocteauには11時少し過ぎにAcadémie Française会員の一人がニュースを告げた。書斎に入り「Madame
Piaf」で始まる哀悼の言葉を書こうとしたとき一人の友人が訪ねてきた。Cacteauは友人に言った。「今朝から熱がある、Piafの死が、私に新たな苦しみをもたらした。」13時Cocteauは息を引き取った。21時のニュースからは二人の死が報じられた。翌日の「Le Parisien libéré」紙の1面の見出しは「Piafの死がCocteauを死に至らしめた」。そして、各紙の紙面では、PiafにはBruno Coquatrix、Maurice Chevalier、Eddi Constantine、Jacques Pillsらが哀悼の辞を、CocteauにはFrançois Mauriac、Jacques de Lacretelle、Maurice Genevoix、Françoise Saganらが。11日1日でPiafのレコードは7000枚以上売れたと言われている。 Piafの葬儀は10月15日Saint-Honoré
d’Eylau教会(パリ16区)で行われることになっていた。しかし、彼女の信仰心にもかかわらず、離婚の経験があり、また、教会から見たら好ましくない生活を送った彼女をVaticanは「罪の状態」にあるとして、教会での儀式を許されなかった。葬儀は10月14日(月曜日)Père-Lachaise墓地で行われた。遺体は霊柩車で10時20分に多くの花輪、花束で囲まれたBois de Boulogneに面した自宅を出発。Trocadero、Concorde、市庁舎、セーヌ河畔、Voltaire通り、Menilmontant通りを通ってPère-Lachaiseへ。沿道には40万人のファンがつめかけ静かに車列の通過を見守った。警察の高級官僚であったLouis Amade(「Les croix/十字架」、「Inconnu excepté de dieu/神のみぞ知るの」などの作詞家)の配慮で交通規制が行われ、比較的短時間で到着した。Père-Lachaise周辺にも朝8時から待っているというファンも含め4万人が集まり、構内にも15000人のファンが押し寄せた。パリ大司教から特に派遣された、アーティストたちと親交があったLeclerc神父が最後のbénédictionを行った。PiafはSarapo、Marlene
Dietrichらに見守られ、第97区の墓地に埋葬された。10月14日France2の13時のニュースではその映像が流された。その墓地には、1935年2歳で死去した娘のMarcelle、1944年に死去した父も埋葬されていた。70年に交通事故で死亡した
Sarapoも同じ墓地に埋葬された。 France 2のニュース http://www.ina.fr/video/CAF88021676/les-obseques-d-edith-piaf.fr.html Piafの墓 http://members.multimania.nl/camerone57/PIAF/PereLachaise10p.jpg (筆者注:上記はいくつかの資料を基に構成したものです) |
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2012年10月 Cora Vaucaire コラ・ボケール 今から丁度一年前、2011年9月17日、サン=ジェルマン=デ=プレの白い貴婦人(La Dame blanche de Saint-Germain-des-Pres)と呼ばれた Cora Vaucaireコラ・ヴォケールが93歳の生涯を閉じた。 ステージには常に白いピケで登場したことから、Combat紙のMaurice Ciantarが命名。 (注1)生年について、Larousse社刊Pierre Sakaほか著「La chanson francaise et francophone」、藪内久著「シャンソンのアーティストたち」、大野修平著「哀愁と歓びのシャンソンの名曲20選」などは1921年としている。しかし、死去を伝える報道では「生年1918年、享年93歳」としていて、現在インターネットを通じて入手できる資料(フランス語版「Wikipedia」など)では1918年生まれとしている。 (注2)46年(「L'Echelle de Jacob」出演の際?)創唱したとされている。 ・1950年代以降「rive gauche/左岸」を代表するシャンソン伝達者として、古いシャンソン(「Le roi a fait battre tambour/王様は太鼓を打てと命じた」、「La
complaite du Roy Renaud/ルノー王の哀歌」、「Le temps des cerises/桜んぼの実る頃」)、ベル・エポック期のシャンソン(Yvette Guilbertの曲など)を歌い、詩人の詩によるシャンソン(Jacques
Prevert、Louis Aragon「Maintenant
que la jeunesse/過ぎ去りし青春の日々」、Guillaume Apollinaire「Le Pont Mirabeau/ミラボー橋」、Maurice Fanon「L’echarpe/スカーフ」)を紹介し、Barbara(「Dis quand reviendras-tu?/いつ帰ってくるの」)、Leo Ferre(「Les Forains/旅回り」)、ケベックの歌手Raymond Levesque(「Quand les hommes vivrons d’amour/人が愛に生きるとき」)が世に知られるようになる手助けをした。 ・か細いシルエット、はじけるような笑顔、澄んだ声、完璧な発声法、芝居のように歌い上げ、それぞれの曲を練り上げ、魅力的に、感動的に、真摯に歌う。 ・Show-bizの世界にはアレルギーを感じ、「目立たない」と言うよりも「隠れた」存在で、人気歌手になってからも、小規模ホールで、彼女の気分あるいは観客のリクエストにより歌う、親密な「a la carte」リサイタルを行っていた。大きなミュージック・ホールを意図的に避けた。例外は1973年1ヶ月のBobino出演と1991年1日のOlympia出演。 ・彼女は彼女が「多くの場合生きる喜びを表現し、そして常に強い感情を表現している歌詞が示しているフランス人の精神」と呼んでいるものを擁護した。 ・社会的にコミットする歌手として、ストを行っている労働者を前に「L’Internationale/インターナショナル」を歌うことを躊躇しなかった。 ・好んで白い衣裳でステージに立ったのは、上がって震えているのを隠すためと、黒の衣裳を拒否する意志を表すため。戦後多くの歌手が黒い衣裳でステージ立ったが「何か貧しさにつながっているよう。私は幸せを届けたかった。私は白を楽しんだ。」そして黒の衣裳のJuliette Grecoと何かと対比されたが、二人の間に険悪な感情はなかった。「60年代のある日OlympiaにGrecoを聞きに行った。素晴らしかったので、翌日その旨を電報で彼女に知らせた。そのとき電報局の窓口係は私たちが敵同士ではないと知って驚いていた。」 |
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