Brel, Brassens, Ferré  世紀の円卓会談 再現

 
  

 かつて20世紀のシャンソン界の3大スター Jacques Brelジャック・ブレル、Georges Brassens、ジョルジュ・ブラッサンス、Leo Ferreレオ・フェレが一堂に会したことがある。この歴史的な会合を企画したのは当時月刊音楽雑誌誌「Rock&Folk/ロック&フォーク」の若手記者Francois -Rene Cristianiフランソワ=ルネ・クリスティアニで、写真撮影を担当したのはJean-Pierre Leloirジャン=ピエール・ルロワールであった。

 この会合につきChorus誌36号(2001年夏号)は次のような特集記事を掲載している。
 (本稿は畏友、故亀井繁雄氏のサイト「亀さんのシャンソン丸かじり」に発表した記事を加筆、修正したものです)



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1969年1月6日、この日は月曜日、歌手にとってはステージのない日であった。パリ左岸 Saint-Placideサン・プラシッド通りのある建物の2階、客間の時計が16時28分を示したとき最初の来客がベルを鳴らした。ジョルジュ・ブラッサンスであった。16時30分再びベルが鳴った。ジャック・ブレルであった。16時32分3人目のレオ・フェレが到着した。楽譜に書かれた通りの進行であった。3人はクリスティアニとルロワールに迎えられた。3人ともこの会合に参加することを喜んでいる様子であった。特にフェレはこのような会合を開催しようと言う計画の段階から大乗り気であった。部屋には丸テーブルが用意されていて、クリスティアニはブレルの右に座り、フェレとブラッサンスの順でブレルの左に席を占めた。ルロワールは1時間以上も前に来て機材の据付を終わっていたが丸テーブルを一回りして最後のチェックを行った。そして、助手のフィリップ・モンセルがこの歴史的会合の出席者、3人の怪物の写真を撮影した。テーブルの上には飲み物と煙草が用意されていた。ビールは全員に、ブレルの前にはジタンヌ、フェレの前にはセルテイック、ブラッサンスの前には青煙草であった。これらはクリスティアニとその夫人クローデットが慎重に準備したものであった。テーブルには4本のマイクが置かれ、この雑誌記者愛用のウーアテープレコーダーは脇の机に置かれていた。隣室置かれたもう一台のテープレコーダーの脇には技術者が一人座っていたが、これは数日後RTLでこの会合のハイライト版を放送するためのものであった。     

 

この当時の3人の状況は次のようであった。           

・ブレルはこの2年前の1966年11月1日、オランピア劇場でステージからの引退を発表していた。そして、68年10月10日から「L'Homme de la Mancha/ラマンチャの男」を演じ、10Kgも体重を減らしたため69年2月13日から10日間休演、その後150回まで公演を行った。彼は69年4月8日に40歳になるところであった。           

・ブッラサンスは直近の67年2月のパリボビノ座におけるリサイタル後は2年間健康上の問題に悩まされ(67年5月に手術を受け、68年5月いわゆる5月革命には病床から参加した)、しかし69年の秋には3か月ボビノ座の舞台に立ちその途中の10月22日に48歳の誕生日を迎えた。

・フェレは68年春、個人的には大事件を経験したが、このころ歌手活動の最盛期を迎えていて、アルバム「L'ete 68/68年夏」を68年12月に収録し、この会合の翌日69年1月7日には「C'est extra/セテクストラ」をリリースした。そして、次ぎのツアーの準備をしていて、有名なライヴ版「1969年リサイタル」は2月2日にボビノ座のステージであった。                     

 

最初にこの若いジャーナリスト、クリスティアニ(24歳になったばかりであった)がこの会合がいまだかって実現したことのない貴重なものであると述べた。するとブレルが「君はこのような快挙を成功させた最初の人物だ。」と応じた。確かに、この快挙は時間と、エネルギーと、強力な意志を必要とするものであり、長期にわたる準備が必要であった。クリスティアニがこの企画を話したとき、彼の周囲では誰もそれをまじめなものと受け取ってくれなかった。しかし、「ロック&フォーク」誌の編集主任に励まされたクリスティアニはこの企画を最初フェレに話した。フェレはすぐに乗り気なって、「日程は他の二人に合わそう」と言ってくれた。フェレがそのような発言をしたのは、ブラッサンスとブレルとはすでに親交があったが、フェレはたまに会ったときに二人と会話を交わす程度の間柄であったからであろう。次ぎにクリスティアニは「J'arrive/孤独への道」を収録中のブレルをHocheスタジオに訪ねOKの回答を得た。ブラッサンスにはボビノ座に出演中に会い同様な返事を得た。当初会合は68年12月14日に設定された。その日都合がつかないメンバーがでたため日程は変更された。         

 そしてついに、69年1月6日、3人は2時間ノンストップで、クリスティアニの質問に答える形で、シャンソンにつき、仕事につき、創作活動につき、ゲンズブールにつき、ビートルズにつき、人生につき、愛につき、死につき、自由につき、孤独につき、女性につき語った。       

 

  この歴史的会合における3人の発言は次のようであった。                                   

u  あなた方3人はシャンソンフランセーズにおける最も偉大なシンガーソングライターであり、そして同じように成功を収めているシンガーソングライターであることを意識しているか?

フェレ:僕は今、無限の才能を持つ2人の同業者と一緒にこの場にいるということを十分認識している。しかし、それよりも2人の友人と一緒にいると感じている。僕は長い間それを望んできた。今日人々は言う「あなたにとってシャンソンは何ですか?ズボン吊りって何ですか?」でもそんなことは問題じゃない。大事なことは、愛を分け与えたり、受け取ったりすることだと思う。マイクを通して。我々はシャンソンを作って20年以上経つ。その間さんざん働いて、ようやく今日警官や妨害者に邪魔されることなく平穏にホールで歌えるようになった。もちろんそれは当然のことだけれど。できることをやり、言いたいことを言う、それでも何も物議をかもすことはない。

u  あなた方は3人とも有名な「現代詩人叢書」に入っているが?

 ブラッサンス:入っているのは僕たちばかりではないし、そんな風に一括りにすることは何の意味もない。        

 ・・自分を詩人だとは思っていないということか?       

 ブラッサンス:あまり考えてはいない。自分が詩人かどうか解らない。多少は詩人かもしれない。でもそんなことなどうでもいい。僕は言葉と音楽とを混合し、そしてそれを歌っている。

u  ジャック・ブレルも詩人と言われるのには抵抗があるのでは?

 ブレル:僕は「chansonnier/シャンソニエ」[シャンソンを作詞作曲し、あるいは風刺的な寸劇を作り、それをキャバレ、カフェ、バーなどで歌いまたは演じるアーティスト]だ。それが正確な言い方だ。僕はしがないシャンソンの職人だ。         

フェレ:自分自身を詩人だと言っている連中は、結局のところ本物の詩人じゃない。詩人として尊敬でき、詩人として認めることが出来るのは、自分の危険負担で小さな詩集を出版するような日曜詩人だ。そう言う意味で僕を詩人と言ってくれるなら、僕はそうであることを望む。僕が綺麗な靴を作れば靴屋と呼んでくれるだろう。それと同じだ。僕はブレルの意見に賛成だ。

u  あなた方はシャンソンを芸術だと考えるか?メジャーな芸術か、マイナーな芸術か?     

フェレ:さっきブラッサンスが本当のことを語った。「言葉と音楽を混合する」正にそれをぼくはやっている。

ブラッサンス:そう。だから広く詩を呼ばれているものとはまったく異なる。詩は読まれるために、あるいは声に出して読まれるために書かれている。シャンソンはそれとは全く違う。フェレなどは詩に、例えばボードレールの詩に、曲をつけることに成功したけれど、先輩の詩人が使ったような表現をシャンソンに使うことはむずかしい。聞かれることを前提に歌詩を書くときは耳にすばやく引っかかるような語彙を用いることが必要だ。レコードが出てきてからは、聞き手はもう一度元にもどって歌詞を聞くことができるようにはなったけれど・・。        

 ブレル:確かにそうだが、レコードはシャンソンの副産物にすぎない。それを誤解してはならない。シャンソンは歌うために作られている。レコードを売るためではない。          フェレ:僕も全く彼と同意見だ。特別の、おいしい、市販はしない、自分の家に置いておくチョコレートを作るのと同じだ。一旦それを包装し、売りに出したら、もうそれには興味がなくなってしまう。もし僕がおいしいチョコレートを作れば、それを他人が食べたとしても、それはどうでもいいことだ。包装はレコードと同じで、レコードは、音楽のある種の死だ。       

ブラッサンス:昔人々は歌っていた。シャンソンが作られると、人々はそれを聞き、覚え、歌った。人々は参加したんだ。譜面を手に入れ。現在では大衆はより受動的になってしまった。        

フェレ:まず曲が気に入ったと言う人もいるし、詩が気に入ったと言う人もいる。知性的な人はまず詩を受け入れる。感覚的な人・・多くの場合知性的でないと言える人だが・・は最初に曲を受け入れる。それだからこそ、僕はボードレールが何者であるかを知らなかった人々にボードレールを紹介することができたわけだ。

ブレル:昔はある人があるシャンソンを作ると、人々はそれを歌い広めていった、ジョルジュが言ったように。それに対して今日では僕たちが作り、僕たちが歌い、広めている。昔はそこには一種の連鎖作用があった。昔、レコードは発明される前は。シャンソンの最も偉大な創作者は、戦争中にレコードの原理を発明した例のイギリス人と言うわけだ。それは正に孵卵器で、僕は今自分が卵を生んでいるような気がしている。

フェレ:確かにそのとおりだ。あなたは先ほど僕たちが詩人か、芸術家かと言っていたが、そんなものではない。我々3人が何であるかご存知か?        

ブラッサンス:マイクの前の憐れな愚か者だ!

フェレ:そうではない。・・僕たちは歌手だ。もし僕たちがいい声をしていなければ、舞台に立つことはできないだろう。ジョルジュにしろ、ジャックにしろ、もし君たちがいい声をしていなければ、君たちはシャンソンを作っていないだろう。それは僕にしても同じだ。          ブラッサンス:そんな風に言ってくれてありがとう。僕がいい声なんて・・

フェレ:いや、君はいい声をしている。君は歌っている。ブレルにしてもそうだ。ブレルがいい声をしていなかったら、誰がブレルのシャンソンを歌うことができるだろうか。今までやってきたようにシャンソンを作ることはできなかっただろう。彼がシャンソンを作ることができたのは、彼が自分の声でそれを「発表する」ことができたからだ。僕にしてもそうだ。         

ブラッサンス:確かに。そうでなければシャンソン以外のものを書いていただろう。          ブレル:結局僕たちはいい声をしているから、歌手になったというわけだ。        

u  あなた方は、歌詞を書き、作曲し、歌う以外に何かやったことはあるのか?そうだとすれば、それは歌手という職業にどのように役に立ったのか?       

フェレ:他のことを平行してはできない。前にやったことと言えば学校へ行き、勉強し、ちょっとした仕事をやっていたというところだ。

ブラッサンス:確かに今まで生きてきたが、いつもシャンソンを作っていた。        

フェレ:時には生活費を稼ぐために何かする必要があった。ブレルがギター一つでパリに着いたとき、生活のためにどんなことをしていたか知らないが、決して楽しいことではなかったと思う、ブレルはあまり話したくないのでは。        

ブレル:そんなことはないけれど、僕は本当に何もしていなかったんだ。        

フェレ:それは素晴らしい。それは最高だ。        

ブラッサンス:でもそれは君だけじゃない。僕は他のことは何一つしたことがない。

 

u  あなた方3人は映画にも出演しているが俳優と歌手との間に何か関連があるか?     

フェレ:僕はまだ喜劇をやったことはない.やりたいけれどできないだろう。できないことをやってみたいという気持ちはある。

ブラッサンス:正直言って、僕も喜劇はできない。         

ブレル:今までに2本映画を作ったことがある。ルミエール兄弟のシネマトグラフを作りたいと言うのではなく、2回とも僕には自由という発想があった。そして、僕はこの自由という発想に執着した。1本目が「Les risques du métier/仕事の危険」で、次ぎが「La bande a bonnot/ボノの一味」だった。僕は自由に惹かれた。この自由という考えに手を貸すことが出来るとすれば、そうしなければいけないと思った。         

u  映画はチーム作業だ。それに出演することによって、歌手と言う孤独な職業に変化

あったか?        

 ブレル:それはない。ミュージカルの方がチーム作業だろう。

ブラッサンス:僕はそれもチ-ム作業だとは思わない。それがチーム作業ではないからと言って何か特別なものだとも思わないが・・。芝居が好きな人間とそうでない人間がいる。僕は嫌いだ。でもチーム作業に反対ではない。僕が出演した「Porte des Lilas/リラの門」はBrasseurブラッスールやBussieresビュシエールなどの仲間と作ったわけだが、上手くいったと思う。彼らは僕を煩わせなかったし、僕も彼らを煩わせなかった。僕が気に入らないのはむしろ技術やメカニックの方だ。ここに、目の前に置いてあるマイクほどではないけれど。        

フェレ:僕たちは歌っているときは、ライトの前でたった一人だ。衣裳を付けて、ギターかピアノだけで。僕たちは歌手の孤独がどんなものであるか知っている。そしていわゆる「プロ」としてそれに対処しなければならないが、それがいつも容易にできるというわけではない。例えばブレルに尋ねてみたいのは、芝居で感じる孤独は歌っている時に感じる孤独と同じ物かどうかと言うことだ。

ブレル:それは同じ孤独だ。

フェレ:それは、君が他の俳優達の中である役を演じているときも、他の俳優と台詞のやりとりをしているときも、ステージで2時間歌っているときと同じように孤独だということなのか?それは僕にとっては初めて聞くことで、理解できない。        

ブラッサンス:理解できないことはないだろう。もし芝居がうまくいかなければ、彼が上手じゃないからだと言われる。それでも彼は声を出さなければならない。        

フェレ:舞台に出るときには既に甲冑を身に着けているというわけか。        

ブレル:「L'Homme de la Mancha/ラマンチャの男」の時はちょっと違っていた。これをやろうという狂気のような情熱に駆られたのは僕だった。そしてその情熱の中で僕は一人きりだった。

u  他の人達はその情熱を共有しようとはしなかったのか?        

 ブレル:もちろん共有してくれた。でも全員が同じ情熱を持っているわけではない。結局僕が演技をし出した瞬間から僕はツアーの時と同じように孤独だった。

ブラッサンス:そんなことは気にすることじゃない。いずれにしても、君はどこでも、いつでも一人だ。それにそれは君だけのことじゃない。         

ブレル:本当にそのとおりだ。人生において孤独ではないと言う奴がいたら、それは僕よりよほどベルギー人的だ。

u  何をしてもあなた方は孤独だということか?何か偉大なこと、素晴らしいことをやるのには孤独で、不幸であることが必要だと言うことか?

フェレ:そのとおり。価値のあることは悲しみと孤独の中で作られる。僕は、芸術は孤独の派生物だと信じている。芸術家は孤独だ。

ブレル:芸術家とは、全く順応できない人種で、普通の人が夜自分の女房に言うことしか言えないような人間だ。         

フェレ:むしろ、普通の人間が夜に自分の妻に言うことができるけれど言わないことをだろう。         

ブラッサンス:時には普通の人間はそれをはっきりと言うこともある。        

ブレル:そう。でも芸術家は、小心で、物事に「眞正面」から取り組む勇気はなく、生活の中で日常的に言わなければならないことをやっと言えるだけだ。でも芸術家は同時に多少高慢だ。結局のところ芸術家は極めて臨床的で、医学的だ。それを前提にすれば、最悪なのは本物の芸術家ではない芸術家であり、卵を生まない小心者だ。それこそ正に臨床事例であり、おそろしいことだ。        

u  それはもう芸術家とはいえないのでは?

ブレル:本来の意味では芸術家ではない。        

フェレ:その人達を指すのが「アマチュア」と言う語だ。

u  あなた方は仕事の面では、いつもやりたいことをやってきたのか?         

フェレ:とんでもない!僕がやりたいようにやってきたら、ホールはいつも空っぽだろう。それに、僕はご存知の通り遠慮しないで徹底的にやるたちだから。そこで僕は妥協している。

 ブラッサンス:と言うことは、君は君が言いたいと思っていることをそのとおりには言ってこなかったと言うこと?もちろんそうだろう。でも君は君が歌いたいと思っているときに、おおよそ君が歌いたいと思っていることを歌っているんじゃないの。

フェレ:そう。でも何故だろう。何故ならそれは今日では僕たちが公に認められた人間だからだ。しかしデビユーした当初出版会社の入り口で追い返されたものだ。もちろん僕は彼らを馬鹿にしたさ。でも追い返されたことは事実なんだ。

ブレル:僕にはそんな感覚はない。僕は比較的自分のしたいことをしてきた。最初から。それは僕がいつもいつも幸福だったと言うわけではない。僕は幸福ではなかったけれど、大雑把に言えばいつもほとんど僕が望むようにしてきた。        

ブラッサンス:僕たちはいずれにしても、自分達望むことをしてきた人間の中に入るのではないか。もちろん、舞台で観客に強制したり、銃で撃ったりするわけには行かない。僕たちはある種の制限の中で好きなようにやる。多少の礼儀を持って。         

フェレ:僕はもう数年前からいつも同じ問題を抱えている。僕がシャンソンを作るのは次ぎのリサイタルの必要性に迫られるからで、さっさと作る。しかしその後怠惰にやってしまう。そして自問する。「まだシャンソンを作ることが出来るだろうか?」と。こんなことは君たちにも起こるのだろうか。

ブレル:僕には起こる。もちろん。1曲作ると独り言を言う。「これが最後の曲だ。」と。そんなことは当然のことだ。

ブラッサンス:僕の場合は、新しい曲に取りかかる度に、どうやって作るか解らなくなってしまう。

ブレル:僕はどうやって作るか本当に解らなくなってしまう。どうやって作ったか忘れてしまうんだ。

ブラッサンス:そう。でもやっているとすぐにできるようになる。         

u  あなた方が歌えなくなって、他の職業に就かなければならなくなったら?        

ブラッサンス:僕は年金生活だ。この年ではそれが唯一の職業、他に選択の余地はない。

u  最初のギャラはどうしました?

フェレ:飲み食いに使っちゃったと思うけど。         

u  最初はそうでしょう。でもその後売れてきたら収入も多くなったでしょう。そうなって他人との関係が変化したのでは?         

フェレ:金は絶対的な独立をもたらす。金は大事なものだ。独立は高くつく。でも今や、大金には僕達3人とも興味はない。絹の靴下なんて縁がない。

ブラッサンス:金の話はうんざりだ。多くの人々が金を稼ぐためだけにシャンソンを始める。僕たちは僕たちのしがないシャンソンによって生活の資を稼げれば満足だ。でも生活の資を稼ぐためだけにシャンソンをやっているんじゃない。シャンソンをやることが楽しいからだ。もしシャンソンをやって稼ぎがなくてもやっているだろう。生活の資を稼ぐためだからとオイルサーデインを売ることはしないだろう。それがどれ程の稼ぎになるか知らないが、もしそれがシャンソンをやることよりも実入りのいい仕事だとしても。僕たちのやっていることで役人と同じような収入でも、これを続けるだろう。この仕事が好きだから。数年前から高額のギャラしか話題になっていないから、多くの人々がこの冒険的な仕事に入って来て、そして失敗している。        

ブレル:その人達は経済的な冒険をするからだ。         

u  あなた方は、年老いた歌手になる、あなた方のシャンソンと共に老いるという恐怖

ないか?         

ブラッサンス:僕とフェレに関して言えば・・もう一人は僕たちより若いから・・僕たちは50代に近づいてきている。[この発言は誤りで、最年長のフェレは、この2年前に50歳を迎えていた。]若い人々や君たちから見れば僕たちは確かに老人だ。事実は事実として直視しなければならない。・・でも僕たちはあまり自覚していない。何であれ終末は堪えがたいものだ。終わると言うのは悲しいものだ。うまく終わると言うことは滅多にない。老いるということ、やりたいことやかつてはできたことができなくなると言うことは悲しいことだ。引退しなければならないというのはもちろん悲しいことだ。

u  死の恐怖は?感じたことは?

ブラッサンス:ない。生きることを受け入れているんだから、僕は死も同様に受け入れる。          フェレ:僕たちのような物書きは当然死の強迫観念に取りつかれている。毎日死を考えている。

ブラッサンス:これは僕たちの気に入りのテーマだ。テーマが沢山あるわけじゃない。何かを書くときには死と向き合う必要がある。         

フェレ:そうだからといって、何もそれが必ずしも悲しいことではない。ジョルジュが自分の埋葬について書いたシャンソンは少しも悲しくない。         

ブラッサンス:レオ、そのことについて言えば、Sèteの海岸に埋められることはちっとも苦にならないんだ。むしろ楽しみだ。海水浴に行くようなものだから。        

u  あなた方は一人前の大人になったという感じを持っているか?

ブラッサンス:いやはや。         

ブレル:僕はない。

フェレ:僕もだ。        

ブラッサンス:僕たちは多少発育不良だ。一人前の大人になるためには、兵役につかなきゃならないし、結婚して、子供も持たなきゃならない。あるキャリアを選び、それを続け、出世の階段を上って行かなくてはならない。そうすることが一人前の大人になることだ。・・僕たちは通常の生活とは違った生活をしている。僕たちは一人前の大人にはなれない。         

u  それは多分あなた方が伝統的なシステムに適合することを望んでいないからではないのか?

ブレル:望んでいないのか、それともできないのか。        

ブラッサンス:適合できないのは僕たちの性格だ。それだけのことだ。わざわざそうしているわけではない。そんなことは自慢にはならないが、僕たちはそうなんだ。        

フェレ:それは子供=詩人とも一脈通じる。ブレルが「僕は僕のギターに火をつける。そうするとスペイン人になったようだ」というような素晴らしい歌詞を笑わずに歌い、しかも信じているんだから、そんなことは子供だからこそ言えることだ。         

ブレル:その通りだ。それは結局気質の問題だ。それは壁を前にしたときどのように行動するかと言うことだ。脇を通るか、飛び越えるか、それとも突き破るか。

ブラッサンス:僕は、壁を前にして熟慮する。

ブレル:僕は突き破る。いずれにしても鶴嘴を手に取る。

フェレ:僕は迂回する。         

ブレル:そうかい。いずれにしても3人とも、すぐに立ちはだかっている壁の向こう側に行こうとするだろう。大事なのは正にそのことだ。そしてこれこそ僕たちが一人前の大人でない証拠だ。普通の男だったらどうするだろうか?もうひとつ壁を作り屋根を架け住むようになるかもしれない。それが「建設する」ということなんだ。(笑い)        

u  あなた方3人は過去に、あるいは現在、アナーキズムあるいは絶対自由主義の運動に接近している。ブラッサンスは一時期アナーキストであったし、ブレルはアナーキストと呼ばれていたし、フェレは今でも活動家だ・・        

フェレ:いや、僕は違う。僕は活動家にはなれない。僕はどんな思想であれ、ある思想の活動家にはなれない。そうなったら自由じゃなくなっちゃうから。ブラッサンスもブレルも僕と同じだと思う。アナーキズムはまずすべての権威の否定だ。その権威の根源がどこにあろうと。アナーキズムは当初19世紀の終わりには人々に恐怖を与えた。爆弾があったから。しかしその後は人々のおふざけの対象になった。そして、アナーキズムという言葉は趣味の悪さとして人々の口の端に上った。さらに数か月前、68年5月以降再び登場した。今ステージでアナーキズムやアナーキストと口にすると人々はもう笑わないで、それがどんなことなのかと聞いてくる。

ブラッサンス:アナーキズムは説明がむずかしい。アナーキスト自身も上手く説明ができない。僕がアナーキストの運動に入っているとき・・僕は2~3年間、45,46、47年に「Le Libertaire/無政府主義運動」に入っていたん。そして、完全に関係を断ち切ったわけではないけれど、昔のようには活動していない・・アナーキズムについて皆それぞれ個人的な考えを持っていた。それが人々を駆りたてる基でもあったんだ。本当の意味での教条がないということが。それは一種の倫理であり、人生を考える一つの方法なんだと思う。

ブレル:ある時期にはそれは個人の考え方にフィットする!        

フェレ:それは拒否の理論だ。この数千年間、ある問題に「否」と答えるエネルギーを持たないでいたら、人間はまだ木の上で生活していたかもしれない。         

ブレル:フェレの意見に全く同感だ。それはそうとして、自分自身を孤独や適応不可とは思わずに、集団的に救済を求めようとする人々がいる。

ブラッサンス:そのとおりだ。僕自身について言えば僕は今まで何かに反対したことは一度もない。人々はほとんどが望むように行動している。僕がそれに賛成するか、賛成しないかだけのことである。そう言うと、社会を変革する気はないと非難された。そんなことは僕には不可能なことだと思っている。もし集団的な解決策があれば・・        

ブレル:でも誰が集団的な解決策を持っているんだ?

ブラッサンス:持っていると主張する人はいる。でも現実の世界では、それを持ち続けていると思われる人は少ない。僕は何をすべきかわからない。もし僕にそれがわかり、もし僕が右に向かったり、左に向かったり、あるいは、これをしたり、あれをしたりすることが世間を変えることができると自分自身で解ったら、僕はそうするためにこのちっぽけな平穏な生活を犠牲にすることはいとわない。でも僕はそうだとは信じられない。         

u  フェレは?         

フェレ:僕はブラッサンスほど叙情的ではない。

ブラッサンス:レオ、君は全く絶望的なんだなー。       

ブレル:力が及ばないことはあるもんだ。いやなことだけど。

u  あなた方は本当に何もできないと考えているのか?       

ブラッサンス:そうではない。僕は隣人、友人、限られた人々には何かをしている。それは僕がどこかで何か他の活動をしているとしても、このことは価値のあることだと思う。すべての人がロバの非を叫んでいるときに、ロバの非を叫ぶことはしないこと、これも社会への関わりの一種だと思う。他の関わり方と同様に。

フェレ:僕はジョルジュの方が僕より心の底では活動的だと思う。僕はジョルジュがまだ信じようとしていることをもうとっくに信じなくなっているから。

ブラッサンス:レオ、僕はその振りをしているだけだ。愛が去ってしまったときと同じだ。まだ愛があると信じる振りをしてる。そうするとほんのわずかな時間それが続くようになる。         

フェレ:いや、いや、そうじゃない。愛が去って行くときには、愛はずっと以前になくなっているんだ。                   

u  政治的な解決法がないとすれば、「神秘的な」解決法があるのでは? キリスト教あるいはその他の形式の宗教による・・・?        

ブレル:それは問題が全く違う。僕は・・・

ブラッサンス:その方面の話になると僕たちはもうちょっと落ち着いて話せる。          フェレ:そうだ。僕は宗教系の中学の生徒だった。聖歌隊にも入っていて、8年間もミサの助手をつとめた。その時以降もうミサには行っていない。        

ブレル:僕も宗教系中学に通っていて、聖歌隊にも入っていて、ミサの助手をつとめた。8年じゃなくて1年間だけだった、もらった小遣いで自転車を買えるまでの間だけ。

ブラッサンス:僕はフランスカトリックスカウト連盟に所属していた。

ブレル:僕はベルギーの方のに入っていた。

ブラッサンス:僕は信仰がないので、神について語ることはできない。

u  神は、あなた方の目から見ると一種の「fetichismeフェテシズム/呪物崇拝、物神崇拝」なのか?

フェレ:いいや。僕たちはフェテシストではない。でももしかしたらそうかも知れない、女性については。

ブラッサンス:ある程度はそうだ。そう、確かに一種のフェテシズムかも知れない。それに、神を「偉大な呪物」と呼んだ者もいるほどだ。僕は自分のシャンソンの中で神のことを多く歌っているけれど、それは聞く人が、僕が何を言おうとしているかわかってもらいからだ。

u  あなた方は自分達の背後にフランスの伝統、フランスのフォークソング、Berangerなどの伝統があると考えているか?[BerangerPierre-Jean Beranger(1780-1855)・・19世紀前半に活躍したchansonnier?

 ブラッサンス:僕たちの背後には僕たちが聞いたり、見たり、好きだったりしたものがすべてある。

 フェレ:人々がやったことすべてが。今日僕たちの仕事がどんなものであるか知らしめてくれたすべてのことが。

 ブレル:それに人々がやらなかったことも。それも大きな要素になっている。僕が曲を作る時には僕がしなかったこと・・・しなかったけれど僕を引きつけたこと・・・も大きな要素だ。

u  あなた方が作り、歌っているシャンソンと多少電気的な、テンポのある、ガチャガチャ音を立てるい「今時の」シャンソン、たとえば、ゲンズブールのものなどとには違いがあると考えているか?

 ブレル:がちゃがちゃじゃなくて、動きのある音楽だ・・。

 ブラッサンス:すべての人の間に違いがあるもの。ゲンズブールは何かを探している。

 フェレ:ゲンズブールはデビュー当時先入観を持っていた。でも彼は何かを見つけた。悪くはない。リズム的にはいい。それに、彼は「色情狂」だ。僕は色情狂が好きだ。おそらく僕にはそういうところがないからだろう。彼はそのことを自負していて、隠してはいない。今彼はあるカードを出した、それも意識的に。悪くはない。

ブラッサンス:彼の音楽は彼の性質や性格を反映したもので、極めて単純だ。

u  ポップ音楽・・ビートルズなんかは?彼らと彼らの音楽にどんな印象を?

ブラッサンス:音的には、僕は彼らの音楽が好きだ。歌詞については、僕は英語ができないので、ただ聞くだけ。

フェレ:僕もジョルジュと同じで、音的には彼らの音楽は大好きだ。歌詞について言えばあまり解かろうとは思わない。ただ、「Hey Jude」だけはどんな歌詞だか知りたい。この曲の終わり方は、それで終わりだという終わり方ではない。だから何故そんな終わり方なのか、なんて歌っているのか知りたい。いずれにしても、彼らは本物のミュージシャンだ。          ブレル:僕は彼らがガブリエル・フォーレのハーモニーを皆に知らしめたことに満足だ。彼らはガブリエル・フォーレのハーモニーにチャールストンのペダル音を付け加えた。彼らの曲はすべて非常にフォーレ的だ。そしてそれを大衆に受け入れられるようにしたことは素晴らしいことだと思う。彼らの曲は美しい。歌詞について言えば、僕もジョルジュ同様英語はだめだから、彼らが何を歌っているのか正確には解からない。でもそれはたいした問題じゃないと思う。        

ブラッサンス:大事なことは人々がどんな風に彼らを気に入っているかということだ。根底から好きなのか、それともはやっているから好きなのか。

フェレ:それに政治的に見ても彼らはまともだ。

u  彼らは多かれ少なかれ「ヒッピー」的な現象の中に位置付けられている.あなた方はヒッピーとかビートニックといった現象をどう考えているのか?

ブレル:それは現代版のアナーキズムだ。拒絶の一形態だ。それは何か新しいものであり、かつ戦闘的なものではない。そういった点で共感できる。でも僕は、ネックレスはあまり好きじゃない。あーいった物は疲れる。暴力的なところもない。20歳の若者はずっと以前から人殺しをするように育てられてきたことを考えると、この現象は悪くはない・・。この現象を複雑なものにしているのは、そこにアメリカ的なものも入っているし、ヒンズー的なものも見えること。なんだかよく解からない。

ブラッサンス:それにこのての現象にはいつも多少のスノビズムも見られる。

ブレル:そうだ。でもそれが悪い感はしない。

フェレ:答が出たようだ。僕達はこの現象が好きだ。

u  宣伝活動についてはどう考えるか?あなたがたの役に立っているか?興味はあるか?

フェレ:人々が、僕たちがどこで歌うか知らなくては。

ブラッサンス:契約書のサインした以上、人々が僕らについて語ることを拒否できない。でもいつも宣伝、宣伝、宣伝ばかりだ。

ブレル:宣伝と世論操作とがある。<BR>

ブラッサンス:人前に出る以上それを発表する。それだけのことだ。パレードをするわけじゃない。パレードだっていいものだった。最近はしていない。僕達がパレードしたのを見たことはないだろう。

ブレル:冬はやらないけど、夏はやってた。

フェレ:(小声で)僕に考えがあるんだけど。二人に話したいんだ。いつか、3人でフランスの最も大きなホールを10箇所借りて、それぞれが12曲ずつ選んで、ブラッサンスが1曲歌う、次にブレルが1曲歌う、次に僕が1曲歌う。次にブレル、次にブラッサンス、次に僕・・・2時間こんな風に歌う.。必要ならパレードもやる。馬鹿げた案だけど。

ブレル:本当に馬鹿げている。だから僕は好きだ。

ブラッサンス:悪い企画じゃないね。でも他の歌手の歌を聞きたいと言う観客が不満を持つのでは。何故僕達3人なんだい。

フェレ:うー。それは今3人だから。ちょっとした組合を作って。

ブレル:そこに行くわけか。

フェレ:今この場でこんなことを言うのは友愛の気持ちからなんだ、もちろん。金銭の問題なんかは頭の隅にもない。僕はこのアイデアが気に入っている。

ブラッサンス:そう、できるだろう。できないことはないだろう。何かの機会には可能だろう。いつもというわけにはいかないだろうけど。

フェレ:2,3回でいいんだ。悪い考えじゃないだろう?

ブレル:悪い考えじゃない。馬鹿げた企画だから、どっぷりつかるよ。

u  あなた方の毎日の生活振りは?友人とは?女性とは?ペット動物とは?どんな生活を?

 フェレ:人々はいつも僕たちの私生活に興味を持っている。僕たちの生活の中に入りたいと思っている。人々が僕の中に感情的に侵入してくると、いつも恐ろしい大混乱が起こる。芸術家の私生活の中に入り込むためにいろいろやるひとがいる。その人たちは厄介な存在だ。

u  それもあなた方の才能に原因があるのでは?あなた方は公人だからでは?

ブラッサンス:もちろんそうだ。そうだからと言って、僕が何でもしなければならず、すべてのことを受容し、すべてに意見を言わなければいけないということにはならない。僕たつにも権利はある。誰も他人に異議を唱えないという権利が。何故人々は文句を言うんだろう、僕たちに。

 フェレ:僕たちが公人であることには賛成だ。しかし、こんな仕事をやっていると僕たちは、それによって悩まされないですますということができない。僕が街中で肉体を売っている女性・・娼婦のことだが・・に会うと、彼女は僕が誰だかわかると、決して僕に声を掛けてこない。僕は長い間どうしてか考えた。そして解かった。それは僕が彼女と同じ仕事をしているからだ。僕は僕の体の一部を売っているんだ。僕がライトを浴びている時、観客は金を払い、チケットを買う。彼らは見るために来るんだ。彼らは楽しませてくれるのを待っている。あるいは、失敗するのを待っているんだ。いずれにしても彼らは何かを待っている。僕たちが身体を使ってやる何かを。僕たちは何を売っているんだろう。僕たちの声だ。そう、彼女たちと僕たちの間に大きな差はない。だから娼婦たちは僕が誰だかわかると声を掛けてこないんだ。それは君たちにとっても同じことだと思うけど。

ブラッサンス:君が話していたようなご婦人たちのいる場所にはそう度々行ったことがないから。

ブレル:いずれにしても、簡単に言えば、彼女たちは僕たちと同じようにアーティストであり、僕たちは彼女たちと同じように娼婦だと言うことだ。

フェレ:ブラヴォー!素晴らしい!

ブレル:僕たちの日常生活に話を戻すと、僕たちが書くのは僕たちがまともな生活をしていないからではないだろうか。

フェレ:僕たちは皆と同じ生きているさ。ブラッサンスは絵が好きだし、よく知らないけれど、カフェ オ レが好きだし、猫が好きだ。ブレルは何が好きなんだっけ。

ブレル:僕?僕は仕事。何でも。働くことが好きだ。これは僕の昔からの欠点だ。

ブラッサンス:君は誰もがしている生活をしている。僕たちの生活だってそうさ。皆それぞれ自分の癖を持ち、嗜好を持ち、習慣を持って生きている。

u  あなた方の生活で女性はどんな地位を占めているのか?

ブラッサンス:それは全く違った話だ。

フェレ:皆同じ苦労を感じている。

ブレル:3人ともそれぞれに答を持っていると思う。

ブラッサンス:あー!女性ね。 女性が自分で苦労している時は魅力的な存在だ。そうでない時は厄介な存在だ。

ブレル:僕は、女性は常に、そして大いに自分自身で苦労しているものだと信じている。・・でも、男もそうだけど。

u  女性について最も評価する点は?

ブラッサンス:それは女性に何を期待するかによって違うのでは。

 ブレル:何を希望しているか、それとも何を恐れているかによってだ。

 ブラッサンス:単純なことだ。一人の男が一人の女性に出会う、彼は彼女を好きになる。2か月、2年、20年続く、そしてそれがすべて。これは誰にとっても同じ。その点では似たようなものだ。

u  あなた方は女性が男性に何か重要なものをもたらすことができると思うか?たとえば精神的な均衡とか?

 フェレ:それはない。

u  何故

 フェレ:それは・・

 ブラッサンス:僕達人は精神的な均衡と言う点に関しては女性の助けは必要としないタイプだ。その他の点に関してはそうではないけれど。もっとも、精神の均衡が必要かい?必要はないだろう。女性は厄介者にもなるし、魅力的にもなる。その女性次第だ。それは付き合っている女性次第だ、その女性の性質、性格、あるいは彼女と心が通じるかどうかにかかっている。そして、女性一般の話になると、別の話だ。

u  レオ・フェレはもっと断定的な意見の持ち主では?

 フェレ:そうではない。女性は、愛の終わった後、優しさがやって来るまでやめない。優しさは愛の耐えがたい私生児であり、すべてを台無しにする。そして、優しさは何物よりも僕を孤独にする。優しさはこの世の終わりだ。・・何故なら人は優しさに一杯食わされるから。誰かが僕に優しくなると僕はすぐだまされる。僕は奴隷になってしなう。そして奴隷になったらもはや一人の人間ではなくなってしまう。そう言うこと。僕らを鎖に繋いでいるご婦人の足元に身を投げ出すことも許されなくなってしまう。

 ブレル:僕はそういうことを語るには若すぎる。

 ブラッサンス:僕たちの歌手としての人生を考えたとき、僕たちはそれほど女性に必要性を感じない。そりゃ、普通の男性と同様の必要性は感じるにしても。何故だか分かるだろう。

 ブレル:買い物をしてもらうために。

 ブラッサンス:愛とは非常に難しいものだ。それに、知っての通り多くの人は愛で成功することはない。

 ブレル:でもわずかだけど、愛のために生まれてきたような人もいる。ほんのわずかだけれど・・。

 ブラッサンス:もちろんそういう人はいる。でも多くの人々はそれについて語りかけなければ、そのことを思いもしない。

 ブレル:結局、それはルネッサンス時代の文学がつくりだしたものだ。

 ブッラサンス:それに個人にとっては性生活が重要であることは忘れてはならない。それは一番大事なことだ。

 フェレ:愛は一瞬のものだ。ヴェルレーヌのよく見る夢の物語であり、ボードレールの通行人の物語である。一人の女性と瞬間的に愛し合うことができることは必要。・・これは極めて冷静な発言で、何も邪悪な考えから言っているわけではない・・。そんなことは不可能だ。でもときには通りで一人の女性に会いその女性とすぐに愛し合うということも起こりうる。でもそれは不可能だ。何千というタブーがあるから

 ブレル:僕たち3人はきわめて女性的だから女性を徹底的に評価することはできない。

 フェレ:結局僕たちはいつも女性に搾取されている。

 ブレル:いや、いやそんなことはない。僕は女性嫌いで通っているけれど、君の意見には賛成できない。僕はどちらかと言えば女性嫌いだ。しかし、すべての女性がすべての男性を搾取しているとは思わない。

 フェレ:その「どちらかと言えば」が気に入った。「どちらかと言えば、女性嫌い」と言うのを説明してよ。

 ブラッサンス:僕は決して女性嫌いではない。一人の女性が気に入る、彼女が気にいる。一人の女性が気に入らない、彼女が気に入らない。それだけのことだ.それは何も偏見ではない。

 フェレ:でも女嫌いというのはそう言うことじゃないだろう。

 ブラッサンス:そうだ。むしろこれは女性を信用していない男性だ。

 ブレル:そういうことだ。僕は信用していない。僕は彼女たちの言葉を信じない。

 ブラッサンス:そうだ。でも一方女性たちに本当に責任があるのだろうか?

 ブレル:いや、ぜんぜん。だからさっき「どちらかと言えば、女性嫌いだ」と言ったんだ。彼女たちはそのように育てられてきた、恋愛において独占本能を持つように。僕たちの方だって、決まった方法で育てられてきた。

フェレ:僕は、男は子供だと思う。それに対し女性は子供ではない。そういうことだ。

u  あなた方3人は「人生は成功だった」という気持ちを持っているか?

 ブレル:人生はまだ終わっていない。

 ブラッサンス:最後になってわかるだろう。最後は悪いかもしれない。さっきも言った通り、今まで、そこそこ自分達の望むようにやってきた。

フェレ:僕たちは自由だ。望むことをやっている。

ブラッサンス:シャンソンを作り、それを人前で歌う、大衆がそれを受け入れてくれるのを見る、そんなことは悪いことじゃない。それは満足できることだ。

                  終わり

        

         

Chanson

çà et là

長野カルチャーセンター講師 太田光弘

Çà et là (サエラ)とは、そこかしこという意味

昔のシャンソン、今のシャンソン取り混ぜて、
シャンソンにまつわる
様々な情報をお届けいたします。

   

シャンソン サエラ